すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「診断」 アラン・ライトマン (アメリカ)  <早川書房 単行本> 【Amazon】
ボストンの情報処理会社で働く40歳のエリート社員ビル・チャーマーズは、6月のある朝、通勤途中の混みあう地下鉄車内 で、とつぜん記憶を失ってしまった。自分が会社に向かっていて、9時から大事な面談があることは覚えているのだが、 会社の名前はおろか、自分の名前すら思い出せない。パニックに陥ったビルは、町でさまよったあげくに、 裸で携帯電話を抱いて横たわっているところを保護され、ボストン市立病院へ連れていかれたが……。
にえ 「アインシュタインの夢」でデビューしたアラン・ライトマンが書いた3作目の小説で、 全米図書賞の最終候補まで残った評価の高い長編小説です。
すみ 「アインシュタインの夢」は詩的な雰囲気もある連作短編集みたいな かんじだったけど、こっちはきっちりストーリーを追った小説らしい、小説だったよね。
にえ やっぱり私はこういうきっちりストーリーのある話のほうが好きかも。 おもしろかった〜。
すみ 一人の企業戦士のようになってたサラリーマンを襲う悲劇の物語で、 同じ家庭を持つサラリーマンには身につまされる話かもしれないけどね。
にえ でも、他の小説にはない独特の美しさがあって、それがなんとも心地よ かったな。ドロドロとした重さはなかったと思うけど。
すみ それは読む人によって微妙なところかもしれないけど、かなり不思議 な感触だったのはたしかだよね。最初は現代の話なのに、ちょっとSFっぽかった。
にえ うん、主人公のビルはコンピュータで企業に情報提供する会社に勤めている ことから、ふだんの生活の情報もインターネットに頼り、他人との連絡の取り合いはすべてEメールってのはわかるけど、 他の人もみんなどっぷりコンピュータ社会に浸かってたからね。
すみ 待合室に座っている女性はノートパソコンで作業中、電車では携帯電話、 電話をかければ人は出ないで機械による音声対応ってぐあいに、たしかに現代社会のありのままだけど、デフォルメ されてるというか、そういうところばかりクローズアップされると、現実社会もSFのようにサイバーちっくだったよね。
にえ 家庭内でも、ビルの妻メリッサは、チャットで大学教授とバーチャル不倫を 楽しんでるし、息子のアレクサンダーは、家の中にいてもEメールで両親に話しかけるし、インターネットで オンライン大学講座を受けるし、ホント、徹底してたよね。
すみ アレクサンダーの受けてる講座がおもしろいのよね。ライトマンが作った架空の 物語ではあるんだけど、プラトンの対話篇のひとつで題名は「アニュトス」って設定なの。コンピュータで紀元前の ギリシア人が書いた文章を読んでるって、すごく不思議な感じ。
にえ 「アニュトス」は作中作として読めるようになってるんだよね。ソクラテスを告発した ことで息子に憎まれる戦争の英雄アニュトス、アニュトスに滅私の精神で奉仕する奴隷のピュリアス、死を達観し、超然とした ソクラテス、そういう人たちの人間模様が興味深く読めた。
すみ で、ビルは出世の階段を駆け上ろうと必死で働くサラリーマンだから、 けっこう働き虫と言われる日本人は共感しやすいんじゃないかな。
にえ これまでの人生、勝ち抜いてきたって自負からプライドもあるけど、 家は裕福で、勉強しなくても勉強ができて、スポーツ万能でハンサムでって、そういう生まれながらのエリ ートタイプの人にたいしては、ものすごくコンプレックスを感じてるのよね。
すみ そういう生まれながらのエリートとは、道ですれちがっただけでもジ〜ッと 見て、嫉妬心をメラメラ燃やすんだよね。あいつはこういうところでも涼しげな顔をしてる!とかって。
にえ とにかく努力の人なんだよね。自分は上の生活をめざしたかったら必死に 努力するしかない、そういう意識が強いんだよ。
すみ そんなビルが、急に記憶をなくして倒れ、さらには手が痺れはじめ、 いろんな医者に診てもらうけど、はっきりした診断はくだらず、それからどんどん麻痺が全身に広がっていき、 と、過酷な状況に追いつめられていくの。
にえ 今まで見えてこなかった人の裏側が次々に見えてくるよね。時には 意外な裏側にブラックなユーモアがきいてて、ドヒャッと驚かされたりもしたし。
すみ ビルの妻メリッサが思わず見せた利己主義な姿、わかる!と思っちゃったな〜。 「なんであなたがそんな目に遭うの」って言うべきところを、「なんで私がこういう目に遭っちゃうの」ってなことを 言っちゃうのよ。
にえ だからってビルを捨てて自由になりたいってことじゃないんだよね、力になりたいとは 思ってるの、でも、思わずそういうことを口走っちゃうのよね。
すみ 息子のアレクサンダーがせつなくよかったな。尊敬する父親が変わっていくことに戸惑い、 ためらいながらしか進んでいけないの。
にえ とにかくみんな、いわゆる普通の人たちなんだよね。過激な反応はしないけど、 傷ついたり、迷ったりしてて。口には出さない心の中の叫び声もすごく聞こえてきた。
すみ あとさあ、病院や会社の対応がシュミレーションとして考えさせられるようになってたよね。 医師はどこまで面倒を見てくれるのか、会社は突然仕事の能力が落ちた社員にどういう処置をするのか、かなり克明に追ってたよね。
にえ そういうすべてが息の詰まる現実として迫ってくるんじゃなくて、 コンピュータのモニター越しに見てるような感覚で読めるからよかったのよね。
すみ 原文もよくて翻訳もよかったのか、Eメールを多用した話の運び方も スムーズだったし、全体に透明感のある美しさがあったし、完成度の高い、いい小説でした。意外と身近な 問題だと思うし、オススメです。