ジャッキー・メモ

#1
ジャッキー・チェンがプロレスの試合をする計画があった!
以下は参考文献からの抜粋。

実は、山田のライガー変身を上回る大きなプランを、私は会社を通して船木に提案していた。
これは会社も了承済みのことで、あのジャッキー・チェンとプロレス対カンフーの異種格闘技戦を開催しようというのだ。
この話を持ってきたのは、現在は福岡で貿易商をやっているフマユー・ムガールという私の友人だ。
猪木さんがペールワンと闘った後のパキスタン遠征で通訳をしてもらったのが縁で仲よくなった。
そんなフマユーがジャッキー・チェンと知り合いで、本人から
「あまり大きくない選手とならば、プロレスラーと闘ってもいい」と言っていると聞いたのだ。
当時、マッチメイカーでもあった私にとっては、願ってもない話だ。
うまく進めれば、猪木さんとアリの試合に匹敵する話題を集めることができる。
ジャッキー・チェンの相手として、すぐに船木の顔が浮かんだ。
凱旋帰国の最初の試合でドカンとやりたいと思った。
さすがの猪木さんも最初は、
「まさかジャッキー・チェンがリングに上がるなんてことは……嘘だろう」
と半信半疑だったが、信頼のおけるフマユーからの話ということで、
「それなら、ぜひ実現させてくれ」とGOサインを出した。
ところが、船木のUWF移籍によって、実現寸前までいった夢の対決は泡と消えた。
相手は船木しかいないという強烈なイメージができていたので、
私自身も腰砕けになり、他の相手と新しいストーリーをつくることができなかった。
もしもあのとき、船木が金を選んで、山田のように新日本に残り、ジャッキー・チェンと闘っていたら……。
プロレスの新しい可能性を開く大きなきっかけになっていたかもしれない。
もちろんジャッキーは、ショーを見せることを前提にリングに上がると言ってきた。
ファンも真剣勝負でやるとは、まさか考えないだろう。
しかし、単なるエキジビションではつまらない。
ジャッキーと船木のセンスとスター性をもってすれば、エンターテインメントとしての高度な闘いのショーがつくれたと思う。
それを大会場に大観衆を集めて、生中継で提供することができたら、
きっとプロレスの持っている根源的な魅力を伝えることができたと思うのだ。
(中略)
実は、私は船木には、劇画作家の猿渡哲也さんという共通の友人がいる。
船木の新日本脱退後、一度も船木とは話をしていないが、その猿渡さんを通じて、
船木が「ジャッキー・チェンとの試合はやりたかった」と言っていたという話を聞いた。

(ミスター高橋著「流血の魔術 最強の演技」より)

帝:
果してどんな試合になったのだろう。
『ロッキー3』という映画で、劇中にロッキーとハルク・ホーガンがショー的パフォーマンスで試合をするシーンがあった。
雰囲気的にはああいったものになっていたのではないか?と予想する。
あれよりもさらに高度な攻防が期待される最高級のエンターテインメントになっただろう。
新生UWFが旗揚げし、その後に船木が移籍したのが1988年である。
1988年というと、「プロジェクトA2/史上最大の標的」「サイクロンZ」「九龍の眼/クーロンズ・アイ」あたりだ。
確かにこの頃のジャッキー作品は低迷期に入っていたと思う。
(日本での)客入りも減り出して、ジャッキーの存在が軽いものに見られてきた頃だ。
ここでジャッキーが、映画とは違った方向性でビッグサプライズを狙っていたとしても不思議ではないな。
その後ハリウッドに認知され、“アジアのジャッキー”から“世界のジャッキー”に飛躍したヒストリーの中で、
この試合が実現すべきだったのか?実現しなくて良かったのか…それはわからない。
しかし、あのときもし試合が行われていたら、船木にとってもジャッキーにとっても歴史の1ページになった事は間違いない。
リングの上で生ジャッキーのアクションスタントが見られる…これこそ夢の中でも出てきそうなドル箱カードではなかったか。
今、世界のアクションスターを見渡しても、プロレスのリングに上げて歴史を作れる人材はいないだろう。
新日も惜しいことをしたもんだ。
別に船木じゃなくても良かったのに…。