受取人不明。
「・・・・・やっぱりね」
マンションの自動ドアを抜けた先にある、郵便受け。
その中をのぞくと、見覚えのある茶色い封筒が入ってる。だから、僕はダイレクトメールや他の郵便物と一緒に、それを取り出した。
たぶん受取人不明で返ってくるだろうなぁって、わかってて出したヤツを。
封筒に書いた住所は、昔住んでたマンションの部屋の隣で、受取人の名前は久保田…とだけ。届けてくれる人に悪いなぁとは思ったんだけど、どうしても苗字だけしか思い出せなかった。
ううん…、たぶん思い出せないんじゃなくて、知らなかったんだと思う。僕の記憶が確かなら表札には久保田としか書いてなかったはずだし、僕は久保田さんって苗字で呼んでたし、あの兄ちゃんも久保ちゃんって呼んでたはずだから…。
でも、そんなことも封筒を前にして知ったことで、今まで気づきもしなかった。
『翔太ーっ、今日はコレで対戦しようぜ! 昨日、出た新しいヤツっ!』
『あ…、もしかして、僕がガッコ行ってる間に猛特訓とかしてないよね?』
『し、してねぇ、してねぇって! そんなコトより、早くやろうぜっ』
『・・・わかりやすすぎだよ、兄ちゃん』
あの頃、僕はまだ小学生で子供だった。そして、今はやっとハタチになって、あの頃の久保田さんや時任兄ちゃんと同じくらいの年になった。
そのせいかもしれない、今になって色々と考える。
兄ちゃんを拾った久保田さんと、久保田さんに拾われた兄ちゃんのこと。
あの手が何だったのか、どこの誰に追われてたのかとか…、
そんな大変な状況なのを知ってて、どうして、久保田さんは兄ちゃんの面倒を見る気になったのかとか…、いろいろ…。
別にそんなことを考えてたわけじゃないけど、一番の友達の兄ちゃんに引っ越し先を言わなかったのも、一度も手紙も何も出したりしなかったのも子供ながらに、これ以上、関わっちゃダメだと感じてたからだと思う。
久保田さんと兄ちゃんと過ごした時間は、たぶん僕の今までの時間の中で、唯一の非日常だったんだ。
獣の手で記憶喪失で追われてて、ヤクザまで出てきたり、血まみれになったり…。思い出せば出すほど、マンガとか小説の中の世界みたいだった。
どこかに描き止めておかないと、本当に夢か幻になっちゃいそうで…。
「だから、描きたくなったのかな…。兄ちゃんたちのこと」
エレベーターに乗って自分の部屋の前にたどり着くと、何となく隣の部屋のドアを見る。でも、その部屋にかかってるネームプレートに書いてあるのは、鈴木って名前だ。
マンションも部屋も、どことなく昔住んでた所に似てるけど、やっぱり違う。
高校を卒業する少し前に雑誌に応募してたマンガが入賞した僕は、お母さんの反対を押し切ってマンガ家になって、一人でココに引っ越してきた。
そんなものになってどうするの、そんなものにならせるために塾や学校に行かせたわけじゃないのよって怒鳴られたけど…、どうしてもこれだけは譲れなかったんだ。
誰かに何かを伝えるために、僕は漫画家になりたい。
これは他の誰でもない、僕が決めたことだから…。
それにそろそろ限界だろうって気もしてたし、良い機会だとも思った。
すると、それは当たってたみたいで、僕が引っ越して三か月もしない内にお母さんとお父さんは離婚した。そして、二人が離婚したのを知った時、僕はさみしいっていうよりも、何か肩の荷が下りたっていうか、とてもほっとした気持ちになった。
もう僕は子供じゃないし、僕のせいで二人が一緒にいる必要はないんだ。
「再婚でもしてくれたら、安心…とまではさすがに言えないけど、今度は笑っていられるといいよね…、お母さんもお父さんも…」
鍵を開けて部屋に入ると誰もいないのに、気まぐれにただいまを言ってみる。
そうしながら、届かなかった茶色の封筒を抱えてるせいか、また兄ちゃん達のことを考えて…。今頃、どうしてるのかなぁと床に散らばってるゲームソフトを見た。
ネットで探して買った懐かしいゲーム機とソフトは、昔、兄ちゃんとやったヤツ。これも気まぐれに買ったんだけど、昔はあんなに面白くて楽しかったのに、正直つまらなかった。
古いからっていうだけじゃなくて…、何だかこう、違うっていうか…。
頭の中で兄ちゃん達と過ごした時間がぐるぐるとまわって、そういうのばっかり思い出して、つまらないっていうよりさみしくなった…、のかもしれない。あれから、何人も友達は出来たし、今もいるけど、やっぱり一番の友達は時任兄ちゃんだった。
兄ちゃんの方はどうか知らないけど、少なくとも僕の方はそう思ってる。
「載ってるの兄ちゃんと読んでた雑誌だし、届かなくったって読んでるよね…、たぶん…」
仕事場にある棚の上に置いた茶封筒の中には、僕の描いたマンガの初コミックスが入ってる。初めての連載で、自由帳に描いてた時任兄ちゃんと久保田さんがモデルの話だ。
コレ読んだら、兄ちゃんは僕が描いたのだってわかってくれるかなぁ…。
うーん…、わかってくれるのが無理でも、読んでてくれるとうれしいけど。
あれから何年も経ってるのにずうずうしい願いかなぁ…、やっぱり。
「・・・・なんて、思い出に浸ってる余裕なかったんだったっっ。早くネームやり直さないと、締め切りに間に合わないよっ」
結局、受取人不明で戻ってきた封筒はそのまま置きっぱなしで、担当さんに言われた部分を見て唸りながら、ネームを切り直して、いつもの修羅場に突入して…。棚に置いていたことを思い出したのは、怒涛の締め切りが終わってからだった。
ぐったりとベッドに潜り込んで、とりあえず満足するまで眠り倒した後、冷蔵庫に入っていたものを適当に見つくろって食べながら、そう言えばと思い出す。けれど、それを掴んで出かける気になったのはなぜなのか、自分でも良くわからなかった。
受取人不明なのに行ってどうするんだって思うけど、何となく落ち着かなくて…。
記憶を頼りに探しながら迷いながら、あのマンションを目指した。
僕の中に今も鮮明に残る…、思い出のある場所へ…。
だけど、やっとの思いで古びてはいたけど、壊されることなく建っている懐かしいマンションを見つけた僕は外から眺めるだけだった。
ぐるりと周囲をまわって401号室と402号室のベランダの窓を見つめたりして…、も、もしかしなくても不審者っぽかったかなと、チラっとこっち見ながらマンションに入った人の視線にちょっと焦ったりしただけ。実際、管理人さんや誰かに聞いたところで、久保田さんや兄ちゃんのことがわかるとも思えないし…、本当に何をしに来たんだろうって、マンションの前で今更ながらに大きく息を吐いた。
・・・ここは確かに懐かしいけど、それだけだ。
久保田さんも兄ちゃんもいないし、僕だって同じようにいない。でも、マンションが壊されたりしないで、今もあって良かった…とは思った。
マンションを見つめていると、あれは夢でも幻ではないって実感できるから…。
久保田さんと兄ちゃんはちゃんとここにいて、兄ちゃんのあの右手も本物だった。
「今も兄ちゃんの手、カッコいいって思うけど…。そう思うのは小学生の、小さい頃に見たからかもしれない…。あの頃じゃなくて、今なら・・・」
もしかして、怖いって思うのかな…。
兄ちゃんの手をちっとも怖がってなかった久保田さんのことを考えながら、僕は本当の不審者にならない内にと行先未定で適当な方向へと歩き出す。久保田さんは確かに右手は怖がってなかったけど、もっと別のものを怖がってた。
たぶん…、身動きが取れなくなるくらい…。
そして、そんな久保田さんに僕は言った。
『猫を拾ったけど、飼い方のわからない男の人の話』を描いてるって。
でも、実は今だにその話を、僕は完結させることが出来ないでいる。
コミックを封筒に入れて送ってから、久しぶりにあの頃に描いていた自由帳を出してみたけど、やっぱり色々とエピソードは描けるのに結末がわからなかった。
何も思い浮かばないわけじゃないけど、どれもしっくりと来なくて…、
描きかけたのをぐちゃぐちゃにした数は、たぶん数えきれないくらいいっぱいだ。
そして、今も頭の中でカタチになりかけていたものを、ぐちゃぐちゃにしたばかり。もしかしたらだけど、受取人不明の封筒を手にマンションに来たのは…、あの物語を未だに描き終えていないせいかもしれない。
でも、ああやってマンションの前に立ってみても、思い浮かぶのはあの頃の思い出ばかりで、他には何も浮かばなかった。
「今頃、どうしてるのかな…、兄ちゃんたち…」
そう呟いて小さく息を吐いて少し立ち止まると、後ろを歩いてたらしい人が横を通り過ぎて、僕を追い越していく。その人が時任兄ちゃんだったり、久保田さんだったりしたら、これって運命?な感じなのかもしれないけど、人生も運命もそう上手くはいかない。
でも、その追い越して行った人の後ろ姿を見た瞬間、僕は思わず叫んでしまいそうになった。確かに兄ちゃんでも久保田さんでもなかったけど、そのすごく髪の長い男か女かわからない感じの後ろ姿には見覚えがあって…っ、だから、反射的に後を追いかけようとした。
二人に繋がる何かを、あの人なら知ってるかもしれない。
本当に…、あの人が僕が思ってる人なら…っ。
だけど、走り出した瞬間、それぼと大きくはない…、でも確かに助けを呼ぶ人の声が聞こえて、僕は反射的に声のした方向を見る。すると、そこにはビルとビルの隙間にある裏路地で、女の子が一人、ガラの悪そうな二人組の男に囲まれていた。
「あれはどう見たってっ、助けなきゃって…っ!」
ポケットの中には、ケータイが入っていた。
でも、裏路地の光景を見た瞬間、僕は走り出していた。
髪の長い後ろ姿を追うのやめて、女の子の方へ…。
何でだろう…、わからない…。
いつかの日の久保田さんみたいに、ボコボコに殴られたりするのは絶対に嫌なのに…。あんな所に突っ込んで行ったらどうなるかって、そんな簡単な想像が出来ないわけでもないのに、ケータイで警察を呼ぶよりも誰かに助けを求めるよりも、なぜ僕は走り出す方を選んだんだろう。
バカだ…と思う、賢くない選択だとも思う。
けど、僕は「なんだ、てめぇは」とか「代わりに慰謝料払うってんなら、相談に乗るぜ」とか言う男の言葉を無視して怯えている女の子を手を引いた。すると、一発殴られてちょっと意識が飛んで、二発目を食らいかけたけど、男に向かって全力で大声で叫んで驚かせて、わずかに拳が止まった隙をついて走った。
そして、薄暗い裏路地に走り込んだ勢いで、明るい表通りに走り出た。
「てめぇっ、待ちやがれっ!!!」
後ろから追って来るし、なんかヤクザ関係とかだったらって…、
正直怖い…、すごく怖い…。
でも、僕は繋いだ手を離さずに走って走って、走った。
女の子が転びかけると怖いのに立ち止まって、それから、また走り出て…。そうして、どれくらい走ったのかはわからないけど、気づけば追いかけてくる足音も声もしなくなっていた。
すると、それがわかった途端、情けなくも膝ががくがくと笑い出す。歩くことも走ることも出来なくなった僕がその場に座り込むと、女の子も俺の横に座り込んだ。
それから、走って上がった呼吸が整うまで、二人でしばらくじっとしていた。
『・・・・・・こわかった』
やっと呼吸が普通になって、膝の震えも止まって…。
そう呟いたのは女の子…、と僕。
はーっと深く長く吐き出した息と一緒に、同時にそう呟いていた。
そのタイミングがあんまりピッタリだったせいか、今度は同時に女の子と僕はお互いの顔を見て、それから、二人で泣き笑いみたいな変な顔で笑った。
「こ、こわかった…っ。本当にもう、私、ダメかと思って…」
「うん…、こわかったし、もう大丈夫ってわかった途端、膝震えちゃうし…。なんかカッコ悪い…」
「そんなことないよ。本当にね、すごくカッコ良かった…。ありがとう、助けてくれて…」
「あの人たちは知り合い…とかじゃないよね?」
「知らない人。ちょっとぶつかっただけなのに、慰謝料とか言って来て…。あんなとこに連れて行かれて、ああいうことが本当にあるなんてっ」
まるで、古いドラマや映画みたいだねと二人で笑う。そして、今も手を繋いだままだったことにようやく気づいた僕は、急に気恥ずかしくなって手を離した。
別に女の子と手を繋いだことがないわけじゃないけど、何だか今も少し潤んでる瞳で見つめられると顔が熱くなる。
も、もし顔が赤くなったりしてたら、どうしよう…。下心ありとか思われたら…、とか考えてると女の子が知らないはずの僕の名前を言った。
「もし違ってたらゴメンだけど、飯塚翔太君…だよね?」
「え? どうして、僕の名前…」
「小学生の頃、こっちの学校に通ってたでしょう? その時、私も同じ学校で、隣のクラスだったから…」
「・・・・・ゴメン。同じクラスだったら、なんとか思い出せるかもしれないけど、違うクラスまでは…」
「そ、そうだよね…。そんな昔のこと、しかも話したこともない子のことなんて、普通覚えてないよね。実はバレンタインに机にチョコ入れたことあったんだけど、名前もカードも何も書かなかったし…」
いくら顔を見つめても覚えていないっていうより、たぶん記憶の中に無い。
でも、顔も名前もわからないのに、僕は「あっ!」と短く声を上げる。
バレンタインに机の中にあったチョコレートっ!
その記憶は時任兄ちゃん達と一緒にいた時期と重なってるせいか、僕の中に鮮明に残ってた。実は初めてもらったチョコだったりもするし…。
だけど、こんな風なカタチで、何年も後になってくれた子が誰だったかわかるなんて、とても不思議だった。
「あの後、すぐに引っ越しちゃったから…、せめて名前くらい書いとけば良かったなぁって、すごく後悔して…。なんて、もう昔の話だけどね」
「確かにそうしれないけど、言われてすぐに思い出したし…。たぶん、ずっと気になってたんだと思う」
「本当に?」
「うん…。だから、良かったら教えてよ、君の名前」
僕は腕っぷしもからっきしで、兄ちゃんたちみたいに強くないし…、
痛いのも怖いのも嫌だし、勇気だって無いし弱虫だし…、
でも、それでも僕は彼女の手を握りしめた。
運命を感じたのでも彼女のことを覚えていたわけでもないのに、なぜなのか自分でもわからない。だけど、こうして彼女と向かい合って笑いながら、僕は思うんだ。
きっと、これは考えてわかることじゃない。
でも、考えなくてもわかることだけが、たった一つだけある。
それはただの結果でしかないのかもしれないけど、それでも彼女の笑顔を見ていると、手を握りしめたことに後悔はなかった。たとえ、こんな風に逃げ切ることが出なかったとしても、きっと彼女を守れたなら後悔はなかったような気がして…。
僕はごめんね…、痛かった?と殴られた頬に伸ばされた彼女の右手を見つめ、大丈夫と首を横に振りながら猫を拾ったけど、飼い方のわからない男の人のことを考える。あの右手を見ても、大変な状況になるのをわかってても…、一緒にいた人のことを…。
すると、やっぱり結末だけは、まだわからなかったけど…、
あの短い日々で少しずつ、僕の中で久保田というキャラクターがカタチになっていったように、今、またわからないままだった部分がカタチになった。
「今頃、お返しなんて…、おかしいかもしれないけど…。良かったら、コレもらって欲しいんだ」
奇跡的に落とさなかった茶色の封筒の中身は、照れ臭くて頭を掻きつつ差し出した僕の手から彼女の手に渡り。その日から僕は彼女と良く会うようなり、一緒にいることが多くなり…、やがて一緒に暮らすことになった。
やり直そうとして頑張って努力して、それでも結局、そんな気持ちさえもすれ違って別れてしまった父さんと母さんのことを思うと、人によって違う優しさのカタチを…、
伝わりづらくて、わかりづらくて、時に傷ついて傷つけてしまう優しさを思うと、彼女の手を握りしめ続けることを迷うこともあるけれど、そんな時、僕は必ず時任兄ちゃんと久保田さんのことを…、二人の姿を脳裏に思い浮かべた。
「今はまだ無理だけど、いつかきっと完結させるよ。そしたら今度こそ…、二人に届けるから…」
引っ越しの準備で、仕事場の机の中にずっと入れている自由帳を取り出す。
すると、手伝いに来ていた彼女が、それを見て懐かしいと笑う。
その笑顔にそうだねと返事を返してから、僕は自由帳をパラパラとめくった。そうしながら、きっと今も一緒にいるんだろうって、僕は少しも疑いもせずに思った。
懐かしいページをめくって思い出すのは、時任兄ちゃんの笑顔と、そんな笑顔を見つめる久保田さんの横顔…。そして、思い出をめくり終えた僕は、自由帳の何も描かれていない真っ白な最後のページに…、記憶の中に無い手を繋ぐ二人の姿を見た。
「・・・・・うーん、描いてる雑誌が雑誌だし、ジャンル的に迷うけど。女体化とかさせちゃったら、兄ちゃん怒るだろうなぁ…」
「えっ? それって何の話?」
「ううん、何でもない」
「…って言いながら、なに思い出し笑いしてるのよ」
良くゲームで負けた時にしてた、兄ちゃんのふくれっ面を思い出して…、
なんっで、俺が女体化なんだよ…っとか、やるな久保ちゃんでしろよっとか叫んでる姿が思い浮かんで…。次に久保田さんが、なんで俺? キモくない?って自分を指差してる姿が思い浮かんで、やっぱり猫のままかなって思いながら何だか楽しくなって笑った。
いつか・・・、またいつか出会う日を夢見るように…。
自由帳の思い出を胸に抱きながら僕は今日も受取人不明の…、けれど、必ず届けたい想いを紡ぎ続ける。久保田さんに時任兄ちゃんに…、あの二人に…。
そして、僕が物語の中に想いを紡ぎ続けるように、自分の胸の奥に想いを紡ぎ続けるすべての人々に…、
近くの遠くの誰かの紡ぐ想いが…、その心に届くことを祈りながら…。
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