再会。
今、居る場所はコンビニ。
そして、手を伸ばした先には、カロリーメイトのチーズ味。
そんな状況でアタシは、ふと何かが胸を過ぎって、一瞬だけ思考を止めた。
なんだろう…、何かとても懐かしい感じがする。
けど、居る場所も手の先にあるものも、何もめずらしくない。
何もかも普通で平凡で、日常的。
今のアタシの目の前には、どこにも非日常的なものはなかった。
でも・・・、そんなアタシの横をどこかで見た黒い影が通り過ぎて、コンビニの自動ドアから出て行って・・・。あ…っと思った時には、その影にはもう手も声も届かない。
だけど、ガラス越しに横顔が見えた。
あの頃と何も変わらない…、黒縁メガネをかけた男の横顔。
もう二度と会うことないだろうって、そう思ってたのに…、
会いに行かないし、会うつもりもなかったのに…、
なぜだろう、こんな時に会っちゃうなんてタイミングが悪すぎだ。
「・・・なんで後を追ったりしてるんだろ、アタシ」
追いかける黒い影の名前は、久保田誠人。
こんな風に、偶然、コンビニで出会った人。
その時、アタシはさっき手を伸ばしてたチーズ味を万引きしようとして、あっちは助けたつもりはなかったけど、結果的に助けられて…。
思わず、黒いコートの裾を引いた。
助けて…と、見ず知らずの彼に救いを求めた。
「待って…っ、待ってよ!」
だったら・・・、今は?
呼び止めようと追いかけてる今は、何がしたいんだろう。
わからない…、わからないけど、アタシは必死に追いかけた。
追いかけて追いかけて、あの時と同じように黒いコートの裾を引く。
すると、久保田誠人は…、久保田さんはあの日のように振り返って私を見た。
「・・・こんにちは、沙織ちゃん?」
名前を呼ばれて、ホッとした。
良かった…、名前覚えてくれてる。
でも、名前を呼ばれたアタシは、それに答えようと口を開いたけど…、言いかけた言葉を声にしないで飲み込む。
そんなアタシを久保田さんは立ち止まったまま、何も言わずに見てた。
裾を引いた手を振り払う事をしなかった。
だから、アタシはあの日と同じように安心した。
なぜなのかは…、わからないけど…。
「こんにちわ…、あの、久しぶり。元気してた?」
「うん、まぁ程々に?」
「元気って聞かれてほどほどにって、あは…っ、ヘンなの」
「そう?」
「ココってマンションから遠いけど、何か用事? 時任は一緒じゃないの?」
「久しぶりで、いきなり質問攻め?」
「あ、ごめんね。何だか懐かしくて、つい…」
裾を引いた手を誤魔化すように、慌てて言葉を連ねた。
本当にヘンだったのは、久保田さんの返事じゃなくて…、アタシ。
ヘンなのは裾を引いたまま、手を離さないアタシの方。
そんなアタシとしばらく世間話をした後、久保田さんはまるで何もかも知ってたかのように、今のアタシの状態をピタリと言い当てた。
「・・・で、懐かしくて久しぶりな沙織ちゃんは、また家出中だったり? 前は二週間で…、今日はたぶん一週間くらいかな」
そう言われて、アタシはギクリと身体を硬直させた。
だって、ホントに家を出て、今日で一週間だったから…。
なんで…、なんで、久保田さんにはわかっちゃうんだろう。
始めて会った日も、何も知らないのに、何もかも知ってるみたいだった。そんな事を思い出したアタシは、裾を引いた自分の手に強く力が篭るのを感じた。
「・・・・どうして、わかっちゃうのかなァ」
少しだけ間を置いて、思ったままを口にすると久保田さんは軽く肩をすくめる。
そして、まるで天気でも話すような口調で、カロリーメイト万引きじゃなくて買おうとしてるように見えたからだと言った。
「あの時、家出して二週間で持ち金ナシだったから、たぶんソレくらいかなぁってだけ」
「家出してるのは?」
「雑誌読んだり特に何かする様子もなく、店内を落ち着かない感じでウロウロしてたから…、かな。俺が雑誌を読み始めてから読み終わるまで、ずっと、そうだったし」
「居るの知ってたら、声かけてくれれば良かったのに」
「それは補導員サンの仕事だから」
「あははっ、アタシ、今はもうそんな年じゃないよ」
しばらく、ひとりでがんばってみる。
せいかつしていこうとおもえば、いくらでもみちはある。
久保田さんと話しながら、脳裏に浮かんだのは自分の言葉。でも、その言葉を久保田さんに言ってから、たったの二週間でアタシは家に戻った。
武司が死んで、友達だってあてにできない。
住む場所も行くあてもないし…、お金なんて、すぐに尽きてなくなる。
泊まるトコ確保するために道行く男の袖を引くのも、すぐに嫌になった。
何やってんだろ…、アタシ…。
一人で頑張るって、何を頑張るつもりだったんだろう。
いかにもフウゾクって感じの男の話を聞きながら、生活するために、この男についてって落ちてって…。それで、アタシ…、武司と居た頃と何か変わった?
「・・・・バカなんだよね、アタシ」
そう吐き捨てるように、ポツリと呟き…。
アタシは顔を歪めて、口にしようとした。
何もかも、あの日と同じ…、だから言おうとした。
・・・・・同じ言葉を。
だけど、あの日と同じ言葉を口にしようとした瞬間、アタシの手の上に、コツンと黄色い箱が置かれる。それは、チーズ味のカロリーメイトだった。
「コレあげる」
「・・・・・・っ、それ時任のじゃないの?」
「べつに頼まれたワケじゃないし、気まぐれに買っただけ」
「でも…っ」
「それに、もうわかってるでしょ?」
「え?」
「ソレ食べる時間分増えても、一週間が二週間になっても何も変わらないってコト」
・・・やっぱり、彼は知っている。
きっと、知ってたんだと、今になってアタシは気づいた。
アタシの言った言葉が、何も知らないガキのセリフだって…、
バカばっかやってたアタシらしい、バカなセリフだって…。
偽善? 手を汚していく? 投げやりになってない?
違う…、逃げてるだけだ。
いつもいつも、いつもアタシは最低なだけで…、
でも、それに気づいた時、彼はいつの間にかアタシの手から裾を取り戻し帰ろうとしてた。恐ろしいくらいに執着してる獣の手をした同居人の…、時任の所へ…。
アタシをここに残したまま、あの日のように連れて行ってはくれなかった。
「それじゃ、俺はココで…」
「ねぇ、待ってよ」
「・・・・・」
「ねぇっ、待ってってば!」
・・・・・・時任に会いたい。
時任に会って、ホントのことしか言えないアイツの言葉が聞きたい。
そうすれば、また歩き出せる。
何もかもが、あの日とあの時とダブって見えて…、
気づかない内に、あの日に戻ってしまったような錯覚に陥ってた。
最低でバカなアタシは結局、自力じゃ這い出せない、歩き出せない。
だから、いつも誰かの裾を袖を引く…。
いつだって、少しも覚悟なんかなかったんだ。
「お願い、一緒に連れてって…」
「・・・・・・」
「ずっとなんて言わない。前みたいに一晩だけでいい」
「・・・・・・」
「時任に、時任に会って話したい…、だからお願いっ」
アタシに背を向けた彼は、何を言っても振り返らない。
まるで、カロリーメイトが餞別みたいに、こっちを見てもくれない。
それでも、アタシは惨めにみっともなく追いすがった。
あの日、アタシを助けてくれた二人にすがりついた。
「助けて・・・・・っ!!!!」
お願いとようやく届いた手で、また裾を掴む。だけど、振り返った彼の口から出た言葉は、アタシが期待したのとは違ってた。
あの日とまるで同じなのに、違うことをアタシに教えるみたいに…、
彼は…、久保田さんは微笑んだ。
「そう言われても、俺ってカミサマじゃないんだけど?」
アタシに向けられた微笑みも声も口調も…、前と何も変わらない。
いつもと変わらない、そんな微笑みと声で拒絶された。
それが何かとてもショックで、裾を握る自分の手が震えるのを感じた。
その震えは手から全身に広がって、助けてって叫んだ胸まで届いて…。
アタシは全身の震えを感じながら、顔に張り付いたような笑みを顔に浮かべた。
「そっか…、そうだよね。カミサマじゃないなら、助けてなんて言っても無理だよね」
「ウチには帰らないの?」
「帰らない…。だから、べつの所に行こうかなって」
「友達のところとか?」
「そんなのあてに出来たら、こんな所にいないよ。そうじゃなくて、実はアンタたちのこと、何か知ってるなら教えてくれって、情報を渡せばお金くれるって言われてるんだよね…。確か…、出雲会の人だったかなァ…、アレ」
「・・・・・・・」
行き止まりで拒絶されて、ショックで最低なウソをついた。
そんなウソも冗談を言うつもりなかったのに、最悪な自分を止められなかった。
でも、こんな冗談言っても、久保田さんなら動じないし信じない。
結局、適当にあしらわれて終わりだと思った。
あしらわれて見捨てられて、終わりだ。
だけど、そうじゃなかった。
終わりは終わりでも…、アタシが思ったのと違う。
だから、ウソだって冗談だって言おうと口を開いたのに言えなかった。
彼は…、久保田さんは微笑みを浮かべたまま…、
・・・・・・・アタシに拳銃の銃口を向けていた。
今、自分が置かれている状況が把握できなくて、信じられなくて…、
アタシは・・・、目を大きく見開く。
でも、久保田さんは相変わらず微笑んだまま、表情を変えなかった。
「ウソ…、でしょう? ねぇ、冗談だよね?」
アタシが性質の悪い冗談言ったから、仕返しされたんだと思った。
だから、確認するように、そう言ったけど返事が無い。
まさか…、ううん、そんなはずない。
だって、久保田さんはアタシを助けてくれた。
時任だって、アタシを助けてくれた。
知らない仲じゃないし、あんな冗談で…って、そんなのあるはず…。
そう思いながらも、胸の辺りに押し付けられた銃口の硬さを感じると額に汗が滲んだ。
「わかってる」
「・・・・え?」
「さっき言ったのは冗談だって、ちゃんとわかってるよ」
「な、なぁんだァ…、ビックリさせないでよ」
冗談だってわかってくれてるってわかって、アタシはホッとして全身から力を抜きかける。だけど、硬い銃口は、胸に押し付けられたままだった。
ちゃんとわかってるって言ったのに、どうしてだろう。
滲んだ汗は、引くどころか酷くなっていく。
抜きかけた力も、こもったまま抜けない。
ねぇ、わかってるなら、あやまるから降ろしてって言おうとしたけど、なぜか銃口が前よりも強く押し付けられるのを感じて…、言えなかった。
「うん、わかってるけどね。コレは無理」
「無理?」
「言ったコトはジョウダンでも、そういうコトもあるかもって気づいたから」
「な、に…、言ってるの。アタシは何も知らないし、もしも何か知ってたとしてもアンタ達を売ったりなんか…っ」
「うん、だからソレはわかってるし」
「だったらっ、ソレと今の状況と何の関係がっ」
「沙織ちゃんが何も知らなくても、何もしゃべらなくても前と同じで関係ないよ。だけど、そう…、コンビニで会ったり裾を引っ張られたり、ホントにあんまり前と同じだからさ。なーんとなく、困るなぁって思っただけ」
「困る?」
久保田さんにそう言われて、前に起こった出来事を思い返してみる。
出会って泊めてもらって、武司が・・・、死んで…、
それから、入院してた所から、東条組のオカマに拉致られた。
そこを時任に助けられて・・・、それから久保田さんが・・・。
思い出す…、軽い銃声と赤い血の色。
その時の久保田さんの微笑みを思い出し、全身に震えが走った。
「ウチにはカミサマいないけど、実はいるんだよねぇ。たとえば、家出した女の子を、ヤクザ屋さんから命がけで守るような子」
「あ、アタシはもう無関係だし、二度とあんなことっ」
「そのセリフ。ヤクザ屋のオジサンやオニィサン、信じてくれるといいね」
「まさか…、本当に本気なの? これって、実はオモチャ…なんでしょう?」
「そんな風に見える? コレ」
「・・・・・・っ」
「そういえば、幼稚園とか学校のセンセーとか言ってなかった? 知らない人に着いてっちゃダメだって…」
「くぼた…、さん…?」
「特に、こんな風に人通りのない…、薄暗い路地なんて最悪だよね」
これは冗談? それとも…、夢?
こんなの信じられるはずがない。
だって、今は何も起こってない。
前みたいにさらわれた訳でも、何でもない。
なのに、関わりがあるって事でアタシを人質に取られたら、脅迫されたりされたら、また時任がって…、そんな可能性だけでアタシに銃口を向けるなんて。
アタシを殺そうとするなんて、そんなの信じたくない。
だけど、相変わらず微笑みを浮かべたままの彼を前にして、私は声を失った。
信じたくないのに冗談とも夢とも思えなくて、震えが止まらなかった。
脳裏を過ぎるのは目の前で死んでいった、たくさんの人。
あの時、アタシはわかった気がしていた。
叔父の刑事さんから話を聞いて、彼の事を理解した気でいた。
だから言った…、貴方みたくならないように気をつけるって…。
あんな風に執着して、人殺しになるような人間に…、
あんな怖いものにはなりたくないと…、思った。
でも、そうじゃない…、違う…。
自分に銃口を向けられて、始めて自分の間違いに気づいた。
確かに今、銃口を向けている原因は時任…なのかもしれない。
けど、迷いも躊躇もない、こんな微笑みを銃口と一緒に向けられる彼の中に潜むものは、彼の引く引き金の軽さは違う。
時任が居るからじゃない…、執着してるからじゃない。
こんな風に温かくも冷たくもない微笑みで、淡々と銃口を向ける彼は、マンションで話した時とも、たくさん人を殺した時とも違っていた。
・・・・・ヒトゴロシ。
気づけば、アタシの唇はそう言葉を形作る。
そして、まるで風に吹かれて足元に絡みついた新聞紙を蹴るように、軽い音で人を殺す彼を怖いと思った。始めて心の底から震えがくるほど、恐ろしいと思った。
彼はいつでも引き金を引けるのだ…、そういう指をしてる。
彼は時任に執着してる…、大切に想っていても…、
時任の存在はもしかしたら、世界中の何よりも重かったとしても…、
それでも、彼の引く引き金の軽さは、それとは無関係。
あぁ、だから…、あんなにも軽い音がしたんだと気づいた時には、アタシも彼にとって、久保田誠人にとって足元に絡みついた新聞紙になってた。
「・・・アタシを殺したら、その理由知ったら時任が苦しむわよ」
時任の名前を出しても、きっと無駄な足掻き。
・・・わかってた。
あぁ、きっと、彼はあの日のように微笑むんだろうって…、
それが何?…と微笑んで、新聞紙を蹴飛ばすんだろうって…。
そう思いながらも視線は下へと落ちて、彼の顔を見れない。
震えが歯まで伝わりカチリと鳴って、アタシは持っていたカロリーメイトから手を離し、無意識に腹を両手で抱えた。
聞こえてくる、あのオカマのセリフの幻聴に吐き気がする。
聞こえてくる…、懐かしい時任の声の幻聴に歯を食いしばる…。
そして、ぎゅっと閉じた目蓋の裏に浮かんだ武司に泣きたくなる。
だけど、これで終わりだと思った瞬間に浮かんだのは…、別の顔だった。
ごめん・・・、もう、そばにいられない…っ。
でも、そう思った瞬間、耳に響いたのは軽い音じゃなくて…、
どこかで聞いたことのあるような…、何か古い感じのメロディーだった。
その音にハッとして目を開けると同時に、ピッと音がして…、近くで話し声がする。アタシは激しく鳴る心臓の鼓動を感じながら、開いた瞳で目の前に立つ彼を見た。
すると…、さっきまでの彼と同一人物とは思えないような…、
穏やかな優しい表情を…、そんな微笑みを浮かべていた。
うん…とか、心配ないよ…とか、すぐに帰るって短い言葉にまで、その穏やかさも優しさも滲んでいて、アタシは目を大きく見開いた。
・・・・・・・時任。
こんな風に彼を変えるもの…、変えられる人間は他に居ない。
時任と話す彼は、アタシの胸に銃口を押し付けたりはしていなかった。
そして、それほど長くない通話を終えると、ケータイと一緒に拳銃もポケットと懐の中に仕舞い込む。私が動く事も喋る事もできず立ち尽くしたまま、その様子を眺めていると…、彼はアタシに背を向けて歩き出した。
「くぼた…、さん…、アタシ…」
「サヨナラ、沙織ちゃん」
これは…、きっと今生の別れ…。
今度こそ、もう二度と会うことなんて…、ないんだろう。
彼にも、彼の大切な人にも…。
腹を抱えたまま、ずるずると暗い路地のアスファルトの上に座り込んだアタシは、自分の頬に涙がゆっくりと…、いくつもいくつも伝っていくのを感じた。
哀しいのか苦しいのか、それさえもわからずに泣き続けた。
それから、流れる涙をぬぐいもせずに、持ってたケータイでかけ慣れてる番号に電話して…、そこから聞こえる声に好きだよと告げる。すると、どうしたんだって何かあったのかって、少し驚いたような声がして…、アタシは今すぐココに来てと微笑みながら言った。
早く来て…、話したい事があるの…、
その言葉の後に続けた、今度こそ…は告げないまま、胸の奥に飲み込んで…、
アタシは守るように腹を抱えながら、大切な人が来るのを待った。
「ごめんね…、武司…。ごめん…」
あやまるのは、他に大切な人が出来たからじゃない。
一番傍にいなきゃダメだった時に、居て欲しかったって…、
たぶん…、きっと思ってくれた時に、一緒に居られなかったからだ。
武司を一人きりで…、死なせてしまった…。
手を握りしめてあげることさえ…、できなかった。
そう想って流れる涙を感じて始めて、アタシは消えたくないと思った。
アタシはこの腹を抱きしめる腕が欲しい。今から、きっとココまで走って来てくれるに違いない人を見つめる目も、キスする唇も欲しい。
カラダのどこも、何一つ消えていいものなんか…、最初からなかったんだ。
「やっとわかったよ…、時任…。アンタは本当に、ホントの事しか言えなかったんだね…」
それから、アタシは結婚して…、子供を産んだ。
暗い路地に息を切らせて走ってきてくれて…、恐怖と戦いながらアタシが子供が出来たって言ったら笑ってくれた、結婚しようって抱きしめたくれた…、
とても大切な、大好きな人の子供だ。
そして、今、こうして産れたばかりの、この子を抱きながら…、
アタシはこの子の温かさと柔らかさに驚いて、次に唇を震わせながら涙を零す。
だって、アタシは今まで知らなかった…。
アタシの腹の中に居る子が…、居た子が、こんなに温かいなんて…、
それを知らないで手を汚す…なんて、偽善なんて言ってたなんて…。
出来たとわかった瞬間、怖いばかりで一度も喜ばなかったアタシを、あの子はどう思っただろう。一度でもいいから…、あの子のいる腹を優しく抱きしめてたなら、何か違ってただろうか、何かが変わってただろうか…。
窓から入ってくる眩しい光と暖かい幸せの中で…、命のぬくもりと重さを胸に抱き感じながら、アタシはあれから会う事のない二人の姿を脳裏に思い描いて、何があっても何が起こっても一緒にいるだろう二人の明日を祈った。
「ねぇ、生きてるって…、こんなにあったかいんだよ…」
思い描いた二人に話しかけても、声は届かない。
二人の姿を見ることは、二度とない。
だけど、きっと彼も大切な人を、こんな風に抱きしめてるに違いない。
そして、そのたびに温かさを感じて微笑んで…、命の重さを知るなら…、
軽かった彼の引き金は、今はどれくらいの重さになってるだろう。
軽い引き金を重くするのは、その引き金が引かれるのを止められるのは、あの日もあの時も時任だけ。暗い路地で銃口を下げさせたのも、きっと…、時任…。
けれど、そう思うと叔父の葛西さんの言葉が、なぜか胸に哀しく響いた。
獣の手を持つ時任を守る彼にとって、引き金が重くなるってことがどういう事なのか…、どういう意味を持つのか…、
きっと、何もかも知ってるみたいな彼なら、とっくに気づいてるだろう。
そして、それに気づいたとしても…、彼は微笑むだけだろう…。
優しく柔らかく…、愛しそうに時任を見つめながら…。
頬の涙を拭った人差し指で子供の丸い曲線の柔らかな頬を、そっと優しく撫でながら…、アタシは彼がウチにはいないと言ったカミサマに祈る。
どうか・・・、二人が一緒にいられるように…、
少しでも長く…、離れないで一緒にって祈り続ける。
すると、撫でてた指が触れたせいか、子供の小さな小さな手がアタシの指を握りしめてきて…。それを見たアタシは微笑みながら、幸せを詰め込みたくなる丸い柔らかな頬に涙と…、そして唇を落とした。
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