「うわ、マジでタバコ臭ぇ…」 時任がそんな風に言うのを、今まで何度か聞いた。 タバコの匂いが嫌いだから、敏感になってるっていうのもあるだろうけど、俺は少しも気にならない。好きで吸ってるってだけじゃなくて、俺にとってタバコの匂いはすでに無臭に近いっていうか…、何も感じない匂いだった。 臭いと思わないし、逆に良い匂いだとも思わない。 たぶん、コレは慣れっていうか麻痺。 初めて吸った時、この匂いをどう感じたのかすら記憶にない。煙を最初に口にしたのは、たぶん好奇心だったんだろうと思うけど、やめられなくなったのは…、ただの惰性的な習慣という気がしなくもなかった。 何かをくわえてなきゃ落ち着かないとか、そういう依存症の一種。 それがニコチン中毒ってコトなんだろうけど、そんな理由で片付けると吸ってる煙も麻痺して感じない匂いもマズくなる気が、ほんの少しだけする。 中毒なのは、紛れもない事実なのに…。 「一体、何に抵抗してんだか…、ね」 そう独りごちてコーヒーを入れるキッチンに立つと、風呂上りの時任がドアを開けて入ってくる。そして、リビングじゃなくて俺のいるキッチンに来ると、牛乳でも飲むつもりなのか冷蔵庫の前に立った。 「やっぱ、風呂上りは牛乳だよなっ」 うん、やっぱりアタリ。 俺はそう心の中で呟いてコップへと手を伸ばす時任に合わせるかのように、挽かれたコーヒーの粉が入ってる袋へと手を伸ばす。すると、その瞬間に時任との距離が縮まって…、中毒で麻痺した俺の鼻を石鹸の匂いがくすぐった。 甘く…、誘うように…。 その甘さに目眩を起こした俺は、思わず発生源である時任の方を見る。すると、なぜか時任の顔ではなく、綺麗な鎖骨が俺の視界に入った。 風呂上りのしっとりとした…、滑らかな肌…。 それは目眩を起こしている俺を更に誘惑し、無意識に手を伸びた手が時任の鎖骨に触れる。すると、触れた鎖骨と一緒に、時任の肩がビクっと震えた。 「く、久保ちゃん?」 戸惑うような不安そうな…、時任の声…。 その声を聞いた俺は苦笑しながら、誤魔化すように鎖骨から手を離し、今度は頭へと伸ばす。そして、シャンプーで洗われて濡れた髪を、軽く掻き回すように撫でた。 「髪、ちゃんと拭かなきゃダメでしょ?」 俺がそう言うと、時任は少しほっとしたような表情になる。けれど、そんな時任を裏切るように、俺の手は濡れた髪をすべり…、頬へと落ちた。 髪を拭いてやるため、肩にかけられたタオルを取るコトもせず…、 一体、何やってんだろうね…と、意識の奥底で思いながらも目眩を起こした視界は一向に戻らなくて、時任に触れた手のひらがじわりと熱を帯びてくる。今から、この手をどうするのか…、何をしようとしているのか自分でもわからない。 そして、そんな俺を時任は身動きせずに、じっと見つめていた。 いつもと違う様子に戸惑いながらも逃げないで、鎖骨も首筋も無防備にさらけ出し、澄んだ瞳で俺を捕らえ、いつものように泡立てた石鹸で洗われたような…、真っ白で無垢な表情を顔に浮かべ…、 そんな時任の香る石鹸と上気した肌と、嗅覚と視覚からの誘惑は…、セッタを指に挟んでさえいれば逃れられるかもしれない。麻痺するほど、惰性的で習慣となっている煙と匂いは、俺に残された唯一の逃げ道…。 けど、そう思った瞬間…、あぁ、なんだと納得する。 「無駄な抵抗ってヤツなのに、ね…。煙に巻いて認めたくないんだ…、弱虫のコドモみたいに」 俺がそう呟くと時任が、何のコトだって言って首をかしげる。 けど…、答えてあげない。 答えたが最後、たぶん目の前の鎖骨には無残な赤が散るから…、 絶対に教えてあげない…。 でも、そう思いつつも俺はまるで酔っ払いのように、傾けた頭を時任の肩に預ける。そして、無残に赤が散らないのように軽く、ほんの少しだけ…、時任の首筋に唇を押し付けた。 「うわ…っ、ちょっ、何やってんだよっ。くすぐってぇっ」 「うーん、なんか石鹸の匂いがおいしそうで、つい…」 「…って、石鹸は食いモンじゃねぇだろっ。つか、巻き添えで俺まで食おうとすんなよっ」 「いい匂いなのに、食べられなくて残念」 「残念なら風呂で食ってこい…っていうか、石鹸食いたくなるほど、腹へってんのか?」 「そうじゃないけど…、なんとなくオオカミの心境?」 「はぁ? オオカミ?」 「なーんて、冗談はさておき…」 「じょ、冗談なのかよ!?」 「早く髪、ちゃんと乾かさないと本気で風邪引くよ」 「へーい、わぁってるって」 肩にかけたタオルで時任がガシガシと頭を拭き始めると、俺はコーヒーを入れるのはやめにしてリビングに戻る。そして、食事用のテーブルに置きっぱなしにしてたセッタをくわえ、ライターで火をつけ…、肺の中を煙で満たした。 けど、それでも香ってくるのは、なぜか石鹸の匂い。 ここまで香ってくるはずのない…、誘惑の匂い…。 あぁ、煙に巻けないや…と心の中で呟きぼやいて、ため息混じりに牛乳の入ったコップを片手にリビングに来た時任を見る。すると、近くを通った瞬間に見えた首筋が、軽く口付けたはずの場所がわずかに赤くなってて…、 それを見た俺は、セッタの匂いどころか味までわからなくなった。 「結局、逃げ道なんてドコにも無いってコトかもね」 そう呟いた俺は、まだ長いセッタを灰皿の中で押しつぶすと、おいしそうに牛乳を飲み干した時任の腕を捕まえ…、近くにあったソファーに沈めると…、 わずかに赤くなった場所に唇を重ね、腹を減らせたオオカミのように無残な赤を散らした。 |
『捕食』 2008.9.30更新 |
短編TOP |