ブクブク…、ブクブクブク・・・・・・。 うっすらと目を開けると、小さな泡が上っていくのが見える。 けど、たぶん…、上がっていく泡とは反対に、俺は沈んでるんだろう。 じっと上を眺めていても、ただ暗いだけで何もなかった。 揺れる水面も、そこに映る陽光のきらめきも何も見えない。そして、いつから沈んでいるのか、いつからこうしていたのかも良くわからなかった。 いつ底に着くのか、それとも永遠に沈み続けるだけで…、 実は底に着くコトなんてないのか…。 でも、それも考えるだけ、ムダのような気がした。 だって、俺は沈むコトしかできないのだから…。 けれど、別に俺にとって…、ソレは嫌なコトじゃない。 むしろ沈んでいくコトを、気持ちいいとさえ感じている。 上に向かって手を伸ばし、足掻くよりも、落ちていく方が性に合っていた。 あきらめではなく、悲観するのでもなく、ただ沈みゆくのは…、 ゆりかごに揺られ、満たされた眠りと似ている。 何も考えず何も想わず…、眠りに落ちて…、 だから、とても気持ちがいい…。 沈んでいく水深は、その眠りの深さ。 もしかしたら、不眠症の俺は、深い眠りを求めて沈んでいるのかもしれない。でも、気づけば海水の潮の匂いじゃなくて、血の匂いばかりが鼻について…、 暗くて良くわからないけど、俺が沈んでいるのは海じゃなかった。 たぶん…、光に照らし出せば、この海は青じゃなくて赤い色をしている。 あぁ・・・・、これは血の海だ。 そう気づいた瞬間、小さかった泡が突然、大きくなってゴポリと音を立てる。 それはきっと…、俺が吐き出した息の塊…。 今まで苦しいなんて思ってなかったけど、なぜか急に息ができなくなって、両手で首の辺りを押さえた。 ココまで沈んで来たけど…、たぶんココからは身体中の酸素を吐き出さなければ沈めないのかもしれない。この海を満たす赤に自分の赤を加えて…、その中に沈まなくてはならないのかもしれない。 だって、この海を満たす赤を作り出したのは…、俺だから…。 だから、俺はこの海に沈んでいくんだろう…。 赤い海と…、深い罪の中に…。 けど、このまま沈んでいこうとする俺を、誰かが呼ぶ声がして…、 俺は眠るために閉じかけていた目を、薄っすらと開く。 すると、何かに強引にいきなり上へと引っぱり上げられて…、 次に俺の視界に赤い海じゃなくて、見知った人の顔が映った。 「あ…れ…? ココって海じゃなかったっけ?」 さっきまで、まるで深海魚のように海に沈んでいた俺は、何が起こったのか良くわからなくて、目の前にある顔をぼんやりと眺めながら、ぼんやりとそう言う。そうしたら、強く肩を掴まれた上に、ぎゅ〜〜っと頬をつねられた。 「何、寝ぼけてんだ…っ!つか、風呂で寝てんじゃねぇよっ! 俺が気づかなかったら、あやうく溺れ死ぬトコだったんだぞっ!!」 そう叫んだのは海に棲む人魚とかじゃなくて…、同居人の時任。 半分怒り、あとの半分はあきれてるって顔をして俺を見ている。けど、俺は未だ状況がいまいち把握できなくて、うーん…と小さく唸った後、首をかしげた。 さっきまで海にいたと思ってたけど…。 実は風呂で寝てた? ・・・・・・俺が?? しかし、視線だけを動かして周囲を見回してみると、確かに風呂にいる。 身体に触れているのも水じゃなくて、お湯だ。 は〜…っと気の抜けたような息を吐いた俺は、浴槽の壁に背中を預けながら、ゆっくりと天井を見上げる。すると、そんな俺の顔を時任が上から覗き込んできた。 「ちゃんと目ぇ覚めたか?」 「ん〜…、まぁ一応」 「ったく、眠い時は先に寝てから風呂に入れよ」 「入る前は眠くなかったんだけどね。風呂に入ったら、眠くなった」 「救えねぇな」 「うん、救えないねぇ」 呆れながら冗談交じりに言った時任の言葉を、ぼんやりとオウム返しに言ってみる。そしたら、自然に口元に笑みが浮かんだ。 そう、救えない。 いや…、救われない…。 ・・・・・・・救われるべきじゃない。 そう想いながら、救えない事態に小さく笑う。 そしたら、そんな俺の笑み見た時任が、なぜか顔をしかめた。 ・・・・・あれ? いつもなら一緒に笑ってくれるトコなのに、どうしたんだろう? 良くわからなくて、また首をかしげるとを伸びてきた手が、ぐいっと俺の耳を強く引っ張る。さすがに痛くて俺も顔をしかめると時任の声が…、本気で怒った時の低い声が耳に響いてきた。 「何の夢を見たのか、なんで真昼間から風呂に入ってんのかしんねぇけど…。せっかく、俺が引き上げてやったのに、いつまでも沈んでんじゃねぇよ」 「・・・・ゴメンね」 「別に謝れとか言ってんじゃない」 「うん…、ゴメンね」 「・・・・・・・」 ・・・・・・ゴメン。 俺が謝ると時任の眉間に皺が寄る。 時任は普段は鈍いクセに、妙なトコロで勘が鋭かったりするから、たぶん俺が風呂に入ってた理由なんてバレバレなんだろう。だから、こんなにも怒って眉間の皺を深くして…、俺が笑っても笑ってくれない。 けど、俺にはゴメン…しか言えないから…、 今度は引っぱたかれるか、殴られるかするかもしれない。 でも、きっと、それで痛むのは俺の頬じゃなくて…、時任の手。 俺のために怒る、時任のココロ…。 時任の眉間の皺を見ながら、俺はそう想い…、またゴメンねと呟く。すると、時任は引っ張ってた耳を離して、俺の目を真っ直ぐ見つめてきた。 「・・・・・何人殺した?」 バスルームに響く、時任の静かな問いかけ…。 それを聞いた俺は少しだけ間を置いた後、包み隠さず、ありのままを淡々と答えた。 「3人」 「出雲会とか…、そーいうヤツか?」 「たぶんね」 「そっか・・・・」 なぜだとか、どうしてだとか、そんな事を時任は俺に聞かない。 だから、俺も何も言わない…。 ただ、その3人の代わりに、俺らの右胸に穴が開いてたかもしれないという事だけを…、たぶん何も聞かなくても理解してるんだろう。そんな風にしか生きていくコトのできない現実を前に、時任は拳を固く握りしめ震わせていた。 けれど、それでも俯かない瞳は、いつも真っ直ぐで綺麗に澄んでいる。 綺麗なモノだけ見てきたワケじゃないのに…、なぜ、こんな瞳でいられるのか、とても不思議だった。 「・・・・・お前は綺麗すぎるよ」 「え?」 小さな呟きは持ち上げた腕が立てた水音に混じり消えて、時任の耳には届かない。未だ海に沈む俺と、浜辺に佇み空を見上げる時任との距離は、永遠に交わらない海と空のように近く見えて…、実は遠いのかもしれない。 同じように見えて、まったく違ったモノ。 けど、それは当たり前のコトだった。 世界中の誰もが決して同じではないように、俺と時任も違う。 だから、また時任が怒るコトを知りながらも二人の間に境界線を引いた。 「別になんでもないよ。ただ、俺がやりたくてやってるだけだから、それが何人だろうと、お前には関係ないって言っただけ」 「関係ないって、そんなワケないだろっ!」 「関係ないよ。だから、俺がどこに沈もうと引き上げたりしないで、お前は目でも閉じてればいい」 「・・・・っ!!」 俺達は共犯者…。 いつだったか、俺を巻き込むコトに罪悪感を覚えていた時任に向かって、そう言ったことがある。そして、時任は今も、その言葉を信じていた。 けど、俺はそれを裏切るようなコトを口にする。 時任の綺麗な瞳を見つめながら…。 裏切って境界線を引いて、目を閉じて殴られるのを待った。 俺を殴った時任の手が、痛むのを知っていて待っていた。 いつでも痛いのは俺じゃなくて…、時任だ…。 あぁ…、ホントにサイテイだぁね…。 そんな呟きを心の中で漏らし、目を閉じると目蓋の裏に見えるのは赤い海。 きっと、最後の最期に俺もあの中に混じり…、赤くなる…。 だけど、今、俺を殴れば時任だけは、あの海に混じらないで済むんじゃないかと…。俺との間に殴って責めて、時任の方からも境界を引いてくれたら、二人の世界を別ってくれたらいいのにと、ふと思い心の中で呟き…、赤い海に二酸化炭素の泡を吐く。 けど、そんな俺の頬に当てられた時任の手は、なぜか優しくて…、 思わず閉じていた目を開くと、唇に柔らかなモノが押し当てられた。 すると、俺の胸がチクリと痛んで…、 その衝撃と痛みに、ズルズルとまた風呂の中に沈み込みそうになる。けど、時任の手が俺の肩をしっかりと捕まえてたから、俺が溺れるコトはなかった。 「コレはキスとかじゃなくて…、人工呼吸…」 赤い顔をしてブツブツと言いワケみたいにそう言いながら、触れて離れていく時任の唇が引いたのは、境界線じゃなくて繋ぐ糸。 重なった唇が熱を持ち、見つめてくる瞳に引き寄せられる。 海と空は決して交わらないはずなのに、抗いがたい引力が俺の右手を動かして…、強引に時任の頭を自分の方に引寄せると…、 人工呼吸した時任に、噛み付くようなキスをした。 「ふっ、んん…っ!」 時任は苦しそうにしていたけれど、まだ酸素が欠乏してる。 溺れる俺に糸なんて繋いだりするから、酸素を奪われて…、今度は時任の方が酸素を欠乏させて喘いでいた。 このままじゃ…、二人揃って海の底…。 濡れた音が二人の間から響いて、抗議するように口内に差し入れていた舌を軽く噛まれる。けど、それでも唇を貪りつづけていると、時任は肩を掴んでいた手に力を入れて、ブクブクと俺を風呂の中に沈めた。 ホンキで風呂で溺死…、かも? キスの途中で空気を吸う余裕もなく、いきなり沈められて…、 自業自得な展開に、ぼんやりとそんな事を思う。 だけど、俺が溺死する前に、ふーっと勢い良く口から空気が入ってきた。 俺に空気を送り込んでいるのは、肺いっぱいに空気を吸い込んで沈んできた…、時任。俺は時任に手に沈められながら、時任の口から空気を吸い込む。 そんな事を二回ほど繰り返すと、時任は肩を押さえつけてきた手を離して、じっと俺の目を見つめてきた。 ・・・・自力で上がって来い。 ただ、綺麗なだけじゃない瞳は、そう言っている。 さっきまでは綺麗すぎると…、そう思っていたけれど、ユラユラと揺れ動く水中で見た時任の瞳の中には色んなモノが映って見えた。 時任が記憶を失くしてからのコトは、俺も良く知ってる。時任の見つめてきた現実が美しくないばかりか…、温かくも優しくもなかったコトを知っている。 けれど、時任は逃げなかった。 現実からも、獣化した右手からも…。 いつも目をそらそずに現実を見つめ続け、その瞳に映し続けて…、 俺が血の海に沈んでも、たぶん目をそらさない…。 絶対に逃げない…。 そこまで考えてからやっと…、沈む夢を見た自分の状態を理解した俺は、自力で風呂の中から急浮上する。そして、濡れた髪を掻きあげながら、いつの間にか湯の中を漂っていたタオルを頭に乗せて、ふーっと息をついた。 「目を閉じてたのは、俺の方だったみたいね…」 軽く伸びをしながら、俺がそう言う。 すると、時任がタオルを乗せた俺の頭を、軽くベシベシと叩く。 そして、やっと目ぇ覚めたか?…と言って笑った。 「どんなに海が深くなっても…、まだ俺らは溺れるワケにはいかねぇからな。溺れた時にはワラでも掴めよ」 「うん、まぁ…、ワラ掴むくらいなら溺れないし、自力で泳ぐけど」 「なーんて言ってて、風呂で溺れかけたクセに」 「もう溺れないよ。水の中では、ね?」 「って、水以外でドコで溺れるってんだよ」 「さぁ…? どこでだろうねぇ?」 空と海の間に境界線を引いて、お前のためだなんて逃げ口上は、口が裂けても言いたくないし、きっと言わせてもらえない。 もしも、そんな口上を口にしたら、沈むのは後悔の海だから…。 たとえ、どんなに海が深くなっても、そんな海にだけは沈めない。 さすがにのぼせそうになって浴槽から出た俺を見て、今更のように真っ赤になった時任を眺めながら…、あぁ、あの赤い海には沈まなかったけど、やっぱり俺が死んだとしたら死因は溺死かもしれないと思った。 「・・・・もっかい、キスしていい?」 「だ、だからっ、アレは人工呼吸だってのっ。なんか酸素足りなそーなカオしてたから、と、トクベツに…っ」 「じゃ、ソレでいいから、もっかいしていい?」 「…って、もう酸素足りてるしっ」 「なら、もっかい溺れるから…、一緒に溺れてくれない?」 「お、溺れるって、風呂で?」 「いんや・・・、キスの海で…」 深い海じゃなくて、キスの海に溺れる俺達は…、 きっと、誰よりも罪深いんだろう。 血と硝煙の匂いを浴槽で洗い流しても、俺の足元には赤い海。だから、俺はせめて今だけはと…願いながら、時任の綺麗な瞳を右手で覆い隠した。 |