・・・・・・・・チューリップだ。 俺がそう思ったのは、部屋に戻るためにマンションの玄関に入った時…、 足元に落ちてた赤いチューリップを見た瞬間だった。 落ちてたチューリップは一本だけ…。 なんで、こんなトコにチューリップなんか落ちてんだ…? とか思ってると、後から玄関に入ってきたヤツの足がチューリップを踏みかける。だから、俺はあわてて手を伸ばして床に落ちてたチューリップを拾い上げた。 すると、入ってきたヤツが少しバランスを崩しながら立ち止まる。 そして、バランスを崩す原因を作った俺の方をジロリと睨んだ。 「なんだよ…っ」 「チューリップ」 「はぁ?」 「チューリップが落ちてて、アンタが踏もうとしたから拾っただけだ」 俺が手を伸ばした理由を言うと、入ってきたヤツは俺とチューリップを見比べてバカにしたように鼻で笑う。そして、俺の手からチューリップを奪い取ると近くのゴミ箱の中にそれを捨てた。 「なにすんだよっ、てめぇっ!」 「こんなのどうせすぐに枯れちまうし、どうせゴミ箱行きだろ」 「今は枯れてない」 「だったら、落とし物でーすとかって管理人室にでも持ってけば? どっちにしても、結果は同じだろうけどな」 「・・・・・・・」 「じゃあな…」 確かに急に手ぇ出したのは悪かったけど、チューリップ捨てられた上にあんな事言われなきゃねんねぇんだっ。 くそぉーっ、むーかーつーく〜〜っ!! けど、わざわざ追いかけてくほどのコトじゃねぇか…。 マンションでのトラブルは厳禁って、久保ちゃんにも言われてるしな…。 俺はそんな風にココロん中でブツブツ言いながら、ゴミ箱からアイツに捨てられた赤いチューリップを拾った。落ちてたチューリップはまだ花がそんなに開いてなかったけど、茎が少ししなっとなってて手で持つと花が下を向く…。 だから、花を横にして片手じゃなくて両手で持ってエレベータに乗った。 「まだ、水やれば大丈夫に決まってんだろ」 俺はそう思ったけど、部屋に帰ってコップに水を入れて差してもチューリップは下を向いたまま…。コップをメシとか食ってるテーブルの上に置いてイスに座ると、両ひじを突いてそれをじーっと眺めた。 まだ花はしおれてないのに、うつむいてるとしょんぼり落ち込んでるように見える。 誰かの手からすべり落ちて床に転がって、踏まれかけて落ち込んだチューリップはコップの水を吸ってないみたいで、ずっと見てても少しも元気にならなかった。 「水飲まなきゃ元気になれねぇぞ?」 伸ばした指でちょっとだけ、うつむいたチューリップをつつく。 そして俺も腕を伸ばして、突いてた肘も伸ばしてテーブルの上に突っ伏した。 べつにチューリップみたいにうつむかなきゃならないコトも、しょんぼりしなきゃらないコトもねぇけど、部屋に一人でいるとやたら時間が長くてぼんやりする。ぼんやりして長い時間の分だけ…、長い息を吐く…。 そして吐いた分だけ息を吸い込むと、セッタの匂いがした。 「…ったく、マジで吸いすぎだっつーの」 タバコの煙は苦いしマズいし、カラダに悪りぃし嫌いだ。 けど、セッタの匂いは嫌いだけど…、好きだった…。 この部屋に来てから、この部屋にずっと居るようになってから…、 この部屋に住むようになってから、好きになったモノがたくさんある。 つらいコトとかかなしいコトとか…、そういうのが全然なかったワケじゃねぇけど、カラダに悪いセッタの匂いを空気と一緒に吸い込んでると…、 何もかもが少しずつ、ちょっとずつ優しくなってくみたいな気がした。 「俺って…、ココに来てどれくらいだったっけ…」 そう思って、テーブルに突っ伏したままでカレンダーを見る。 でも、ホントはまだ片手でたった二本の指で数えられるくらいの年しかいないのに、この匂いを吸いながら…、もうずっと…、 ずっとココで一人じゃなくて、二人で生きてきた気がした。 時間は長いようで短くて…、短いようで長くて不確かで…、 だから、時計の針とか日の昇った回数じゃなく、ココにいた時間が俺の中の時間で一番長ければいいって思う…。長くなればいいって…、想う…。 目の前のうつむいたままの、赤いチューリップの時間も同じように…、 うつむいた顔を上げていられる日が…、少しでもたくさんあるといいと思う。 せっかく綺麗に咲いてんだから、そうならいいと想う…。 けど、相変わらず少しも元気になった様子がなくて、俺がまたチューリップの花に指を伸ばしかけると玄関のチャイムが鳴って次にドアを開ける音が聞こえる。 それは誰かを確認するまでもなく、バイトから帰ってきた久保ちゃんだった。 「ただいま…」 「ん〜…」 久保ちゃんが帰って来ても、俺はテーブルに突っ伏したまま…。 すると、久保ちゃんはテーブルに突っ伏した俺とテーブルの上に置かれたチューリップを見ながら、着てた上着をソファーにかけてポケットから出したセッタをくわえて火をつける。そしてまだ何も言ってないのに、何も頼んでないのに…、 チューリップを持ってキッチンに行って、また元の位置に置いてイスに座ってる俺の横に立った。 「今、水切りしてきたから、これで少しは水吸って元気になると思うけど…」 「水切りって?」 「水の中で少し茎を切ると、水を吸わなかった植物が吸うようになる」 「ふーん…」 「で、どしたのコレ?」 「玄関で拾った…、踏まれそうだったから…。でも、拾ってもこのまま枯れちまいそうでさ、拾っても拾わなくてもどっちでも同じだった気がちょっとだけしてきて…」 「でも、違ったでしょ?」 「うん…、サンキューな」 俺がそう言うと久保ちゃんが、天井に向かって立ち昇っていく煙の向こう側で微笑む。その顔はいつもと同じに優しくて…、たまにちょっとだけ照れくさくて目をそらしちまうコトもあるけど…、 煙の向こうから俺を見る久保ちゃんは、いつもこんな風に微笑んでくれてる。 ああ…、だからなんだって…、 今更のようにセッタの匂いが嫌いなのに好きな理由がわかった気がして、まるで好きな気持ちをいっぱいにしていくように、部屋の空気の中に溶けていく煙を見つめながら、俺はさっきチューリップに伸ばしかけた手で久保ちゃんの腕を掴んで…、 掴まえた腕にコツンと軽く額をぶつけて…、そのままの姿勢で止まる…。 そしてうつむかずに立ってる久保ちゃんを見上げると、上からキスが降ってきた。 そのキスは雨みたいに激しくなくて、太陽みたいに熱くはなかったけど…、 両腕を伸ばして久保ちゃんを…、ココにある何もかもを…、 大好きな大切なものを…、ぎゅっと強く抱きしめたくなるようなそんなキスだった。 もしもチューリップがどこかの公園にでも咲いていたら、こんなカンジにキスみたいな雨に降られて太陽を見上げてたのかもしれない。けれど、数時間後には久保ちゃんが水切りしてくれたチューリップは、ちゃんと上を向いて咲いていて…、 俺はそんなチューリップを見つめながら、いつも久保ちゃんがしてくれてるみたいにチューリップに向かって微笑んだ。 たとえ、もう始まってしまったから、やがては何もかもが終っていくだけだとしても…、 俺が前を向いて上を向いて…、歩いて行けるように…、 赤いチューリップも…、上を向いて咲いていられるように…。 |