「うううっ…、マジでやばいかも…」

 朝起きてそう言いながらカガミにうつった自分のカオを見たら、開けてる口の中に立派な虫歯が見えた。
 昨日の夜くらいからすっげぇ歯が痛かったけど、やっぱ虫歯が原因らしい。
 すこし黒くなってる部分とか見てっと、ちゃんとそれなりに歯を磨いてんのになんでなるんだよって怒鳴りたくなった。けど、それをしないでいるのは…、虫歯だということがバレたら歯医者に強制的に連行されるからで…、
 ほっとけばひどくなるっつーのはわかってんだけど、この前、歯医者に行った時のことを想像するだけで行くのがイヤになった。

 「じっとカガミ見つめて、なにやってんの?」
 「な、なにって…、べつになんでもねぇよっ。ただ、今日も俺様が超絶美少年だってのを確認しただけだっつーのっ」
 「口開けて?」
 「ア、アイドルは歯が命だからに決まってんだろっ」
 「この前まで、カオって言ってなかったっけ?」
 「うっせぇっ、カオでも歯でも同じだってのっ」
 「同じ、ねぇ?」
 「そんなトコで突っ立ってっとジャマだろっ。さっさと久保ちゃんも歯みがけよっ」
 「はいはい」
 
  
 朝、歯を磨こうとしたら、時任がカガミの前でじーっと自分のカオを眺めてた。
 なにやってんのかなぁって思ってたら、どうやら口を開けているところを見ると、見てるのはカオじゃなくて歯だったらしい。
 痛そうにカオをしかめている時任の横でハブラシに歯磨き粉をつけてると、昨日の夜、時任が眠りながらうなっていたのを思い出した。
 なにか怖い夢でも見てるのかと思ってたけど、ホントは虫歯の痛さにうなされてたみたいで…、
 それを考えると、今日中に歯医者に連れてった方が良さそうだった。
 けど、時任は歯医者が嫌いだから、痛くて眠れないくらいのレベルにならないといつも行こうとはしない。
 だから、今日中に連れていくのは至難のワザってヤツだった。

 「ねぇ、時任」
 「なに?」
 「今日、さんぽにでも行かない?」
 「さんぽって…、なんだよ急にっ」
 「ん〜、なんとなくね。べつにイヤならいいけど?」
 「べ、べつにイヤってワケじゃ…」
 「なら、今日はさんぽの日だからってコトで」
 「そんな日があんのかよ?」
 「さぁ?」

 久保ちゃんはさんぽの日だから散歩に行こうってそう言うと、さっきまで俺がしてたみたいにハブラシで歯を磨き始めた。
 けど、散歩の日ってのがあるとしたら、どう考えても三月にある気がする。
 七月にあるのは七夕とか、海の日とか…、そんなカンジだったし…、
 だからって、どこかにでかけようってワケでもないし…、
 なのに、なんでもない日が久保ちゃんのせいで、突然さんぽの日になった。
 さんぽって言ったって、どうせコンビニまでとかそんな感じだろうなぁって思ってたけど、ハミガキが終わって二人でマンションから出たら…、
 久保ちゃんはコンビニの前を素通りして歩き出した。

 「ドコ行くんだよっ」
 「さんぽ」
 「…って、答えになってねぇじゃんっ」
 「そんなことないと思うケド?」
 「どこが?」
 「さんぽって目的地がないから、さんぽって言うんじゃなかったっけ?」
 「そんなん知るかっ」
 「目的地がないからって、歩けないワケじゃないしね?」
 「じゃあさ…、どこまで行んだよ?」

 「時任が行きたい場所まで、どこまででも…」

 マンションから出てきたのは…、歯医者に連れていくためだった。
 これ以上、ひどくならない内に治さないと、今度はうなされるだけじゃなくて…、寝不足になりそうだったから…。
 けど、さんぽだってウソついて歩き始めると…、これがホントのさんぽだったらって気がした。二人で行く先もわからずに歩いてるアスファルトの道が…、あまりにもまっすぐだったから…。
 でも、それはたぶん時任が楽しそうに笑っててくれて…、目的地なんかなくても一緒に歩いてくれているからなのかもしれない。
 
 同じ早さで歩いて…、時々、顔を見合わせて笑いながら…。

 手をつないでなくても…、手をつなげる距離に時任の手があって…、
 少しだけ空いた二人の隙間を風が吹いたけど、その風は冷たくはない。
 今がもう夏に近いからというのもあるかもしれないけど、こんな風に二人で歩いていけるなら…、
 きっと冬でも凍えるような風が吹き抜けることはない気がした。
 二人でアスファルトの道を歩いて歩いて…、さんぽして…、
 そうしている内に、目の前に数ヶ月前に出来た新しい歯医者が見えてくる。
 すると…、時任は歯医者の手前でぴたりと足を止めた。

 「・・・へぇ、こんなトコにも歯医者があったんだ?」
 「うん…」
 「やっぱ…、知ってたんだな?」
 「・・・・ごめんね」
 「・・・・・」
 「時任?」

 「久保ちゃんのバーカ…」

 
 さんぽしようって久保ちゃんが言って…、二人でぶらぶらと歩いて…。
 そうしてたら…、なんとなくこんなのもたまにはいいかなぁって思った。
 けど、目の前に歯医者が見えた瞬間に、ホントはさんぽなんかじゃなかったってわかって…、
 久保ちゃんが俺のためを思って…、連れてきてくれたんだってのはわかってたけど、ちょっとだけ胸の中がチクッとした。
 こんなのは痛みにもならない痛みで、ほんのちょっとチクッとしただけだったけど…、さんぽじゃなかったって知ったら、その痛みが、ズキズキしてる歯よりも痛かった。
 久保ちゃんと一緒にアスファルトの道を歩いた距離だけ…、笑い合った数だけ…、

 なぜだかわからないけど…、痛かった。
 
 歯医者に行ったら歯が治るし、もう口を開けてカガミを見ないですむけど…、今はなんとなく行きたくない。
 歯医者の歯を削る音がキライだとか痛いとか…、イヤだとか…、
 いつもはそんなコトで行きたくなかったけど、今はこんな風に来るくらいなら…、ちゃんと虫歯だから行ってくるって言えば良かったって思った。
 俺が立ち止まったまま動かないでいると…、久保ちゃんは俺を追い抜いて前へと歩き出す。だからたぶん…、歯医者に行くんだろうなぁって思ってたけど…、
 久保ちゃんはなぜか、目的地だったはずの歯医者の前を通り過ぎた。

 「・・・・・・・歯医者に行かなくてもいいのかよ?」
 「今日はね」
 「…って、歯医者に行くためにココまで来たんだろ?」
 「ん〜、最初はそのつもりだったけど、今日はやめようかなぁって思って…」
 「やめるってなんでだよ?」
 「さんぽの途中だからじゃない?」
 「はぁ? さんぽの目的地は歯医者だったんだろ?」
 「最初はね」
 「…なら、いつもみたいに歯医者に行けって言えばいいじゃんかっ」
 「それはそうかもだけど…、たぶん…」
 「たぶん?」

 「この道がドコまで続いてるのか、歩いてみたくなったからかもね?」

 そう言って久保ちゃんが歩き始めたアスファルトの道は、少し先で曲がって道が見えなくなってる。たぶんそこから先もフツーの道が続いてんのかもしれないけど…、どこまで続いてるかなんてのはわからなかった。
 でも、それは誰もが同じで当たり前のことで…、だから知らなくて当然で…、
 なのに、久保ちゃんの手が俺の方に伸びてきたのを見たら…、
 どこまで続いてるかわからない道を歩いて…、歩いて…、

 どこまで続いてるのか…、歩いてみたい気がした。

 けど、そうする前にはすることがあったから…、伸びてきた久保ちゃんの手を取らずに歩き出す。
 そして…、歯医者のガラス張りの自動ドアを開けた。

 「俺が出てくるまで、そこでちゃんと待ってろよっ。先に行ったら、許さねぇかんなっ!」
 「うーん、ここで待ってるのはいいけど…、タバコ切れそうだから自販機探しに行っていい?」
 「・・・・・一歩も動くな」
 「一歩も?」
 「一歩もっ」
 「罰ゲームみたいだぁね」

 「みたいじゃなくてっ、罰ゲームだっつーのっ」

 
 さんぽのフリして歯医者に連れてきたことを怒ってたみたいだけど、時任は俺に罰ゲームを言い渡して自動ドアの中に入って行った。
 あんなにイヤがってたのに、自分から…。
 けど、いつも時任は行く前はイヤがるのに、歯医者の前まで来ると必ず一人で中に入っていく。こんな風に、俺を置き去りにして…、
 だから、俺にできることはいつも軽く背中を押すだけだった。

 ほんのちょっとの力を込めて…、前に向かって…、

 でも、背中を押しててもサヨナラって手を触れないから…、左手で背中を押しながら、右手で腕を引いて引き止めてるのかもしれない。
 手をつないでるフリして…、行く先のわからない道を二人でさんぽするみたいに歩きながら…。
 だからたぶん、ホントは走り出したい時任の足を、止めさせてるのは俺なのかもしれなかった。

 さんぽしようなんて…、ウソついて歯医者に連れてきたみたいに…。

 時任の入っていった自動ドアから目をそらして、ポケットから最後のセッタ一本を取り出して火をつけると、灰色の煙が上へ上へと立ちのぼる。
 すると、煙は空気に混じって途中で消えた。
 その様子をじっと見てると…、なぜか時任の声が聞こえてきた。

 「・・・・ちゃんっ、久保ちゃん! なにぼーっとしてんだよっ?!」
 「あれ、歯医者に行ったんじゃなかったっけ?」
 「行ったけど…、受け付けしてちょっとだけ戻ってきた」
 「ちゃんと罰ゲームしてるかどうか見るために?」
 「違うっ」
 「もしかして、一人じゃコワくなった?」
 「俺様が歯医者なんかこわがるワケねぇだろっ、一人でヘーキに決まってんだっつーのっ」
 「歯医者なんか、ねぇ?」
 「なんか文句あんのかよ?」
 「べつに?」

 少しむくれたカオしながら、時任はまた歯医者の自動ドアの前に立つ。
 だから、今度こそちゃんと歯医者に行くんだろうって思ってると…、
 時任はなぜか…、俺の方へ勢い良く振り返った。

 「久保ちゃんっ! パスっ!!」

 そう叫んで時任が投げてきたのは、冷たいポカリの缶で…、
 たぶん…、歯医者の中の自販機で売ってたものだった。
 缶をチャッチした手を少し後ろに流して勢いを殺して受け取ると、時任の後ろ姿が自動ドアの中に消えて行くのが見える。
 その後ろ姿を見ながら…、冷たいポカリの缶が太陽の光で熱くなる前に…、
 最後の一本のセッタがなくなる前に…、
 これからどこに行こうかって相談もしないで…、どこにでもあるフツーのアスファルト道の上で…、

 ・・・・・時任にキスしたいってそう思った。

                            『さんぽ』 2003.7.4更新

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