獣。




 本日は、天気予報通りに快晴。
 空は高く遠く、青くて、白い雲もわずかに浮かんでいるだけだった。
 そんな空の下を歩きながら、ふと足元を見ると、そこには影がある。
 ビル、家、道路標識、信号機、電柱、歩く人々…、
 この街にあるモノもヒトも、その存在を主張するかのように、青い空の下に影を落としていた。そして、その影の中の一つである自分の影に見つめ、次にくわえたセッタの煙の行く先を眺めた俺は、あぁ…と短く囁くように、ため息に似た声を立てる。
 すると、俺の影の下に転がったヒトが、目を見開いたまま、モノに変わった。

 「布団・・・、干してくれば良かった」

 こんな天気なら、きっと干した布団は良く乾いただろう。
 どれくらい干していないのか、思い出せない布団は寝心地が悪くなってきていた。
 そのせいか、俺が快晴の空を見て思うのは、そんなコト。
 けど、俺の影の下に転がったモノを見て思うコトは…、何も無い。
 こうなる前の一時的な高揚感は、確かに覚えてはいる。
 けど、その他には何も浮かびはしない。
 空に雲は浮かんでいても、俺の中には何も浮かばなかった。
 それを正常だとは思わないけど、事実だから仕方ない。
 きっと、こういうのをサイテイとかサイアクとか、ヒトデナシとか言うんだろう。
 いや、正確には、ただのヒトゴロシ…、か…。
 そんなコトをつらつらと考えてると、どこからか湧いて出た黒いスーツが慣れた手つきで手際良く、転がってたモノを片づけていく。そうして、それがまるで夢だったかのように、灰色のコンクリを濡らす赤い色の痕跡さえも、何も残さずに俺の前から消えるんだ。
 初めての時も、その次も、次も…、今と同じように…、
 まるで、この街の影のように俺の方に一度も視線を向けないまま、淡々と俺の作りだした惨状を、現実を夢にしてしまう。いつものようにテレビのニュースも、ラジオも新聞も聞くだけ見るだけムダだ。
 刑事ドラマみたいに最寄りの警察署に出向いて、右手と左手を前に差し出したとしても、どこからか連絡が入って来て無罪放免。日本の警察の優秀さを、これでもかって見せつけられるハメになる。
 ソレって、まるで犯罪者天国だけど、俺に罰が下らないってコトは神サマだっていないだろうから、天国だってありはしないのだと…、そう気付いたら、なぜか笑えてきた。

 ホント、今日は天気いーよねぇ。

 短く笑って、そう思いながら、ぼんやりと空を眺めて…、
 アクビが出てきたから、帰ってゲームでもしようかと腰を上げかけると、洗い流されて色の変わってたコンクリが乾いて元通りになっているのが目に入る。すると、とてもステキなタイミングで現われた小宮が、そんな俺を指差して大声を上げた。
 「あーっ、こんな所で何やってんスかっ!! 今日は支部長が来る日だから、あれほど、遅れずに事務所に顔出してくれって言ったのにっ!!」
 「うーん、そう言えば、そんなコトを聞いたような…、聞かなかったような?」
 「俺、昨日3回とかじゃなくて、5回も言ったスよっっ、5回も!!」
 「5回も言われたら、誤解しそう」
 「…ってっ、何どっかのオヤジみたいなコト言ってんスすかっ! もうっ、あ…っ、今からじゃ間に合わねぇかも…っ」
 「だったら、行くだけムダだけから、どーせなら他んトコ付き合ってよ。ちょーど、喉とか乾いてきたトコだし」

 「へ…って、ちょっ、待ってくださいよっ、久保田さーんっ!」

 一応、俺が出雲会年少組のリーダーで、小宮は副長。
 そういう立場もあってか、小宮はブツブツと言いながらも、俺の後ろに付いてくる。その姿はどこか子犬に似ていて、人の良い人懐っこそうな笑みは、こういう業界には似合わないと思えるようなものだった。
 だが、俺のしたコトを見て驚きはしたものの、凄いと尊敬の眼差しを向けてくる小宮は、確かにそっち側の人間なのだろう。おふくろサンの事があったとしても、もう後戻り出来る場所にはいない。
 そのせいか俺のするコトからも、俺からも目を逸らすコトはなかった。
 「布団は、やっぱ乾燥器よか天日だよねぇ」
 「まぁ、確かに俺もそう思うっスけど、今する話じゃないような…、はぁ…」
 「ん? どした? ため息なんてついたりして」
 「俺にため息つかせてんのは、久保田さんでしょうが…っ!!」
 「え、そうなの?」
 「遅刻どころか、コンビニって支部長に、なんて言ったら…っ!」
 「あ、この新発売の缶コーヒー、無糖なのに甘い」
 「なんでっ、なんでいっつもこーなるんっスかっっ!!」
 「さぁ? なんでだと思う?」
 そう言って首を傾げると小宮があーまったくもうっと頭を抱え、そんな小宮の横で俺は無糖なのに甘さのあるコーヒーを飲む。そして、布団じゃなくて毛布も干してくれば良かったと思いつつ、ぼんやりと自分を見る小宮の瞳を眺めて…、
 そうしている内に、なぜか、自分を映す小宮の瞳に少し違和感を覚えた。
 だが、その違和感が何なのかは、その時はわからなかった。感じた違和感に少し首を傾げて、やがて訪れる嗅ぎ慣れた匂いのする雨の日まで過ごした。
 小宮の話を聞き、聞いただけ話し…、
 ひざ枕の代わりに、痛覚の無さそうな男に銃弾を撃ち込んだ。
 あんな言葉を聞くコトに、なるとは知らずに…。

 『やっぱ、こんなトコにいちゃ・・・・・、久保田さんは今のままじゃ・・・・』

 小宮の言ってるコトも思ってるコトも、俺にはわからない。おふくろさんの話を聞いた時も、その時の小宮の気持ちも、俺にはわからなかった。
 言葉として意味は知っていても、ヒトの表情を読むコトを知識として覚えてはいても、俺の中でソレがカタチになるコトはない。カタチ作ろうとしても、無いモノは作れない。
 後悔も悲しみも、そこに潜む何かも、そんな痛みは何一つわからないと…、知らないと…。本当のコトを言ってやったら、こんな言葉を聞かずに、こんな風に真っ直ぐな瞳に見つめられながら、そこに映る自分を見つめるコトも、看取るコトもなかったのかもしれない。
 鮮やかに咲きながら、すぐに洗い流されて消えていく赤を見ずに済んだのかもしれない。その鮮やかな赤の手向けにと、12人に撃ち込んだ弾丸と拳は、ただのエゴで…、
 公園の土を黙々と掘り返し埋める…、そんな作業に似ていた。

 『こーゆーのってさあ、人間のエゴだよねえ』
 『エゴですねえ』

 ヒトと向かい合い、向かい合ったヒトを瞳に映し…、
 そして、同じように自分も、向かい合ったヒトの瞳に映る。
 それは、たぶん認識という行為で…、ソコに在る証明。
 頬をつねっても現実を認識できない俺が、唯一、現実を認識する方法。
 だけど、その認識は長続きしない。
 すぐに現実は曖昧になって、痛覚も味覚もすべての感覚が鈍くなってくる。新しい認識で、新しい味で刺激しておかないと、訪れる渇きと飢えに暴走する。
 それは、腹を空かせた獣の衝動に似ていた。

 「おいっ、てめぇ! 人にぶつかっといて、ナニしかとしてんだよっ!!」

 それから…、あの雨の日から、どれくらい経っただろう。その日に似た匂いのする雨の日は、なぜか地面は潤うのに、俺の渇きと飢えは酷くなる。
 バイトで出かけた帰りの駅のホームで、いつかどこかであったようなシュチュエーションに出くわした俺は、自分の唇に笑みが浮かぶのを感じた。
 獲物を見つけた獣の衝動、腹を満たしたいだけの欲求。
 壊して刻みつけるテリトリー…、存在の証の赤い色…。
 いつかの日の自分を思い出した所で、唇の笑みは深くなるダケ。
 殴りかかってきた男の腕を、俺は笑みを浮かべたまま捕らえひねり上げる。そして、いつものように一時的な高揚感を覚えながら、躊躇することなく腕を捕らえた手に力を込めようとした。
 ・・・・・・・力を込めたはずだった。
 だが、素早く横から伸びてきた手が、そんな俺の手を力強く掴み留め…、
 耳に聞きなれた声が、怒声が響いた。

 「さっきから、やめろっつってんのが聞こえねぇのかよっ! このバカっっ!!」

 鼓膜を震わせ、大きく耳に響いたのは、あの雨の日より後に拾った猫の声。いつかの日と同じシュチュエーションだったのに、その猫の乱入で状況が変わってしまった。
 獣の右手じゃなく、人間の左手だから、振り払うのは簡単。
 だけど、俺はその手を振り払えないでいる。
 でも、それは掴まれてるからじゃない。
 自分を見る猫の表情を、その瞳を見てしまったからだ。
 どちらも俺は俺でしかないのに俺を見る猫の瞳には、子犬の…、小宮の瞳に感じたような違和感はなかった。そんな猫の瞳をのぞき込みむようにして見つめると、そこに映り込んだ俺はただひたすらに、どうしようもなく醜く愚かだった。
 そんな自分を映す瞳を見つめていると、自然に全身から力が抜けてくる。
 それはたぶん言葉にするなら、安堵に似ていた。
 怒りに満ちた猫の瞳に、瞳の中に現実がある。
 夢でも幻でもない、ソコに存在している姿がある。
 サイテイでサイアクで、ヒトデナシで・・・、ヒトゴロシの姿が。
 それを映しながらも逸らされない真っ直ぐな目に、映し続ける澄んだ瞳の奥に、疑う事を許さない確かな存在があった。

 「やっぱ…、お前ってスゴイわ」

 俺が思ったままを口にすると、ったりめぇだと自信満々ならしい口調で言われ、何やってんだとパシッと軽く頭を叩かれる。すると、その隙に俺に腕を折られかけたヤツは、悲鳴を上げながら逃げだした。
 けど、後を追う気は無いし、そんな必要も無い。
 バカ野郎と鋭く睨みつけてくる瞳の中に、自分を見つけた俺は、もっと、その瞳に映っていたくて猫の名前を呼んだ。
 「・・・・・時任」
 「何だよ…って、なんで頭叩かれて、笑ってんだよ」
 「笑ってる? 俺が?」
 「笑ってるっつーか、嬉しそうっていうかさ」
 「・・・・・そう」
 「なんか、良いコトでもあったのか?」
 「さぁ、わからないけど…」
 「けど?」

 「明日は晴れるよ…、きっとね」

 俺がそう言うと、時任はじーっと俺の顔を見た後で、そっか…と笑う。
 すると、今はまだ雨は止まず、雨の匂いがそこら中に漂ってるのに、獣の衝動が完全に消え失せてしまっているのを感じた。
 けれど、そうして初めて知ったのは、獣の衝動の奥に隠されていた…、雨の匂い。エゴで土をかけて埋めたはずの、過ぎ去りし日の記憶。
 自分に向けられた視線に、言葉に…、今になって初めて胸が軋む音を聞いた。
 そして、その音を聞きながら、あの日と同じように耳に残る声にうなづく。
 何度も何度も・・・・、うなづいて・・・・・、
 二人で暮らす部屋に帰るために歩き始めた時任に、隣のあたたかな気配に、その瞳に映る確かな今に、あの日から降り続いていた…、
 降ってるコトすら、気付かないでいた雨が止んだ。
 「…で、今日は留守番してるはずのお前が、ココにいるのはなんで?」
 「なんでって、そんなの雨が降ってるからに決まってんだろ。出かける時、カサ持ってなかったの見てたし」
 「けど、帰る時間なんて言ってたっけ?」
 「聞いてねぇけど、そろそろかなぁってさ」
 「さすが時任クン、良いカンしてるね」
 「だろ? それにカンなんかに頼らなくても、久保ちゃんのコトなら何でもお見通しだっての」
 そんな時任の言葉に笑みを浮かべたままでうなづき、雨が止んだ空には青空が広がる…、はずだった。晴れやかに雲の一片すらなく、俺らの上にはそんな空があるはずだった。
 けれど、すでにとっくの昔に、俺は後戻りの出来ない場所に居て…、
 そんな俺の隣を歩く時任の右手には…、痛みが住みついていた…。
 そのせいか、隣にぬくもりを確かな今を感じれば感じるほど、知りたくなかった痛みがじわりと胸に湧いてくる。一度、湧き出てきた痛みは留まるコトを知らず、やがて、その痛みがどんなカタチになるのかさえも…、今の俺にはまだわからなかった。
 でも、どんなに晴れ渡っても空に虹がかかっても…、きっと、この痛みだけはもう止まらないのだろう…。
 そんな予言ではなく、現実を感じながら…、俺は未だ雨に煙る横浜の街を、隣を歩く時任以外のすべてを噛み殺すように睨みつけた。

 「・・・・・ゴメンね」

 後戻りせずに、前へ前へと水溜りを踏み越え歩み続けながら…、
 口にした謝罪の言葉は、誰に向けたものだったのか…、俺自身にもわからなかった。




                        戻    る


 2010.3.28