夜が明けるまで…。
「ゴホ…っ、ゴホゴホゴホ…っ!」
エアコンで温められた室内に響くのは、除夜の鐘ではなく咳をする音。
だが、それは別に急に始まった訳ではなく、昨日から続いていて、今日は同じく続いていた熱まで上がる始末。いつもなら、年の暮れらしく大掃除くらいはするのだが、それも出来ずに、時任はふくれっ面でベッドに寝ていた。
「う〜、くそ…っ。なんで、よりにもよって大晦日に悪化すんだよ」
今はもう夜なのだが、実は昼すぎくらいに目を覚ましてから、ずっとそんな事を繰り返しブツブツと呟いている。そして、そんな時任のすぐ近くでは、久保田がパソコンのキーボードを叩いていた。
カタカタ…、カタ…。
ゴホ…、ゴホゴホゴホ…。
部屋に響く二つの音の調子は不規則で合ってはいないが、時々、絶妙タイミングで重なり合う。それは久保田の指がキーボードを叩く回数が、時任の咳の回数と似たり寄ったりだからかもしれなかった。
一分間の咳の回数としては多いが、キーボードを叩く回数としては少ない。
何を打っているのか気になった時任は、ベッドから半身を起こして横からパソコンの画面を覗き込もうと試みたが…、すぐに伸びてきた手にベッドに押し戻されてしまった。
「なんだよ、ちょっとくらい良いだろ」
「とか言って、一時間前に同じコトして吐き気と目眩が…、なーんて言ってたのは誰だっけ?」
「・・・・・しんねぇよ」
「ヒマなのはわかるけど、おとなしく寝てなよ。そうしないと、ヒマなのも風邪も長引くだけだし?」
「そんなの言われなくても、わぁって…っ、ごほげほ…っ!」
「ホントにわかってるんだか、ねぇ?」
久保田にはそう言われてしまったが、別に暇を持て余してはいない。
咳は出るし、熱は上がるしで、苦しくて暇を感じるような余裕はなかった。
正直な所、このまま目を閉じて眠ってしまいたい。けれど、そうしないのは大晦日だというのにどこに出かけず…、かといってテレビを見るでもなく、パソコンを前に気まぐれにキーボードを叩く久保田が気になって仕方がないからだ。
何かする事があるならいいが、特にネットの海を泳がなくてはならない用事があるようには見えない。一時間前に見た時、開かれていたのは誰もが知っている大手のネットショップのページだった。
そして、今も似たような感じのページを開いているに違いない。
ぼんやりと画面を見つめる久保田は、珍しくタバコをくわえていなかった。
・・・・・ったく、気ぃ使いすぎだっての。
そんな時任の小さな呟きは、激しい咳と一緒に毛布に吸い込まれ…、
徐々に過ぎていく今年と、徐々に近づいてくる新年になぜか焦りを感じる。
焦って別にどうでも良い事が気になり、熱に犯された頭がグルグルとどうでも良いことばかりを考え始めた。
今年は大掃除をしなかったとか、おかゆしか食べられなくて年越し蕎麦を食べてないとか…。そして、それに付き合ってなのかどうなのか久保田まで蕎麦じゃなくて、おかゆを食べてたとか…、そーいや去年行かなかったけど、今年の初詣はどうするつもりだったんだろうとか…。
取り止めもなく考えて、今度は激しい咳と一緒にため息が毛布に吸い込まれた。
「ちっとも、大晦日らしくねぇじゃん…」
今度は咳混じりではなく、ハッキリとした声でそう言ってみる。
すると、カタカタとキーボードを打っていた音がピタリと止まり、次に座っていたイスから立ち上がる音がした。だから、部屋を出てどこかへ行くのかと思ったが、ただ座る場所をイスから時任の寝ているベッドに変更しただけ。
キシっと音を立ててベッドの端に座った久保田は、時任の額へと手を伸ばし、貼られている冷えピタの温度を確かめるように触れる。そして、その手で乱れた時任の髪をよしよしと声に出して言いながら撫でた。
「ガキ扱いしてんじゃ…っ、ゴホ…っ!」
「ガキ扱いじゃなくて撫でたら気持ち良さそうだから、撫でてみただけ」
「なんだよ、その理由っ」
「いけない?」
「い、いけなくはねぇけど…、ヘンだろ」
「そう?」
「撫でたいなら、自分のアタマでも撫でてろよ」
「けど、その方がヘンかも?」
「・・・・確かに」
「デショ?」
顔を見合わせて笑うとまた咳が出て、口元を押さえると頭を撫でていた手が背中をさする。平気だ、大丈夫だと咳の合間に言ったが、久保田は無言で咳が収まるまで背中をさすっていた。
少し前に出たため息は、笑った事で消えたが…、
背中をさする手に、また新しいため息をつきそうになる。
けど、背中をさする久保田が悪いのではなく、こんな日に寝込んでいる自分が悪い。それがわかっていながらも、毛布に隠した顔に憂鬱な表情が浮かぶのを止められない。
時任は毛布で顔を隠したままで、声だけは明るい調子になるように努めながら、久保田に部屋から出て行くように言った。
「ちゃんとおとなしく寝てっから、久保ちゃんは初詣とかどっか行って来いよ。みやげはなんか屋台とかの食いモンでいいからさ」
「…って、なんで突然? 去年も初詣行かなかったのに?」
「ん〜、なんつーか気分。だから、ゴホゴホ…っ、俺の代わりに初詣行って来い」
「一人で?」
「葛西のおっさんとかいるだろ」
「葛西さんと二人で初詣…、想像すると寒くない?」
「そのセリフ、甥としてどうなんだよ。つか、おっさん泣くぞ」
「・・・・なんて言われると、なんか俺が泣きそう」
「はぁ? な、なんでっ!?」
「なんとなく?」
「だぁー、もう…っ、ごほごほ…っ!」
「あー、ほらほら、おとなしく寝てないと」
そう言われても、こうやって大晦日だというのにベッドの中にいると…、
そんな自分に付き合っている久保田を見てると、ため息ばかりが出てくる。
二人でいる事が嫌な訳じゃないのに、さっきから憂鬱で仕方がなかった。
これも風邪で具合が悪いせいだと、そう言ってしまえば、それまで…、
けれど、もうじき一年が過ぎ去り終わってしまうかと思うと、なぜか落ち着かない。憂鬱で落ち着かなくて、なぜか久保田に初詣を勧めたりしてチラリと時計に目をやる。
すると、頂点で近づき重なろうとしている2本の針が見えた。
「そんなに気になる?」
時計の針を見つめていると、上から視線と一緒にそんな声が降ってくる。だから、時任が時計から声のした方へ視線を向けると、珍しく眼鏡越しではない久保田の黒い瞳が、時任をじっと静かに見つめていた。
「さっきから、何気にしてるのか知らないけど…ね。 ホンキで俺を部屋から追い出したいなんて思ってるなら、ホントに泣いちゃうかもよ?」
冗談とも本気ともつかない口調で、久保田がそう言う。
けれど、まるで夜の海のように静かな黒い瞳に見つめられていると、同じ調子で返事を返す気分にはなれなかった。
深い深い海のような暗がりの瞳の中に居るのは、見つめられている自分。捕らえられて吸い込まれるように見つめ返すと、伸びてきた両手が時任の頬を優しく包み込んだ。
「たぶん今頃、横浜港では泊まっている船が、いっせいに除夜の汽笛を鳴らしてる。毎年、そうやってカウントダウンして年越しだって…」
時任を瞳に映しながら、なぜ、久保田が急にそんな事を言い出したのかわからない。けれど、深く暗い海のような瞳を見つめていると、聞こえないはずの汽笛がどこからか聞こえてくる気がして…、わずかに目を細め耳を澄ます…。
すると、澄ませた耳に包み込んだ手のひらのように、優しい声が聞こえてきた。
「もしもの話だけど、今と逆の立場だったら初詣に行く?」
「逆の立場って?」
「風邪で寝込んだのが、お前じゃなくて俺だったらって話。一人で…、葛西さんと一緒でもいいけど、初詣に行ったりする?」
「そ、それは…、たぶん行かねぇけど…」
「なんで?」
「寝込んでんの置いていけねぇっていうか、俺だけ行っても楽しくねぇっていうか…。あー、う〜…、そうじゃなくて年越しならベツに神社じゃなくて、ウチで十分っていうか…さ」
「俺には初詣に行けなんて、言ってたクセに?」
「う・・・っ、ゴホゴホ…っ」
「うん、だからね。神社だろうと港だろうと、ウチだろうとどこだろうと年越しも年明けも、お前が居るならソレで十分…って、俺も思ったんだけど…」
「・・・・・・・・・・っ」
「それでも、まだ初詣に行けなんて言うつもりある?」
そんなのある訳ない…、と言いかけたが、口から出たのは言葉ではなく咳だけ。
時任は近くにいる久保田にうつさない様にと、慌てて右手で口元を押さえる。
さっきまでの憂鬱さや落ち着かない気分が、久保田と話している内に消えてなくなりかけても…、引いてしまった風邪はそう簡単に治ってはくれなかった。
激しく咳き込み、左手で胸を押さえると頬を包み込んでいた手が、また背中をさする。時任は生理的な涙を瞳に浮かべながら、情けねー…っと心の中で呟いたが、今度はため息をつきたくはならなかった。
どこだろうと…、二人で居るなら十分だと…、
そう言った久保田の言葉が見つめ合った瞳が、まるで糸のように二人の間を繋いでいるのを感じる。だからもう…、自分を気づかう久保田を見て、落ち着かない気持ちになったりはしない…。
そうしたら、後は伸ばされた手を受け入れて、自分からも手を伸ばすだけで…、
背中をさすってもらって、ようやく咳が止まると時任はさっき久保田がしていたように、両手を伸ばして久保田の頬に優しく触れる。すると、久保田は頬に触れた手の上に…、右手の上だけに自分の手を重ね、深く暗い海のような瞳を閉じた。
「今年はウチで…。でも再来年は…、もう来年になっちゃったかもしれないけど、一緒に汽笛を聞きに行くのも悪くないかもね?」
今年でもなく、来年でもなく再来年。
さっきまで大晦日で、今、新しい年が明けようとしている時に、そんな話をするなんて予想もしていなくて、時任は驚いたようにわずかに目を見張る。
明けた年におめでとうを言う前に、次の年の話なんて…、
まるで、約束でもするように、そんな事を言うなんて久保田らしくない。
けれど、優しい言葉の裏に潜む暗がりが、右手だけに手を重ねる仕草が、その言葉を見事に裏切っているのを感じて…、やっぱり久保田らしいと思い直した。
いつも何も言わないクセに…、何も聞かないクセに知っている…。
だから、そんな事を言いたくなったのか、それともただの気まぐれなのか…、
どちらにしろ、久保田が口にしたのは約束じゃなかった。
だから、目を閉じて時任を見ない。
その事に気づいた時任は、瞳を閉じたまま開かない久保田の顔を見つめた。
眼鏡のフレームがかかっていないせいで、今なら手を伸ばせば閉じられた目蓋にも簡単に触れられる。何も邪魔するものはない。
けれど、眼鏡を外した久保田の視界は狭く…、ぼやけていて…、
今くらい近づかなければ、時任の顔も見えないと聞いた事があった。
なのに、唯一はっきり見える時任の顔さえも、見ないで目を閉じて…、
そんな久保田を見つめていた時任は、右手ではなく左手の人差し指を親指で弾いて、久保田の額をピシッと軽く叩いた。
「どーせ再来年の話するなら、鬼じゃなくて神サマが笑うくらいの調子で言えよ。そんでもって、景気良く腹から笑った後で、明けましておめでとうだっ」
そう言って時任が笑うと、久保田が驚いたようにパチリと目を開く。そして、今、目が覚めたみたいな顔をして小さく笑った後、明けましておめでとうと新年の挨拶を返しながら、いつもよりもスムーズに唇を寄せてきた。
それは眼鏡がないせいだと気づいた時には、すでにキスされていて…、
時任は唇が離れると同時に、さっきとは違う理由で口を抑える。
そうしながら上がっていく熱は風邪ではなく、もっと別の理由から…。
赤くなった顔を毛布の中に埋めると、屈み込んできた久保田の額がベッドに寝ている時任の肩口に押し付けられた。
「・・・・うつっつたりしたら、どーすんだ、バカっ」
「うん、だから軽く…ね?」
「軽くても、うつる時はうつんだよっ」
「じゃ、いっそ深く…」
「すんな…、ゴホゴホ…っ」
そんな会話をしている間、久保田は額を押し付けたまま離れない。
セッタも吸わず、この部屋にいて…、ずっと時任の傍を離れようとはしない…。
今更のようにその事実を思い返し、思っているよりもずっと心配をかけてる事に気づいた時任は、手を伸ばして久保田の後ろ頭を撫でた。
「こんなカゼ、一晩寝たら良くなるに決まってんだろ」
「・・・・・・うん」
「だから、日が昇るまで、このまま眠って・・・・」
「なら、日が昇るまで、日が昇ってからもココにいるから…」
「久保ちゃんも、ちゃんと寝ろよ」
「うん…、おやすみ…」
久保田の頭を撫でていると、なぜかすごく眠くなってきて…、
まるで、海に沈むように眠りの海に沈み込みながら、やがて来る朝を思い目を細める。すると、暗く深い海から打ち寄せてくる波の音が聞こえてくるような気がしたけれど、それを打ち消すように…、伸びてきた手が頬を優しく撫でた。
暗く深い海はたぶん…、きっといつも目の前にあって…、
時任の前にも久保田の前にも、深く暗く沈んでいて無くなる事はない。
けれど、お互いに伸ばした手が、きっと沈むことを許さないから安心して目を閉じる事ができる。だから、次に瞳を開く時まで…、もしも開いた瞬間に久保田が目を閉じていたらキスしてやろうと思いながら…、
時任は照れ隠しのようにぎゅっと瞳を閉じると、つかの間の眠りの海の中に沈み込んだ。
い、今頃、年末年始してます…(/_<)
しかも、実際に熱を出したのは時任ではなく、私ですっ。
すいませんっっε=ε=ε= 。・゜(゜ノT-T)ノ
こんなな私ですが、本年もよろしくお願いいたしますですっ。
m(。_。;))m ペコペコ…
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