『こちらは第三新東京市選挙管理委員会です』
「まったく誰よ〜、朝っぱらから。うるさいわねー」
昨晩も残業で、帰宅が午前様のミサトは気持ちよく寝ていたところを邪魔され、怒鳴った。
『6月25日、日曜日は第三新東京市市長選挙の投票日です。投票時間は午前7時から午後8時までです。必ず投票しましょう』
拡声器から発せられたとおぼしき声が辺りに響きわたる。
「……そっか。選挙か」
選挙
ミサトが右手で頭、左手でお腹を掻きながらキッチンに現れると、既に登校の支度を終えたシンジが立っていた。
「おはようございます、ミサトさん。今日は随分早いんですね」
これは別に嫌みでもなんでもない。
普段のミサトの帰宅時間を知るシンジとしては、正直に感想を述べたまでだ。
実際ミサトの生活は、シンジ達が登校した後に目覚め、葛城家の家事全般を取り仕切っているシンジが、ミサトのために作っておいた朝食を暖めて食べ、昼食の時間の前には勤務に就いている、というパターンが多かった。
さらに使徒襲来以降は、夜中でも携帯で呼び出され勤務に就くことが珍しくない。
この様な生活を――検閲により削除――年繰り返してきたミサトが、何故今のようなプロポーションを保っていられるのか、ネルフの女性職員の間では、リツコの金髪と並んで最大の謎とされている。
「朝食、暖めますか?」
今にも出かけようとしていたシンジだが、再びエプロンを着けようとする。
「ああ、いいの、いいの。そのくらい私がやるわ」
右手を軽く振って、シンジに学校に行くよう促す。
それでも、すぐに出来ますから、と言ってやろうとしたシンジだが、同じく葛城家の同居人とされているお姫様の闖入によってそれは妨げられた。
「一体何やってるのよ、シンジ。遅れるわよ。……って、ああミサト、起きてたの? 珍しいわね」
さも邪魔、と言わんばかりのアスカの様子に、ちょっとばかりカチンときたミサトは、いつもの調子で軽口を叩く。
「ホントごめんなさいね〜、アスカ。私ごとき者のために愛しの旦那様の手を煩わせちゃって」
もちろんミサトの顔には、にま〜とした怪しい笑みが浮かんでいる。
「なっ……」
「ミサトさ〜ん」
顔を真っ赤に染めて、思わず口ごもってしまうアスカと、いつものことかと困った顔を浮かべるシンジ。
最近シンジはこの手の冗談に免疫が出来てきて、つまんないの、と内心思っているが、その分アスカが弱くなったらしく、ミサトは満足していた。
やっぱ、これがないと1日が始まらないわよね〜。
とは、ミサトが密かにリツコに語ったところだが、これをアスカが知ればただでは済むまい。
だが、今のところはその秘密は守られていた。
ん〜、おいしそうね。
シンジとアスカを見送った後、テーブルの上に並べられた朝食を見てミサトは一人呟く。
テーブルの上には、スクランブルエッグ、ほうれん草のお浸し、シジミのみそ汁、といった葛城家定番のメニューが並べられている。
シンジもミサトの家に来た頃は、レトルトものが多かったが、アスカが来てからはアスカがうるさいのでレパートリーも増え、腕も上達していた。
もちろんミサトの朝食がこれだけで済むはずがない。
ビールを3缶ほど開け、時計の針が10時を回った頃、ようやく食事が終わった。
「さ〜て、ぼちぼち仕事に行きますか」
「おはようございます」
「おはようございます。葛城三佐」
「おはよう」
自分の職場、ネルフ司令部に着いたミサトを部下達が迎える。
「ずいぶんと早いご出勤ね。葛城作戦部長」
部下ではない人もいたようだ。
「あら、リツコ」
ミサトの顔が青ざめる。
おかしいわね。今日は副司令と一緒に第二東京に出張のはずだったのに。
予想外の事態に思わず狼狽えたミサトだが、そこは長年の修行の賜物。
すぐに表情を取り繕う。
「ミサト、私や副司令がいないことをいいことに羽をのばそうと思っていたでしょ」
だが、リツコとてミサトとのつき合いは浅くない。
ミサトの考えくらいは読める。
「あら、分かっちゃった」
「バレバレよ。今日の出張は中止。上で行われている市長選挙で、現職が不利なの。MAGIの分析では今のところ6割の票を押さえているけど、予断を許さないわ」
リツコは途中、忌々しげに上を一瞥すると説明した。
「市長って、あの狸親爺?」
ミサトは何度か会ったことのある、60歳を過ぎ、髪が大分後退している市長の顔を思い浮かべ顔をしかめた。
この第三新東京市の市政の運営は、第七世代の有機コンピュータMAGIが事実上仕切っているのは最早公然の秘密となっているが、機械が人間社会を支配・統制するというのはよほど人々の嫌悪感を誘うらしく、建前からも、そして制度上も市長を筆頭とする行政組織及び市議会は存在していた。
もちろんその行政組織は、MAGIなしでは一日たりとも運営できないほど骨抜きにされていた。
だからMAGIの主席管理者を兼務しているリツコは、尊敬されていると同時に、あるいはそれ以上に恐れられ、一部の人間には嫌悪されている。
「そう、まさしく狸ね。利己的で、次の選挙と自分の健康と蓄財のことしか頭にないわ。でも、ネルフにとっては重要なの。いくらMAGIによる行政運営があっても、民主主義を標榜する以上は市長は必要なの。……飾りといえどもね」
「その飾りに、あの狸はうってつけ、という訳ね」
自分の席に腰を下ろしながらミサトは答えた。
そして、近くにあった椅子をリツコに勧める。
「そう。狸と言っても馬鹿ではないから、今のところ特に失政はないわ。まあ、MAGIによるサポートがある以上、誰がやっても変わりはないけれど」
ミサトの勧める椅子を、いいわ、と断り立ったまま答えた。
「誰がやっても変わらないなら、この際、別に替えたっていいんじゃない」
名案でしょ、と言わんばかりにミサトは提案する。
疲れたような顔を浮かべたリツコが、軽くため息を付いて答えようとする前に、気を利かせたオペレーターの一人がミサトとリツコにコーヒーを運んできた。
ミサトはありがとう、と声をかけ、リツコは無言のまま受け取り、それぞれ口を付ける。
「あなた、何も分かってないわね。マヤ、説明してあげて」
リツコに指名されたことが嬉しいらしく、マヤは明るい声で説明を始めた。
「はい。使徒による被害や、エヴァと使徒との戦闘、戦略自衛隊による迎撃によって生じた損害などは全てネルフによる負担によって補償されています。しかし、度重なる使徒の襲来によるシェルターへの避難や建物の損壊などによって、市民の間で市当局及びネルフに対する不満が高まっています」
「……で、そのネルフに対する不満が、今回の選挙で現職の市長に集中したという訳ね」
了解、というようにミサトは右手を軽く振る。
「そうです」
「なら、話は簡単でしょ。市長には責任をとって辞めてもらう。それで八方丸く収まるじゃない」
今度こそ名案、というようにリツコに向かって提案する。
「それで済むなら苦労はしないわ。使徒襲来時における市民の避難誘導はもちろん、報道管制にも警察や市当局の協力が必要なのよ」
そんなリツコの言葉の後で、マヤは少し俯きがちに付け加える。
「それに、市民からの苦情を押さえることもです。度重なる避難で市民の不満がたまっています。今のところ敵を倒すためにはやむを得ない、ということで市民に納得してもらっていますが。いつになったら終わるのか、といった苦情が噴出しています。……一部には第三新東京市にばかり使徒が来るのはネルフがおびき寄せている、といったデマもあるそうです」
ミサトはその件については承知していなかったらしく、そんなデマもあるの? とマヤに確認した。
「諜報部の方では、他にも二三同様の噂を確認しているそうです」
マヤは嫌悪感をにじませながら答えた。
デマか。……デマで済ませたいわね。
ミサトは両腕を軽くくみ、左手を軽く顎に当てた。
彼女が考え込む時によくするポーズだった。
だから、それを見るリツコの視線が冷ややかなものに変わっていることに気づかなかった。
むやみに広く、それでいながら調度品の少ないネルフ司令の部屋に4人の男女が集まっていた。
「……MAGIによる現況の分析は以上です」
リツコが現在までの票の動きを説明する。
@森岡 マサル 無所属 現 52%
A烏山 シンイチ 無所属 新 37%
B佐和 カオル 無所属 新 11%
予想投票率 62%
「これがMAGIの予想かね」
画面上に浮かんだ文字を確認し、冬月がリツコに尋ねる。
「そうです、本日の時点の予想です。ただ、情勢によっては投票率はもう少し上がるかもしれません」
手に持っていた資料をめくり、答えた。
「浮動票か。……碇、どうする?」
この部屋の中の唯一の調度、黒壇の机に腰を下ろしている男に声をかける。
「我々に残された時間は少ない。このようなことに関わっている暇はない」
ゲンドウは両手をくみ口元を隠して答えた。
黒い制服に身を包み、サングラスで表情も隠している。
「そうは言っても、現職が破れれば烏山が当選する。あの男はやっかいだぞ」
「ふん。たかが市長だ。何も出来んよ」
「しかし、奴は使徒が来る前から市議会でネルフの隠匿性を弾劾していたような男だ。使徒が来てからネルフ批判に回ったような奴とは違うぞ。市民の間でも人気がある」
「……それほど心配か」
ゲンドウはほんの少し、驚いたような表情を浮かべた。
「ああ、奴が市長になっては仕事がやりにくい」
「では、冬月。おまえに任せる」
これでこの話は終わりだ、と言わんばかりに立ち上がろうとしたゲンドウだが、不意に声を掛けられた。
「それなら、私にやらせてもらえませんかね」
これまで興味なさそうに黙って聞いていた4人目の男だ。
ネクタイをだらしなく緩め、無精ひげを伸ばしていた。
「加持君。君は特殊監察部だろう。この件は諜報部の仕事だと思うがね」
突然口を挟まれ、やや憮然とした顔で冬月は言った。
「なんせ、仕事がなくて暇なんですよ。ぜひやらせていただけませんか、碇司令」
そんな冬月を軽く無視し、なれなれしい態度でゲンドウの机に両手を付いて、ゲンドウを見すえる。
「……冬月に一任してある。冬月に聞きたまえ」
ゲンドウはしばらく何事か考えていたが、そう告げた。
それを聞いた加持はゲンドウの机にかけていた手を離し、冬月に向き直る。
碇め、面倒なことを押しつけおって。
そんな内心の考えは露とも浮かべず、冬月は言った。
「特殊監察部がそれほど暇とは思えんがね。まあいい。諜報部次長の高木君の元に担当班を置くが、君はそれとは別に単独行動してくれ」
「ありがとうございます。副司令」
加持は軽く一礼した。
「では、加持君。君の役割は決まった。早速行動にかかってくれ。経費については後で総務の方へ請求してくれればいい」
「分かりました。失礼します」
加持はゲンドウに対し軽く一礼し、部屋を出ていく。
そんな加持の背中に、冬月はふと思い出したように声を掛けた。
「ああ、そう言えば加持くん」
「……何でしょうか?」
ゆっくりと振り返った加持の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
それを見てとると、苦笑を浮かべながら冬月は続けた。
「領収書はいらんからな」
分かっています、と言うように右手を軽く挙げて、今度こそ加持は出ていった。
それを見届け、冬月が口を開く。
「あの男、いつまで泳がせておくつもりだ」
ゲンドウに詰め寄る。
「既に尻尾は押さえてある。問題ない」
動じた様子もなく答える。
「深謀遠慮も結構だが、足下を確認しておかんとつまらんことで躓くぞ」
冬月が既に数え切れないほど言っている類の忠告だった。
ゲンドウはそれには答えず、リツコに向かって言った。
「赤木君。MAGIによる情報操作、よろしく頼む」
「はい。わかりました」
何事か考えていた様子のリツコは、ハッとした顔を浮かべ答えた。
状況説明以降、技術部の担当外の仕事ということもあって、リツコは全く発言しなかった。
それに……本音を言えば、この手の仕事はあまり関わりたい仕事ではない。
この仕事、マヤには頼めないわね。
それを考えると、少し気が重くなった。
投票日を翌日に控えた土曜日は快晴だった。
このところ大陸性の移動性高気圧が広く日本列島を覆い、晴れの天気が続いている。
明日までは良い天気が続くらしく、天気予報のキャスターは、明日はよい選挙日和です、などと画面の中で言っていた。
ただし、選挙権のない子供達にとっては、単に天気の良い週末に過ぎない。
ここでも、そんな良い週末をいかに過ごすか悩んでいる子供達がいた。
「シンジ、今日は買い物につきあってよね」
「え〜、そんなこと急に言わないでよ。掃除や洗濯も終わってないのに」
ようやく脱水が終わった洗濯物第一陣をベランダに干しながらシンジは困ったように答えた。
この葛城家の女性二名は、家事一般があまり得手ではないらしく、掃除洗濯炊事はシンジが一手に担っている。
とあらば、この様な天気の良い週末は掃除洗濯を一挙に行える絶好の日である。
特に洗濯は、傷みの少ない陰干し向きの物が多いので、この様な日にまとめてやっておかねばならない。
しかしながら、そんな主夫の知恵を慮ってくれる様な相手ではなかった。
「全く爺くさいわね。そんなこと後ですればいいじゃない」
「せっかくいい天気なんだ。布団を干したり、洗濯したりしたいじゃないか」
「いい天気だから外出するのよ。第一、天気予報では明日も晴れるって言ってたわよ」
こうなってしまっては引くようなアスカではない。
過去の経験がそう告げているし、ここで再びそのことを確かめてみるつもりもなかった。
「仕方ないな。じゃあ行こうか」
結局アスカには逆らえない。
とりあえず脱水の終わった洗濯物だけを干すと、エプロンを外してアスカの所へ向かった。
玄関先で両手を組んで待っていたアスカは、シンジを格好を上から下まで一瞥するとシンジに告げた。
「あんた、その格好で行くつもり?」
シンジの格好はTシャツに半ズボンというごく普通の格好だ。
「えっ、まずいの」
「あったりまえでしょ。このアタシと出かけるのよ。もっとちゃんとした格好をしなさい!」
アスカは青系統のツーピースに白いベルトを締めている。
ただでさえ中学生離れした彼女がこの手の服を着ると、とても中学生には見えない美少女が出来上がる。
それを考えると、確かにシンジの格好はアスカの隣を随伴するものとしては物足りない。
何度も着せ替え人形のように服を取り替えさせた後、ようやくアスカも納得する格好になったらしく、まあまあね、と了解を貰った。
シンジにバックを持たせて表に出ると、夏の日差しが照りつけていた。
同じ頃、第二東京市内務省第四合同庁舎地下4階にある、国家公安委員会第二資料室では、一人の男が資料を探していた。
無精ひげをだらしなく生やした男……加持だった。
ゲンドウに一任され、冬月からは行動の自由を得た後、自分なりに最大のライバル候補――烏山 シンイチのことを調べてみた。
東大法学部卒で、弁護士上がりの45歳。
それなりに見栄えのするマスクと、爽やかな弁舌。
NGOにも参加しており、以前からネルフの情報公開を求めている。
まさしく理想的な、選挙民受けのする政治家だった。
だからこそ、逆にその点が加持の嗅覚を刺激した。
有り体に言えば、何故これほどの男が? ということになる。
ネルフは国庫から多額の資金を得ていながら、その使途を明確にしていない。
あまつさえ、その組織からは毎年のように『行方不明者』を輩出している。
統計上想定される人数の実に10倍以上の人数だ。
『労働災害』による死者の数も実に多い。
これは何を意味しているのか?
それは誰の目にも明らかだ!
……皆さんも覚えているだろう。
11年前、この地で何が起こったか。
一人の女性がこの世を去った。
彼女の名は、碇ユイ。
彼女は何故死んだのか?
何故死なねばならなかったのか?
それすら明らかにされていない!
なぜなら……その時、それを目撃していた男が一切を噤んでいるからだ!
その男の名は、碇ゲンドウ。
現在のネルフ司令である。
彼は、そしてネルフは我々の質問には一切答えず、警察の介入も拒否している。
我が愛する第三新東京市には、その様な組織は相応しくない。
……変革せねばならない。
烏山の演説は見事な物だった。
理を説き、情に訴え、組織のトップを攻撃する。
演説の常套手段だ。
駅前での演説とは言え、加持の予想より遙かに多くの市民が足を止め演説に聴き入っていた。
確かに風は彼に吹いていた。
誰もが漠然とした不安を抱えていた。
演説の終わりには、万雷の拍手に迎えられた烏山が壇上から降り、多くの市民と握手を交わしていた。
冬月さんが焦るはずだ。
加持はそんな想いとともに、一般には公開されていない資料を眺めていた。
烏山はその政治姿勢からも、また政策上も企業献金は受けていない……とされている。
事実政治資金規正法による届出では一切企業献金は受けていない。
だが加持の手元の資料では、巧に隠蔽されてはいるが、彼の個人献金のかなりの部分が日本重化学工業共同体の構成企業がその出所だった。
この資料がここにあるということは、内務省も関与しているということだろう。
だとすればネルフといえども、選挙期間中にはこの事実は掴めまい。
……さて、どうでますかな、碇司令。
加持は資料を棚に戻すと、煙草をくわえた。
「どうかね、高木君?」
疲労が蓄積し、やや憔悴した様子の冬月が声を掛ける。
「正直言って、良くありません」
同じく疲労を隠せぬ顔で、今回の担当者に据えられた高木が答える。
少し甘かったか。
責任者として、その様なことは決して言えないが、冬月は内心後悔しかけていた。
国際世論を操り、セカンドインパクトの事実を隠蔽し、多くの反対意見を押し切りネルフの創設に関わった者としては、『たかが市長選挙』と、甘く見ていたのは否定できない。
ゲンドウの前で言ったときも、ゲンドウがあまりにも甘く見ていたので、半ば以上引き締めるためのものだった。
ネルフによる組織票がある以上、最終的な勝利は疑いない。
そう確信していたのだが、その確信も揺らいでいた。
「副司令、休まれてはいかがですか?」
「ああ、赤木君か」
リツコはリーフケースを手に立っていた。
「で、MAGIの予想はどうかね?」
では、と手元の資料を見てリツコは説明する。
@森岡 マサル 無所属 現 47%
A烏山 シンイチ 無所属 新 43%
B佐和 カオル 無所属 新 10%
予想投票率 69%
「……なおこの予想は10%以上の誤差を含んでいますので、最終的な結果は不確定です」
リツコの説明を聞いた冬月は、しばらく考え込んだ後、そうか、と小さく呟いた。
時刻は既に午後8時を回り、公式な選挙運動は全て終了している。
地下にあるネルフ司令部からは分からないが、選挙カーの声も静まり、地上では久しぶりに静寂を取り戻しているはずだった。
「赤木君……」
「何でしょうか?」
冬月の声に通常とは異なるものを感じ取り、リツコは緊張した。
「烏山のスキャンダルでも、暴けんものかな?」
あまりにもさらりと言われたため、理解するのに時間がかかったが、理解した後リツコは目を見張った。
この様な非合法の活動も、今まで無かったわけではない。
事実、リツコも何度か関わってきた。
ただそれらのいずれもが、彼らの価値観、倫理観では正しいものであって、後悔はしていない。
だが、今回については同様であると言えるのか、リツコには確信が持てなかった。
「……冗談だ。忘れてくれ」
リツコの深刻な顔を見て取ったのだろう、冬月が少し戯けたように言った。
その場にいた誰もが冗談でないことは分かっていたが、冗談とすることにした。
「それに……」
冬月はその場の雰囲気を和ませるため、さらに言葉を続ける。
「ヘタにスキャンダルを探ると、森岡の方が先に見つかりそうだ」
「……そうですね」
下手な冗談だったが、何とか笑うことが出来た。
そして、必ず選挙に行くように、ネルフの全職員及び関係機関に伝えてくれ。
という冬月の指示でその場は散会した。
翌日は晴天だった。
『せめて雨にならんものかな』
という冬月の希望は、またも叶えられなかった。
各候補の選挙事務所の前には多くの報道機関と、それを遙かに上回る多くの支援者が集まっている。
首都でもない、単なる『一都市』の市長選挙としては異例なほどの報道機関が集まっていた。
全国ネットのTV局はもちろん、CNNの様な外国の報道機関の姿も散見される。
TVの中では烏山が爽やかにインタビューに答えていた。
『……ええ、もちろん自信はあります。
確かに最初は二期8年の実績を持つ森岡市長を相手に挑むのは無謀かとも思いましたが、予想を遙かに上回る多くの方々の支援を受けることが出来ました。
ご覧のとおり、私の事務所ではほとんどのスタッフがボランティアです。
学生さんから主婦の皆さん、上は80歳の方まで多くの人達の支援によって、今日ここまで来ることが出来ました。
これが本当の民主主義、市民による政治だと確信しました。
本日ここから、第三新東京市の新しい歴史が始まるものと思っています』
続いて現職の森岡陣営にカメラは切り替わる。
普段は恰幅の良い体を鷹揚に揺らし、外見上は頼りになる大物ぶりを発揮している森岡だが、さすがに落ち着かない様子がTVを通しても見て取れた。
選挙事務所もアルバイトを大量に雇ったのだろう、多くの若者が細々と動いていたが、先ほどの烏山陣営のような沸き上がるような熱気は感じられなかった。
次の画面に切り替わる前に、TVを消して冬月は考え込んだ。
そして手元の資料をめくってみる。
そこには諜報部に調べさせた報告書があった。
『第三新東京市市長選挙における資金の流動について』
……票集めのためにばらまかれた裏金の調査報告書だった。
あまり期待していなかったとは言え、こうも予想どおりの結果がでるとかえって笑いが出る。
前回の選挙の数倍の金をばらまいた森岡陣営に対し、烏山陣営は皆無だった。
幾つかあげられている烏山陣営の『裏金』と称するものも、ほとんどが誹謗中傷の類のもので、信頼が置けるものではない。
この様な状況で烏山の選挙違反を問うのは、自滅以外の何者でもなかった。
冬月は神の存在を信じてはいない。
また自分が今行っている行為が、神に願うものとして相応しいとも思っていない。
けれど、この様なときは何か祈る対象が欲しかった。
「そう言えば……」
青葉は隣を歩く日向に声をかけた。
「俺って、選挙なんて行くのこれが初めてだな」
「そうなのか?」
日向はちょっと驚いたように青葉を見返す。
くたびれたジーンズに皮のベストという青葉の格好は、確かに選挙向きの格好とは言えなかったが、選挙に行くのは当然、という意識を持っていた日向にとってはちょっとした驚きだった。
「僕は毎回行ってるけどなぁ」
日向の言葉は青葉にとっては当然だったらしく、偉いね、と少し茶化すように言っただけだった。
投票所に指定された公民館の前に来ると、数人の人が投票を終え出てくるところだった。
その中に見知った顔を見つけ、青葉は声をかける。
「マヤちゃんじゃないの。もう来てたんだ」
「ええ、そうなんですよ」
マヤは駆け寄ってきて答えた。
そのマヤの姿を見て、青葉は尋ねる。
「あれ、マヤちゃん制服だけど、これから仕事?」
青葉の問いに、良く聞いてくれました、とばかりマヤは答える。
「そうなんですよ。仕事が忙しいっていうのに、選挙に行ってこいだなんて酷いと思いません?」
マヤとしては純粋に仕事の方が大事、と思っているらしいがさすがに簡単に同意するのは躊躇われた。
青葉も日向もちょっと苦笑して答える。
「まあまあ、気分転換だと思って楽にしなよ」
「そうそう、いつも地下の穴蔵にこもってばかりじゃ、健康にも良くないよ」
「……そうですね、私ったら」
さすがにマヤも大人げないと思ったのだろう、恥ずかしそうに俯いた。
「ところでマヤちゃんは誰に投票したの?」
この日向の質問に対し、まずいぜそれは、とばかりに青葉は日向をつついたが、日向が撤回する前にマヤは答えた。
「私ですか? 本当なら烏山さんにしたかったんですけど、先輩が森岡さんに入れるように言っていましたので、森岡さんにしておきました」
「ああ、そうなんだ」
青葉は小声で答えると、周りを見渡す。
投票に来たと思われる数人の人達が歩いていたが、聞かれた様子はなかった。
また、小さな投票所だったのが幸いしたのだろう、最も恐れていたマスコミの姿は見られなかった。
「それじゃマヤちゃん、仕事頑張ってね」
「はい、青葉さんも日向さんも、お疲れさまです」
マヤは軽く一礼すると、駅に向かっていった。
その姿を見届けた後、日向は小声で青葉に伝えた。
「済まなかった」
「ま、いいって事よ。誰にも聞かれなかったしな」
青葉は日向の背中を叩くと、連れ添って投票所の中へ入っていった。
「ミサトさん、お風呂わきましたよ。入りますか?」
キッチンで夕食の準備をしていたシンジが声をかける。
「そお。それじゃ、先に入らせてもらうわね」
ソファーに寝そべってテレビを見ていたミサトが返事をした。
今日は久しぶりに取れた休暇だった。
使徒襲来以降、戦時体制に移行したネルフは土日も関係なく、24時間の警戒態勢に入っていた。
いつかこの様な日が来るものと覚悟はしていたが、想像以上に疲労は蓄積していた。
髪のセットもしとかなきゃいけないし、服も買いに行きたいしね〜、と昨日は今日の予定を考えていたのだが、見事に寝過ごし起きたのは午後3時を過ぎていた。
おかげで疲労は取れスッキリしたが、考えていた予定は全て予定に終わった。
まっ、しゃーないか、とため込んでおいたビデオや本で時間を潰し、夕食時に至った。
風呂にはいると、浴室はきれいに磨かれていた。
ミサトもアスカも風呂が好きで、おまけに長風呂である。
アスカは来日当初こそ、日本式の風呂に慣れず、愚痴をこぼしたが、いつの間にか慣れ、今ではミサト以上の風呂好きとなっている。
どちらも一番風呂が好きなので、争いになりそうなものだが、アスカは朝風呂に入ることが多いので、今のところ棲み分けができていた。
湯船につかると、ちょうど良い温度になっていた。
ミサトも湯船につかる風呂が好きなのだが、準備をするのが面倒なのでシンジがくる前はシャワーですますことも多かった。
シンジが来てからは毎日風呂が用意されているので、大いに感謝している。
ん〜〜、気持ちいいわね
湯船の中で身体を伸ばし――風呂だけはちょっと贅沢し、大きめのものを使っている――ゆっくりと身体を横たえる。
風呂は命の洗濯か。
かつて自分がシンジに言った台詞を思い出す。
確かに風呂の中ではゆっくり考え事が出来る。
今の、様々な業務に追われる日常の中では貴重な時間だった。
セカンド・インパクト
自分を救うために亡くなった父
ネルフ
使徒襲来
そして、エヴァンゲリオン
久しぶりに昔のことを考えた。
ネルフに入ってから、ひたすら駆け続けてきた、と思う。
だからたまに振り返って昔を思うと、いくつもの選択を経て、今の自分にたどり着いたことを自覚する。
決して後悔はしていないし、これからも今の生き方を変えるつもりはないが、あの時違う選択をしていたらどうなったかな? と想像を巡らせるのは、イヤなものではなかった。
「投票時間は夜8時までです。まだ投票に行っていない方は、是非投票してください」
遠くで拡声器の声が聞こえ、ふと我に返る。
いつの間にか随分と時間が経ってしまったらしい。
「せんたく、ね」
……まだ、間に合うか。
よし。
シンジが夕食の支度を終え、ミサトを呼びに行こうとしたとき、バスタオルを巻いただけの格好でちょうどミサトが出てきた。
初めのうちこそ照れていたシンジだが、さすがにもう慣れてしまった。
「あれ、ミサトさん。出ましたか?」
「ん〜、ちょっとね」
「夕食の準備が出来ましたけど、今から食べますか?」
「いいわ。ちょっと出かけてくるから」
「ただいま〜」
アスカもちょうど帰ってきたようだ。
ミサトの姿を見て声をかける。
「だらしのない格好ね。恥じらいというものがないの」
「アスカも似たようなものじゃない。それともなに、シンちゃんには私以外見てほしくない、ってことかな〜」
アスカは顔を赤くして、ウッとつまる。
ミサトの言うとおり、初めのうちはミサトのような格好でうろついていたが、さすがにやや恥ずかしくなって最近はパジャマ姿が多くなった。
そっとキッチンのシンジの顔を確かめてみると、シンジも頬を赤く染めていた。
何となく満足して、ミサトに逆襲する。
「シンジも一応男なんだから、ちょっとは気を付けなさいっていう意味よ!」
「照れない、照れない。それより、ちょっと出かけてくるから、シンちゃんと2人で先に食べててね」
「ちょっと、今から出かけるって、ネルフ?」
「そんなんじゃないってば」
「まさか、……加持さんのところじゃないでしょうね!?」
ミサトに詰め寄る。
「そんなんじゃないって。とにかく、着替えたらすぐ出かけるから」
ミサトは部屋に戻った。
アスカの顔はまだほんのりと赤い。
シンジは2人の会話に付いていけず、我関せず、と夕食の準備に集中していた。
そんなシンジにアスカは近寄っていった。
「ねえ、シンジ」
「なに、アスカ?」
「ミサトのところに電話はなかった?」
「なかったみたいだけど」
「変ね。どこに行くのかしら」
形の良い顎に軽く手をあて考え込む。
「アスカ、ミサトさんは大人なんだから、あまり詮索しない方がいいよ」
シンジの窘めるような口調に、ちょっと反発する。
「なによ、いい子ぶっちゃてさ〜」
「今日のおかずはアスカの好きなハンバーグを作ったから。もう少し待っててね」
「食べ物でごまかそうっていうの!」
怒ったような口振りだが、表情は結構満足そうだ。
「じゃ、シンちゃん、アスカ、行って来るわね。すぐに帰ってくるから、私の分も用意しておいてね」
ミサトが部屋から出てくる。
着替えたといっても、Tシャツに膝のところで切ったジーンズというラフな格好だ。
「分かりました」
「いったいどこへ行くのよ? ミサト」
「へへ〜、ないしょ。じゃ、行って来ます」
第三新東京市立第一中学校体育館。
午後7時30分を過ぎ、普段ならば部活動を終えた生徒達も帰って、暗やみに包まれる頃だが、今日は煌々と照明がつけられ、大人達が大勢たむろしていた。
「葛城 ミサトさんですか」
ミサトが選挙用紙を渡すと、名簿と比較しながら40歳前後の男が確認する。
ミサトが軽く頷いたのを認めると、男は別の紙を渡した。
「これが投票用紙です。そこの記入台で記入し、あちらの投票箱に入れて下さい」
三方が衝立に囲まれた、小さな記入台。
そこには三人の名前が張られていた。
ミサトはゆっくりと一人の名前を記入する。
おしまい
あとがき
時事ネタということで、「選挙」お送りしました。
ネルフオールスターキャストで展開、と思ったら、綾波を忘れていました。(爆)
……あぅぅ。
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