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ぽんぽこ山消防団 

ぽぽんたの震災記録 2
 震災から数日で友人と連絡がとれて、必要なものを聞いて神戸に入ることにしました。夜明け前からでかけて、いけるところまで電車で近づいてあとはひたすら歩くことにしました。
 洗った新鮮な生野菜と果物、生理用品、芯を抜いてぺたんこにしてできだけ沢山袋につめこんだトイレットペーパー、ゴミ袋、キャンプ用の蛇口がついている大きなポリタンク、ミネラルウォーターのボトルを山積でカートに積んで歩きました。
 路は倒壊した建物のガレキの山があったり、亀裂が盛り上がっていてとても車椅子などで動ける余地がありません。私は工業用のマスクをして入っていたのですが(木工や染色でつかっていたので常備していました)、空気がほこりっぽいだけではなく、建材などの危険なものもあると感じました。
 ビルの半分が崩れ落ちて、部屋のなかが丸見えになっていて、冷蔵庫やソファーが見えていたり、重い瓦屋根の家がそのままぺちゃんこにつぶれていたり、まだ暗いなかで実際に目にしている光景がどこか現実感のないものに感じていました。
 友人に持ってきたものを渡して、話しもそこそこに歩き続けました。
 友人とやっと連絡がついて、必要なものを聞きながら、紙の類などの備えをしていても、配管などが破壊されて漏水で使えなくなることもあることや、女性用品がまったく手に入らず、処理にも大変こまったということを知りました。
学校などの避難所でも、トイレは多くの人の使用で用をなさなくなり、障碍をもつ人用のトイレもなく、我慢するために水分や食事を取らずに身体を衰弱させてしまった方達も多くいたということを知りました。今の学校などの避難所になっている設備が、高齢者や障碍者にとってどれほどひどいものかということだと思います。
私もリハビリパンツや排泄用品を数日分抱えてあるくことは無理ですから、わずかでもそれらと排泄用品を入れる消臭の袋などをセットにしてまとめてバックにいれてあります。
 真冬の体育館の床がどれほど冷えるかは、学生や保護者、教員の方達も良くわかることですよね。わずかな間でも体力のない人にとってそれがどれほど負担かは良くわかります。
 障碍があったり病気をもっているとき、車椅子が使えない、杖がつけない、介助者がいないということは、避難すること自体ができないということになります。地震での家の倒壊もそうですが、津波などのすぐに避難をしなければならないときの対応を少しでも考えていくことは必要になります。
 病気によっては、薬を手放せません。また、私もそうですがアレルギーなどがあって使えない薬がある場合、それらをはっきりわかる形でリストにしておくなどが必要だと思います。当座は持ちだした薬を飲んでも、数日したら処方してもらう必要があります。そのときに、病気について、処方箋やかかっている病院について、体質についてなどを良くわかるように書いて身につけておくことは、意識がないなどの状態になっても使えるものだと思います。
 大きな災害などでストレスがかかることで、体調を崩すことは目に見えていますし、もしものときの薬の用意なども必要になると思います。
 今回の震災では、建物に使われているアスベストが問題になりました。私は建築関係の仕事をした時期があるので、こういったことを記憶していて、震災後に神戸にはいるときは工業用の防塵マスク(ぼうじん)マスクをしていきました。けれど、実際にメディアなどで取り上げはじめたのは随分たってからだったと思います。
被災地のアスベスト問題を考える 被災地のアスベスト対策を考えるネットワークのウェブページです。
アスベストの基礎知識
アスベストは石綿と呼んでいたものです。以前から学校などの公共の建物に使われていて問題になっていました。建物の断熱材としても使われています。とても細い繊維(せんい)で目に見えないために建物の建材に使われている場合、こうした地震で倒壊したり建物を壊すときに散らばってしまうことが問題になります。しかも、身体に実際に被害がでるのは何年も経った後になります。こいうった危険もあることを認識することも必要になります。
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 私たちの家も、大家さんが建築士の検査を受けて結果をプリントして配ってもらったことで、一応安全が確かめられたのですが、多くの家族が引越ししていきました。費用のことやあれやこれや問題がある家族が残こることになったという状態でした。数世帯というところまで減っていきました。
 傷をうけた建物の工事が始まっても、工事にかかる職人さんが手配できないような絶対数が少ない状態で、ぽん家も2年近く補修にかかっています。しかも、その仕事がまともなものではなく、やっつけというほかは無いような粗いものでした。わけのわからない人の出入りもあって、とても不安や不満を感じることが多かったです。
 私達の被害は軽いほうで終わったのですが、実際に焼けた家々や崩れたビル、まだ、その下に家族が待ち続けている人たちがいるかもしれない現場を数回訪れて歩きまわったことで、しばらくは瓦屋根のそばを通ることが恐くてできなくなったり、焼け焦げたにおいが鼻についてどうやっても取れない、夢のなかでサイレンが鳴り続けて起きてしまうなどの状態になりました。焼き付けられた景色やにおいが記憶の棚にしまいこまれるまでに、数年かかりました。実際にそこにいた方達の傷を思うと、言葉がありませんでした。
 あまりに神戸の被害が大きかったために、周囲の被害をうけた地域があまり被害があったと声を出せないということもありました。
被災者の皆さんの避難所や仮設住宅での生活が何年も続くなどということも考えられませんでしたし、復興ということが言われ始めても実際には弱者が切り捨てられただけと感じます。
 話題になっている津波がやってくる地震では、おこった時点で避難が必要になります。けれど、動けない家族を抱えている、一人暮らしで身体が不自由などの人たちの避難は考えられているでしょうか。報道番組などでも、隣近所の力を借りるしかないということが言われますが、実際に自分たちの家族を避難させることも難しい状況では、動けるところまで行って後は運を天に任せることしかできないというのが現状です。
 まず子供たちや高齢者、障碍者が避難できるような体勢を地域でつくることしか、生き延びていくことができないと思います。けれどこれがとても難しいとも思います。
 避難場所になっている学校などは、日常でも障碍や病気の子供たち、保護者にたいしてもっと優しい環境をつくるべきでしょうし、もしものときにどれほどバリアが大きな場所であるか良くわかると思います。公共の学びの場所でこれなのですから。
 心のケアをとこの頃言われますが、いろいろなことを知って入った私ですら瓦屋根に対する恐怖心などがしばらく続きましたから、身近で元気にしている人が、どれほど疲れて傷ついているかを誰もが理解してケアする必要があると思いました。それは、医療的な治療もですが、なにより不安の素になっている経済的なこと、家のこと、教育のことなどをしっかり対応してもらえることで緩和はされるのではないでしょうか。
 失った家族を思う心や傷ついた心を癒すことは難しいのですから、せめて行政ができる最低の保障が必要ではないかと思うのです。
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 ボランティアも震災以後たくさんの活動する場が増えたと思います。けれど、心意気だけで参加したボラを束ねる組織も必要だと思います。必要なところへ必要な技術や体力をもったボランティアが配置されて思い切り活動できるように。
 被災者にカンパや用品を送るときも、目に余るようなものが多くありました。洗濯しない衣類などのマナーを逸したものがダンボールが山になるほど送られたり、家で処分するものを着払いで送りつけたり、結局その処理に追われるというような状態が報道もされました。私もお手伝いしたことがるのですが、落胆を通り越すような気持ちになります。
 衣類や毛布を送る場合、下着などは新しく購入したものを、衣類や毛布は傷んでいないものをクリーニングしてというくらいの心遣いはあって当たり前だと思います。自分がそれを被災地で使うのだということを考えれば、使い古しの下着を送るようなことはできないと思うのです。また、できたら毛布などの寄付に添えて、配送などにかかる料金もわずかでも一緒におくることで現地ではとても助かると思います。輸送費や保管料などがかかることもありますものね。
 毎日時間がすぎていくことで、一足はやく生活のめどがついて普段の生活に戻る人たちと、先行きがまったく見えないままに不安を大きくしながら生活する人たちの間が大きくなっていくのが見えました。友人たちのなかでも家族が離散したり、仕事を得るために遠くへ移住したりと、生活がまったく変わった人たちが多くいました。何もなくてもいずれはそうなったかもしれない生き方なのかもしれませんが、震災が契機になったのは確かです。
そして、それはずっと生きている間影響し続ける気がします。
 多くの命を失った方達(震災後の孤独死もふくめて)のご冥福を心からお祈りいたします。
この震災から私たちが学ぶことは、山ほどあると思います。そして、少しでも被害を少なくすることが何より、慰霊になるのではないでしょうか。
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