○ 食 中 毒 注 意 報 ○


※ご注意:以下、スペイン最後の食事で大当たりした話の詳細です。
かなーり汚ない話や表現も含まれますので、くれぐれも食前・食後・食中の方は見ないように。※

■舞台は真夜中の夜行列車

マドリッド発、リスボン行きの夜行列車車内。簡易ベッドの4人部屋では私とNさん、そしてドイツから来たというお嬢さんが同室だった。

これがポルトガル行き道中で3度目、最後の夜行列車。狭いベッドにも揺れにももう慣れていた。時刻は0時を過ぎて、ウトウトしていた私を突然襲ったのは突き上げるような吐き気。「何だ?」「列車に酔ったのか?」と思う間もなく・・・吐いた。吐いたというよりも口から勝手に溢れるように胃の内容物が”逆流した”という方が正しい。トイレに駆け込む間もなく、シーツを汚してしまった・・・。とりあえずシーツを交換してもらうために乗務員の居そうな場所、食堂車へと向かう。乗務員のおじさんを呼んで詫びると、シーツと毛布が回収された。そしてたまたま1つ空いていた同室のベッドに寝るようにいわれたので、そちらに潜り込んだ。この時点で同室に寝ていたNさんは目を覚ましていなかった。その代わりずっと起きていたドイツ人のお嬢さんが心配して声をかけてくれた。もう大丈夫、心配ないですよ、と作り笑顔で応えた。

しかし、横になっていても吐き気はいっこうに収まらない。今度こそシーツを汚してはいけない、と早めにトイレに駆け込む。・・・その後、数回部屋とトイレを往復し激しい嘔吐を繰り返した。そうこうしているうちに腹部にも鋭い痛みが走り始め、間もなく腹も下った。きっとスペインの闘牛の牛も剣で突き刺される時は、こんな風に痛いんじゃないかと思った。それくらい激しい痛みだった。

・・・こうなると吐き下しは止まらない。トイレからたった2両先の部屋にさえ戻る余裕がなくなった。トイレに近い通路に非常用の補助椅子を見つけ、これに座って、いつでもトイレに駆け込めるようにした。額と耳の後ろを嫌な汗がダラダラと流れる。よりによってこんな所で食中毒になるとは・・・!昔、地鶏で当たった経験がある私は、自分の身に表れている症状が何であるか、既によく分かっていたのだった。

■事態悪化

1時間近くもその場所とトイレを往復していたであろうか。椅子にも「座る」というより「うずくまる」態勢になっていた私は、仕事を終えてこれから仮眠を取るのであろう乗務員のおじさん達に発見された。その中にはさきほどシーツを回収してくれた髭のおじさんもいた。尋常ではない私の様子を見て、どうした、大丈夫か?!と駆け寄られる。既に「大丈夫」と強がる事すらも出来ない状況だった私は、首を横に振るしかなかった。髭のおじさんは片言の英語が出来るが、いかんせん片言同士である。状況を説明しようにも話がうまく通じない。既に胃と腸の中は空で、吐き出すものと言えば消化液と血液だけになっていた。

吐き気が小康状態になったところで私は食堂車へと連れて行かれた。食堂車まではトイレから3両ほど離れていた。通常なら全くたいした距離では無いのに、やけに遠く感じる。足元がふらついて、真っ直ぐ歩くことが出来ない。視界が白く霞む。腹部の激しい痛みに気を失いそうになりながら、何とか壁を伝って歩いて、食堂車まで辿り着いた。この時はここまで来るのが精一杯で、すぐに側のソファに伏してしまった。おじさんはとにかく落ち着いて茶を飲めという。確かに、吐き下しているときは水分の補給が重要だ。己の頭でもそれは分かっていて、ずっと水の入ったペットボトルを携帯していた。しかしあまりにも吐き気が激しく、それすら飲めないままでいた。注いでもらったお茶はジャスミンティだった。ハーブティには香りだけで鎮痛や精神安定等の効果がある。それを思い出して鼻から蒸気を吸い込みパニック状態を鎮めるよう努めてみる。しかしいっこうに痛みは治まらない。頭の先から足の先までを冷や汗が伝う。腹部の痙攣で呼吸が上手く出来なくなって、更にパニックになる。もう顔を上げることすら出来ない。

周囲で何人かの話し声が聞こえる。スペイン語らしい会話から、「日本人」「英語」「スペイン語」という単語だけが断片的に聞き取れる。ソファーに伏したまま目だけで周囲を確認するとそこには6,7人の乗務員達が集まっていた。彼らは私に向かって口々に「next station」「hospital」という英単語を発した。次の駅で降りて病院へ行けと言うのだ。思考力もかなり低下していた私だが、この時は「とにかく降りたら目的が果たせない」という思いだけが念頭にあったので「No」を繰り返した。しかし周りの皆はそれでも先ほどと同じ単語を復唱する。何度かそのやり取りを繰り返した。埒が明かない。誰かに「一人か?」と聞かれたので、友達が一緒だと告げた。こんな状態の私が相手では話にならないと判断したのだろう。乗務員さんがNさんを呼びに走った。

■だからここは一体どこなんだ!?

さて、乗務員達との会話にならない会話が途切れたところで、もう一度自分の置かれている状況を整理してみた。整理しないとこれからやってくるNさんにも話が伝えられない。・・・まず、この身に現れている症状は確実に食中毒の症状だ。吐き下しの状況から、腸からの出血が見られたので、かなりしっかりと当たったようである。食中毒であればこれから高熱を伴う可能性も高い。対処法としては、水分を補給しながらとにかく出すものを全て出し、安静にして自然回復を待つ。単純にこれしか無い。消化器官が麻痺している間に薬を飲んでも吸収されずに無駄だからだ。この現状では例え日本の病院に行ったって体力維持のために点滴を打つくらいしか対処のしようは無いはずだ。そう、確かに病院に辿り着きさえすれば、衰弱死は免れるだろう。しかし、それ以前にここでは病院を探している間にのたれ死ぬ可能性のほうが圧倒的に高そうだ。時間は深夜2時。ここは何処なのかも分からない、言葉も通じない場所なのだから・・・。

・・・ここで死んだらどうなるのか・・・?

大げさでなく、そんな不安が頭を掠め始めていた。ふと、そういえば旅行に来る前に図書館で借りた本、返してないなぁ・・・とか、あそこの店のラーメンを食べに行きたかったな・・・とか、割とどうでもいい事ばかりが思い浮かんだ。死ぬ間際に”走馬灯のように駆け巡る想い”・・・ってのは案外こんなものなんだろうか?と思うとちょっと情けなくなった。そして、死んだらどうなるのかを考えた。まずNさんと棺の私は確実に強制送還だ。ここまで来たのにポルトガル代表戦も見れない。それに来月はミランが日本に、トヨタカップに来る・・・ピルロ初来日だけどそれも見れなくなる。・・・日本人のミランファンとしてトヨタカップを見ずに死ぬのは死んでも嫌だぁぁぁ〜(←既に本末転倒)。

そもそも、こんなスペインだかポルトガルだかも分かんない場所で死んでたまるか。

そんな事をとりとめも無く考えているうちに、髭のおじさんに連れられてNさんがやってきた。目を瞬かせて、状況が全く飲み込めていないようだった。そりゃそうだ。突然真夜中に言葉の通じない乗務員に叩き起こされて連れて来られているのだから。そしてその先では連れがこんな状態になっているのだから。真夜中に真に申し訳ない・・・と思いつつ、とりあえず自分は食中毒らしいこと、吐き下しの症状がかなり激しいことを伝えた。乗務員達は彼女に対しても「Next station」「hospital」を繰り返している。寝起きの突然の出来事にうろたえるNさん。彼女は一旦部屋に戻って、私の上着を持ってきてくれた。(後で聞いたらこのとき、コンタクトレンズを入れてきたらしい。視力の悪い彼女はそれまで殆ど何も見えなかったそうだ・・・)。結局彼女と話しても、今ここで降りたら絶対ヤバいだろうという結論になった。時間は深夜2時。次の駅に到着するのが3時らしい。で、そこが何処なんだかも分からず、言葉も通じない場所なわけだから、どう考えても降りるのは無謀だ。「とりあえずリスボンまで頑張る、頑張れる」という旨を私からNさん、Nさんから乗務員に再度伝え・・・たところで、また気持ちが悪くなってトイレに駆け込む私。頑張ると言ったそばからこれってどうなのか・・・と我ながら情けなさで一杯になりつつ、その後Nさんに付き添われて部屋に戻った。

部屋では痛む腹を押さえてベッドに潜り込むのが精一杯で、その前後の記憶があまり無い。痛みで気を失ったのか、安心して普通に寝たのかも分からないが、すぐに意識は飛んでしまった。

■まだ生きてるぞ!リスボン到着!

数時間後、窓から差し込む光で目が覚めた。隣のベッドには心配そうに腰掛けているNさんがいる。どうやらあれからずっと起きていてくれたらしい。リスボンに近づくと髭のおじさんが部屋にやってきて、私の額を撫でて「よく頑張ったなぁ」と声を掛けてくれた。横になったまま「グラシアス」と笑顔で応えた。ここにきてようやく笑顔が作れる余裕が回復したのだった。そんな自分の状況に少しホッとした。ほどなく列車はリスボンの駅に到着。服を着替えて列車を降りる。ドイツ人のお嬢さんに御礼とお詫びを伝え、挨拶を交わして別れた。

この時すでに腸からの出血は止まっていて、吐き気もだいぶ収まっていたが、いかんせん体力の消耗が激しく、足元は覚束なかった。この時はあまり自覚が無かったが、当然熱もあったのだろう。Nさんに病院に行くか、リスボンでホテルを探すか、と問われた。もともと病院に行く気が無かった私は、予定通りアヴェイロに向かう、という選択肢を選択した。リスボンからアヴェイロまでは特急で3時間。そう遠くは無い。リスボンでホテルを探す労を考えれば、既に宿を予約してあるアヴェイロに列車で座って向かう方が確実だし、何より目的の試合観戦への望みが繋がると思ったからだ。この時点でNさんはかなり生での観戦を諦めていたようだったが、私は列車を降りないと決めた時点からギリギリまで諦めないつもりだった。最悪自分は無理でも、Nさんが試合を見るための道を閉ざしてはいけないと思った。私たちがはるばるヨーロッパまで何をしに来たって、応援する選手の、チームのサッカーの試合を観に来たのだから。特にルイファンであるNさん的に、このポルトガル旅行と試合は外せない重要なものである。そりゃあ旅では生命維持が最低条件だが、リスボンで電車を降りて歩けた時点で、もう死なないという自信は湧いたから、あとは自分の頑張り次第だ。アヴェイロ行き列車の座席はファーストクラスを選択してもらって、到着までの間も座席のテーブルに伏してひたすらに睡眠を取った。とにかく現地に着きさえすれば何とかなる、そう信じながら・・・。

■アヴェイロ到達!

ほとんど外の景色も見ないまま、今回のポルトガル代表・親善試合の開催都市、アヴェイロに到着。小さくて静かな町だ。ホテルまでは徒歩数分。この時また徐々にお腹の不快感が復活しつつあったのだが、自分を騙し騙し歩いて、チェックイン後に速攻でトイレに駆け込んだ。ホテルが駅から近くてよかった・・・。この日の日中は何も摂取せず、私はホテルのベッドでただただ眠っていた。少し休んだら動かねば・・・と頭では考えていたのだが、気付いた時は既に夜。私が爆睡している間に、街のマップや水や食料をNさんが一人でゲットしに行ってくれたのだった。吐き下しは止まり、かなり状況的に落ち着いていたので、ホテルのルームサービスでスープだけ頼んで飲んでみた。ポルトガル伝統のキャベツとジャガイモのスープだ。あまり量は飲めなかったのだが、とても美味しかった。この時点で日本から持参していた殺細菌剤・胃粘膜保護剤・整腸剤・栄養剤などの薬を投与。明日は絶対にポルトガル料理をちゃんと食べるぞ!と心に誓ってまた眠った。美味しい食事こそ人生!というこの身にとって、旅先で食の楽しみが奪われるのは非常に辛い。

翌日は試合の日である。アヴェイロでの1日目を全く動けぬまま過ごしてしまったが、しっかり休んだおかげで体力は普段の半分くらいまでには回復したように思う。朝起きたらお腹も空いていた。いい傾向だ。Nさんの買ってきてくれたクッキーをかじってみた。・・・美味い、吐かない、下さない。非常にいい傾向だ。

というわけでホテルの近所の定食屋にご飯を食べに行った。定食はバカリャウ(干しダラ)を茹でたものとジャガイモを茹でたものと豆を茹でたもの・・・それに生玉ねぎの輪切りだった。消化のあまり良くない生の玉ねぎは避けて、ジャガイモとバカリャウをメインに食べた。どれも油分は少ない茹で料理なので、お腹に優しく、そして美味しい。8割方食べて、大満足。食欲は順調に回復していた。食中毒の発症から30余時間後の事である。以前食中毒になった時には復活までに3日かかったし、通常回復に数日は要すものらしいので、今思えばこの回復速度は驚異的なものだったかも知れない。

その後、結構な紆余曲折はあったものの(この辺はまた別ファイルにて。)この日は無事に試合観戦にまで漕ぎ着けた。少し頑張りすぎたせいか、翌日のリスボンでは再び撃沈してしまい爆睡モードに入ったが。その翌日、ポルトガル滞在最終日にはルイコスタ経営のレストランも訪れて、楽しみにしていたレイテクレーメ(プリンとカスタードクリームの相の子みたいな食べ物)もしっかり食べてきた。この辺は生来の食い意地の成せる技であろう。そして何はともあれ、生きてミラノに戻ることが出来たのだった。

■食中毒回想

マドリッドで何に当たったのかは、未だに分かっていない。疑惑の食事はパンと水とサーモンとエビのパスタ、それに食後酒グラッパ。個人的にはサーモンかエビの古いのが生煮えだったのだろうと予測。内陸のマドリッドで魚介系を食うなという事か。痛い教訓となった。不幸中の幸いは、たまたまこの食事でNさんと私がそれぞれ違う物を食べていたことだろう。2人が同時にあの状況だったなら、間違いなく試合は見れなかったか、良くてもテレビ観戦(下手すると病院で)になっていたと思う。

そして私にとっては一人では無かったという事が何よりも大きかった。N氏には勿論、物理的な面でも大変に世話になったのだが、何よりもここで死んだらいけないという気持ち的なものが非常に大きかった。面倒くさがりな私のことだ。一人だったなら「まぁ一人じゃ無理そうだし、死んでもいいかぁ・・・」などと後ろ向きに諦めてしまいかねない状況だったと思う。物理的にも精神的にも前向きに頑張れたのはNさんの存在があったからこそだ。また、そもそも乗務員に発見されなければ、列車の通路かトイレ内で事切れていた可能性も高かったと思う。あの日、あの時、私を発見してくれた髭の乗務員さんやその他のスタッフさんにも心から感謝したい。
助けてくれた皆々様、本当にどうもありがとうございました!


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