まずはこの公演を見るまでのいきさつ。東京在住の演劇友達、Mさんと、前の晩に「タイタス・アンドロニカス」を見たあとの会話。
「いやー、復讐劇だったねえ。ひとがばたばた死んだねえ。」「今年の夏は暑いらしいから、ちょうどよかったね」「で、明日はどうする?」「どうせだから納涼芝居三昧にしよう」と、ぴあを繰ると「四谷怪談」の文字。
「よし、これだ!外国の怨念の次は日本の怨念のスタンダードで!」
とまあ、あいかわらずの展開で、「納涼芝居三昧」シリーズと言うことになったのでした。
「四谷怪談」、その名はあまりに有名であるが、実は私、この物語をテレビや映画、舞台などで見たことがない。
京極夏彦の「嗤う伊右衛門」と、かわぐちかいじの「アクター」が、私の知る限りの「四谷怪談」。「アクター」なんかはすげえ好きで、もう何回も読んだけども。この二つとも、「四谷怪談」の世界を作者独自の視点で捉えなおしたものだったと思う。で、今回の劇団青年座の公演も「新版・四谷怪談」とか銘打たれている。さて、さて、どんなものかな。
青年座は歴史ある新劇の劇団。といっても、新劇がどういうものかという知識はあまりないです。岩波の国語辞典にはこうあった。
「新劇=外国の近代劇に影響されて生まれた、現代人の生活感覚にのっとった新しい演劇。⇔旧劇」
ふむ。歌舞伎や能に対して「リアリズム」ということかな。ともあれ、ずいぶん昔の話だよね、これ。
しかして「四谷怪談」はもともと歌舞伎の演目だったりする。歌舞伎は「型」をふんだんに使った演劇。じゃあ、リアリズムの怪談はどうなるのかな?そんなところに期待しつつ。
2幕3時間の長いお芝居…ごめんなさい、寝ちゃいました。うをを、どういえばいいのか、「怪談」というより、「ドリフの怪談コメディ」を思い出すひとときでした。
物語は「新版」ながらも原作に忠実。伊右衛門(お岩のだんな)とお梅(伊右衛門を略奪愛)が門前町の茶屋で出会うシーンから始まる。このシーンも時代劇よろしく、舞台装置はきちんと時代考証されてるみたい。
会話もリアリズムですから、お梅のお付きの乳母?や父親なんかもその場にいて、伊右衛門とお梅の出会いの会話のなかに絡んでくる。日常と同じように。
で、「アクター」を読んでから見たものとしては、「伊右衛門とお梅の出会いって、もっとドラマチックなンじゃん?」といいたくなる。ふたりがこのあと、それぞれの思いを巡らせながら契りを結び、お岩をおとしいれていくという衝動が伝わらないの。自然すぎて。
ほんとの世界なら、今回のように周りの登場人物もそこに生活していて、ふたりの関係に多少なりとも影響してくることはあるけど、お芝居では、特に今回のような情念濃い物語では、それをやっていると肝心のその「情念」が薄れて見えて。そのあとのエピソードも丹念に原作を追っていると思われるけど、んー。装置から、登場人物のひとりひとりまできちんと作り上げていることが、逆にストーリーに入り込めない要因になっているよー。
そんなだから、お岩が髪をすくシーン(前に髪を垂らしてすいていて、ばっと髪をあげるとただれた顔のお岩が!歌舞伎では名シーンらしい)とか、お岩が死んでから仏壇からにゅっと手がでてきて伊右衛門が動揺するシーン(これも歌舞伎では超有名らしい)とか、お岩の怨念が襲ってくる見せ場が、まるで「8時だよ全員集合」のドリフ怪談。怖くない、むしろお笑いのシチュエーションに見えちゃった。
これは私だけでなく、青年座の常連と思われる有閑マダムたちも笑ってたから、本当にお笑いだったと思うよ。骸骨があごの骨をかくかく鳴らしながら宙をさまようという、すごく仕掛けが込んでいるシーンが一番笑いを取っていた。「リアリズム」って、こういうことなのかい?と首をかしげてしまった。装置も手が込んでいてかなり力をいれて制作された舞台なのに、「怪談」ではなかった。
そもそも「怪談」とか、「幽霊」とかがでてくる芝居にリアリズムもなにもないんじゃないのか。前日に見た山の手の復讐劇では、「現代演劇」ながらも、「型」を使って体の動きを抑制しながら、「感情」を際だたせようとしていたことを思い出した。
ともあれ、原作に忠実に作ってあったことや、パンフレットの「四谷怪談基礎知識」はすごくよくできていたことで、本当の「四谷怪談」を知るいい機会になった。でも、やっぱり「アクター」の方が怖いっす。