山の手事情社の公演を見てきました。
山の手事情社は、私が昨年参加した長岡リリックホールの演劇ワークショップ、その講師を務める安田雅弘氏が主宰する劇団です。ワークショップを通じて多少なりとも安田さんの演劇の考え方に触れる機会を得たこともあり、「どんな芝居を見せてくれるのか」と、興味津々ででかけてきました。
会場は新宿スペースゼロ。開演15分前に到着、受付。開演が10分程度遅れるとのことで、ロビーには多くの人が。ここで長岡のワークショップの仲間とばったり。また、隣り合わせた若者たちの会話が聞こえてきたり。「安田さんのお芝居はどんなかな〜」とか。津々浦々でワークショップの講師を務める安田氏、今日の観客の中にも私同様、ワークショップを通してこの公演に足を運ぶ人が多いのかな?とか思ったり。チラシにも秋に埼玉でワークショップを開催するとか。多忙な人なのだなあ。
安田氏は受付でもあれこれ忙しそうに雑務をこなしている様子。去年の10月に山の手事情社が主体の野外劇「ゼウスガーデン衰亡史」(’98BESETO演劇祭参加作品:芝増上寺)を見に来たときは、大雨の中自ら会場整理をしていたことを思い出したり。ほどなく開場。スペースゼロは多目的ホールで、催事場にも使うらしく通常はフラットなのか、客席は可動式。3列目中央よりかんげき。
装置、黒を基調に、和風なイメージ。障子のようなパネルが吊されていたり、かと思うと下手奥にはペールグリーン一色の冷蔵庫、電子レンジ。その手前にテレビが一台。上手前にはいろりに畳敷きの小上がり、女優がいろりの脇に座っている。和洋折衷、抽象的のようで現実的のような、極めてクールな装置。開演。いろり端に座る女性が語り部として、物語の発端を。後ろでは俳優たちが、一定の型で動きながら、死体のような登場人物たちを引きずって右から左へ。やがて悲惨な復讐劇が徐々に、淡々と進められていく。
「タイタス・アンドロニカス」は古代ローマの戦将。自分の仕えるローマ王女の私怨により、おとしめられていく様子、そして真相を知り、さらなる復讐を誓い、それを実行に移していく様子。
これらが終始、「型」にのっとった動きの中で進められていく。人間のどろどろした思惑や感情が描かれているストーリーの中で、この「型」があることによって、そうした内面的な激しさが際だって見えるような、そんな気がした。
「身体表現に規制がある(=肉体的に反リアリズム)」ことで、登場人物それぞれの心のひだが逆に強調され、哀しみや憎しみといった「感情表現が深みを増している(=心理的にリアル)」いるのだ。
ことに、こういう心理劇ではそうした効果がよくわかるなあ。
なんていうのか、俳優が送り出す情報で、肉体的な部分が「型」によって整理されていることで、「相手に対する怨念」といった心理的部分、内面的な部分がくっきりとしてくるのだな。
特に、「タイタス・アンドロニカス」は心理劇。心の動きを表現することが主となってくるわけだから、「身体的」情報を抑制して、「心理的」情報を浮かび上がらせるというテクニックなのでしょう、多分。というわけで心理的な部分が激しければ激しいほど、「型」というのは効果的なのではないかしら。とか考えた。歌舞伎や能での「型」にもそうした思想があるのだろうか……。
それにしても、山の手事情社の芝居は頭脳的なので、かんげき記も小難しい話になっちゃったなあ。
この劇団は基礎訓練に重きを置くだけあって、役者のレベルは総じて高い。=看板役者、というスタンスの人が見えにくい、ということなのだけど、前回(ゼウスガーデン)、そして今回の「タイタス」と、二つの公演を見て、「役者全体でひとつの世界を構成する」という姿勢が見えたことで、納得。その世界を厳密に作り上げて行くには役者一人一人に演技力の向上が求められるし、山の手が一方で「カタログシリーズ」と銘打って、役者の個人芸を見せていくというスタンスもわかった気がする。
今回出演していた役者さんたちの「ものまね」を見ていると、「ええ〜こんなにシビアなしばいするんだ」と純粋におどろいたり、それもまたたのし。