今回見たのは、高校生の演劇ワークショップ。役者さん・スタッフともに高校生がひと夏かけて稽古を重ねた練習発表会といった趣旨の公演です。
ソートン・ワイルダー「ロング・クリスマス・ディナー」を潤色したもので、とある家族3世代が過ごしてきた人生をその時々のクリスマス・ディナーだけに焦点を当てて描くという原作を日本のお盆の夕食に置き換えたもので、家族の絆や人生について考えさせられる内容でした。
特に興味深かったのは、マチネ・ソワレと2公演あったのですが、例えば最初に登場する母とその息子。マチネで息子・啓一郎役だった役者さんがソワレでは啓一郎の息子・裕司の息子(・・・つまり啓一郎にとっては孫)啓太郎を演じている、といった具合に配役が変わっているのです。その変え方も、基本的には血縁をキーワードにしてあって。
その配役にとても重要な意味がある気がして、今回はどちらも見てみようと思いました。
さて、感想ですが、ある家族の90年間を描くドラマなので、子供時代から老人まで、一役で様々な世代を演じるという、難しい演技を要求される物語だなあと思いました。さらに、場面転換も変わっていて、あるきっかけを境に急に変わるのだ。例えば、この舞台には3つの扉があって、それぞれ生・死・そして生き別れという意味をもっていて、死の扉から退場するということは、その役が死んだということを表す。ある役の死をきっかけに1年後のお盆になるシーンもあった。
そして、白髪のかつらをかぶることで、年老いた状態を作り出していた。
しかし、高校生の演じる父や母や息子たちは、基本的にその世代をそれらしく演ずることを求められていなかった。ともすればそれはごく自然体過ぎて、あたかも演じていないようにも見えた。
しかし、終演後演出の森さゆ里さんとお話をしたところ、「腰を曲げるとか、そういう年寄りくささの演技は、それを行うことで演じたような気分になる場合がある。そうではなく、そのセリフの心情を表現することに集中させたかった」というようなことを言われていて、なるほどとなっとく。
だけど、そうした場面転換のない変化はきっと誰が演じても難しいだろうに、人生まだまだこれから花盛り、の彼らには非常につらい負荷にちがいない。私は、演技の上手下手という問題ではなく、今、この年齢の時に、さまざまな年代を演じることに悩みながら、人が生まれてから死ぬまで、そのなかで受け継がれた命のことを考えざるを得ないテーマを仲間たちと、演出家と悩みながら、話し合いながら作って行ったというかけがえの人生経験がもてたということが非常に意義深いことなのだろうと、うらやましく感じた。
老人を「漫画のような老人のように」演じたり、受けを狙うために奇抜なことを考えたり、そういう芝居作りはこれから役者を続けて、経験を重ねる中で充分うまくなる可能性があります。だけど、高校生という時期に、人生について考えるようなテーマを作る作業、これは今しかできないのじゃあ。
安易な青春論ですか?そういってしまえばそうかもしれないけれど、うまい下手で評価をする芝居ではないと思ったのです。
これから彼らが、これから社会人や学生になって、長岡で、あるいは東京で演劇を続けて行くような、そんな風であったらいいなとすごく勝手に思っています。