クリスティアン・フーバー演出「越後妻有版・真実のリア王」

2003年7月19日19:30〜20:00
まつだい雪国農耕文化村センター ピロティ

 これは、ルポルタージュ演劇である

 この作品は翌7月20日(日)に開幕する「越後妻有アートトリエンナーレ」という美術博覧会の参加作品である。つまり、演劇自体が現代美術の作品でもある。
 「妻有地方の高齢化・過疎化」をテーマにしたこの作品の出演者は、妻有地方で生き抜いてきた老人たちであると言う。つまり一般市民である。また、このアーティストはこれまでにも精神病患者や浮浪者を舞台に上げ、作品を作ってきたと言う。
 その演出方法やキャスティングのなにもかもが、これまで私が見てきた(作ってきた)舞台とは違う。すごく興味をもった。いったい、老人たちにどのような演技をつけたのか。稽古はどのようにしたのか。
 そういう風に、これまで私が鑑賞してきた、または経験してきた「演劇と言うもの」の定義の中での好奇心だった。

 観劇を終えて、まず感じたこと。

 これは、「エンターテインメントとしての演劇」ではなかった。しかし、「純粋なるドラマ性を帯びた演劇」である。つまり、一番わかりやすい?言葉で言えば「ルポルタージュ演劇」であったと思っている。

 要するに、私が好奇心を抱いていたようないわゆる「演技」やいわゆる「稽古」といった言葉は必要がなかったのである。老人たちは、リア王の登場人物を「演じて」はいない。ただ、自分自身として「できるだけ自然体に、そこにいる」。

 ステージの上に置かれたダイニングテーブルと椅子。8人の老人たちは、各自が自宅から持ち寄った手料理を広げ、互いに酌しあいながら食事を摂る。老人たちの食事が繰り広げられるなか、老人たちがこれまでの人生を振り返り、告白している様子を録音した音声が会場に流れる。また、天井からつられた白色の衣装のような布には、老人たちの写る写真がスライド映写される。時折、なんの前触れもなく、老人たちの告白に混じってリア王のせりふが老人たちによって挿入される以外に何の作為もそこには感じられない。老人たちの告白に、その人の生きざまが垣間見える。若くして死んだ兄のこと、厳しくつらい妻有の冬越えのこと、出稼ぎのこと。米作りのこと。

 さて、ついさっき、「何の作為もない」と書いたが、この表現は実は間違いだ。「老人たちは演じていた」。

老人たちは自然体を演じていた」?

「あなたは何百人もの観客が見つめるステージの上で突然普通に食事ができますか?」

 私はこの問いに「yes」と答える人が想像できない。

 もっとも、「普通に食事をするように演技をしろ」ということでなら、多くの人ががたやすく行うことが出来るだろう。
 何が言いたいのかと言うと、「老人たちは、舞台の上で自然に食事をしてください」という、作家の要求に応えているのは間違いのない事実であると言うことだ。
 70年間、ほとんど妻有地方から出たことのない老人たちが、見知らぬ外国人の「舞台の上で食事を普通に摂ってください」という「演出」に応え、自然体に振舞うように「演じた」というのが事実なのだ。
 この演劇の制作期間は3ヶ月ほどだったようだ。たったそれだけの時間のなかで、演出をした作者と、出演者である妻有のお年寄りたちとの間にどのようなコミュニケーションが図られたのだろう。そうした制作現場への好奇心はつきない。
 「真実のリア王」を見て、「演じる」とはどのような行為なのか改めて考えさせられた。結果的に、エンターテインメントとはいえないだろうが、この公演に「演技の根源」があるような気がしてならない。

 ああ、ちょっと文章が固いですね、ごめんなさいね。