ジョセフ・ナジはフランスのパフォーマー。ナジ率いるカンパニーの公演、
新潟から急遽でかけることにしたのは、ワークショップでお世話になった山の手事情社の安田雅弘氏がぜひ見るようにと薦めている、という話を聞いたのがきっかけでした。
98年・99年と足かけ2年にわたって安田氏の演劇の作り方に触れてきたわけなんですが、安田氏が薦める舞台とはどんなものだろうかと、そんな好奇心から出かけてみることにしました。
会場はおなじみの世田谷シアタートラム。この劇場のいい所はほどよい広さであるとおもいます。大きくもなく、小さくもなく。ステージに立つパフォーマーが後部座席からでもよく見通せる。リリックのシアターもこのくらいの大きさだと使い勝手がよいでしょうにね。
急遽出かけることに決めたため、都の演劇仲間村田嬢と連絡を取り、当日券目当てで行ってみました。
そしたら残席わずか。当日券を買うために一時間ほど?並んだ記憶があります。(1年前の公演を思いだし思い出し書いているので)外国のカンパニーながら、ダンスの要素も大きい公演ということで、観客層も幅広いということなのでしょうか。なんとかチケットを購入することができましたが、外国のカンパニーの公演を見る体験は生まれて初めてだったので、ここまで人気があるということは正直予想してませんでした。
ストーリーは、ある小説を脚色したもの。主人公である科学者の研究室の中で繰り広げられる。狂いかけた科学者ヴォイツェックが抱いた妄想の世界。
彼は自分の最愛の妻が浮気をしているという妄想に取り憑かれている。彼の目には、浮気相手の軍人や精悍な体つきの青年が部屋の壁から湧き出てきて、夫である自分の眼前でこれみよがしに淫らな行為にふける挑発的な妻しか映らない。
何人もの男に体を委ねる妻。怒り、叫ぶように情事の時を破壊しようとする科学者。
ついには妻をその手にかける、が、それは彼がすでに行ってしまった行為のリフレインだった。
すでに彼は妻をその手にかけていたのだ。
真相は、どうだったのかはわからない。本当に、妻が彼を裏切っていたのかはわからない。
しかし、彼はその疑念をぬぐえずにすでに妻を手にかけてしまっていた。
真相は、どうだったのかわからない。事実だったのか、誤解であったのか。
それゆえに科学者は、自分の行ってしまった「妻ごろし」を何度も繰り返しているのだ。
妄想のなかで妻は何度も殺され、そのたびに自動人形のようによみがえる。
後悔からか、殺し切れない嫉妬がそうさせるのか。
彼は、ひたすらに妻を、妻の恋の相手を破壊しつづける。
ヴォイツェックはダンスのカンパニーである。
行為を行ってしまった後の科学者の精神世界を舞台にして、この生々しいストーリーが、鍛え上げられたダンサーたちの肉体によって、まるで終わりのないゲームを見ているように繰り返されていた。
彼の行った行為を繰り返し繰り返し、時にサーカスのようなコミカルさで、淡々と見せていく。
淡々と、というのは語弊があるかも。肉体の動きの一つ一つは激しく、生々しい。
だけど、表現しているのは科学者の精神世界。決して生活の香りは発しない。
それゆえ、一件冷ややかだけど、その実深く深く、心にさまざまな思いが流れ込んでくる。
ダンスとして見せながらも、舞台の登場人物たちはカーテンコールまでヴォイツェックの世界に生きる人間のまま、ふわりと、ゆっくりと動きながら舞台を去っていった。
なぜ、ジョセフ・ナジを安田氏が薦めたのか。
「型」で身体表現に規制を与えることで、登場人物の心の動きを際だたせようとしている山の手事情社の公演を見た後ならば、その表現手法のめざすものが分かるような気がしている。
リアルに動けばそこに真実が見えるのか。そうでない場合も、舞台の上では往々にしてあると言うことなのかな。
いづれにしても、表現者として肉体を鍛えあげなければ不可能な表現を、目指しているという所は共通しているのかも、というのがまとめです。
まとめになってないか。難しい理念の話はできませんけども。