子供の成長 (親子一緒に暮らせるのは高卒までである)

都市空間の整備の方向を執筆していた頃の子供の様子。

子は親の背中を見て育つ。

小学校6年生の時、「児童会会長」に立候補して男の子に負け落選。

夜一家で、車で石巻山頂駐車場まで行き夜景を見ながら慰めたものだ。

(次女の時は、向山公園へ夜桜見物へ行き露店で買い物し慰めた。)

長女は、中学校に入ってからは、1年、2年、3年ともワンランク下げ、

生徒会では全ての学年で生徒会役員となる。

しかし、生徒会長には立候補しなかった。

そのかわり、実力試験で学年で1番になれは褒美を上げると言ったら

3年間とも1番になった。

試験の度に10,000円を渡した記憶ががある。

その時、独りだけでなく一方の子には副賞としてその半額を渡した。

高校生になってからは、子供騙しのようなことは出来ないので変わった

方法見つけ、苦労しないように配慮したものである。

親元で暮らしたのは、ここまでである。

大学に行ってからは、金はだしても大学までは一度も行ったことはない。

薬科大学卒業後は、東京で就職し結婚することとなる。

長女は結婚前に製薬会社を退職し、3か月間自宅に帰ってきたのがせめ

てもの親孝行であった。

帰省時に、彗星報道があり小学校の時に購入した「倍率100倍の赤道

儀付きの天体望遠鏡」を急遽物置から出し組立てて見たものである。

(ヘールポップ彗星) ※画像を選べば多くの彗星画像が出ます。

嫁ぎ先は三菱銀行支店長を勤め、子息も薬科大学出で卆論提出時の

指導教官(後の学長)夫妻の媒酌により、交通の利便さを考え名古屋市内

で全国から親戚や企業・同僚、大学学友どが集まり盛大に行われた。

さて、その長女は…、3児の母となり長女は2014年春には大学受験

の年となる。(1997.3.6ヘールボップ彗星)

今年もアメリカへ武者修行にいっているのか。

今年も、あと数日で2013年元旦を迎える。

人生なんて、何と早く進むことであろうか。

もちろん、始めて立って歩んだことは忘れもしない。

豊橋公園まで連れ出し「ヨチヨチ歩きの記念写真」を撮ったものである。

豊橋公園の動物園、大岩町に移った子供自然公園(現「豊橋総合動植

物公園)、奈良京都、関ケ原や茶臼山での雪だるまづくり … 雪だらけで

親子して楽しんだものである。富士山富士サファリパーク、富士山一周、

鎌倉、江の島、横浜、名古屋東山動物園、愛知県民の森のほか、豊橋市

東京事務所(旧市ヶ谷寮)までへ自家用車で行き車を駐車させて頂き宿泊。

羽田空港、二重橋、上野動物園、東京タワーなどを観て回った。

名古屋空港、伊良湖岬の共済会館や、伊勢湾フェリーが悪天候のため船室で

はあちこち転がりながら志摩マリンランドへ行き、帰りには名古屋を廻りながら

陸路を選んだこと。豊川上流の北設楽どへは自家用車で石取りなど兎に角よく旅

したものである。

次女と京都の堀川会館(6階建てのプール付き教員の共済会館)では、

夜間冷房が切られてしまうので、屋上に涼みながら京都の夜景を楽し

んだことは未だに懐かしく思い出す。

そうそう、京都では清水寺や大徳寺、妙心寺、一休寺等を訪れ、信長公や

光秀の墓所を見付けたのも思い出す。

修学旅行では、長女・次女とも「ぐい飲みちょこ」が土産だったこと。

自由研究で塩を造ったこと。 ゼンマイ発電機の作成。「雪だるま」づくり。

花壇づくり。お友だちとの交流。私の妹のおばちゃんを名古屋コンサートへ独

りで招待し親抜きで行ってきたこと。

次女の卒園式では、風邪を引いていたため職場を休みを取り「車で送り迎え」

をしたこと。ただし、卒園式そのものには出なかった。

次女には、自由研究や読書感想文の付き合わされられたが一席となり活字

になった。図書館で公開されている。

長女の大学関係の関わりは、妻と、妻の父母や兄夫妻がもっぱら付

き合った。

妻の兄夫妻には子供が授からず未だに長女・次女親子10人は帰省する度

に、妻の兄夫妻宅(妻の実家)に行くことを楽しみしている。

私は、育て上げれば次は祖父がどんな生き方をしていたかを残すのを楽し

みにしたいとネットでいろいろ回顧を書いている


何故って、おしゃべりキャラクター作っている時、出会った一コマです。

幼稚園入園から随分時間があったはずであろうが、過ぎてしまえばまさに

「光陰矢の如し」であります。

次女は、親戚の人が何か欲しいかと言うと「家が欲しい」親戚の人にいつも

言っていたので、結婚の際「家屋と隠居部屋」を新築」した。廊下で繋ぎ母

屋は次女一家が我が物顔で暮らしている。

私には残された時間は余りないので…。まあ、それでいいのだ!

2013年3月末には「都市空間の整備の方向」で書いた国道23号豊橋バイ

パス・豊橋東バイパスが開通する見込みで、豊橋市役所付近に「国1、国道

23、・国道151号、国道259号」が交差していたものが、国道151と国道23

号」の2国道が距離が離れ、両国道は国道23号線のバイパスにも繋がり、私

の提案は33年で成就し、生きてるうちその一部を見れることは神仏のご加護

か有りがたいものであります。感謝!

書きたいことは、次から次へと出てくるがこの辺りとしよう。

そして2013年になり、1月は行く 2月は逃げる 3月は去る。

まさに、「光陰矢の如し」である。

そうしている中で浮んだのは、母親は私の商業高校での奨学金貸与の手続き

直ぐ行って頂いたのが余程嬉しかったようで妹を同じ商業高校への進学を薦め、

豊橋商業高校をトップで合格トヨタ自動車本社経理部に入社し即社員寮暮らし。

現トヨタ市内で結婚式。 結局一緒に暮らせたのは高卒までであった。

新郎の父は、トヨタでキリスト教の神父と幼稚園長をされており当日は千種署長

夫妻の媒酌により幼稚園児も多数参加し賑やかなうちにとりおこなわれた。

式で流れた曲(おさななじみ)

式が終わった後、親戚同士の顔合わせが宴が用意されていた。

この時ほど、自身の親戚がみすぼらしく感じたことはない。相手の親戚は中央

省庁幹部職員や大企業の役員など日本のトップクラスの方ばかり、妹は一躍そ

の中に入りこんだのだ。

嫁ぎ先に私と同年齢の兄がおり、後年「三菱〇〇部門の社長・相談役」まで勤

め上げられた。そして嫁いだ妹の夫や子供も含め大企業の役職員となっている。

一度、プレイバック…

私は何としても豊橋市役所最高の業績を立てようと再認識ものである。

幸い、青木助役になるなり、青木茂氏が高文合格後、台湾総督府の職場が文書

であったことが、豊橋市助役になるなり、文書係に上司(青木学校の優等生)を

介して指定したようだ。文書係1年余で、助役秘書に抜擢される。

三河港造成の(助役秘書として)下働きで中央省庁や国鉄本社などに同行したの

は、私ににとってこの上ない厚遇であった。

人事漏れで議会に行けず、収入役室・区画整理課異動は私を押しも押されない職

員に育て上げて頂いた。

そして次期市長になるまでは「市役所」の全ての職員が一目置く存在になっていた。

最高は、40才で議会事務局議事課長補佐になった時であった。

しかし、2年後次期市長になった途端に目の敵にされ…

そうなると呼応するように、他の幹部職員も手のひらを返したように邪見に…

最終章へ(第三の手法で本計画の実現)


2015.5.31追加。   回顧編ホームへ





           
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