都市空間の整備の方向
       ”都市機能を高める街づくり” 
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− 豊橋のまちづくり提案 −

提案内容が結果的に実現した事項(24項目) 
   豊橋総合動植物公園など次々実現 (Google Maps
   国道23号豊橋バイパス整備・新規市街化区域指定・インターチェンジ建設等(技科大誘致
   国道23号豊橋バイパス(Google Maps
   国道23号バイパス豊橋市内IC一覧
   東名高速 I Cと内陸工場用地造成
   地区再開発計画始動
   豊橋駅の地下を含む立体化橋上化など総合ターミナル化及び
    飯田線・名鉄線の分離複線立体化など
二俣線は、その後天竜浜名湖鉄道へ)
   「民衆駅1号豊橋駅東の操車場跡地活用
   三河港の工業専用化を避けコンテナーターミナル化など…
   石巻山周辺のを環境保全地域化
   豊橋駅と二川駅の中間点(佐藤町)駅実を結ばなかった
   二川駅橋上化優先建設経緯
   JR二川駅と総合動植物公園間の道路築造
   東三河環状線について
   市内循環バスからシャトルバスへ
   設楽ダム関係
   土地利用強度と地区計画の必要性他(2項目)
   土地区画整理事業 他
◇ 建設位置が変わった施設(豊橋市民病院他)
◇ 時期尚早の施設(1項目)
◇ 提案しなかった施設(豊橋市役所新庁舎)
◇ 別手段で事業化が進められたもの(豊橋i西口駅)前通り他
 三河湾浄化作戦の一環
 提案までのいきさつ
 「都市空間整備の方向」素原稿
 内容結果は電子媒体等で確認

 回顧編(32項目)
   愛知海道→名豊道路→23号バイパス名称の移り変わり
   全国市長会欧米都市行政視察(助役就任時)
   河合陸郎豊橋市長の「の時の利の和」
   青木助役邸建築
   東三河工業整備特別地域指定
   グロバル化後の農業は生活を左右する(青木学校の優等生との対話)
   村田敬次郎代議士の案内で国会議事堂見学
   三河産業開発研究会(神野太郎会長)からゴルフ会員権購入を勧められる
   国道259号線開通式に河合市長に連れられて手伝いに出る
   三井グループ社長会での企業誘致時の思い出
   どてらい男(やつ)の思い出 
   (現・ハワイアン リゾーの創始者)(2014.1.13追加) 
   (スパリゾートハワイアンズ2014.6.1 NHK放映 GoogleMaps
   仙台・内郷視察帰途会津若松に寄れるか
   港湾視察の思い出(随行視察)
   北陸・信越の港湾視察写真(※直)
   東三河・静岡県浜名湖以西地域との広域合併 (広域連合)
   色紙「自主自立」河合市長言われた言葉
   一生で何度も味わえないところへ連れて行く(河合市長と京都祇園へ)
   牟呂用水上への県営住宅建設に対し河合市陸郎長に意見言う
   愛知用水豊川用水にまつわる思い出
   青木茂氏がもし豊橋への道を選ばなかったら(※関連)
   大津美子さんと記念撮影
   後藤新平と都市計画について(青木助役)
   高橋経済企画庁長官夫人を青木茂助役夫人と三河臨海部を案内
   新産業都市指定名古屋動員の際会食席が大野伴睦副総裁の前となる
   トヨタ自動車田原誘致を聞き、自宅で卓袱台返し公害回避教え
   神鋼電気誘致の思い出(日曜日に市長と女子職員のみ)
 回顧編 (11項目)
   河合市政から青木市政へのバトンタッチ 
   豊川河口の埋立地縮小がジオパークへの道へ
   東雲町に河合陸郎・丸山薫・小柴昌俊が住んでいた
   東三河環状線乗小路トンネル
   藤村隆区画整理課長退職送別会に作曲家伊藤雪彦氏も東京から駆け付ける
◇ 回顧編 15項目) 
   君は本省役人を呼ぶなんて代議士みたようなことする
   心に残る新設時の図書館協議会委員メンバー
   次期市長に頼まれて名誉都民葬の弔辞を書く
   市管理職による土地区画整理反対派加入要求
   JR二川駅南の桜橋架橋にあたって
   愛知県も呑んだ「青木構想」の三河港造成計画
   突然特捜検事がくる
   技科大(豊橋)・医科大(浜松)誘致秘話
   横尾義貫技科大図書館長・石井吉也愛大図書館長と、豊橋市図書館の 3館交流会始まる(直)
   自然史博物館協議会図書館協議会
   自然史博物館整備終了のピンチ乗り切る
   最後の引き継ぎ
◇ 回顧編-2 第三の手法による本計画の実現
◇ 別ページ(リンク)に記載(7/8項目) 検索欄(3項目
◇ 東三河県庁(w 三河港造成の原点(w

 
 私は、「豊橋のまちづくり」について提案しました。
 総合編(400字詰原稿用紙132枚)と要約編の2編からなっており、提案内容は都市計画法全条にわたり、文章のほか各種統計データ数値表
 や都市計画白地図7枚に現状と計画案も記載しました。(データ収集は、全国各都市や豊橋市内各機関の方々にお世話頂きました。)
 改めて感謝申し上げます

 
あれから四半世紀経った今、多くのことが反映されており光栄に思っています
 
詳細の内容は別として、記念に大項目の目次のみ残しておきたいと思います
 
執筆期間 … 昭和55年(1980年)10月15日〜56年1月15日
 提 案 日 … 昭和56年(1981年)1月16日

 提案事項のうち実現したもの等は目次の下方に記載しました。
 実現内容の追加 … 状況を見て考えたいと思います
 執筆に当たっては属性を中心に考えましたが、将来に亘って実現していくことは実に素晴らしいことと思います
 これは、昭和39年1月に愛知県東三河地方が工業整備特別地域に指定されて16年経過した昭和55年(1980年)に、工特地域指定20
 周年記念に向かって更に継続を図るため、その後の整備のあり方・方向について書いたものです。
 (注: 閣議決定 → 昭和 38.7 で 17年経過)



    都市空間の整備の方向 目次            提案者名 小澤 紀明   (古希記念前  nk2600)  (一枚の色紙)

 1. 明日への都市づくりを目指して … 1
     20年後に迫った21世紀に向かっての街づくり
    目標は、財政問題もあり50年〜100年とした
    環境を大切にする街づくりと人口問題、車社会、都市間競争を念頭に置く
    余り人口抑制を考えると、人口減少の弊害が出ることに注意
    
(豊橋の年齢別人口…中核市・政令指定市等 (当時の思い出)
    律令時代の街並みから江戸時代の袋小路の道などのこと
    ヨーロッパにおける中世からの街づくり
    近世における職住隣接の都市計画
    建築家の都市計画
    都市のデザイン化
    緑園住区や高規格道路(地域の高速道路)が広範囲で採用されている現状 (リンク貼り2010.12.7)
    人間性回復の必要
    などです。
    
 2. 近代都市計画と都市の発展 … 7
 3. 都市の発展と高度成長後の課題 … 14
 4. 豊橋市の都市空間の整備について … 21
  (1) 豊橋市の位置づけと将来展望 … 23
  (2) 歴史的発展と都市計画 … 26
  (3) 人口と産業経済の動向 … 41
  (4) 土地利用状況 … 45

 5. 都市機能を高めるための基本的な計画と地区計画 … 48
  (1) 土地利用計画 … 56
     @ 市街化区域
      (ア) 商業系の地域 … 60
      (イ) 工業系の地域 … 60
      (ウ) 住居系の地域 … 61
     A 市街化調整区域

  (2) 都市交通計画 … 65
     @ 道路…現都市計画道路の幅員が、大正12年に都市計画法適用都市となった時より車社会になってからの幅員が
            狭いものがある。その見直しや2系統の環状線早期整備。交通手段の整備と交通体系の確立など。
     A 鉄道…豊橋駅・二川駅の橋上駅化、両駅の中間地に新駅建設とともに
            豊橋鉄道線の豊橋駅乗り入れや、 鉄道の持つ輸送容量の認識、
            市内電車等既存の体系と新交通システム採用。
            長期展望では、東三河循環路線網の確立など記載。
            副都心構想は、エネルギー問題が解決されるまで鉄道網のない
            地域での整備は危険が伴うので慎重を期すべきだ。
     B バス
     C 港湾
     D 個別計画

  (3) 公園緑地計画 … 79
      ※太平洋岸高台「細谷地区」の提案は、将来人口50万人を超えた時を想定して市民の週末型レクリエーション用
       として表浜地域に50hを超す広域公園を建設整備することも考えるべきだ。(都市計画図に位置表示)

        また、既設及び新設する公園の一角に、サイクリング、小競技場、キャンプ、アスレチック及びマリー
        ナ、ボート、釣場など市民の健全なレジャーと健康、体力づくりに役立つ施設を併設することも大切
        ではないかと思う。(一部抜)と言うもの。

  (4) その他の計画 … 84

 5U 地区計画の役割とその策定の必要性 … 87
  (1) 住宅地区計画について
  (2) 商業地区計画について
  (3) 工業地区計画について
    @ (1)〜(6) について条件を列挙
       (6)の立地工場にたいしては更に6項目について記載
  (4) 地区計画の共通事項
      12項目の提案事項記載
 5V 豊橋駅西地区の再開発地区計画について

 6.健全で機能的な街づくりを行うための市街地開発事業について … 104
  (1) 市街地整備手法、手順について
  (2) 土地区画整理事業の主な効果について
  (3) 健全で機能的な街づくりについて
      市街化区域の中で土地区画整理事業が実施されていない地区について記載。
     ア 前芝及び下地、吉田方、橋良町、東田町地区について
      イ 高師、幸、磯部地区について
     ウ 岩西、三ノ輪町本興寺地区について
     エ 乗小路、牛川西部地区について
     オ 小池、南栄、二川駅北側地区について
     カ 北島、花田及び豊橋駅西柳生川両岸地区について
      キ 神野神田及び二川駅南側地区について
     ク 南大清水、高塚、天伯及び石巻地区について
     ケ 豊橋駅西地区の再開発について
        再開発地区と隣接する戦災復興未整備地区の複合的整備の手法等を記載。
 あとがき・参考文献 … 127〜132
 追加提案 … ランドマーク施設の建設他



提案書を提出してから、臨海部に教育会館・体育館などが次々に建設される中で生徒を遠くまで連れて行くのはと
       批判との声が教師から聞かれた。臨海部を子供や大人が見るのは、「閉鎖的水域の三河湾」がこれ以上
       海洋汚染されないように、みんなで監視しようとする考え方からであります。
       この市民の動きに対し、企業や家庭は必ず動き出し努力を傾けるでしょう。(報道2014.6.5)
 
       章南中学校三河湾浄化に参加(2014.6)PDF
       10年ほど前から行われているが2014年になってNHKで報道されたのを機会に追加。
       また、海釣り公園駅や豊川市・蒲郡市まで取り込んだ環状鉄道・道路などを記載しましたが、海釣り公園駅
        建設整備は環境問題が叫ばれ次第に流域や三河湾水域の浄化が進み、やがて高度成長期以前のよう
        なきれいな三河湾の水質環境が復元したときの市民へのプレゼント事業と考えたものであります。
       昭和42〜3年当時の四日市港を見て強く感じていたことです。



  ※1. 提案内容が結果的に実現した事項

  @ 二川地区の都市化の現状から営林署苗圃の運営は限界に来ていると考える
     そこで豊橋子供自然公園(13f)隣接の営林署苗圃用地(※27f)を有償譲渡願い、動物園・植物園・遊園地・その他施設を
     加え総合動植物公園として整備することが有効だと考える。
     歴史的にみれば「豊橋子供自然公園」を、都心部の旧動物園からこの営林署苗圃用地への移転後も青木茂市長が営林署との
     コンタクトを持ち続けていたことと、更に都市化の進んだ都市空間用地の有効活用を図る観点から提案した。
     一般社会への処分と比べ緑化の保全も担保される。

     豊橋での集客施設整備効果は、市民が市外に出かける従来構造に比べ家庭の時間的・財政(家計費)的な面にも有効性がある。
     施設運営は市の財政事情等を考えれば委託化が望ましい(財団法人 豊橋みどりの協会設立)
     設立後の新たな問題点「これでいいのか?」 緑の協会が指定管理者になる。(2006.4.1)
     自然史博物館部分は、提案では立体水族館(パイプラインによる取水)となっていた。
     (ラッコ・各種ペンギン・シロクマ等の極地動物館設置で一部実現)
     当時の 青木茂 豊橋市長は、自治体では「日本初の実物恐竜化石」 入手の話を進めていた様子。
     (デンバー自然科学博物館 … 青木茂市長の恐竜展示構想はここから始まった) (衛星写真ラベル)
     ランドマーク施設 … アフリカ園隣接展望塔や大観覧車(50m)が役割を担っている。
     2013年9月追加
     豊橋総合動植物公園に本島雅昭主幹獣医を訪ね2013年6月23日「国道23号豊橋東バイパス」全線開通後7月1日に
     国道23号線バイパスを通り、インターチェンジから動植物公園を目指して走ったが接続部が手当していないが言うと手当
     を考えているの返事が返ってきた。
     北海道「旭山動物園」の手本になったと言われる「豊橋総合動植物公園」の展示手法。更なる動物に優しい斬新な展示手
     法による整備を望む。

  A  二川駅舎の橋上駅化改修と南口駅整備。
     豊橋初のJR二川駅〜豊橋総合動植物公園間に立体的歩行者用通路(ペデストリアンデッキ)建設を提案。
     ペデストリアンデッキは二川地区には建設されず、豊橋駅前に建設された。  写真:ペデストリアンデッキ(豊橋市の都心部リンク)
     (Google Maps画像)
     JR二川駅南口〜動植物公園間の国道一号線交差点には幅広の長いエレベータ付き歩道橋が建設された。
     立体歩道は、豊橋市内全小学校を対象として開かれる計画学習開催地「豊橋市視聴覚教育センター地下資源館」と「JR二川駅」間に
     
も提案
     Google Maps画像)

     二川駅と動植物公園間の道路築造のための都市計画決定。
     道路幅員は、30mから20mに縮小される。
     都市計画道路隣接部の用途地域変更が話題に上る。

  A-2 二川駅橋上駅化については、豊橋駅〜二川駅間の中間(佐藤町の東三河環状線の交差地域)に新駅建設の声が出始め新駅誘致
     の声が市・会議所辺りから持ち上がった。これを認めたら100年経っても二川の駅改修は出来ないと思い二川駅長を通じ情勢を聞いて
     みた。
     二川駅関係者が言うには東海道線で「一番古い二川駅」このまま黙ってはいない。大変な地元負担金もさることながら豊橋総合動植物公
     園・豊橋市自然史博物館、地下資源間館や視聴覚教育センテター、二川宿本陣資料館、各種大工場が立地しており、豊橋〜二川駅の中
     間駅より断じて先に建設を主張するという。工事期間中は待避線路を一時撤去し完成後に元に戻すという計画を聞く。
     (二川駅北口(二川宿本陣資料館)方面航空写真)  (JR二川駅を中心とした航空写真)

  B 河川への橋梁架設国道一号線を安全に渡るための立体道の架設
     (全面高架にならず国一部分にエレベータ付き歩道橋整備
     顛末編 … 2009年になり高架道路の反対は私たちが行ったと聞く。これさえ出来れば区画整理は動き出し豊橋の副都心づくりも夢では
     なかった。市長選挙で青木市長に勝った次期市長の手腕でも、事業着手に至らなかったことは残念である。
     少し東側には高架道路を想定し架橋した頑丈な橋を事前に作ったものの地元民は日陰になることを慮り反対したと言う。
     区画整理による換地指定の在り方や町の発展を知らなかったようである。
     今この辺は「大規模なスーパー」も出来ず不便で仕方ない。出来てもJR二川駅に近く不法駐車に使われてしまう。
     自己の損得計算が先に出てしまうのである。
     付近に出来た施設は、24時間人が通り危なくて仕方ないとも…。

  C 一帯の区画整理の実施は、反対により中止され道路は単独買収。整備は青木市長の二代先の市長になってからである。
     付近一帯は、開発行為等による整備。
     二川駅北側の西部で、小規模な区画整理実施。
     下水道がいよいよ二川地区までやってくる

  D JR二川駅南口前の自転車駐輪場(有料)は市により整備自動車有料駐車場は市・民営による整備。
     JR二川駅南口前横に新たに6か所目の自動車駐車場オープンし、北口前のJR東海バス撤退跡地1か所を含め7か所となる。

  E 岩屋緑地の整備と展望台の高層改修(樹木の成長で展望出来ない状態になっていた)
     更に追加の整備が行われている。

  F 豊橋鉄道市内循環バスは、シャトルバスと変えるなどイメージ・系統を変えてはどうか。

  G 三河港の工業専用港化を避け臨海緑地の他、コンテナー基地など商業流通港及び旅客対応やポートタワー
     なども建設し市民が親しみながら環境監視できる三河港
とすべき。
              商業流通化の観点からのコンテナターミナル化の必要性(1998年稼働)
              ガントリークレーン建設(2008年稼働)  
               三河港務所シーパレスのほか、豊橋総合スポーツ公園・総合体育館の整備
              アクアリーナ豊橋(市制100周年事業) (水泳 5-9月、アイススケート 11-3月、トレーニング 通年)
              (固定席2011席、車いす用スペース10席)の整備
              豊橋市教育会館(ホールや女性会館、勤労会館、勤労青少年ホーム等併設)
              ポートインフォメーションセンターの開設
              市民の施設見学ツアーの実施。
              海上旅客輸送や人間性回復施策等も取り入れことを考えるべきだに対し、
              三河港の自動車産業観光モニターツアーの実施三河湾環境フォーラムの開催、 
              港まつりなどいろいろなイベントの開催
              国内でも最大規模の自動車輸出入の拠点
              神戸市のアイランドは青木構想が原点と言われている
              「三河港」国交相が重点港湾に43港を決定(2010.8.3)
              伊良湖−ラグーナ、交流振興へ 観光実験船の出航式 (客船復活のきっかけか2011.7.25)

  H 「野依・若松地域
           当初市街化調整区域の中で飛び地として市街化区域はいちゃもんだらけだったが「市街化区域」になったこと。
           更に国道23号バイパスと野依インターチェンジの計画が持ち上がり着実に提案が実を結びつつあること。
            しかし、全地域が富士見台地区のように田園(住居)地域とはならず、一部工業地域とったがこれが幸いした。
           当初、愛知海道として期成同盟会が発足し、国鉄時代には豊橋⇔名古屋間の急行パスが届いたように記憶している。
           名豊道路(国道23号豊橋バイパス)豊橋浜松道路国道23号豊橋東バイパス+浜名バイパス)・地域環
           境等 総合的な属性面からみた提案 が奏を効したが、これは訟務関係で国・県・当事者弁護士等の見解やそ
           の後の動向・歴史書などよる参考が大いに役だっている。
           更に、野依若松地域に豊橋浜松道路(国道23号豊橋バイパス)の野依インターチェンジが建設整備され開通した
           残るは、野依〜東細谷地区(豊橋東バイパス)の少し残っている整備のみで、 立体橋梁部分は完成しジョイントか所
           
整備すれば(豊橋浜松道路「浜名バイパス」)と繋がる
      人口減少時代において、平成13〜23年(2001〜2011年)の人口増減状況をみると、野依地区135%、二川南地区112%
       と豊橋市全体102%)を大きく上回り順位で1位・3位になっている。(2011.8.8)
       名豊道路(国道23号豊橋東バイパス)一部区間が新たに開通(2012.3.24)
     ※ 豊橋浜松道路(国道23号豊橋東バイパス)東細谷ICが工事完了。(2013.3..31)。遂に浜名バイパスと繋がる。
       ICは、国道一号線からの浜名バイパス、浜名バイパスから国一への導入路は通過出来たが、本線は工事中で、
       工事作業中であった。(2013.4.25現在)


      青木茂助役と6+1の優等生が100年後ともとれる雑談を、松下龍也都市開発部長当時「青木茂豊橋市長」に「都市空間の
       整備の方向」の中で取り上げて30有余年。まず陳情から始め高規格道路にすれば、折角誘致した豊橋技術科学大学に対し
       ても地元「豊橋市、東西三河、愛知県、近隣県」にも顔が立つほか将来、技科大と三河港の発展に大いに役立つと考えは正
       夢になる。三河港指定から50年。「よくぞ頑張った。おめでとう!」 (写真:国道23号豊橋東バイパスと浜名バイパス
     ※ 横尾豊橋技科大図書館長・石井愛大図書館長と豊橋市図書館の三館交流会で横尾館長が言った言葉。(w
     ※ 豊橋浜松道路(国道23号豊橋東バイパス)全線開通(2013.6.23
     開通後は、国道一号線の交通量(特に大型トラック・バス等の通過交通台数)が驚くほど減少した
     ※ 臨海部・国道259号・技科大一帯・「野依・若松地域」・国道23号バイパス・サイエンスコア・国道1号
        を結ぶ将来の新たな環状交通ルートに関連付けが出来る考えられる。
     ※ 2001年に横浜の緑園都市をみて、「大都市でさえやれば出来るものだ」と改めて感心した。
      国道23号豊橋市内IC一覧(w2013年佐原光一市長時代アクセス道路整備(2014年)
      豊橋技術科学大学とサイエンスコア・国道1号に接続する道路の整備(W5)。
     ◇ 名豊道路(リンク)

  I 東名高速 I C として石巻地区の追加はされなかったが「豊橋本線料金所」として名を刻むことができたこと。
     ※チェックバリアです。(現「中日本高速道路梶v) 2007.5.31 ETC の普及により役目を終え廃止(写真)。
     将来、必要があればインターチェンジ化が図られること可能と感じた
     提案は内陸工業用地造成と、そのアクセス用等々のIC。
     愛知県企業立地 石巻西川地区石巻西川地区詳細) 跡地写真Google

  J 福岡東部土地区画整理内の食虫植物「アカバナナガバノイシモチソウ自生地」が公園として保存されたこと。

  K 石巻山周辺が自然環境保全地域として方向付けられこと。

  L 名豊道路の計画が、国道23号バイパス(地域高規格道路化)として、名豊道路時代陳情を重ね高速道路化を図るべきだとの
     提案が実り実現することとなったこと。
     ※ 日本のバイパス一覧 (17.9.30豊川橋無料開放)
      一般国道23号豊橋東バイパス七根IC〜野依IC間2007.2.26開通(暫定2車線)。
       東細谷IC〜野依IC間の4ICは未開通。
       豊橋技術科学大学の交通には特に気を使ったが、国道23号豊橋バイパスが南側約500mを通り、ICも整備されることにな
       った。
       国道23号豊橋東バイパスの東細谷IC地区の高架橋などの整備が進む。(2009.7.1) 
       民主党政権交代により2012年度までかかる予定(2010.4.24)
       
渋滞緩和策として4車線化が進められていた神野新田地区の立体化工事完成。「豊川橋南IC」で式(2010.10.22)

  M 緑化協定や建築協定等が実現化した様子であること。

  N 低層市営住宅建替えで、用地の利用効率を高めるため中高層化が図られたこと。
     ※この提案の直前に建設された11階建ての市営才の神住宅団地は、地方都市では画期的な高層住宅化で大いに
      都心回帰のモデル的ケースとなる。都心部の民間マンション・アパートの高層化を誘導し都心部の空洞化を抑制す
      るのに役立つ思われる。

     ※2006.9 都心部に商店等が減り高層マンション・アパートが増えてきた。
      エネルギー問題が確立されるまで、自動車交通のみの地区の副都心化は避けるべきの考えは正しかったか!
      (都心回帰)
     ※ダイエイ跡地も17〜18階のマンションになるなど、都心部の住宅高層化が目立ち始める。
     ※2007.5 豊橋駅前「西武百貨店」跡地も住宅を取り込んだ開発が…。
     ※これほど、地方都市の商店街がシャッター街になるとは予想もしなかったが、これも属性からみた「まちづくり」の一環と
      
して考えたものです。
     ※まち中図書館
       高齢化社会になり、予想した通り都心回帰が進んでいる。駅前のサーラタワー(既設)や名古屋銀行支店、まち中図書館
       構想(17階と18階)など17〜18階建ての居住を含む複合施設が駅前大通地区で次々と進められている。
       (2016.3.27追加)
     都市の起こり成長隆盛衰退(変革) → 成長の一端を垣間見た感じである。

  O パーク&ライド方式(2地区提案)の計画検討が市の話題になってきたこと。
     ※提案場所は、属性的にみて交通利便性があり提案20年後に住宅地化が進みスプロール化している。
      警察の交通対策。公共駐輪場整備等による家族送迎車が減少したのか、交通渋滞が少し緩和した感じ。

  P 地区再開発計画
     次期市長から早川市長にかわり再び都市基盤の整備も行われるようになり、JR豊橋駅東口前の一帯が再開発整備されることになった。 
     豊橋西武百貨店の撤退に伴う再開発は初めての施行である。
     この再開発は
豊橋鉄道渥美線を名古屋鉄道線と同様豊橋駅乗入れにすること及び、1980年に執筆した飯田線・名鉄線を立体独立線
     化をはることなども入っていた。全部採用されることはなく渥美線乗入れ用地(佐久間ダム建設時の引込み線用地活用等の提案は事業
     化されることになった渥美線新豊橋駅を西に50m移動し駅構内を複線化し豊橋駅改札口(2F)連絡通路で結ばれる(2008年実現)。
      新駅移設工事に併せ旧西武百貨店跡地なども再開発されペデストリアンデッキも追加整備されることになった。  (関連21)

  Q パークアンドライド方式が、「オムニバスタウン事業に発展し全国的に事業化されてきた。
     豊橋東部地区は、JR二川駅南地域が一般住宅地化されたことや、多くの内陸工業型企業が立地されている
     こと。更に40ha.の豊橋総合動植物公園・自然史博物館という集客施設の誕生などにより、パーク&ライドの拠
     点としてJR二川駅隣接地は活用されなかった。
     しかし、JR二川駅の橋上駅化により駅の南北で利用出来るようになったことや、県道バイパスの整備等と、
     交通行政(警察と国・県・市)の努力により、朝夕の交通ラッシュはあるものの豊橋・二川地区の国道一号線
     の交通混雑は従来に比べの緩和されてきている。
     国道23号豊橋東バイパスが開通すれば、更に交通緩和と環境の向上が期待される。
  R  二川地区が市町村合併後50年(豊橋都心部より70年遅れ)にして、2006年公共下水道工事が始まる
     70年前の豊橋野田処理場は、東洋一の下水処理場と言われた。
     二川南校区地域で公共下水道敷設の各戸測量始まる。(2009.8.28)
     10数年前に土地区画整理事業が地元が反対したため中止になったことが響く。

  S  設楽ダム建設関係 (環境問題と東三河の発展) (設楽ダムの説明)(愛知県の経済圏域)
     愛知県における名古屋尾張圏域・西三河圏域は、既に日本を代表する産業圏を形成しており、
     東三河地域の開発発展は、愛知県が日本の産業全体を牽引する地位確立の要素を備えている。
     土地利用計画は、県下の産業バランスを保つ上からも「東三河全地域」を対象とした土地利用計
     画を図る必要がある。
     ※ 豊川用水の経費負担関係から、浄水場西隣に建設した新浄水場を愛知県に譲渡移管した経緯
     洪水調整や生活・農業・工業用水等悲願の多目的ダム。
     2007年度予算19億円(D17億円、E18億円)。完成予定2020年(平成32年)総工費2000億円。
     ※ 設楽ダム:総貯水量9800万トン。国交省の大規模直轄ダム工事としては最後と言われている。
     ※ 万場(ばんば)調整池(平場ダム:500万トン)は、東三河の山間部と平野部および渥美半島を結ぶ
     水の有効活用を図るために宇連ダムのほか豊川用水事業の一環として豊橋市内に建設されたもので
     宇宙からも見える
     設楽ダムは、洪水調整や生活・農業・工業用水など多目的に利用。
     万場調整池導水路は、工事中にエレベータで降りて入ったが地下鉄も楽に通れるのではないかと感じられるほど広く大きかった。
      設楽ダム9800万m3の日本最後の巨大ダムとして36年を経て、2009年2月5日着工に向かう。ダム完成予定は2020年度。
     2009.9 民主党により全国のダム建設見直しが始まる。  (愛知用水と豊川用水へ) 
     2013.05.20 … 設楽ダム 国交省建設は妥当 愛知県知事判断を保留 (2013.05.20)
     2013.12.18   愛知県知事半年留保していたが計画通り建設が妥当。2013.12.18)
     2014.01.15 … 「設楽ダム建設」愛知県知事正式に国交省にOK回答。負担軽減なども付け加える。
     2014.04.12 … 知の設楽ダム建設 住民の敗訴確定
     2014.10.18 … 設楽ダム建設 八橋で18日「閉区式」

   21.JR豊橋駅の貨物ヤード(佐久間ダム建設時に活用)跡地と廃業した西武百貨店跡地一帯が再開発整備される
     豊橋鉄道渥美線新豊橋駅も何らかの整備がされると思う。(今後加筆) P豊橋駅の整備にも追加加筆
     新駅移設工事も最終段階へ(ペデストリアンデッキも姿見せる2008.4.25)
     新駅移設工事も最終段階へ現新豊橋駅と並列写真(2008.5.21)
      豊橋鉄道「渥美線新豊橋駅」民衆駅全国1号の豊橋駅構内に移転し2008年6月5日より営業開始する。 
      渥美線新豊橋駅一帯へのペデストリアンデッキの追加整備が完成。 
      新渥美線新豊橋駅周辺(道路・ペデストリアンデッキ)整備完成(2010.1.中旬)  (立体歩道の建設提案へ)
      豊橋駅東口前の東側に「豊橋市芸術文化交流施設」が建設されることになる。愛称が「プラット」に決まる(2011.10)

   22しばらく槌音がしなかった土地区画整理事業が平成13年頃からに換地処分した火打坂川2.34haの他、4地区(牟呂坂津
     豊橋駅・東口駅前、牛川西部、柳生川南部計146.95ha)で施行がされはじめ都市基盤整備が再開した。

   23. 飯村土地区画整理事業・岩田第二土地区画整理事業・多米土地区画整理事業〜牛川東部土地区画整理事業で築造した区間を
      繋ぐ東三河環状線「乗小路トンネル」630m」 の工事が始まり2014.6に貫通。
      2013年は、青木茂豊橋市長、国土庁審議官を退官退路を絶って豊橋市助役に就任した神戸芳郎氏も去ってから30年を経過し国
      道23号豊橋東バイパスが完成全面開通といい、東三河環状線乗小路トンネル工事着手・貫通といい、佐原光一市長就任後一つ
      節目の年になった。  (2013.11.28、2014.6.14追加)
      東名高速に接続する東三河環状線 豊川架橋計画が出る。(2016.5.27)


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  ※2.建設位置が変わった施設

  @ 新豊橋市民病院 … 提案では、都心部の調整区域「沖野地区」を埋め立て、1級河川「豊川」への架橋・
                道路拡幅等を行い建設するというものだったが郊外の青竹地区に建設された。
                都心部の市民病院跡地は、経済活動の拠点施設ではなく「こども未来館 ここにこ」となってしまった。
                河合陸郎市長から4代目・青木市長から三代目の市長選の結果はこの跡地利用として「こども未来館」が
                建設されたことが影響したと考えられる。
                青木市長から二代後の市長は、後の夕張市の財政再建団体にならないよう圧縮財政に努め四期目の市長
                戦に立候補するも、都心部の市民病院跡地に商業施設を建てずに「こども未来館」を建設してしまった。
                3期まで順調に東三河の中心都市の建設を進めてきたが、一瞬にして経済基盤の中心的施設となり得るも
                のを逃したしまった。100万都市運営の基礎づくりからはからみると大きな失策であり民主党が多いに期待さ
                れた時期に頓挫してしまったことは誠に残念である。選挙戦も現職が最下位になったことも市民の失望がいか
                に大きかったことが頷ける。

                沖野地区へは上下水道局庁舎が建設された


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  ※3.提案事項の手当ての有無が示す事例

   @ 土地利用強度と地区計画 … 土地区画整理事業が連続して施行される地域では全体を一つの地区計画的に捉え
               将来人口計画を見直し、学校用地を確保する手段を講ずるべきだ。
               岩田第一・岩田第二・平川本町地区に更に中学校1校、と隣接の飯村地区には新設の中学校1校、
               前田南・福岡東部東部地区には小学校1校を位置は特定せず必要校を図示。
               ※3地区で学校用地が更に必要になったが1地区は計画変更で対応(本提案提出前後)。他の1地区
               は地区外(市街化調整区域)に用地確保。もう1地区は十数年を費やし地区内で用地確保し建設。
               東部中学校(昭和57年開校) …1982年 青木市長(提案2年後)建設    
               東陽中学校(昭和63年開校) …1988年 次期市長(提案8年後)建設
               つつじが丘小学校(平成7年開校) …1995年次期市長 (提案15年後)建設  

   A 住民の反対で市が土地区画整理事業の手を引き、後でJR二川駅の橋上化と道路の都市計画決定と築造、歩道橋、橋梁建設をした 
      地域のその後の様子。(2009.10.05)
               JR二川駅の橋上化で南口一帯が、急激な家屋新築ラッシュになり、もはや都市改造しか市街地整備が不可能と感
               じるようになる。(GoogleMaps)
               区画整理もしない内の下水道整備は、一挙にスプロール化へと進んでしまう。

   B 江戸時代の道路網に推進工法を取り入れ「二川地区」下水道整備。
               これは、湖西市などに影響されるところ多し。上下水道局下水関係部局では何故「二川地区」に下水道を敷設するの
               かと異議を唱えた職員もいたと聞くが結果は施工された。(記録のページ2011_1へ)



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  ※4.時期尚早・違った方向へ進み頓挫した計画

     広域公園計画 …人口36〜7万人そこそこの時に、アクシデントに遇うと整備は中途半端で中止に追い込まれ、挙句
      の果てには、市内の関連施設撤収などとんでもない結末を招き都市の衰退や停滞を余儀なくされることに注意を要する。
      リゾートと聞いたが蒲郡市・渥美半島に隣接する豊橋では時期尚早。地権者は夢を絶たれ用地は産廃業者のターゲ
     ットにされるつまずいた時の恐ろしさを知ることになる。人口50万人達成時の市民向けプレゼント消滅の恐れあり。
      It waits just for a moment. と言える庁内環境づくりも青木哲学に学ぶ必要あり。(なぜ今学ぶのか)


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  ※5.提案をしなかった施設

  @ 豊橋市役所新庁舎   企業や住民に直結する基盤整備や施設を優先し、その成果をみて最後に建設する観点からです。


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  ※6別手段で事業化が進められているもの
 
    
豊橋駅西口地区で戦災復興土地区画整理事業が縮小され事業区域から除外された地区に残る都市計画道路で
     三河港に通じる都市計画道路と交差する部分(幅員30m、延長約2km?)を少し残し拡幅工事が進められている。
     暫定では対応しきれなくなったと感じる。(2007.11.5)
     更に、市長も国土交通省出身者に代わり三河港に通じる都市計画道路と交差する部分まで拡幅が進められている。
     戦災復興土地区画整理事業地区域外のほんの僅かな区間の道路とはいえ都心部一本の整備完了が戦後63年余
     を要したことになる。(2009.3)


  ◇ JR二川駅南口地区の動植物公園・自然史博物館に通じる道路の都市計画決定及び、道路整備、橋梁建設、エレベータ付き
     歩道橋の整備も都市計画事業として整備された。(2003〜5) 駐車場・駐輪場等の整備も行われる。
     JR二川駅の橋上化改修がまず先におこなわれた。(2002.4.27〜)
     ※ エレベータ付き歩道橋は、JR二川駅〜豊橋総合動植物公園間を立体歩道(ベデストリアンデッキ)に替わるものとして
     整備されたものと思われる。最低でも通常の歩道橋にエレベーターが付設されると思考した。
     提案は、属性を中心にとらえ将来方向について書いたものです。
    
     結論としては、その地域・土地が持つ属性を認識することが必要と言うことを再認識しました。            

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  ※ おまけ(回顧編)1 … 日本の屋台骨をせおう中部の39拠点(2007.3.7追加。現在削除)

            豊橋の土地区画整理一覧表 12〜3年休眠していた感じ

    東三河の黎明期(無から有を生む) … 県要請の豊橋先駆的事業 

    青木助役邸建築にかかる思い出(2015.3.6見出し追加)

    1.牛川土地区画整理事業の実施(大規模内陸工業用地・環状線用地確保

    2.柳生川沿線土地区画整理事業の実施(三河港に通じる都心部道路用地の先行確保)
      ※愛知県の要請と愛知県知事桑原幹根氏の河合陸郎豊橋市長への強力なバックアップで、低経済地域の広域的経済の
       底上げを計画していたようで、助役には元参議院事務局警務部長を迎えるとともに、休日でも文化会館事務総長を窓口
       に、いつでも県組織が総力で相談にのるなど都市基盤と企業立地に腐心していたようである。
       愛知の経済圏域状況
       河合陸郎(ろくろう)は、桑原幹根知事に熱く語り桑原知事は全力をもって県力を東三河地域の産業振興に注ぐと語る。
       そこには、臨海工業地帯と衣浦港を凌ぐ広域的な三河港の建設をも描いていたようであった。
       愛知県知事・東三河選出県議会議員・東三河市町村長・同議会議員・経済界や東三河の住民が一体となり、地元選出衆・
       参議院議員のほか、青木さんを迎え中央の国会議員・官僚の応援も得ることも可能だ!
       「天の時・地の利・人の和」が揃った今こそ東三河臨海部開発が可能な時だ!早くても遅くても出来ないと語った。
       当時の「不二タイムス」長谷川哲男記者(後の東日新聞社長)、2010年3月 同元社長宅で当時のことについて聞いたところ、
       確か当時は漁業補償問題が大変な時期であったことから、その場にいた多くの人がその「天の時・地の利・人の和」を言ってい
       たと記憶していると語った。

    3. 豊川用水建設のため豊橋市浄水場を愛知県に譲渡 (及び「設楽ダム」建設
    

     4.都市基盤整備と、産業(工業)開発について
     @ 青木茂豊橋市助役の東三河開発構想が … 東三河工業整備特別地域指定へと続く。
      当時、大分県副知事と豊橋への誘いがあったが、オランダの干拓事業を参考に東海道メガロポリス地帯での港湾築造と、陸地
      と橋梁や海中トンネルで結ぶ工業地帯(アイランド)造成などを夢見て豊橋への招致に応じた。営林関係は将来衰退する恐れが
      あり除外し、東三河産業開発研究会に関心を示していたようだ。
      ※2012.12.06修正追加 大分県副知事でなく自民党政調会 行政担当理事への誘いだった様子)  
      全国市長会欧米都市行政視察出発時の写真:羽田空港)(w) (2013.5.31追加)

      青木茂氏は、青木学校と言われた勉強会(市役所課長・係長職5人(昭和37.1昇格後)+東三河産業開発研究会事務局長(豊
      橋商工会議所内)で構成)での開発素案を、中央専門委員や専門調査会(官僚で構成)や委員会(国会議員団)で構成などの助
      言を得てマスタープラ ンとしての成案化を推し進める。
      地元民へは1年半をかけ全校区民を対象として説明会を開き事業推進の夢を講師とて出向き熱く話す。
      港湾に関しては、衣浦港との関係で、名古屋税関外郵出張所長が青木氏の動向に強く関心を寄せていた。(2回ほど会う)
      税関関係は、三河港は当初名古屋税関衣浦支署豊橋出張所であったが、三河港豊橋支署となり衣浦港が出張所となる。
       基幹産業としての日本鋼管は福山への立地となったが、東三河臨海部にはトヨタ自動車・電装等々が進出し、自動車の輸出・
      輸入に関しては、三河港が両者とも日本一になるほど成長する。      
       火力発電所は、送電技術の向上から渥美半島先端「伊良湖岬」への立地など環境面も考え計画素案作成。
      連隊旗講演写真

    @-2 最初の税関所長との出会いは昭和37年に全国市長会等の主催40日間欧米都市行政視察団に参加した時のことである。
      出発は、河合陸郎市長の指示で「助役さんには大きな仕事」が待っている。市部課長に加え、豊橋の全官公署長に参加を呼び掛
      け豊橋駅で見送ることになり、裁判所の判事さんや警察署長まで含め大勢で今後の豊橋発展の基礎づくりに役立つ「外国の先進
      都市視察成功」を祈り新幹線開通前の当時の「東海道線ホーム」でバンザイで送りだしたものである。
      河合陸郎市長には長い間2分されてきた保守合同の実現に続き、助役の海外視察に際し豊橋の全官公署長まで動員するなど実に
      不思議な力が宿っているように感じた。
      当時、青木茂豊橋市助役が全国の並み居る市長の間に入って海外視察団参加には特別なるものを感じていた。帰国時に現地で
      撮った写真が未現像であったため名古屋税関から呼び出しがあり、現像フィルムの確認を受けるため名古屋税関外郵出張所を出
      向いた時に所長さんが出て来て食事を出され頻りに助役の動向を尋ねられた。余分なことは言わいように気をつけた。
      当時の為替レートは1$=360円の時代であった。
      全国市長会欧米都市行政視察出発時の写真:羽田空港)(w) (2013.5.31追加)

      その次の時は、豊橋市議会議長のヨーロッパ出張時の土産品に課税されると言うもので助役から秘書の小澤を使えと言うので、
      木和田為作議長は、精文館書店社長などもしておりお土産に課税されても何も痛くはないが助役の顔を立てるため承諾した。
      それより僕の弟は国鉄豊橋駅の運輸長をしているが新産都市指定運動で助役に知れ使われるは可哀そうだから黙っていてくれ
      と言う。その本意は何処にあるか分からないが青木助役には言わなかった。
      それでお土産は何を購入したのですか税関で聞くと、所得税申告書控えと外国出張帰国時の持ち帰り申告書を出しネクタイを120
      本ほど購入したが時間が無かったので1と書いただけと言う。それは同僚議員や市部課長などに対するお土産でしょう。何も営業
      上の購入ではないと言うと後ほど通知します、との所長の返事。後日、議長は税関から課税通知は無かったと言われた。

    @-3 豊橋に来た当時の助役宅は、都心部の二階建ての住宅を借りていた。
      郊外地に住宅を建てテラスを自前で造ることになり運転手と私も手伝うこととなった。当日伺ってビックリした。市町村合併で豊橋市
      と合併した元石巻村長で当時の豊橋市議の近田宝一さんが来られており、コンクリート練りを手伝うと言う。
      昭和37年の全国市長会等主催40日間欧米都市行政視察後暫く経った時のことである。河合陸郎市長からの話もあったことと思う
      が助役を豊橋の地に根ずかそうとする思いも手伝ったことと思われる。
      その後、近田宝一さんは市議会議長となり続いて子息の近田泰彦氏も議長を経験し孫も市議会議員となった。議長となれば三代市
      議会議長となり(2011.5.13 近田明久氏は豊橋市議会議長になる)それは経済界の神野家三代の「豊橋商工会議所会頭」に
      相対するものになる
      東三河広域連合正副議長:議長近田明久豊橋市議(2015.1.30)


    A 構想推進は、東三河の全市町村長・全議会、全商工会議所・全商工会が参画。
      後背地の内陸工業用地開発と各種産業振興なども、東三河全市町村で愛知県のバックアップを要請。
      その傍らで豊橋市内の全小学校区で講堂等を会場として、昼夜を問わず社会教育の一環として青木学校でまとめた「青木構想図の
      大図面(通称:連隊旗)」で、地元説明会を1年半余をかけ自ら講師として説明し市民の理解をもとめた。(昭和37〜38年)。 
      この「青木構想図の大図面(通称:連隊旗)」は、豊橋市役所や東三河各地域・愛知県・東京など多方面で活躍した。
      …(2010.10.2 青木構想のリンクから追加

    B 東三河産業開発研究会(神野太郎会長)は、青木氏と各省庁・国会議員団への説明や、企業グループ会への協力要請など計
      画推進に全力疾走。
      中部瓦斯社長などいろいろな事業を幅広く手がけ、豊橋では名実ともに経済界の大御所となり三代にわたる豊橋商工
      会議所会頭等(更に神野太郎氏は中部経済連会副会長)を歴任 
      同氏からあなたは若いのに感心だ。「東海カントリークラブ」のゴルフ会員権これから売り出すが
      特別に10万円で提供します。決して損はありませんと言われた。
      数日してお断りしました。この会員権2000数百万円の値が付いたそうだが、不労所得を得る気は当初から無かった。
      安いクラブと低料金のゴルフ場でプレイしたが今でも悔いていない。
      私が退職後、山分一郎(元愛知県農林部長)と同じ豊橋市雲谷町に町住んでいる人から「東海カントリークラブ」のゴルフ会員権は、
       2000万円どころか1億円まではいかないが6000万円以上はしたと聞かされたが何とも感じなかった。(2013.9)

    B-2 NHK大河ドラマ「篤姫」…「西郷吉之助」役小澤征悦を見て   
      青木茂氏(1962年当時豊橋市助役)・神野太郎氏(当時豊橋商工会議所会頭・東三河産業開発研究会会長)とともに、東三河の
      新産業都市指定を民間企業へもデモンストレーションすると共に企業誘致を図るため、三井グループ社長会が開かれる三井不動産
      本社へうかがったときのこと。
      青木氏の自己紹介、神野氏の三田会などのことに続き、当時連隊旗と呼んだ手書きの大きな東三河開発構想図を掲げ説明が和気
      あいあいの内に進められた。
      この時、同席したのは青木学校の優等生の村田泰司氏と東三河研究会の河合彦一事務局長いたことを付け加える。この2人と私は
      市ヶ谷の「豊橋市東京ォに3人で宿泊した。(2013.11.24追加)  
      その合間に青木茂は、「小澤征爾は、三井不動産社長江戸英雄氏の娘婿なんだ」と小声で話された。
      その後のことはウィキペディアで公開されています。
      小澤征爾の子息征悦(ゆきよし)氏が、今「篤姫」で西郷吉之助役を演じているのを見て"ふと"振り返ってみた。

    C 村田敬次郎氏(後の衆議院議員、通産大臣・自治大臣・自民党政調会長歴任)も、時々勉強会に顔を出すなど応援に来
      られた。
      その時、既に首都移転構想などについても持論を展開していたような記憶がある。
      表舞台に出たのは相当あとであったが、懐かしさと新時代の到来に夢を馳せたものである。
      村田代議士誕生は河合陸郎豊橋市長が生みの親のようだ。
      村田敬次郎事務所を訪ねた時期は、青木茂市長が三期目の市長選に敗退し、代々の秘書をホテルで慰労してくださった日
      の翌日であった。
      その日は、議員の随行視察から外された私が、東京での研修を受けていた日であったが慰労会参加のため豊橋に帰り、翌日
      引き続き研修会に行った時のことである。
      衆議院議員の事務所を予告なし訪れたとき、秘書の方が今日は村田先生みえますと言い、先生と秘書の方とともに確かバッ
      チを付けて頂き半日ほど国会議事堂(衆・参両議院・委員(会)室、天皇・皇后陛下控室前、展望塔、進駐軍の落書き跡、食堂
      他)を案内して頂いた。

    D 経済のグローバル化後は、農業が生命を左右する事態になることを予測しておくべきだ。
      要は、儲けることならそれまで農業を持ち堪えられるかと言うことである。
      特に浪崎さんが強く言っていた。
      浪崎さん自身は、フィリピンでスービニアンショップを開きたいと言っていた。

   5. 河合陸郎豊橋市長に豊橋の土地利用で意見を述べた思い出
      戦後、豊橋の都心部「駅前大通」に戦争で焼け出された数十店舗の集まり「大豊商店街」が出来、時代の進展に伴い移転
      することとなり、牟呂用水上に1階が店舗、2〜5階が住宅の県営住宅が数百戸が延々と建設された。
      牟呂用水上への県営住宅建設は、将来都市発展に伴い道路用地確保が必要になった時、用地確保は困難が伴うと思
      う他 都市景観からみて牟呂用水用上への住宅建設は勿体無いと言ったら、 ”生意気だ!君は生意気だ!”
      つづいて笑いながら、「金の無い都市運営は知恵を働かすんだよ」と言われ、これは、桑原愛知県知事と牟呂用水土地
      改良区を取りこんだ僕にしか実現出来ない施策なんだ!…と、親父が息子を諭すように話された。
      (恐れを知らない若く元気な在りし日の懐かしい思い出 )

   6. どてらい男(やつ)の思い出
      今から45年ほど前のこと。NHKドラマ?で「どてらいやつ」のドラマが放映された。
      青木茂氏が城山三郎氏と会う機会がありその時の会話で…、城山三郎氏に市長役のモデルを尋ねたところ
      当時の内郷市長の沼田一夫氏だと密に聞く。(内郷市はその後5市合併により「いわき市」となる)。
      もとより、主目的は新産業都市指定で凌ぎを削った福島県・宮城県地域の視察である

      池田勇人を尊敬する青木茂氏。対する沼田一夫内郷市長は 後の田中角栄総理ばりの豪快な人だった。
      昭和38年に3人(青木茂助役、福井博工業開発課長、若き助役秘書の私…通常は2人。運転手は別)で旅に出かけたとき、
      日曜日に島仙台市長(当時全国市長会長)に会った後「内郷市内」に宿泊した。
      夜 沼田一夫内郷市長が宿舎に訪ねてこられ大いに語り合った。
      昭和37年「全国市長会欧米都市行政視察団」の参加市長(40日間)(2014..1.13追加
      宴もたけなわとなり…、
      沼田市長は、僕の秘密を見せてやると言うなり片肌脱ぐや背広姿の私にコップのビールをぶっかけた!
      ビショビショになるもひるまなかった。その後、訪問者は徐々に増え話は延々と夜中まで続いた。
      後,工業開発課長が内々雰囲気を説明されたが分かっていた。
      ここで内郷市長に乗ってハメを外すわけにはいかないのだ。
      翌 月曜日の朝、迎えの車がきた。乗ってしばらくすると田園風景が広がる中に突如「数十人」いう人が狭い道路の両側に並び
      手を振り青木氏一行3人を迎える。朝早くからの動員である。
      (沼田市長は、このとき土建業の大親分かと?思わせる風貌を髣髴とさせていた。)
      沼田市長が案内したのは、ハワイアンドームの巨大施設であった。
      そして沼田市長は、
      東海道の中央に位置する豊橋市と違って、内郷市は、5市が合併し新市になるが中心部でもなくめぼしい産業もない。
      ハワイアンドーム建設は、炭鉱の町「内郷市」が合併による経済的埋没を恐れての計画のようで…、
      いわば退職金のような経済的緩衝の役割としての考えから計画した。と言われた。
      これは、内郷市民ならず将来のいわき市民みんなの働き先確保と地元物産の販売などへの波及効果創出策と言う。

      その広いハワイアンドームは整備中で、その中の木製事務机で職員食の「わりご弁当」をご馳走になる。
      従業員や市民の目前で来客に対する昼食風景を見せるなど、今までの全てが沼田市長の演出とは想像に難くない。
      時は経ち…、
      2007年だったかNHKの「いわき市のハワイリゾート」の生い立ちを見て懐かしく思うと共に、
      施設がガラリと変わり大きくなっているのに驚いた。位置も少し変わったかも知れないが、冬場の寒い東北地方で
      ハワイアン施設の礎を築いた元 内郷市長 沼田一夫氏のアイデアその先見の明に感服

      だが、以来今日までずうーっと疑問を抱いていることがある
      それは、大東三市?市長のモデルである。豊橋市制80(100)年史の桑原知事に追い迫る写真を見ていると、モデルは河合陸郎
      市長のような人ではないかと…    (写真リンク)  とてらい男(城山三郎)  (城山三郎氏の経歴)

      そのハワイリゾートが東日本大震災の被災を受けた、その後の「スパリゾートハワイアンズ」スタッフの「プロフェ ッショナルな姿
      勢」が話題となっている。(2011.4.23)

      2014.6.1 スパリゾートハワイアンズ NHK放映施設 Google Mams 画像
      画像全体でみると当時ホテル部分は無かったか、施設そのものは当時を思い出させるものがあり懐かしかった。

      ※沖縄県宮古島のフライベント フラダンス ギネスブック(2015年) (豊橋二川校区、二川南校区の敬老会の余興に出るなど全国

        に波及している模様)

   6−2 その内郷市視察を終え帰路につき東北本線を一路東京に進み、福島駅に停車したとき、例の会津若松へ寄りたいのだがと
      言い。それは郡山駅からかと言うと福井工業開発課長は今日中に東京に着くのには無理と言い。結局会津若松へ行くのは諦
      めることになった。2013年NHKで大河ドラマ「八重の桜」放映されることになった。
      青木助役は、殆どが台湾暮らしで戦後日本に来てから10数年しか経っていない。幕末のあった史実をこれから日本国民が徐々
      に知らされていくとことを「会津若松」とは如何なるところであったのか。
      それにしても、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦(戊辰戦争)を台湾で生まれ、37才まで台湾で生活した
      ことを考えると日本の教育に感心するとともに、これから「まちづくり」を進める上では是非見ておきたいところであったに違いない
      と青木助役の洞察力を感じたものである。
      NHK大河ドラマ「篤姫」についてはB-2で触れたが会津若松がドラマになると思いこの項を用意していたものです。
      (2013.1.27


   6−3 都市の港湾視察の思い出
      助役秘書になってから1年間は、助役と視察旅行は行かなかった。
      その代わり、河合陸郎市長とは3回も行ったが多分この中に記載してあると思う。助役随行としては「6」の仙台・内郷市など
      2回である。
      ここでは、初めての視察を写真で遡ってみたいと思う。
      新産業都市指定候補として、「港湾、港湾、港湾」の一直線であったことが甦ってくる。
      「助役さんには大きな仕事が待っている」と言った河合陸郎市長の言葉や「天の時地の利人の和」などと言い、青木助役をし
      て「歴史に残る市長」を目指して並々ならぬ努力をしていたと思う
      その青木助役は、秘書1年が過ぎるや2年目に2回も港湾視察に連れてって頂いた。
      その1回目は、北陸・信越地域の港湾視察であった。
      2回目は…仙台・内郷市である
      如何にして、何も知らない小澤紀明を一人前育て上げていったかを「百聞は一見にしかず」として視察に連れ行ったのか記録に
      残しておきたい。河合陸郎市長も青木助役を利用するためには、秘書の小澤紀明を手なずけておく必要があると考え利用した
      と思っている。
      私は、家庭の事情で大学に行けなかったので「(豊橋市塾)吉田藩塾」で諸般の実践を身に着けようと思い精進に努めた。
      (両先生の子息は私と同年齢。私も両先生を第二の親とも思い指導を受けようと思っていた。
      課長も補佐(市長秘書)も同じことを言っていた。
      ※1回目の行政視察 … 北陸・信越の港湾写真(w
      ※関連
      青木茂氏がもし豊橋への道を選ばなかったら(推理編

   F 青木助役が当時尊敬していた人に後藤新平がいる。いつも言っていたが都市計画についてであります
      関東大震災と世界最大規模の帝都復興計画についてであります。
      池田勇人首相と肩を並べるほどのことで都市計画のことについてはその偉大さをよく語っていました。
      私も「都市空間の整備の方向」の執筆にあたっては意識したものです。(2013.5.18追加)

   7. 愛知用水 (ウィキペディア豊川(とよがわ)用水 (ウィキペディア (設楽ダムへ

      カニの手のような愛知県の知多半島と渥美半島。干ばつに悩んだ両半島。
      今では、日本を代表する農業・工業の生産拠点となっている。ここでも整備は西三河地域が先行した。
      愛知用水には多くのダム・調整池が、豊川用水には宇連ダムのほか東アジア一の万場調整池等がある。さらに日本最後の
      大型ダム「設楽ダムが建設される。              ※(参照)疎水名鑑
      この両用水の「産みの親」の最終ランナーは、知多半島の豪農「久野庄太郎氏」と、当時豊橋市長の「河合陸郎氏」(牟呂用水土地
      改良区理事長)である。
      河合陸郎氏が豊橋市長で、前愛知県議会議長であったことからか、いつも愛知用水の久野庄太郎氏と浜島辰雄氏が作戦・打ち合わ
      せによく来られていた。
      采配は、当時の桑原幹根愛知県知事ということは容易に感じとられる。
      これは、工業整備特別地域指定にあたって国に対する要望は青木茂さんに全面に任せるが、愛知県内に関することは僕(河合陸郎氏)
      が全部やる。
それは、豊川用水の最終目標が「設楽ダム」にあったことは論を待たない。
      万場調整池導水路は、工事中にエレベータで降りて入ったが地下鉄も楽に通れるのではないかと感じられるほど広く大きかった。
      設楽ダム9800万m3の日本最後の巨大ダムとして36年を経て、2009年2月5日着工に向かう。ダム完成予定は2020年度。
      ※万場調整池 青木茂嘉南大しゅう(台湾時代高校修学旅行

   8. 京都「祇園」での京阪神青果市場関係者からの招待懇親会の思い出

      一生に何度も味わえないないところ連れて行く!河合陸郎市長はそう言って東海道線で京都に向かった。
      豊橋からは農協組合長など20人くらい。
      京都・祇園の宿舎に着くと、30人位の京阪神青果市場の社長さんたちが見えた。
      豊橋側は、「豊橋の農業生産物」を購入して頂き感謝しますという感謝状の贈呈。
      京阪神側は、これからも豊橋の農産物を安定的に京阪神へ出荷して欲しいと言う挨拶。
      で宴会に入る。舞妓さんが10数人。
      確かに、これほどの舞妓さんを一度に見るのは初めてであった。
      また、こんなことは何度も出来ないことは確かだ。
      慰労のために同席させて頂いたと思うが、45年経った今も鮮烈に記憶が蘇ってくる。

       翌日の朝”市正副議長や農協組合長の方たち”から、今日は市長から承諾を得ているので「私たちと一緒に京都」の町を見に行こう。
       と言われ、”市長もご苦労さんだったと言ったが”、私は市長秘書をしている”課長補佐の代わりに”随行させて頂いた。
       "豊橋に戻るまでは秘書の努めをさせてください"。 と言うと「河合市長」は分かったと言い、皆さんに方別れの挨拶をして京都駅に向
      かった。新幹線に乗ると今日は日曜日だが、折角君がいるのだから県に寄って行きたいと言う。

       名古屋駅から栄の愛知県文化会館に行く。愛知県文化会館事務総長(副知事に次ぐ要職)が出迎え、県の方が今”豊橋の市長”さんが
      来られていると県庁関係部課か公舎に連絡している様子。すると愛知県の部課長15〜16人ほどが午前午後問わず入れ替わり立ち替
      わり来られ会談・打合せ・要請が行われた。   
       帰りは名鉄電車の特急だった。先に乗った市長が席はここだと言う。そこには揉みくちゃの席の取り合い風景があった。
       今日は、実に「実りのあった日」だった。京都の方はおまけになったよと…、市長のご機嫌は上々。
        日曜日にあれほど、県の関係部課長が県庁から離れている栄の愛知県文化会館に次々来られたのは、河合陸郎市長が京都に行く前に
      仕組んだ行事に違いないと思った。 
      それにしても、桑原幹根愛知県知事にとてつもなく信頼されている豊橋市長「河合陸郎」だなと感じた。
       (若き日の淡く贅沢な一泊旅行)

   9. 昭和38年に鳥羽市〜伊良湖岬(洋上)伊良湖岬〜豊橋市(陸上)を結ぶ道路が国道259線として指定され開通し
      開通祝賀パレードは、豊橋市(蒲郡市)から水中翼船でまず伊良湖港経由で鳥羽市まで行き、鳥羽港で出発式を済ませた
      河野建設大臣・上村千一郎代議士(後の環境庁長官)一行50人を水中翼船で迎え。一路 伊良湖岬までの洋上国道を水中翼船
      で渡り、伊良湖岬からは大臣や代議士・首長を乗せた乗用車、続いてバスなど10数台がまだ舗装がしてなく47kmをグレーダをか
      け
ただけの新国道を豊橋市までパレード。豊橋市内で祝賀会が催された。
      その時の水中翼船内の河野建設大臣・上村代議士が入った写真を梅村清氏(ホリデイスクエア、現ホテル日航豊橋を建設)が記念
      だと言って届けてくださった。
      2010年10以降「伊良湖〜鳥羽」間の伊勢湾フェリーは、経営難から航路廃止を発表したが、名鉄・近鉄の債権放棄と愛知・三重両
      の支援、伊勢湾フェリー会社の人件費削減などで航路存続が決まる。(2010.8.20)
      開通式の記念写真2013.5.23UP(w 開通式の記念写真 2013.5.30UP(w

  10-1. 新産業都市指定運動の一環で業務終了後「名古屋市内のホテル」へ動員で行った時のこと。100数十人が会食する段になったとき
        大野伴睦副総裁の前の席があてられたこと。
        これは明らかに「青木茂助役」を意識して強引に豊橋市議の有志によって仕組まれたものと感じた。
        40才になり市議会事務局議事課長補佐に異動後「議員行動」を身を以て知る。
        青木助役と大野伴睦副総裁とのいきさつは聞いていたので、変に勘繰られないためにも目立たないよう注意したことは
        今でも覚えている。

  10-2. 設楽の大地主の穂積七郎代議士(社会党)と、その兄が度々河合陸郎市長のところへ来られたこと。(設楽ダム建設との関係?)

  10-3. 漁業補償を激しく追及していた共産党の和出徳一氏(後の県議)が、茶道具一式を引っさげて市長さんたまには「穏やかな一時を過
        ごしましょう」と市長室を訪れ河合陸郎市長にお接待をしていた様子。

  10-4. 歌手の大津美子さんは豊橋出身で、度々郷土に来られみんなで記念写真を撮ったこと。
        NHKテレビやラジオ深夜便を聞き懐かしく思い当時のアルバムをデジカメで撮りUPする。
        浪崎敏武さん(広報課長)、岡本康男さん(課長補佐兼秘書係長「市長秘書」)、杉元正彦さん(浪崎さん異動後岡本さんの後任と
        して課長補佐兼秘書係長「市長秘書」)、広報係の清原典雄さんは今はおらず。元秘書係の女子職員2人と助役運転手、と私、
        大津美子
さんは今も健在。 (2013.4.28UP)

  10-5. 山下清画伯が来訪した時、記者の質問に対し「市長さんは市で一番偉い。兵隊の位で言えばやっぱり大将だ!」と言ったこと。

  10-6.. 河合陸郎市長のご家族一家と一夜を設楽町の塩津温泉で過ごしたこと。
        その時は、豊橋輿論新聞社長の太田幸治さんや、市広報課の人なども加わり大変和やかな楽しいひと時を過ごしたことを思い出し
        ます。
        河合市長には、このほか「職場の箱根一泊親睦旅行」など3回ほどご一緒くださった。

  10-7. 河合市長は日ごろ度々言っていたことがある。それは僕「河合陸郎」と「豊橋市長河合陸郎」では河合陸郎の方が名が知られてい
        る。「河合陸郎」に「豊橋市長河合陸郎」は及ばなくなる。    
        君に渡した「自主自立」の色紙に烙印を押しておこう。
        そして、「君自身の行いが他人から敬まわれるよう努力しなさい」と言われた。   (河合陸郎)  (豊橋市長河合陸郎
        その時に母親孝行の品として浴衣の生地を頂いたのである。

  10-8高橋衛経企庁長官夫人を青木茂夫人とともに三ヶ根山一帯を案内したことなど懐かしい思い出がまだまだあります。

   11. 日本鋼管の岡山県水島地区への進出に伴い、新たな基幹産業の誘致が検討され、トヨタ自動車誘致の話が密かに進められた。
       愛知県知事桑原幹根へのバックアップ要請は河合陸郎市長が、トヨタ自動車本社へは青木助役(後の市長)が行くことになった。
       当時、市長車はトヨタのクラウンが助役車は日産のセドリックだった。しかしトヨタに行くにはトヨタ車で行かなければならない。
       しかして当日は、市長・助役車を交代しトヨタ本社へはクラウンを使用することになった。
       立地は東三河臨海部であればと言うことから、豊川河口には六条潟という特殊事情などにより豊橋地区埋め立て面積が縮小と共
      に、事業所税が課税されない人口30万人に満たない田原町に進出することとなったようである
      この時、青木茂助役室から「オーイ・おざー君」と呼ばれ助役室に入っていくと「田原町長」を呼んでくれと言う。余程日本鋼管が水
      島地区に持っていかれ「トヨタ自動車」も田原地区に立地することが悔しかったであろう。
      さすがに、田原町長を庁内の部課長を呼ぶのととは訳が違う。課長と課長補佐(市長秘書)に話すといくら助役が気にくわないからと
      言って田原町長を高飛車に呼ぶようなことはせず、「どうしても豊橋の助役が田原町長さんにお話ししたいことがあるようです。恐縮
      ですがご足労頂けませんか
」で纏まり電話した記憶がある。
      豊橋の努力が東三河のためとは言いながら、美味しい所は田原町や渥美町などに次々と持って行かれてしまう。
      この当たりになると、自宅に帰ってから私も鬱憤がたまり、自宅で一度だけ卓袱台をひっくり返した記憶があります。この時、後にト
      ヨタ自動車本社経理部に入った妹が文句も言わず母と二人で畳みに散った味噌汁を、紀明には余程辛いことがあるんだと黙々と拭
      いてくれた情景を思い出します。(2010.12.19追加)
      また、当時の西野監理課長(後の助役)は、小澤君これで豊橋地域は公害を回避できると考えれば程度の差こそあれ、将来を見通
      せば「”我慢”これは一つの方策ではないか」と慰めの声をかけてくださった。(2014.06.27追加)
       三河港の行政区域線は、トヨタ自動車社の輸送船接岸水域は豊橋市の行政区域となった。

   12豊橋を含む東三河広域協議会は東三河9市町村が合併して政令市移行するメリットなどまとめた「広域合併・道州制に関する研究
       報告書」をまとめた。 それには明らかに道州制を踏まえ静岡県湖西市等を考慮しているようだ
。(池田輝政当事の吉田領だが、新市
       名には当然何ら触れてない。) (池田輝政の石田光成襲撃) 400年後の旧吉田藩域
      ※幕末に編纂された『徳川実紀』に、ようやく三河国を東西に分割して、西三河(矢作川流域)、東三河(吉田川流域)と呼称するよ
      うになったと思われる
      1961年〜1963年の間、青木助役と青木学校の優等生一行7人は、東三河全市町村並びに静岡県西部地域(湖西市等浜名湖以
      西)を隈なく土日祝日を活用し現地の状況把握に出かけたもで、私が助役秘書(1962.1.1〜)となってからも今度の日曜日は
      東三河はもとより浜名湖近辺をじっくり見てくる。言われたものだ。江戸時代の吉田領全域について勉強していたようだ。
      2009年10月10日湖西市内の人数人と話し合ったところ、新居町は湖西市に吸収合併となるが浜松市への合併はまずない。経済
      面からみても豊橋市との結びつきが強くなると思われると話された。
      私も1970年代半ばに土地区画整理全国大会が名古屋市で開催され、最終日に大型バス10数台で愛知県における現地説明が行わ
      れた際豊橋地域の説明の説明をバスごとで違ってはまずい。ついては10数台のバス説明統一した原稿を作って欲しいと言われた。
      そこで、個々の区画整理事業地区の説明に先立ち東三河地域を取り上げたが、それは池田輝政時代の静岡県浜名湖以西の旧吉田藩
      領について取り上げ、この広大な両地域のことを岡崎市でバスを引継ぎ豊橋市に着くまでの間に案内する統一原稿を作成した。

      豊橋市は、もう50年以上どことも合併していない。
      今後は、第一義的に「東三河地域の母なる都市ととして東三河地域の発展のため貢献すること」が求められている。
      そして、静岡県湖西市地域にも心して対応し、梅田川の清浄化に務めるため「豊橋市内では”何でと言われても”江戸時代の街並み
      に下水道整備に推進工法も取り入れ整備を進めている。
      三河港整備にしても豊橋は東三河や他地域のため自制している。
      豊川市は、三河湾に面した所まで合併し面積や市力を上げている。
      蒲郡市も近隣と合併し力を上げている。
      新城市も近隣の町と合併し力を付けている。
      田原市は、近隣の町と合併し渥美半島全域を市域とし力をますます蓄えている。
      東三河には、まだ大切な設楽町・東栄町・豊根村がある。この広大な三町村無くしては上下流の発展と環境保全が保てない。
      豊橋市の人口は、40万に満たない中核都市であるが、広域合併となれば「市名」は「東三河市か、穂の国市か、新市名か?すべては
      これからの問題であり」各市首長・議会・市民がじっくり協議して決めれば良いのではないか。と話す。
      現在のトヨタ自動車だって、豊田佐吉が現在の湖西市から二川に出てきて大工として働いていた時のヒラメキから自動織機を発明する
      きっかけになったと言うし…。 
      百万都市が言われ出したのは、今から50余年前の1960年(昭和35年)の青木構想時代である。
      河合陸郎・青木茂コンビが出現した時のこと、将来を想定してか流石の杉浦民平も論文を書いたものの活動を止めてしまったと言う。
      これで、先を越された政令指定都市浜松市と互角になる。
      両地域は江戸時代から互いに張り合ってきたのだから、これからも切磋琢磨して頑張ろう!
      三遠南信地域エリア
      (w「三遠南信エリア」・「リニア新幹線想定ルートイメージ図」)
      豊川用水の受益地域(PDF)…東三河・西遠地区(湖西・新居地区への工業用水網整備)などの結びつき。
      これら三圏域が合併すれば、東京都・大阪都・中京都に比し遜色のない日本有数な新自治体となるであろう。
      東三河はひとつ(広域連合の設立に向けて)  2013.11.1 広報とよはし
      東三河広域連合(仮称)設立に向けて (2014.11.01 広報とよはし
      豊橋・湖西・田原の市議会議長が協議会を設立(2014.12.19) 豊橋7、豊川4、蒲郡・新城・田原各3,設楽・東栄町・豊根村各2
      東三河広域連合愛知県知事認可日(2015.1.30初代の東三河広域連合長に豊橋市の佐原光一市長
      東三河広域連合正副議長:議長近田明久豊橋市議副議長太田直人豊川市議を選出
      東三河広域連合設立(2015.4.1)(広報とよはし)
      全国の広域連合(府県を超えた広域連合も有り


   13. 昭和37年(1961年)シャープ社長・東都製鋼社長・中部電力社長・神鋼電機社長・名古屋鉄道社長・三菱レーヨン社長などが相次
      いで河合陸郎市長・青木茂助役に会うため来庁した。
      忘れられないのが日曜日に神鋼電機関係で外国人ばかり10人位(全て英会話)が市長面会のため訪れた時のこと。 
      市庁舎を警備員に言い開けてもらい、青木学校の世話人の秘書係女子職員3人に出勤を願いお待ちした。
      来訪者を正面玄関で出迎えると、みんな一斉に通訳を交えずペラペラと英語で話しかけてくる。
      市役所内の市長室には、市長1人だけである。
      会談の内容は、今度豊橋市に神鋼電機が進出する。都心部の「開発ビル」に事務所を設けるが、インダストリアルパークを目指すと
      言うもの。会談は終わり、警備員に玄関を閉めて頂こうとしたところ…、
      市長が登庁していることを嗅ぎ付け県立時習館高校教職員・PTAの一団が押しかけ、分校・農業科廃止反対など更に長い時間側面
      協力・要請に関しての話し合いが行われた。市長はよう嗅ぎ付けたなと前もって知っていたようで、もうひと踏ん張りだと応じた。
      同社は当時、豊橋の開発ビルに事務所を開設したがその最初の職員に従妹が入ったと聞いたときにはビックリした。
      その家は、母方三姉妹の一番下の妹夫妻の「長男の妻」兄弟が警察官(後に私が議会事務局に在籍したとき兄弟がそろって次々に
      豊橋警察署の警務課長にその後一人は田原署長、もう一人は県内のある署長)になるなどいろいろ驚かされることばかりであった。
      (2013.10.14追加…トヨタ自動車本社に入社した私の妹と同じ年(終戦時)に産まれたその従妹が68年過ぎし昭和の思い出)
      その神鋼電機も2009年4月1日 「シンフォニア テクノロジー株式会社」 へと社名変更することとなった。

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  ※ おまけ2(回顧編)

        短い期間だったけど、河合陸郎氏、青木茂氏にはいろいろな秘策を伝授された。

     @ 外遊に当たっては、大企業から餞別などもらうな! その位の金は僕が用意すると言ってくれ。
        僕には、ある程度の金銭を出す余力と策がある。
        これを放置すると、自治体の統制力が弱まり命取りになる恐れがある。

     A 誘致企業の社宅用地は、3か所以上に分割分散するのが望ましい。
        国・県・市の基盤整備は同一とはいかない。一か所に纏めれば団地内で企業内部的要望が出て行政に圧力がかかってくる。
        分散して各地区毎に出る要望に対応するようにして調整するのがベターだ。 
        イギリスの植民地支配の運営に相通じるところがあり研究する必要がある。

     B 学校長などへの昇進は、学閥や教員間の派閥などの問題で将来大きな支障を来す恐れがある。
        油断すると、教員の昇格や採用にまで波及する恐れがある。これを抑止するのは今のうちだ…、
        教育長は、学閥や交友関係のない行政職を起用する。義務教育課長との間にも一般行政職の登用など牽制策を考える!
        青木茂市長時代、教育長は行政職から起用した。3期目の市長戦で敗退するや元の学校長からの起用に戻ってしまった。
        僅か8年間に満たなかったが学閥などを排除するなど大きな功績を残した。(昭和50年〜58年)

        (2014.3.7追加)

     C 僕は「囲碁・将棋・マージャン」もするが、人事に「仲良しクラブやお遊びクラブ」は通用させない。
         あくまで仕事の意欲と能力本位で行う。
        エコひいきもしない。
        人事に合理性のないナニワブシは通用しない。ただし、市民への思いやりは別問題だ。見ていてくれ!

     D 戦後日本社会党がトップになり、片山哲内閣が出来たが青木茂助役(後の市長)が参議院事務局警務部長だった頃、「ぐず哲」
        という「あだ名」で呼ばれていた話された記憶がある。経済もどん底で何も決めれず党内からの付き上げからだったようだ。
        政権をとったとしても確固たる政策を持たなければままならいものだ! 
         記録のページ別記2006編へ

     E 35才で行政不服審査請求訴訟業務で奔走している時、青木市長は特別に私の後継者を育てるため名古屋大学法学部卒の人を
        指定し私が区画整理課係長に抜擢された時に採用配属された。人事課からは特別な人事だから他に回すような配置はするなと
        課長に言われたようだが、1年目から即その職員に引き継ぐことは無理である。1年指導して次年度から必ずそのようにすると言い
        了解得た。青木市長1期目の時である。

     F 神野新田地先の三河港臨海埋め立て構想用地が漁業関係で県(国)から縮小を求められ、漁業補償が終わっているにも関わら
        ず縮小のままでいる。そこは六条潟で三河湾全体の稚貝が集まるところで日本最大の貝出荷県の聖地となっている。
        その貝出荷が近年ヘドロの堆積などでピンチにたっている。
        その解決方法が青木茂「戦前の台南州産業部長」71年前の30才時に「海を耕す」と言うアイデアを台湾水産協会に投書したとこ
        ろ賞金15万円を貰ったとある。これはまさしくジオパーク登録(復活)に繋がるものである。
        うみを耕すは、国産アサリ激減の謎を追う 潮干狩りが中止に!でNHKでも放映されている。

     G 豊橋市東雲町に河合陸郎・丸山薫・小柴昌俊というそうそうな方が住んでいた
        豊橋市東雲町はとても狭い区域である。ここに豊橋市長となる河合陸郎氏詩人で愛知大学教授の丸山薫氏ノーベル物理学賞
        の小柴昌俊氏が住んでいたことを下山会計事務所(河合紋七氏「長女嫁ぎ先の事務所)で聞く。
        河合陸郎市長は、私の同級生の父親で豊橋市公民館長をしていた人を内山先生と言い、また私をあちこち視 察に連れてってくださ
        ったり、兄の結婚式にご祝儀の酒を届けて頂くなど薄々感じていた。
        また、昭和20年6月19〜20日未明にかけ豊橋空襲の際、2才の妹を負ぶって逃げてくださった河合紋七さんの奥様
        このいきさつを知っていれば自慢の妹は違った道を進でいたであろう。
        その後もシグナルは幾つも感じたが母親は「河合陸郎市長」宅に顔を出さなかった。シグナルは感じていたいたであろうが、すっかり
        怖気しまっていたようであるが母親の気持ちを考えると何も言えなかった。すべて私がお礼へ言った。
        青木茂市長とは数奇な運命をたどることになる


    U  私も古希を越す時期に達したので、こればかりは墓場まで黙って持って行こうかと思っていたが、一応書くスペースを作って置
        いたので書き留めておきたいと考え直した。(2010.5.04)
        それは若くして助役秘書に就いた時のことである。多分荷が重すぎると感じたらすぐ異動との河合陸郎市長のお試し人事
        だったと思う。事実、半年で異動させられた上司もいた。
        それは市長の取り巻きと思われる人たち(農協組合長・会社社長・報道関係者(編集・社長)・文化人・市議会議員・商店主)が
        昼となく夜(青木学校の勉強会 pm5:30〜8:00、土曜日はpm1:00〜3:00)となく訪れ、人(品)定めをするようにいろいろな話し
        をされた。
        そのような中で何時も出てくるのが、市長のことで悩みがあればいつでも俺のところに来い!相談にのってやる。 ただし、
        青木助役のような旧帝大出・参議院の部長をしたインテリは俺にはどうしようもない。頑張れ!というものである。
         そんなある日、青木助役から「河合市長は”暴れん坊のボク”」を使いこなせるかな?の言葉が発せられる。
        この前後のことは、回顧編の中に書いてあるのでご想像頂けるとことと思う。
        月日は過ぎ助役秘書の役目を終え異動後の数年経ったある日のこと、助役宅へ伺ったところ「奥さま」から以外な言葉を聞いた。
        3期目も終わろうとしている。もう、そろそろ選挙の番は回って来るのでしょうか?と。
        そして河合陸郎市長は4期目の当選を果たすや時期をみて途中で辞職し、混乱もなくスンナリと青木茂市長へとバトンタッチを
        果たした。
        想えば、青木茂助役、神野太郎東三河産業開発連合会長(豊橋商工会議所会頭)と共に「漁業補償と三河港の造成・工業整
        備特別地域の指定」そして「豊橋技術科学大学の誘致」を成し遂げ、豊橋の歴史に印すことが出来た。この上は、…
        青木茂(助役)の大いなる功労に報いるため … 任期途中の辞任は正に周到に準備された河合陸郎特有の秘策と思えた。

        その青木茂氏私が助役秘書を離れる少し前に河合市長は帝大出で暴れん坊のボクを見事に使いこなした」と言い、
        これからは、いつまでも「市長さん」とは言えないので「先生」と呼ぶことにした言った。
        また、ボクの泣き所を実にうまく掴んでいるあの感覚は新聞記者時代に培ったのか不思議であるとも言った。
        (2013.4.28追加)

        今から思うと、随分と前から心の準備を進めていたもんだと感心した。あの奥さまの囁き言葉が蘇えってくる。
        当時、青木助役の周辺では「先生」と言うのは国会議員のみで、県議・市議は○○さんと統一して呼んでいたからである。

        ちなみに、土地区画整理事業にかかる大規模内陸部工業用地(保留地、坪1000円で先行譲渡)に係る最終事務処理や、
        三河港に通じる都市計画道路用地(保留地として確保。同地は仮換地対象とする)の愛知県先行譲渡(坪価1円した
        ことのその最終事務処理が共に私にまわってきたことなどは実に運命的なことと感じた。
        河合陸郎氏の市長辞任には、まだ未知なるドラマが隠されていると思っているが暫くソオーットしておこう。

    V  豊橋市牛川土地区画整理事業(286.2ha、昭和36〜52年)の審議会長石川彦作さんは、自からも牛川東部土地区画整理
        組合理事長(21.89ha、昭和38〜43年)として東三河環状道路用地を保留地を組合で確保し愛知県へ売却し愛知県営住宅
        を誘致したほか、豊橋市土地区画整理組合連合会を結成し、愛知県知事表彰も受けるなど市と地元の基盤整備に貢献された。
        青木茂・高橋アキラ両氏の大激戦となった豊橋市長戦直前に上村千一郎衆議院議員、青木茂豊橋市長、高橋アキラ愛知県議
        会議長、当時の大原直治郎連合会長や多数の各土地区画整理組合理事長、松下龍也都市開発部長・藤村隆区画整理課長
        などを交え受賞祝賀会が催された。
        それから半世紀経過した2013年に東三河環状線にかかる「牛川トンネル(仮称)」の工事が着手、2014.6乗小路トンネル
        して貫通した。
        私も次期市長により県営住宅団地を地区内にもつ牛川東保育園長として1年ほど勤めた。 (Google Maps)
        (2013.11.25)

    W 藤村隆区画整理課長が定年退職する際は、豊橋駅前の旅館に100人以上が集まり賑やかな送別会が開かれた。
       送別会は大々的に行われ、当日私も初めて会った作曲家の伊藤雪彦氏も東京から駆け付けた。
       当時は、豊橋市の土地区画整理事業が市施行、組合施行を合わせ10事業程度行われていた隆盛期の時代であった。
       再就職先は「区画整理組合連合会」で、始めは区画整理課の直ぐ横に設置された。愛知県庁を退職し愛知県区画整理組合連
       合会に再就職した方もちょくちょく来訪し一体的運営していた。
       その後、豊橋市職員会館ビルに移った。藤村さんが退職し専務理事(事務局長)になった時は、豊橋市職員会館に移ってから
       であった。

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 ※ おまけ回顧編 3


     @ 建設省係官を豊橋に招いたこと
        ○○さんが係わった行政不服再審査請求でのこと。
        再審査請求にかかる弁明書の説明のため、行政不服審査請求採決庁愛知県と処分庁豊橋市が本省へ説明に行った時のこと。
        愛知県出向時の都市計画課長で、本省に戻り区画整理課長となった課長に挨拶。(その後、浜松市助役に出向し当時別々であっ
        た浜松駅の東海道線を高架にし新幹線駅新浜松駅との一体化などにも活躍。…検索しても出てこないが確か高桑課長と言われた
        と記憶している)。
        本省区画整理課長: 法務担当の人とは課長の私でもなかなか会えないので並んで順番とっておいた方がいいと言う
        愛知県と豊橋市: 私たちは呼ばれたので大丈夫ですと言う
        本省では夜遅くなることが多いらしく名古屋・豊橋から出かけた私たちの方が早く着く。
        約束時間どうり係官が来て挨拶の後
       
本題に入り愛知県による換地指定処分取消後の換地指定はどのようにしたかの問いに
       
豊橋説明:採決に不服があれば行政訴訟に訴える方法があるが訴えず、県の取り消し処分に従うことにした。
        弟さんの出された審査請求は兄弟喧嘩の中で行われたと見ております。お兄さんの出された再審査請求は元に戻せと
        と言うものであります。換地処分の取り消しに伴い…、
        換地処分に伴い解散した土地区画審議会委員や土地区画整理事業の評価員を、法律に基づき自動復帰手続きを取りました。
        次に取消された兄弟の換地を、再度割直して審議会に諮問、評価員による評価を得た後、換地計画案を2週間縦覧して決定
        をし、換地指定処分通知書を発送。

        豊橋での現地調査について…再審査請求が提起された土地は、どのようなところか現地を見させてください
        本省:
特に、一度決まった土地評価をどのようにして全体を一致させたのか聞きたい。
        豊橋:先ほど説明したようにで変数を乗じ全体に影響しないよう評価員・審議会委員に説明して同意を得た旨説明。

       
本省そうでしょう。仮換地でなく換地処分時の処分取り消しは余程の違法・妥当性が欠ける場合以外は取り消しは簡単に
            取り消しするものではありません。今回のように元に戻せとの審査請求が棄却されると、再審査請求が出されます。
            正方形の角地で何故交互に不満が有るのでしょうか? どのような形状の土地が確認したい。

       
本省:一度、調査に行きたいと思います。当日は福岡県の研修生も同行させたいと思います。
        来訪時は、松下龍也都市開発部長が青木茂市長に来訪目的を説明。
        その後、現地を説明。
        この都市計画道路沿いの角地の兄弟が個々に所有する宅地は、弟さんが一角に住宅建設しており、両者あわせて正方形の土
        地となっており、仮換地指定に際しては両者からは何の不満も出ていない。今回も家屋移転が伴わないようにした。
        弟さんは半年は外国で暮らしているようです。
        今回 の再審査請求は、審査庁愛知県が処分庁豊橋市の換地指定処分を取り消したことに対する新たに換地指定処分に対し、
        住宅を建ててい ない兄から元に戻せと言う再審査請求が出されたのであります。と説明…
        本省役人からは背景がよく分かりました。これら行為を心し今後の指導に役立てたい。と言われた。
        国も愛知県に対して再審査庁(建設省)から見ても何ら違法性のない処分を何故取り消したのかとキツイ指導を受けたようだ。
        それは本省係官が調査のため来訪した後、県都市施設課に行った時のこと副長が出て来て、いきなり「おみゃーさんはよう」と
        ひどい剣幕で攻めるよう言葉を発したからである。だがそれ以外は何も言わなかった。
       
        再審査庁の「建設省都市局区画整理課係官」来訪時、松下龍也部長からは君は本省役人を呼ぶなんて代議士のようなことをす
        るな!と言われた。
        しかし、河合陸郎市長に○○を受けた○○さんがどうして河合陸郎市長在任時の行政行為にこのような行政不服審査請求の審
        査に対し圧力をかけのか未だにガテンが行かない。

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     A 地区外の土地と等価交換を行い一大難関を乗り越えた話
        都心部の戦災焼け残り地区での土地区画整理事業のこと。仮換地の指定に当たっては条件が合うものは、出来るだけ地権者の
        要望を聞くことにした。希望条件が合致しなしものは原則で仮換地割をする。
        で結果は、行政不服審査請求が108件提出され、更に建設大臣あての再審査請求や、隣接事業の行政不服審査請求など180件
        余に上ったほか、行政訴訟も数件提訴されなど…、
        政党や議会も割り込みテンヤワンヤであった。
        この行政不服審査請求や国に対する再審査請求は、当初豊橋市内の弁護士も相当数受けており弁護士事務所に伺ったこともあった。
        そこで申したのは決して豊橋市は負けるようなことはしていない。裁決書をよく読んでください。豊橋の弁護士さんに変な評判が立
        たないことを祈ります、と言った。
        暫くして次からは浜松市内の弁護士を通じて次から次へと審査請求・再審査請求が送られてくるようになった。
        こんな時、課の課長補佐からは君だけ「名古屋や東京に何度も行くのは不公平だとか、人事当局からは(手当も出ない)時間外勤務
        で弁明書作成は謹んでくれと言ってくる。負けても構わないとも言う。どうせ議員などから労務管理について突っ込まれていると思
        った。 (2010.9.20追加)
       
1975年頃、事業を白紙に戻せば市長も交代を余議なくされる。
        騒ぎを嗅ぎつけてある都市の総務部長と助役の間の職にある方が訪ねてきた。
        聞けば、事業を白紙にしたところ責任問題もうやむやにしたため、市長選で現職市長が敗北したとのこと。
        ところ変わって豊橋市。総務部長を通じて市長に、○○市では土地区画整理事業を白紙撤回したため市長選挙で現職敗退した
        そうです。 いま、暫く辛抱してください。必ず解決策を見つけますからと言う。
        豊橋市には、郊外の組合施行土地区画整理地区内に市有地がある。これを役立たせるせる方法はないか?
        豊橋税務署経由で国税庁に問い合わせた。
        中心市街地の保留地減歩も取れないような地区で、減歩相当分を地区外で行われている土地区画整理事業で、豊橋市が保有している
        市有地を買い求めを買い求めて頂き、戦災焼け残り地区の減歩相当分として等価交換する。小宅地の救済と移転補償費抑制のため
        豊橋市所有の土地の譲渡価格は評価員の意見を聞き市民が納得する価格とした。
        等価交換に当たっては1件毎に税務署長の承認を受ける。
        これが出来るや反対は条件闘争に変わり、今まで1班4人×5班で実地調査をし行政不服審査請求書に対する弁明書書き、
        浄書(タイプ打ち)していたのが不要となり事業は順調に進んたのであります。
        平成になってある都市の「テーマパーク遊園地」の破たんが耳に入ってきた。
        ひょっとすると思い○○市ではないかと思い調べてみた。そこには誰も責任を取らない○○市と言う文字が見られた。
        土地区画整理事業を失敗しても責任取らない。他方「テーマパーク遊園地」破たんしても責任取らないとある。    


     B 80億円の攻防戦(3.3u当たり1000円で保留地として先行売却、 → それが地価高騰で10万円/3.3uに!
        「無から有を生む」の事後処理


       これは、豊橋が愛知県知事桑原幹根氏を立会人としてと、豊橋市長河合陸郎氏と進出企業の間で取り交わした土地売買契約
       に関わるもので当時の時価で契約金額を受け渡しがあった。それは高度成長前の月給が25才で8,000円にも満たない時代の
       既成市街地の地価が2000円〜3000円/坪の時代の頃であつた。
       坪単価1千円、8万坪、計80,000,000円で売買契約。(売買代金は、契約時に受け取り換地処分時まで定期預金で保管)
       もう一つは、三河港に通じる県都市計画道用地市街地部分先行取得である。用地は将来三河港へのアクセス道路用地として
       確保しその代替地は一般換地として市民に渡すというものである。
       これらの換地処分が土地高騰後に行われることから財政的観点から大きな問題をかかえることにになる。
       そこで前もって国税庁・法務局・愛知県に相談することにした。
       市の当時の担当者は助役(青木学校の優等生)になっており、換地処分時は収入役・理財部長も加わり決裁が両者間を行ったり
       来たりで決裁が進まない。
       最後は、当時の理財部長が君が苦労しているのだから僕が収入役の意見に従うと言われた。
       この間、…
       
県は…担当課の副長が「おみゃアさんはよう!」とくる始末で、契約と共に当時代金が入金していても今の時価で収入がない限り
            換地計画は承認しない」と言う。
       国税…豊橋税務署を通じて国税庁に照会、合わせて名古屋法務局豊橋支局長にも相談し登録免許税のことや評価のことも聞く。
            この処理には数年を要した。その間、別地区の行政不服審査請求・行政訴訟もあり東奔西走したものである。
       最終的な詰め
       県知事が契約に立会っており、県知事の公印が押されている。知事としての責任を感じないのか?
       「無から有を生む」は、長い間、財政力の弱い地方行政に関わってきた河合市長の経験的な持論だ。
       昭和35年青木茂氏の助役登用により国会議員団や中央省庁への働きも進み、東三河地域の新産業都市指定運動が始まる
       「今が 天の時だ! 今より早くても遅くても出来ない」。河合市長は言う
       愛知県の後ろ盾により東三河地域が工特地域に指定され経済の進展も順調に進み財政力も強化されてきた
       国税庁や法務局への問い合わせ、土地区画整理審議会・評価員会にも諮り地権者に縦覧もしている。
       いずれにしても、将来を予測しての先行取得であり工場用地代金は、当時の人は時価で土地代金を受け取っている。
       「道路用地は県市間の問題で、市民へは換地を渡しており市民に不利益も損失もない。」の論点で県へも迫り納得を得た。
       それにしても、土地高騰から法務局は土地売買契約以上の登録免許税が入った勘定だ。

     C  市最高上層部からの指示であろうか
         当時の区画整理課管理職から、二川駅南地区の区画整理反対組織に入って欲しいと要求された。
        私は、区画整理しなければ出来たばかりの総合動植物公園が死んでしまう。誰に頼まれたのかと問い返したが「ただ反対に
        組して欲しい」の一言であった。それから間もなくして、300人ほど集まった最後の説明会で市は「区画整理は中止する」の
        一言。
        組合施行の区画整理事業になぜ市が中止するなのか?大地主やアパート住まいの人の声からか?
        後世、子孫から「先祖はバカだったと言われるぞ」、中止でなく一時休止の考えはないかと発言したところ、7〜8人から「そう
        だ!そうだ!」との声が相次いで発っせられたが、大勢いた市部課長等は中止の態度を変えず最終決断と言った。
        似たような誘いは他部局でも複数あったが誘いには乗らなかった。

     D 1983年の選挙戦後 青木前市長に会う。
        国土庁審議官を退職して退路を断って豊橋市助役に就任した人も市長戦に挑戦することなく、また本省に戻ることもできず筑波研
        究学園都市へと向かった。
        今度の市長評判よくない、昇格人事で職員から金を取ってるようだ゛!(2016.6.9追加) そのうちに捕まるぞ!と青木前市長は言う。
        再選を果たしたばかりの若い議員が辞職に追いやられたばかりか、河合陸郎元市長時に統一された豊橋市議会「自民党市議団」
        の会派も再び分離してしまった。
        しかも国を動かすことが出来る経歴を持つ人が一度に2人も豊橋の地で失うことは何かが起きると予感を感じていた。
        そして、突然特捜検事が訪れ尋ねられる。
        豊橋に特捜検事がいるなんてと聞くと、1人だけと言い名刺を渡される。
        政党のことから切りこんでこようとしたようだが話さず。聞きたいことは大凡の見当がついていた。
        叔父が吉田茂首相当時「官邸警備責任者(警視庁)」だったが、帰ってきて新幹線で警視庁まで通ったこと。
        恩賜の煙草を2回ほど頂いたが、それはピースに菊のご紋が付いており1本づつだったこと。
        その他親戚の2人が県警本部機動隊長(署長から昇進)と警察署長であったことなど世間話程度で終わる。
        市議会正副議長室とドア1枚の事務局長室が空けられ2時間ほど尋ねられた。聴き取りはこれ1回で終わり以後は何もなかった。
         (1983年8月)
        この様子は、市長にすぐ報告されたようで、小澤は口の堅い職員だと直ぐ庁内幹部に伝えられた様子。
        9月本会議と12月本会議は議場に入れてもらえず警備にまわされた。3月議会は左遷人事内示日に本会議場入りを認められる
        また、水道局料金課へ異動した時にも言われる。仕事は何もやらなくてもよい、ただ黙っておればそれでよいと!
        からも伺われる。
        豊橋のまちづくり提案が認められ提案から2月半後に特別に昇格したものの、その翌年には左遷され定年まで本庁へは戻れず。
        しかも…、提案内容は、次期市長がことごとく活用した模様。
        それと、次期市長時代の助役が管理職を集め意見交換で区画整理は青木市長時代に相当力を入れたので、企業誘致に力を注いで
        はと提案した。
        それが青木茂前市長の三河港造成を利用し外資(自動車関連)誘致に特化したとも感じられる。政治力の凄さを感じる。
        (2016.4.21追加)事件収束後20年経過後
        特捜検事は、そう容易く捜査は終わらない。引継ぎ、引継ぎ捜査は続ける。いつ頭を擡げ上げるのか?
        5年先だろうか?10年先だろうか? それは13年後にやってきた!それは意外なところであった。
        ロシア方面を探していたとも思われるが、会議所関係、増改築関係、多方面にわたっていたようだが、外交問題に係わらないところ
        で出てきたと思われる。そこに公共工事に関わる贈収賄事件が発生した。
        テレビ新聞も大々的に報道された。
        ことの発端は、今は去ること33年前のことで、青木茂豊橋市長(助役から市長)や元国土庁審議官、若い豊橋市議会議員が絡んだ
        選挙戦直後に起因している。
        青木茂氏は終戦後、帰国にあたって木村太郎氏(台湾日通支社理事)が学友の江口美登留氏(警視総監)に会えと言うので訪問し
        参議院事務局警務課長になった経緯もある。
        ちょっとやそっとでは終わらないと感じていたが私自身はは当時42才。今後、子供の養育もあり心して対応していたのは事実であります。
        当時、青木茂元豊橋市長が言ったことは、その32年後日本へ帰国し再度会ったお孫さんに伝える。初めての言葉だ!
        (事件収束後20年経過)  (第三の手法による本計画の実現へ

     E これは、私が区画整理課で訟務関係の業務に苦闘していた頃のこと、
        当時は、まだ旧歩兵第十八連隊兵舎が市庁舎して使用されいた時のこと。
        課長が職員全員を集め、きょう東京から警視庁の警部さんがくる。そそうのないようにと言う。
        そして、体格のよい人がこちらに(課長)の方に向かって来た。
        あっ!伯父さんと言うと。
        今はここの職場に変わったのかと言われた。
        どうも地区外の接続道路用地を市に寄付してもらいたとのことであったようです。
        この当たりを境に伯父は豊橋に一家で転居しきて、以後定年時まで「火〜金」は東京宅から出勤。土曜日の夜豊橋に帰り月曜日の朝
        は、豊橋駅から新幹線通勤と なったのであります。
        Dの恩賜のタバコは、この伯父からです。

     F いつまで経っても「橋を作るにはまず陳情が必要」と変わらない体質
        これは、青木市長が選挙で敗北してから2代後の市長の時のことである。
        私が住む町の自治会長が来て、JR二川駅から動植物公園に通じる都市計画道路を築造することになった。
        ついては、梅田川の架橋に関して陳情書の原案を作って欲しいとのこと。
        浄書は自治会でするからと言う。
        付近道路整備の経過と梅田川架橋の意義などを書いた。
        このことは、入庁後23年間と少し間をおいて数年間の”あなた考える人、私書く人”とよく言われたを思い出す。
        定年退職してからも頼まれることは思わなかった!
        また、市は市で居住地付近の道路用地はみんなを纏めて市に寄付して欲しい言う。
        もとより将来を見越して、住宅用地を転売するときは道路用地は売買を伴わず買い手に名義変更するよう協議済みだったので
        スムーズに13軒が同意して無事ことが運んだ。
        市は、お礼だろうかきちんとした側溝と舗装をやり直してくれた。
        もう一つの地権者が多い方の道路用地は、以前時価の約10分の1で買収に応じたが側溝の築造のみであった。

     G 私が世田谷区の司忠氏宅へ伺っのは忠氏が死去しご家族から1億円の寄付申し出があった時のことである。
        ご長男が丸善監査役をなされており1億円で財団の設立を望んでいたが、愛知県の意向は財団は無理とのことで司文庫基金条例を
        つくることになった。
        そもそも司忠氏の祖先は豊橋で1000年も続く安久美神戸神明社の宮司であった。 今も天下の奇祭「鬼まつり」(国指定重要無形
        民俗文化財)で有名である。
        昭和48年10月、豊橋出身で洋書の丸善相談役司忠氏満80歳を記念して豊橋市へ文化振興のため3,000万円を寄贈され
        たのを受けて、翌昭和49年豊橋市民文化会館(図書館)内に洋書文庫である「司文庫」が開設される。
        司文庫の収集の主なものは、人間がはじめて出会う本としての世界各国の絵本と教科書、各種図鑑類、美術書、そして世界の古典で
        ある。司忠は文庫開設後も、昭和53年度までは毎年300万円、以降毎年500万円を寄贈された。氏が昭和61年に逝去され、
        ご遺族より1億円が寄附されたのを受けて、豊橋市司文庫基金を設置する(現豊橋市中央図書館「司文庫」)
        また、昭和54年には父子二代にわたって収集された陶磁器943点を寄贈され豊橋市美術博物館開館の契機をつくる。
        司忠氏は、昭和58年 10月1日東京都名誉都民に推挙(一覧表No.28)されていたが、昭和61年 5月1日 逝去し名誉都民葬が
        行われることとなった。
        次期市長の秘書を通じて、故 司忠 名誉都民葬の弔辞を書いてもらいたいとの話があり、秘書が何度も来られて打ち合わせし弔辞
        を書きあげた。

      H これは中央図書館が新築開館して2年目のことであります。
         1983年にコンピュータシステムが稼働し、前図書館を配本センターとし地区市民館・校区市民館へは端末機を使用し蔵書管
         理。図書の閲覧・貸出などをコンピュータ管理の始まりである。
         お話のコーナーを職員だけでなくボランティアを取り入れたり、各種読書サークル(古文書研究会を含む)の育成、読書感想文の
         募集、読書講演会の開催、学習室の解放、浜松市との読書サークルの交流など館内は年中満員で、半数を少し上回る職員とそ
         れに嘱託・アルバイトを含め運営するのたが報道記者も記事の裏付け確認が加わり日々がテンヤワンヤであった。また、羽田八
         幡宮文庫、洋書の司文庫など特殊な文庫もある。
         加えてコンピュータ室は出来たものの発展途上で無停電装置もなく、とてつもなく大きな記憶装置(筐体)は1つ80MBで4筐
         体で320MB。それも50MB,30MBに分かれており、50MBを越えるファイル作れない。その改善で苦労。
         1年後には小さなパソコン1台で1GBのものが出た。昨今(2009年)では個人のノート型パソコンでも1TBも可能。
         停電時も安心で隔世の感がする。

         新築なった図書館(中央図書館)の協議会。(読書会以外の著名人が以外と多くいた)
         豊橋市中央図書館に置かれた図書館協議会委員には各分野の権威者が揃っており、佐藤元彦氏(ヤマサち くわ専務。後の同社々
         長・豊橋商工会議所会頭)横尾義貫豊橋技術科学大学教授(副学長→図書館長(1975-76年日本建築学会々長)。後任者は、ト
         ヨタ自動車部長→技科大教授→ 図書館長)、石井吉也愛知大学教授(図書館長から→法学部長→学長)、会社社長で教育や韓
         国・晋州(ちんじゅ)市とも交流の深い中野博三氏青木学校の優等生(東亜同文書院)浪崎敏武氏竹内吉冶校長会代表
         岩瀬正雄氏(詩人)・岩瀬文庫)など名士が多く、協議 会のみで集まるのはもったいないと協議会終了後いろいろな事を話しを発表し
         合ってはどうかと 日本建築学会々長で豊橋技科大の図書館長(前副学長)の提案で、当初はトライアルで(豊橋市・豊橋技術科学大
         学・愛知大学)間で互いに蔵書の閲覧・貸出や職員の交流会から始めることとした。(事前に市長決裁受ける)。
         初めはトライアルと言うことで積極的には市民・学生一般には周知せず公開に踏み切ったのは数年後である。(豊橋技科大ホーム
         ページ)コンピュータ導入では名古屋市より一歩先を行っていたが、市の大型バスを使用し日帰りで名古屋市鶴舞中央図書館を視
         察に行った。
         その時も少しでも多く学ぼうと言うことで、絵画専攻の小・中学校長会選出委員から、愛知県陶磁資料館長は豊橋出身の人だと言
         うことでその委員(校長)の連絡で、陶磁資料館長に案内頂いた。
         その後、日本電装社長が豊橋出身の人がなったので近々豊橋に工場進出するはずだと聞き事前に依頼し愛知県陶磁資料館に続
         いて日本電装安城工場を見学した。
         その後も、帰路にバスの中から吉良町に近ずくと吉良上野介の菩提寺はこの辺りかと、これが日本建築学会会長の質問なのかと
         思うほど実に欲張りな視察であった(翌年退官記念として「東三河の戦国時代」を刊行(丸善より出版)

         豊橋技術科学大学と国道23号豊橋東バイパス(画像へ)横尾技科大図書館長(前副学長)がここから見えるすぐ前を自動車
         道が通ると嬉しそう語っていたのが忘れられない。(技科大=標高約40m)
         
      H-2 佐藤元彦氏は日帰り先進図書館視察に当たっては、視察旅費には昼食経費は出ず自己負担も多少あることから、決まって東名高
          速豊川IC近くにあるヤマサちくわ前にバスを止め視察を終わってからの懇談用の酒の肴を提供された。
           また、横尾技科大教授に対しては図書館協議会終了後の協議会委員の懇談会で「横尾さんあなたは副学長や図書館長という名
          誉・栄誉職で特別に大臣辞令を受けているのだから、青木市長のように豊橋に住民登録を移してはどうかなどのやり取りも思
          い出される。

      H-3 佐藤元彦氏は、商工会議所会頭となり、また豊橋技科大教授(日本建築学会会長)も自然史博物館協議会委員となられていた。
          図書館協議会の運営は全て私に任されていたが、自然史博物館は同じとはいかず市議会と同じように、いかにすり抜けるかが
          重点置かれていた。教育長は同席するものの何も言わなかった。
          魂が抜けた諮問機関となっていた。そのような状況下で、佐藤元彦委員は、博物館の暖房が利き過ぎていると現場で言われ、
          図書館とは違い攻撃的な質問へとむかい経済面からもうすこし温度を下げるべきと言った。
          その時、自然史博物館は恐竜を展示していることもあり天井が高い。それゆえ温度調整はコンマ単位で調整している。
          今少し寒いというので私が0.3℃上げた。デジタルセンサーと操作もデジタル化しているので、今日は寒いので玄関部分の温
          度を上げたと言うと納得してくれた。このコンマ単位の調整を操作するには経験が必要。
          特に大型映像観覧席では、前部席は寒いが高くなっている後部席では直ぐ暑くなったり、夏場は全席は冷え過ぎるという事も
          あり、高低差のある場所では、こまめに調整することが必要であることを説明し納得を得た記憶がある。(2015.4.14追加)

      I 医科大学の誘致は、浜松市には市民病院がなく豊橋市には大きな市民病院や国立病院があるということで浜松への立地となった
         が、技術科学大学の誘致は豊橋は浜松のアドバイスを受け誘致に成功した。 
         田中角栄が推す本命で誘致に成功した長岡技術科学大学には2回ほど行き、豊橋技術科学大学には事務部門や図書館に数度とな
         く訪れた。  このいきさつは、Googleで「河合陸郎」で検索すると一番最初にその秘話(河合陸郎・青木茂・神野太郎等)の活躍
         が記載されている。

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      J ※ 昭和35年新聞記事(1960年)   

         青木助役と出会う前の昭和35年(1960年)に掲載された
「青木構想」の新聞記事が出てきたので追加する。
         三河港造成の原点 (1960年(昭和35年) → 2009.11.19追加)
         愛知県も「青木構想」の三河港造成計画案を基本的に呑み、愛知県をして東三河新産業都市指定を申請。
         そして工業整備特別地域指定(PDF)へと進む。  

       K   豊橋市基本構想・基本計画の見直しで助役を長とするヒヤリングがあり、助役が所要(意識的)に席を抜けた時「自然史博物館
         の将来計画」が議題となり、自然史博物館は一応整備がが終わったので現段階で整備事業を終わりにしたいと言う。
         それは、選挙で次期市長から早川市長にかわったが助役はそのまま継続していた時の頃であった記憶がする。
         ちょっと待って下さい。紆余曲折の末建設されたものだが、地方都市「豊橋市」ではまたとない人気スポットになっているほ
         か、学校教育でも計画学習の対象施設となっており、子供から大人まで楽しく学んでいる。このまま凋んでいくのは忍びない。
         建設は、地下資源館建設で世話になった名古屋大学の糸魚川教授に世話なっているが、当初から一度に建設するのではなく状況
         をみて第三段階までに分けて整備する計画になっている。直ぐに予算を付けなくてもよい。私も闇雲に時を過ごしてきたわけで
         はない。
         私の感じでは、自然史博物館の整備は未だ中途段階で生かすも殺すも今が正念場。年寄りの独り言と受け取っても構わない
         が、ただ
一行「整備推進」の文字を入れて欲しい。と言うと会議場がシーンとなり、当方教育長以下誰も援護発言せず会議は静
         まり返った。

         今日は忙しい!「いわゆる御前会議」をこれで終わりにすると宣言されてしまった。
         建設後10余年しか経っていないものを完了とは、全く呑めるものではない。嫌がらせ意外の何物でもない。
         だが、豊橋市基本構想・基本計画の見直し議案には、一行「自然史博物館施設の整備推進」の文言が入っていた。
         これで、地下資源館建設時から、世話になっている顧問の糸魚川淳二名古屋大学教授にも恩返しが出来るし、豊橋自慢の施設が
         生き延び発展するのはこれからで、市民をはじめ多くの近隣の人に益々楽しみ親しんで頂ける施設にせねばならないと意欲がわ
         いてきた。

         そして2000年度末私が退職するのを待っていたかのように、2001年度早々から豊橋市自然史博物館は古生代展示室、中生代
         展示室・エドモンドサウルス展示室(計画学習の教師用テキストには建設された経緯から暫く「アナトサウルス」名を使用する旨記載
         してあった)の増設・展示改装が行われ豊橋市基本構想・基本計画見直しの際の一言が懐かしく思いだされる。
         三河港と豊橋市自然史博物館は東三河が全国に誇れる施設である。
         記念として、糸魚川淳二名古屋大学教授は、退職後非常勤職で豊橋市自然史博物館長を勤め博物館職員の指導に当たる傍ら自
         らは、個人で
「半原版画館を公開しているのとは異なるが、つられて「パソコンで巡る進化博物館」を立ち上げてみた。
         (2011.1.22)

      L 兼務で地下資源館館長をしていた時の教育長に提案したこと

         自然史博物館にいた時に地下資源館館長兼務(1年)となった。
         すかさず、教育長に地下資源館の建設の意義について話した。
         教育長は、広い視野を持つ人から選ぶべきだと青木助役の発想が思い出される。
         そもそも、地下資源館建設の目的は何であったのかと言うことである。
         昭和55年(1980年)建設当時から、小中学校の児童・生徒たちが地下資源やエネルギー問題に深い関心を持たせ省資源や石
         油に代わるエネルギー開発に目を向かせるために「国際児童年記念事業」の一環として建設された意義から、天然資源、地下資
         源、環境資源、地球資源を「人類の生存に必要となる資源、現代文明の維持向上に必要な基本的な資源、生活水準の向上役
         立つ自然界の現象」等技術革新を取り入れた展示改装が必要だと投げかけた。
         建設後20年が経とうとしている。技術革新時が到来している。近隣都市に先を越されてしまう、まごまごしてはおられない。
         将来「政令指定都市」に指定された際、独立博物館として生き残れるかと当時(25年前)から危惧感を抱いていたからである
         自然史博物館では、名古屋大学・糸魚川教授の元で古生物学の博士資格を取得した松岡敬二氏に兼務を含め2管理職の座を引
         き継 いだ。同氏は現在、自然史博物館長。
         そしてその1年後には京都大学・地質学専攻し更に名古屋大学・糸魚川教授の元で研さんを重ねた家田健吾氏が「地下資源館館
         長(管理職)」となった。
         特に、地質学関係では「特別企画展地球探検」開催の関連で家田健吾さんと揃って豊橋や浜松で溝上恵・伊藤和明両先生に2回
         ほど話を聞く機会を得たこと(特に浜松会場では東海地震で新城が入って豊橋が記載されていないのは政治的に他ならない)は、
         「語り継がれる地震」を取り上げる切っ掛けなった。
         両施設とも青木茂・元市長の構想が実ったもので、その両施設の「管理職の座」を両人にバトンタッチする機会を得たことは河合
         陸郎・元市長の「工場用地等の先行取得に係る残務事務の最終処理」同様特別なるものを感じた。
         この両人とは、行政の雑踏を離れた地質学や古生物学の分野などで楽しいひと時を過ごしたことを懐かしく思う。
         (2011年2月…開館後30年経過時点追加)
         2011.3.11東日本大震災発生により東京電力福島第一原子力発電所が津波による電力喪失と原子炉破損で大きな事故を
         起こし世界をとりわけ日本国民を恐怖に陥れた
         そこで「エネルギーの移り変わり(w」について触れてみた。


※ おまけ回顧編 3-2(第三の手法による本計画の実現)     木茂 1960年(昭和35年)当時の決断

         締めっくくりとして、豊橋市役所生活の管理職20年間のうち18年間は「そのまんま東」状態で長い間「民間会社社長」や他の
        管理職員等に定年退職するまでしつこく監視役として付き纏われる。
        提出したこの「豊橋のまちづくり提案」書は、参考文献図書を含め全て県議会議員になられた人に持って行かれ返却要求を郵送
        したものの何の返事もこない。
        幸い、いざという時のため下書き用罫紙に書いた「都市空間の整備の方向」の原本、添付の諸統計図表、都市計画図7枚の写真や
        多数の修正用罫紙をそのまま残しておいた
        そして、原本を使いホームページにその概要を書き電子出版として公表したので証を残すことができた。
        思い返せば、「豊橋のまちづくり提案」は青木市長から離れた段階で提案書が独り歩きしたのであります。
        時の政治力で都市計画審議会や市議会・国・県への陳情など対処したと思います。
        それにしても、「豊橋のまちづくり提案」は紛れもなくその多くが次期市長により悉く形成されたのは事実であります。ものすご
        い政治力の持ち主であります。
        しかし、次期市長は4期目の途中でトラブルから市長の座を去りました。座を去った後も4〜5回ほど自然史博物館に来られた。
        決まって応接室で会話したが、最後となった日に愛知県知事も出席した「植樹祭」が当日雨天となったため大型映像の上映を中
        止して特別企画展示室で「植樹祭の式」を取り行なった時のことです。
        その時、愛知県幹部が次期市長の大物ぶりを言っていた様子を話した。次期市長は大いに満足しました。
        しかして、私が思うところでは参議院議員選挙の推薦まで蹴って豊橋市長選挙に打って出たのに「城山三郎どてらい男」になり
        そこなったと感じたのか以後訪れることはありませんでした。
        私の思うところでは、次期市長は市長職辞任後も何故これほど自然史博物館にいる私に会うため何度も通ったのかと言うことで
        あります。大凡は気づいていたが、私に行ってきた余りにも酷い行いを考えると、功績を褒めることは虫が良すぎることでとても
        言う気にはなれませんでした。
        歴史の事実として次期市長については、何時かはその功績を別途記載したいと思います。
        水道局の公共料金収納率向上策の功績後徐々に心を変えていたことを私には分かるような気がします。

        その前に、田中角栄の日本列島改造論
(早坂茂三)(小長啓一があります。私の提案等については余りにも身勝手な活用法で、
        これは戦国乱世の手法に相通じるものがあると言わざる得ません
        (逝去して10年、その始まりから35年経過し…三河港の自動車関連外資企業等の誘致関連等諸々です)(2016.4.30追加)

        しかし、残された幹部職員(残党)は次期市長のマインドコントロールが絶大だったためか早川勝市長になった後も心はそのまま
        でした。
        そして、次期市長の心が既にリセットされているとは感じず、残された幹部職員は私の退職まで延々とその態度を続けました。     
        「豊橋市名誉市民青木茂さん」のお別れの会が催された際ある人から聞きました。青木元市長さんは、小澤君をもう一ランク上の
        役職に上げておけば市政の失態を避けることが出来ただろうになあ!と言っていたいたと…、
        そして定年退職の際は、「俗に言う天下り先の斡旋」も次期市長派の特定グループに阻まれ思うようにいかず再就職は断念しま
        した

        退職挨拶状に対し全期間次期市長の助役をしていた人からは「苦しかったことや報われないことなど幾多の想い出があると存じます
        が市政に大きな貢献をされ立派な足跡を残されたことは何時までも後輩たちの道しるべになると信じ敬意を表します。」との返書を頂
        いた。また「ロシアのマンモス展」開催の際のトラブル時に、何も言うな「君が全て指示せよ」と電話してきた某特別職の人からは地元
        新聞社への再就職の電話がありましたがお断りしました。(某特別職の方は、次期市長の全期間「収入役」だった方)

        次期市長就任時に「査問会」ごときの振る舞いをした市三役とも、私の行動無くしては役所が2度ほど機能不全になったであろうこ
        とを感じいたはずである。それがこの返書や再就職の電話であったことも十分感じている。
         なぜ今学ぶのか を実践し特別な出費もなく自分史の一環を電子出版することが出来たことは、孫のためにも「ワンダフルライフ」的な
        生き様を表した一駒としたいものです。 ここに、市役所就職時に心に誓ったことが成就したことである。
        追加記載…これは、母親が死の直前に言ったことです。息子「紀明」の人生を次期市長がめちゃくちゃにしたのは許せないとの思いから、
        ついに逮捕されたね。と言った。これは下の妹からも聞かれた。姉さん今まで余程辛かったようだが!捕まったこと知ってから息をひきと
        ったを知り安堵の表情を浮かべた。

        (2011.6.22)・(2014.6.21)追加。

        しかし、その前に特捜検事の件があれります。よくぞこれまで生き延びてきたものであります(2016.6.6)


※ 退職後編 退職後OB会に入会し、OB会設立50周年記念として豊橋総合動植物公園の「桜の木」を植樹することになりました。
        植樹会場には退職部長や収入役他、正副議長や県議会議員が入っており、植樹終了後「みどりの協会」役員室で懇談した。
        その席上、議員と退職者からなるロビーを創設してはどうかと提案が発せられた。
        すかさず、私は「市民の入っていないロビー」は利権獲得になる恐れがある。  
        もう、免職になる恐れもないので「市民を入れないロビー創りは反対」と言う。
        そこには、村田敬次郎代議士の秘書経験し、今は市議会議長となっている議員と、議会事務局議長秘書も同席して
        いたから、多分私が青木助役の秘書をしていたことを話した思う。
        それから、5〜6年ほど経つがその一言が効いたのかロビーが創設られた様子はない。


番外or    思い通りにはいかないもの「東三河県庁」施策
         東三河地域と静岡県西遠地域との合併を見通せば想定通りとも思える
想定編    現行の県域を越えた合併は焦ってはいけない「辛抱強く待つのだ」これが「夢の合併の一里塚だ」。
         だだし、言いだしてから50余年経過モタモタ感は拭えず。


                                                       
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