回顧編目次

原発に真水確保策を

地震を知る

 私が歴史に残る大地震に遭ったのは、戦時中と終戦直後という60年も前のことです。
その時は、まだ小学校に入学する前の幼児期でしたので記憶も定かではありません。
1944年12月(4才時) … 昼間海溝型の「昭和東南海地震」が発生したが、家から出ようと思っても外に出られず兄が道路で転がっていたのを家の中から見た記憶が強烈に残っています。
続いて翌1945年1月の夜中には直下型の「三河地震」が発生。
タンスなどは倒れなかったが、家の土台の礎石から柱がずれジャッキで押し戻すなど怖さに震えました。
何より記憶に留めているのは、余震が長期間続いたことです。  
夜昼となく起きる余震はは1か月以上続いたと思います。
玄関の鍵は、釘を差すだけに変えグラッとすれば直ぐ逃げれるようにしてありました。
兄は、数ヶ月食事時以外「地震小屋」から殆ど戻ってこず、私はグラッとくれば夜でも釘鍵を抜き外へ飛び出しました。
自宅前の道路は、当時としてはまあまあ広かったのですが、車も殆ど通りませんので母親は屋根瓦に気をつよといつも言いました。寒い時は布団を抱いて逃げました。逃げ足は速かったですが寒さで途中で布団に包まった時もありました。
当時は、都市住宅地でも空き地はあり防空壕も家の中と空き地にあり、地震小屋も空地に建てた人がいました。 
何と言っても、この2つの地震の揺れがものすごかったです。
翌1946年の海溝型「昭和南海地震」は、長く揺れていましたが距離的関係からかそれほど恐怖感は感じませんでした。妹(3才)が何だ!人間が家を揺すやがると言ったのにはびっくりしました。後で皆で大笑いしました。
私は、4才以前のことも少し記憶していますので、人は3才前後からは断片的でも記憶しているのでしょう。

 それから東海地震が言われるようになってからの1997年3月16日、愛知県東部に震度5強の直下型地震がありました。 ゴォーという不気味な音とともに激しい揺れにみまわれました。
身近ではエレベータの非常停止や若干の地番沈下、壁面やブロック塀などにヒビが入りましたが都市機能がマヒするまでには至らなかったことが幸いでした。でも夜9時頃まで点検に奔走しました。 (2012.6.7追加記載へ)


 1995年(平成7年)1月17日(火) 午前5時46分「阪神淡路大地震」の発生時の記憶
もう。あれから17年経っているが記録に留めておこうと思い書くことにする。
豊橋市自然史博物館に異動して2年になろうとしている頃であった。自宅はまだ建て替前であった。
寝床の中で朝方グラグラときた。直ぐ起きてNHKテレビのスィッチを入れた。
スイッチの方が先であったようだ。NHKの地震速報を待った。暫くして放送が入った。
混乱しているようで神戸の方で大きな地震があった模様と言う。すぐ取り消され放送局へ向かう道路は何ともなって
いない。いま言ったのは取り消します。こんなことが数回繰り返されたように記憶している。
そのような状況の中で、NHK放送局の職員の方がオートバイで六甲山に登り神戸市街地をみた状況が伝えられた。
神戸市街地のあちこちで火の手が上がっている。この間約30分。さあ大変。
全市街地が停電し何が何だか分からなかったのであろう。
これからが、あの立体高速道路が倒れた驚がく的な映像に象徴される「阪神淡路大地震」報道開始であった。
当日、愛知県豊橋市でもまだ暗かったが、急いで豊橋市自然史博物館へ行く。
豊橋総合動植物公園のマスターキー、自然史博物館のマスターキー、セキュリティ設定・解除カードなどすべて
毎日自宅へ持ち帰っていたので行動は素早かった。
被害が豊橋の施設まで及んでいないか初期確認である。
まず、アナトサウルス(エドモントサウルス)の実物化石は大丈夫かを確認し一応帰宅する。
 改めて、出勤後開催が迫っている「日本貝類学会」までは10日間ほどしかない。
開催は可能か?特に京阪神地区の被害はどうか。
京阪神地区からは大きな被害だが学会だけは参加したいとの返事を頂き、会長とも打合せをし全国に手分けして開催の
連絡をとる。当日、記念講演講師の堀越増興さん(元東京大学海洋研究室教授)にも講演依頼する。
特別企画展示室の大型映像は予定通り上映を取止め「日本海類学会の主会場とし、更に講堂、学習室1・2、オリエンテ
ーションコーナーなどへの準備。当日、学会開催した経緯の説明や資料・発表者、主催者・来賓者等々の確認。
JR二川駅からへバス配備と駐車スペース確保。
懇親会開催の有無と会場確保確認。
懇親会場行き大型バスの自然史博物館横への到着手配。
1月28・29日の参加者は、学会員101人。当日テキスト代を出せば受講出来る旨表示。
当日、豊橋市自然史博物館が学会主催となるのは、私にとって初めて経験であり当館から糸魚川淳二顧問(名古屋大学
教授)、松岡敬二豊橋市自然史博物館学芸員、井澤伸恵(同学芸員)が発表した。
以後、当館で開催した学会は日本地質学会、日本古生物学会、日本貝類学会、日本昆虫学会、日本植物学会等が順次
開催されることとなり、学会開催毎にそれなりに関わったが、1995年(平成7年)は「阪神淡路大地震」の他に大きな事件
も有り私には忘れられにい年であった。
関心を示していた中日新聞、静岡新聞やNHK(豊橋)などにも連絡する。
毎回、懇親会等にはすべて出たが、その道の権威者との会話(物事の考え方など)は実に有益であった。
参考10000年カレンダー  (2012年6月6日追加記載…発生から17年5か月後)


 愛知県東部に震度5強の直下型地震 (1997.3.16)   (地震画像へ)

阪神淡路大震災の発生後2年後のこと。ダイナビジョンシアターが終わり次回映写の準備や緑の協会へ「今は定年退職
した人が自転車での連絡に行った帰りの僅かな時間のこと」である。
その職員は園内の「みどりの協会」からの帰る途中(水路:カナール付近)であったが、自転車上では全然気付かな
かったと言った。
1日5回上映の確か2時の上映が終わり最後の3時からの上映準備時間帯である。
市立学校の退職校長2人(嘱託)とアルバイト2人が担当学芸員(係長職)の下にその業務に当たっていた。
私は、博物館入口付近で入場者の案内安全を兼ねタ゛イナビジョンシアターの入場者増に対応していた。
当日の私と係長学芸員はフィルムのトラブル対応や博物館業務全般である。
しかし、私は博物館運営を経営的にすることに重点を置いていた。前職場の水道局でもしかりである。
すると、突然天井がゴォーと鳴りガタガタと大きな揺れを感じる。来客の方にガラス戸から離れてください、この建物は大丈
夫と言うなり、直ぐに事務室内のテレビを点け情報を収集し、その内容を第一回は震源地は「東三河」付近の愛知県とであ
ることを、自然史博物館内とその野外恐竜ランド周辺一帯に張り巡らしてある放送網を通してお知らせし。続いて第2回目、
第3回目のお知らせも行った。
一方、午後3時からの上映については、360席の移動式観覧席の状態や映写機の状況を聞き多少遅れたものの最終回を
上映することとした。自分も上映前に移動座席の下に潜り内部構造の状況をみたり、座席階段の上から安全面の確認をし
た。
あれだけ揺れ、何の被害もないはずはない。館内監視のアルバイトは恐竜の全身骨格標本の頭部が大きく揺れていたいた
と言い。博物館周囲を見るとあちこちで補修が必要な箇所ある。
幸い、2基のエレベーター内部には人が閉じ込められていないことを確認するも、設定解除と再稼働は保守委託会社で行う
ので遅くなるが残っておって貰いたいとのこと。
そこで、管理職の私が残ることにした。
夜の9時頃。遠隔操作の呼び出しベルが鳴る。エレベーター保守点線会社の到着前に「朝日新聞社」ですとの声。
取材では、一通りの話をする。
新聞記者が帰った後、エレベーター保守点検会社の技術員に同行、エレベーターの復旧を確認する。
長い一日であった。翌日にはアナトサウルスの写真が大きく載ったように記憶している。
休み明けに早速打合せをし建築課部門、公園緑地課部門、教育委員会部門の担当者も来館願い、補修打合せ。
一般の補修のほか、暫定的にアナトサウルス(エドモントサウルス)実物化石「頭骨部分」を三角柱型支柱としたことであっ
た。(2012.6.7追加)


 静岡県西部地域で震度6弱 … M6.5で想定される東海地震(M8)とは異なると談話あり(2009.8.11)5:07

豊橋 震度3  新城・名古屋 震度4  静岡県西部・中部 震度6弱
朝5時のNHKニュースを見ていた。
すると、地震発生を音声が知らせる … 間もなく強い揺れがきます。こんな言葉だったろうか?
昨年、中国の胡錦濤(こ・きんとう)国家主席が来日中の音声による地震周知に次ぐものである。
前回は、周知と地震はほぼ同時だったと記憶しているが、今回は大分してから揺れがきた。
震度5以上を予想したが、揺れは幸いに小さかった。この程度なら我慢できる。どうみても震度3程度であろう!
直ぐにテロップが流れた。あちこち出てから震度3の中に「豊橋」が出てきた。
大きくならなかって、豊橋にとってはよかったと感じた。

今回の地震の規模(マグニチュード)は6.5で、断層が押し合って水平方向にずれる「横ずれ断層型」だったとみられる。
で想定される東海地震の100分の1と言う。
一方想定される東海地震は、マグニチュード8前後と規模がより大きく、断層が押し合って上下にずれる「逆断層型」と推測
されている。また、東海地震の震源域で地殻岩盤の歪みを計測し、東海地震の前兆を捉える「歪計」にも特段の変化はなか
った。こうした状況から、気象庁では想定される東海地震ではないと判断したという。



 東北・関東大震災 2011.3.11

その日は、Skypeのインターネット電話(岡山、愛知、東京、韓国)をしてしる真っ最中でした。
NHKの緊急地震情報とともにパソコンに取り込んだ「地震感知情報」が鳴り、大きいぞ!と言ったものの体には感じなかった。
時計につるした目の前の鏡がユ〜ラユ〜ラと長く揺れていた。
NHKの地震速報が出た。最初はM8.4だったが、訂正されM8.8に修正、更にM9.0と東北地方から鹿島沖の500Km×
幅200kmととてつもない広範囲の地震で、それにつられて新潟方面や富士市・長野県地域でも、震度6強の地震が発生。
中でも、東京電力「福島原発第1・第2」の「1〜4と5・6号機」は地震と10mを越す津波により大被災、東北4県の各地域は大
津波により地域まるごと流失するなど、800〜900年に一度という大被害を被った。語り継がれる震災参照。


◇ 2011.3.12

東京電力福島原発の件 Skypeのインターネット電話(岡山、愛知、東京、韓国)で給水には、今後地下で結ばれた真水の流
水プールが必要だと言う。韓国は塩水かけてしまったものはどうしようもないと言い。無駄だとも言う。
ここで内閣には頑張ってもらい技術を繋げるしか日本の生きる道はない。
しかし韓国は、何言ってるのかと言う。韓国といっても浜松市から出た人だ。
日本を離れるとこうも違うものか? ただ、そこまで先が見えないだけか?
よし、こうなったらホームページへ消防ホースを借りて片や水道管の復旧に当たっている傍ら、別ルートで病院の受水槽に人工
透析や手術用に支障を来さないよう給水を続けたことを思い出し意見を述べようと思った。
水道局のメーター取替え技術員(工員)は、消防ホースの命を軽く見て接続部に少しキズを付けてしまった。
当然、返却の際は丁重に非を詫びた。
今回の場合は、そんなチャチなことでは何にもならないと異議を唱えられたが、何もわかっていない。
ことは、日本が全力でもって当たると言う事である。
特殊ホース、何十台と言う消防車。それに自衛隊の放射能防御服なども必要であろう。要は、国力を挙げて対処すべきだ。
それが、小さな役所でもことごとく苦難を乗り越えてきた職員魂だ。


◇ 2012.5.05 震度3なれど全然感じず「愛知・豊橋・二川・大岩」(M4.4)

                           (その時のパソコン受信地震速報)   (地盤の強度)

◇ 2014.3.14 愛媛県で震度5強 あわせて15人けが、ライフラインに被害も  (豊橋市二川地域の地盤の強度)
                                                    (地震の揺れやすさマップ)
             私は、緊急地震情報で目が覚めたが豊橋市大岩町地域は、地名の通り地盤が固いのか少しも揺れ
             を感じなかった。
             翌日、インターネット電話会議で名古屋・岡山・韓国・豊橋で電話会議したところ、岡山は大揺れ、名
             古屋も揺れを感じたと言う。

 2015.1.08 西遠地区・東三河地区で地震M4.2、震度3 
             テレビで知るが、体には何も感じず

◇ 2015.4.20 午前1時頃 豊橋を中心してM3.3 震度2の地震 地図を見ると二川地域震源地
             近くの人に聞いたところ、ドンと言う音がし犬がざわついたと言う人数人。
             揺れを感じ飛び起きたと言う人。何も感じなかったと言う人。
             私は、ここ2月に夢うつつで2度ほど地震を覚えたが大したことなしと思いそのまま寝ていた。今日は何も感じなかった。

◇ 2015.5.30 20時24分頃小笠原諸島西方沖M8.5震度5強の地震 
             緊急地震情報を聞き身構えるが何も感じなかった。(地震域)






◇ 地震雲について    記録のページ目次


  
   
尾三遠地震小史 三河地震日記部分(抜)
    
   豊田珍比古(郷土史家) 著 
        (豊橋市市史編纂委員長)
        (昭和37年発刊時に頂く)
      
(1945年) 昭和20年1月13日となった午前3度目を眠ろうとすると地鳴り地震が襲来した。
一通りの身支度は先月から解いたことが無いのでそのまま飛び出した。
外は寒風吹きつのり耐えられなく防寒具を取りに戻る。電灯は消え真の闇だ。まだ揺りやまない中を暫くして持ち出し身に着ける。
忽ち西天がパッと明るい。それが何の光だか分からない。一時は地震と空襲が一緒に来たかと思ったがそうでもなかった。
1時間許りは引切りなしに揺れ通した4時半になってやや遠のいたので家に入って暖をとる。
午前8時頃暫くの間東天にある太陽の左にまた1つの太陽が見える。昔から天変地異の前兆のように言われたもので人々を驚かした。
今日は終日頻々として余震がある。それも時々地鳴りがして突き上げるような揺れ方だ。
新聞もラジオの発表もないが噂によると蒲郡、形原地方が殊に激震で倒壊家屋相つぎ死傷者少なからず、(省略)…
豊橋から多数の医師が救援に駆けつけた。形原では小学校に宿営中の兵士が倒壊した校舎の下敷きとって多数死んだ。
東海道線は蒲郡以西が不通で愛電(合併により名鉄)も同様だという。(午後7時記)

1月14日
昨日以来余震仲々止まず、数十回に達した。
今朝6時相次いで来襲した2度目の地震は以外に強かった。(午前7時記)
昼近くに配達された新聞によると震源地は渥美湾で被害は幡豆郡を中心に西は碧海郡、東は宝飯郡に及び、全半壊家屋は2千戸、
死者多数の見込みとある。(午前11時記) 以下略
余震は、前後を通じて相当長く続いた。そして余震が追々に鎮まると反対に空襲が愈愈激化し、或時など空襲中に余震の来たこともあり、
寒中にも拘らず地震小屋に寝る人も少なくなかった。

終戦後発表された処によると、
死 者   1,961人   負傷者  3,656人
全潰家 15,631戸   半潰家 30,205戸       以下略








私(小澤紀明)の地震記憶記録