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  昭和58年(1983年)世紀の豊橋市長選挙が行われた直後、副議長(野党で初)からこともあろうに議事課長補佐の私に「学者」という
  あだ名が付けられた。
  庶務課長補佐が一枚加わり議員間に瞬く間に広がった。それまで係員に名大出身者が○○ソクラテスと呼ばれていたが、ソクラテスと
  か「学者」と呼ばれるのは議会内では、阻害の対象になるものである。
  嫌がらせに付けられたものである。私は取り合わなかったがどの職場でも最高の職責を残すことに努めることに心がけた。
  それは、人生の真価が問われるのは、死ぬときと思っていたからである。
  なぜ今頃と言うのかは、青木茂市長が市長戦敗退後「次期市長」と助役に続き、収入役、部長職になった同僚課長補佐の2名が今年の
  名簿で逝去したことが分かったからである。まずもって冥福を祈ります。
  あだ名はさておいて、次期市長が就任し初議会が開催された直後、市長室に三役が居並ぶ前に私が呼ばれ「査問会」のようなキツイ質
  問が浴びされたのである。それは、議会本会議開催の際のシナリオのことである。シナリオは、議長必携のもので課長補佐がまず書き
  課長、局長、副議長、議長と順を追ってチェックと了解を得て初めて完成するものである。
  そんなもの何とでも書けるだろうと言うのである。
  議会事務局に帰ってから局長に報告すると、とんでもないことだと言った。しかし、その直後から本会議場出入り禁止となり9月、12月3月
  は市議会議場の警備業務に回された。「査問会」のようなキツイ質問は2度行われた。
  でも、市議会報の原稿のうち本会議関係は容赦なく私に回ってきたのであります。
  そして4月1日付で市民文化課長補佐(中央図書館で総括補佐)として市民文化課、美術博物館、中央図書館、配本センター、駅前文化
  ホール、西川芸能練習場、二川宿本陣資料館の建設準備等々。
  毎月ある愛知県図書館長会議や豊橋・浜松読書交換会、地区・校区市民館への配本の見守りなど全てが回ってきたがヘコたれなかった。
  更に図書館の電算化初年度、諸行事等も手抜きしなかった
  市民文化課、美術博物館部門のことはすべて中央図書館の職員が回り処理しました。
  で、結局18年間豊橋市役所を退職するまで市長は変わっても私への対応は変わらずドサ巡りりをさせられました。
  でも、部下職員との融和と仕事には人一倍励みました。

  そして、ついに私にも定年退職する時がきました。退職挨拶状は全員同じ文面でした。
  退職挨拶状に対し全期間次期市長の助役をしていた人からは「苦しかったことや報われないことなど幾多の想い出があると存じます
  が市政に大きな貢献をされ立派な足跡を残されたことは何時までも後輩たちの道しるべになると信じ敬意を表します。」との返書を頂
  いた。また「ロシアのマンモス展」開催の際のトラブル時に、何も言うな「君が全て指示せよ」と電話してきた某特別職(収入役)は地元
  新聞社への再就職の電話がありましたがお断りしました。
  約350通出した退職挨拶状に対し10人ほど方から同じような慰労の言葉が返ってきました。
  インターネット検索でGOで検索してみると、案外頑張ってきたものだと満足しています。
  特に青木茂市長時代に書いた「都市空間の整備の方向」やインターネット検索でGOの No.392 393 394  395 を今検索して
  みると、40才までにしてきたことはネット上では”学者”並と言うことになるんだな!…。
  そして多くの現職・退職職員の他、嘱託やアルバイト・上下水道の検針業務委託等の方からも今日なお賀状を頂いています。