回顧編目次

佐長 色紙

豊橋市警察署長から
豊橋市長に当選した
大野佐長氏の退任後
贈られた書

2011.8.1 UP
私が昭和34年(1959年)豊橋市役所に採用された時の市長は、豊橋市警察時代の警察署長であった大野佐長さんでした。
助役は田中積三さん、収入役は元豊橋税務署長の山田要吉さん、教育長は元県立高等学校長を勤められた縣巻太郎さんでした。
大野市長さんとは、昭和34年(1959年)4月〜昭和35年(1960年)6月までの1年2か月の短期間でした。
昭和35年(1960年)7月からは、河合陸郎市長に代わりました。

昭和37年1月1日付けで広報課(助役秘書)に異動した時に田中積三さんは愛知県議会議員選挙に挑戦し当選。
ここに、国税庁出身の山田収入役と中央官僚出身の青木助役が同じ市役所に同居することになったがお互いに向こう気が強かった。
先輩格の収入役は、度々私を呼びいろいろ蘊蓄を披歴しました。
私は緩衝役としての立場に徹した。河合陸郎市長からはそれなりの評価を頂いた。

収入役の他、教育長も住まいが近くだったため役所職員の地域クラブで「東部会」に属したが会計の役を仰せつかった。
縣会長は、とにかく細かなことを言い承認を得るのに大変だった。
そうした中で、河合陸郎市長の指示で大野佐長前市長の新居が完成したとのことでその竣工をお祝いするため春日町の新居を
訪ねた。
その時、大野佐長さんが市長在職時会議室に飾られていた書「和を以て貴しとなす」の一字「」の色紙を頂いた。この色紙は市
長在職時に来庁者へ贈られたもので常時「秘書係」室に置いてあったと言った。その色紙は実家に置いてきた。
今回、実家に行った際にカメラに収めてきた。
大野佐長氏のことは、市政90年史(とよはしの歴史)には何も触れられていなかったが、豊橋市100年史には名誉市民に推挙され
ことや「豊橋市警察時の豊橋署長時代」も含めて多くのことが掲載された。

豊橋市の自治体警察は、213人と規模が大きく昭和23年3月に発足)。初代署長は大野佐長氏。警察長1、警視1、警部8、警部補6、
巡査部長27、巡査170の陣容。婦人警察官も12人採用。本署のほか16駐在所、12派出所が設置された。 
公安委員は、3人で市長の推薦を市議会が承認する形で選任したとある。大野署長時代に愛大事件が発生したとある。

私の後任者は、前任者と同様(田中積三助役秘書から青木茂助役秘書になった年配者)の議会事務局の人が充てられた。
しかし、若い方が使い易いとのことからかその後任は私の1年先輩の人事課の佐野昌弘さんに白羽の矢が立った。
(本人逝去し2か月余経過時に追加。2014.3.19)
佐野さんは、次期市長のターゲットになることなく総務部長になり、また代々の秘書は各部長職に次々就きました。
商業高校の1級上には川部食料品代表者で青年会議所会頭を務めた川部庭資さんも新聞部で世話になりました。生徒会長でもあ
りました。顧問は山本坦先生(第7代校長)で海水浴やキャンプに連れて行って下さったが、いつも僕は三兄弟の内で一番駄目だと
ぼやいていた。他の2人は静大教授と愛知県職員とのこと。(商業学校明治からの沿革)
その山本坦先生から、川部庭資さんの父親死去伴う葬儀に出て欲しいと声がかかりましたが、私の祖母の死去も同じ日で日取りが
が同じだったため参列出来ませんでした。

次に少し忘れもしない我慢したことや主張を通したことに触れてみたいと思います。
市議会議員選挙があり後に次期市長となる人が市議会議員に当選しました。行政課杉元正彦文書係長と同期生で当時から気に
触ることを言っていたように感じていた。
続いて、新産業都市指定打合せで豊橋で由緒ある料亭に度々東三河の県議会議員にお集まり頂き打合せをもったが、蒲郡選出
の県議会副議長の言動はとても不愉快であった。しかし広報課長補佐兼秘書係長(行政課時代の文書係長)は、我慢我慢と言わ
れた。
続いて、区画整理時代は上下水道管の移設関係で移設補償費に「事務費を一律15%上乗せ」せよとのことで、市議会特別委員
会で答申を受けたとのこと。区画整理事業の本質を知らない。そんなこと言うのなら国鉄だろうが公営事業であろうが区画整理で
直接施行ができること知っているか。何も事務費出さないなんて言ってない100万円の移設も数千万円の移設費も一律15%上
乗せは認められない。移設費に段階を設けその段階ごとに事務費を算出しその合計額としてはどうかと提案した。
それが市長部局内での会議の承認を受けた。上下水道局は大いに不満であったようだが国庫補助対象事業であり事務費は補助
では認められないことから市単費で支出していたものである。

次は、次期市長に変ってからである
登庁するなり、三役が揃っている市長室に呼ばれた。議会のシナオリを市長の要望通りに書けと言うものである
まるで査問会のようで議会事務局に戻ってから局長に言うとトンデモないことだと言った。
しかしである。その次から市長の意に迎合し私を阻害に陥れたのであります。

そのような中で助役から管理職全員をグループ毎に集めてヒヤリングされた時の私の発言は都市基盤整備は青木市長
時に提案したので、次なるものは企業誘致を図り都市活性化を図るべきだと言った。
続いて、提案書を新たに書いて欲しいと指示だったのでランドマーク施設を造るべきではないかと追加提案した
水道局料金課の収納率をV字回復させた後、自然史博物館に異動すると岩屋山麓に新幹線から見える位置に「発掘された
恐竜
の数倍
もある恐竜」設置するよう言われている。とのことだった。私を自然史博物館に異動させた理由が飲み込めた。
一方、糸魚川淳二顧問(名大教授)やその弟子で博士資格を取った職員も生徒には教育的な観点から反対との意見を言い続け
ていることを知り、流石に次期市長の考えにはすごいものがあると認識したが、そうは思い通りにいかないこともあることも知るべ
きだと思い中立的な行動をとることにした。結果的に設置されなかった。
いくら広告塔と言っても幼児の夢「ガリバーや蟻の世界から見た遊具」と同一視することは訳が違うと考えたからであります。
そこには、恐竜発見からまだ日が浅く豊橋市自然史博物館が国立博博物館に次ぎ国内2番目の実物全身骨格標本の導入館だ
ったこともあり、学会との関連などで豊橋市(東三河)地区の品格も問われるのです。

次なるものは、市民文化課(中央図書館)への追放後のことである。
そこには、労務対策など種々問題だらけ。
それより我慢が出来なかった事は、図書館資料を使い窃盗に及んだ人がいると警察から聞かれた時のことである。
図書館内部職員は、図書館の自由に関する宣言を盾にとり中部地方の図書館に連絡を取り集中砲火で警察に協力するな!と脅し
の電話されたことである。もし協力するなら各務原図書館の日本図書館協会の自由に関する宣言事件のように新聞記事にしてや
る。と言うものでした。
市顧問弁護士に相談しようと行政課に電話すると相談は許さない。経費も出さないとのつれない返事。そこで後藤市顧問弁護
士に経費は出ないがと断って直接電話すると、下水道局長から同じ時間になると思うが「かまいません」お出で下さいとの返事
を頂く。
法律事務所に行くと下水道局長がいたが小澤さん先にどうぞと案内される。後藤弁護士は「我慢しなさい!言えば新聞に出され、
結果的にあなたに災難がかかることは必定」とアドバイスを頂いた。結果的に次期市長からの退職勧告を受けることもなく警察署
でも困惑を感じて頂いたようでこちらから言うようなことはなく無事済んだ。

刑事事件と図書館資料の活用は、いくらもあるようでその後の事件は一般利用者として活用して頂いた。
資料閲覧の場所は市民の目に触れないように応接室などを用意し、資料コピーは所定の料金を支払って頂き対応した。
鑑識の緻密な調査と努力を垣間見る機会を得た。

また前図書館長は、元部下職員の電話応対に対し不良分子扱いし、定年前に退職したその年に自宅まで呼び出しぼろくそ
に言いその元部下職員を追放してやると言い鉾を納めてもらうのに苦労したり。更に多数の司書が一斉職場放棄もした。
協力してくれる司書と嘱託職員・5人の若いアルバイトで乗り切りきった。すると中央図書館付属の配本センターの年配女子
一般事務職員が某特別職に陰口を言うなどギクシャクしたが、労組幹部の理解を得るなど怯むことはなかった。






                                   
        
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