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(議会事務局編 

2011.5.21UP  (在職期間:昭和56年(1981年)4月1日 〜 昭和58年(1984年)3月31日)
       
     私は、青木茂市長時代1981年4月の異動で40才の若さで議会事務局議事課長補佐兼調査係長に任じられた。
     それは「豊橋のまちづくり提案」提出後僅か2か月半の時期であります。
     部課長や他の職員からは若すぎると言われたもんだ。
     異動後、最初の議会運営委員会の席上、国や県に対する意見書が議題に上った。いま「愛知県ではオリンピック」誘致が話題にに上ってお
     り、今日の報道でも言われていたと言うと…、
     野党議員から、事務局は黙っておれと喧々諤々で休憩となった。
     その時、自民党議員からこの時期に出さないと豊橋の議会活動そのものがそしりを免れかねない。 と言う事で「例外」として認められることに
     なり「名古屋オリンピック誘致の豊橋市議会の意見書」を提出することになった。
     いろいろ揉めたものの初めての手柄と言われた。

     私の兼務は調査係長でした。議事課長補佐とて議事全般の他「議会終了後」は市議会報を作成しなければならず、議会の常任委員会・委員
     会視察(市内・市外)、の他議員の「県外視察」の調査事項打合せと調査書作成・視察都市等への依頼、視察来訪議員への説明は当初の挨
     拶は正副議長が行い、調査項目については各課理事側に依頼し案内は議会1人と理事者側の専門職員数人に同行頂いた。
     市議会報として、議会本会議・常任委員会・特別委員会等開催毎に「質問と答弁内容、現場写真撮影」の構成で作成。
     課長補佐の私にも質疑内容の取りまとめが回ってきた。
      市議会報作成では質疑内容取りまとめため自宅まで作業をし市議会報を発行したものだ。議事係は議会が終われば一段落であるが
     そのため、賀状は11月末には作成し訃報が届いた人の分を除外することで12月議会終了後の行事に備えた。
     議事係と調査係を同時にこなしているのと同じで管理職手当なんて係員の時間外手当と比べると些細な額でしかなかった。
     なお、
     調査係の日常の主業務は議員活動の調査アシスタントだ。この項目について調査をして欲しい。調査内容をもってこられこれを20都市程度
     に照会し取りまとめ表にして依頼議員に渡すのである。質問事項が市政に反映されるよう理事者側に更に調査をする議員もおり毎議会ごと
     に徐々に議会開会に向けてボルテージを高めていくのである。
     議員の事前調査で理事者側も質問の攻め筋を薄々予測するのである。話は変るが私が区画整理課に在籍していた頃は全然当たりもなく当
     日「行政不服審査請求関係」では黙んまりで急遽質問されたので課長も随分と苦労させられたものです。

     市議会議員の先進地視察では、視察中に日本海中部地震が発生した。
     この時は、秋田方面に大勢の議員が視察していた。鉄道が不通になり帰豊するのに大変であった。
     議会事務局職員が手分けして運行している路線を探し出し、豊橋から何処から何処までは運転している。その駅から○○駅に着いたと言って
     ください。その次の運転路線を伝えます。○○駅まで辿り着けば以後は順調です。
     豊橋まで帰ってきて初めて、調査視察完了となるのですから。
     先進地視察と言っても、手放しで自慢話は禁物である。視察中は電話がかかって来ないので安心だと言うが議員仲間でも隙あらば思ってい
     る議員はいる。
     上げ足を取ろうとしている議員もいる。議会事務局の中で妙な噂が立つものならば急いで宿泊した宿に電話し先に宿泊したものですが気に入
     ったということで同じホテルに 宿泊することになったようです。順路も同じ順路で行かれると聞いています。口車に乗らないようにお願いします
     と電話したものである。この時は議長経験者3人を含む議員5人の混成軍の視察随行時のことでありました。

     異動後初めての視察随行は纏まった議員グループでした。この時豊橋と共に開学した「長岡技術科学大学」の運営状況を調査を調査し
     たことき感じたことは、その後「韓国訪問旅行時に見た「晋州城の高床式構造が耐雪対策の一環と感じた。
     「豊橋のまちづくり提案」に記述した同技科大訪問の1回です。
     また、この時「山本五十六連合艦隊司令長官」の生家を見学したが質素さに驚いた。
     宿泊を伴う県外視察は、この2回のみであった。
     次期市長の変るや私には旅行は回って来なかった。
     青木市長が、助役時代を含め代々秘書を務めた全員に感謝するため慰労会を当時のホリディインで催して頂いた。
     その日は、東京で議会事務局管理職の研修日であったため豊橋に一旦帰り慰労会に参加し、翌日「研修会」参加のため再上京した。
     慰労会の時、青木前市長は私たち全員が8月にネクタイ姿であったのを見て、今度の市長はこの熱い時にネクタイしてるのかと言い
     全員に記念品としてループタイを送られた。熱い時は冷房してまでネクタイ締めず開襟シャツ姿で十分でその方が効率的だと言った。
     私も数十本あるネクタイの中で青木前市長・韓国・晋州市長から頂いたものを含めループタイが5本あります。
     また、村田敬次郎代議士に国会議事堂を案内して頂いたのは研修会の翌日であります。(豊橋のまちづくり提案・回顧編)

     続いて、自民党市議団から一年後に施行される選挙ででは、人口から定数か4人増え48人になる。
     初めて「議員定数を4人減らす減員条例」作りたい。就いては、参考にするため事務局で条例原案と想定問答集を作って欲しい。
     当時、市政調査依頼は調査係で行っていたが、殆ど野党議員からであった。
     調査係員3人で、各市へ照会文書を出し併せて問題になった事項を教えて頂いた。
     条例案は、直ぐ出来たが想定問答集作成は苦労した。
     質問の本命中の本命は、他の2人の係員とは別に私1で作成し依頼の自民党市議団に渡す当日まで密かにしていた。
     議会最終日の数日前に正副議長と執行部役員に渡し万全を期した。
     議会最終日にいわゆる議員定減員条例は上程され、質疑に入ったが案の定そのことが問われた。
     答弁は、「委員の言われる理由はよく論じられることであるが、それは一つの意見として受け賜る。」として突っぱねる答弁であった。
     委員会審査では、5〜6人の議員からここを答えろと言うアドバイスの手招きに対し、質問委員は答弁者の自民党執行部委員に
     「しゃらくさい答弁」するな! こう言う答弁にせよと答弁席まで詰め寄られたのであります。
     現在(2011年)の豊橋市議会議員の定数(36人)

     次は、次期市長にかわってからの管理職研修会で「議会小委員会」の題名で、議会開催中の本会議・常任委員会・特別委員会・閉会
     中の継続審査」などについて、調査係り3人でフローシートなどを使い部課長用のテキストを作成した。
     だが、いざ発表となると局長から出るな! 講師の先生から指名されたとしても発表はさせない。とのことで、
     人事課には所要で当日欠席する旨連絡させられてしまった。
     でも当日、何も用は無いので発表会会場に出かけたが私の名前は削除されてしまい。
     人事課からは、こうなると思っていたと言われた。
     この頃になると、めったに本会議場にも入れて貰えなくなる。
     議場外の傍聴者整理となった。
     昭和59年(1984年)3月議会最終日「異動内示後」の写真は、この時とばかり密かに記念に写真を撮ってくださったものを頂いたもの
     である。


     なぜ今学ぶのか?(w