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011.5.5(回顧編           最終的に三拍子揃った人の クリック

人生は七転び八起き(社会への巣立ち編 ←検索

父親は戦後病弱だった。大学はとてもいける状態ではないので、普通高校は学区制で時習館高校は行けず豊橋東高校が決められていたが豊橋商業高校を目指した。高校入学早々父親が入院し町内会から退学騒動が起き、止むを得なく母親が退学届を出しに行く。
その時、学校では何を言っているのですか!

子供さんを守らなくちゃいけないのはお母さんではないですか。
学費やPTA会費は学校でみます。中学校卒業の給料は月額3000円。親戚筋で2年半面倒をみれないですか。
当時、高校へ進学する生徒は学年の3分の1程度で、生徒会長をした生徒も進学せず就職する状況だった。
町内会の言動はヤッカミだとすぐ分かった。
名大出の若い担任兵藤教師は「お子さんの人生台無しにしてしまいます」ここで頑張らなくては勿体ない。
と言われたと母親は帰るなり言った。

そして、私は校長室に呼ばれ「来月から特別に奨学金」が出るようにする。「返却は?」と聞くとそんなこと今考えなくてもよい。
ただ、勉学を続けなさい。と言われた。
町内会の関係から、新聞配達を始めた。休みは元旦のみである。2か月程度は今でいう二日酔い状態だった。
学校に出かける時は外が黄色く見える。
新聞配達店に定時までに行かないと朝4時頃には呼び起こされる。特に冬場は、当時毎朝4時〜5時半頃には小雪がちらついていた。
新聞配達中、陸軍墓地の辺りでは決まって数匹の犬が襲いかかってくる。
配達の順番を変えると大変。順番変えちゃあいかんと苦情を言われる。一部余まっちゃった!さあ大変学校に遅れないうちに配達もれを特定し見付さなければならない…、

卒業シーズンになり2月のある日のこと。先輩を送りだす会の時が来た。
奨学金を受けている上級生に対して、送る言葉として「この嵐の三年間」と言ったら大げさだと言われた。
でも私には実感だった

そして、私にも卒業する時が来た。就職先は8月に日本通運に内定していたが、卒業真近になって景気低迷から全員内定取り消しの通知がきた。暫くして市役所職員採用試験合格の通知がきた。
高校の戸田実教師は、喜んでくれ!380余人受験者の内、大学卒5人、高校卒10人の中に入っていた。
新聞報道に名前も載った。隣人の町内会長の方が持って来られた。

しかし、役所に入ってビックリ!当初50人以上、最終的には100人以上になっていた。
蒲郡市の社員70人ほどの電気工事会社の経理部に就職内定し入社式も終わっていた。
担任は「学校は構わないから、早く親に言って入社辞退届を出して来いと言う。
あんなに学校が後輩のこともあり断るなと言い続けていたのにと思ったが、
少し病状が回復していた父親が会社に申し訳ないと言いながら入社辞退を言いに行き、了承を得て来てくれた。

市役所受験は、日通が内定していたので1人で受験申込に行ったところ、役所に入ってからみると、
当時の人事課長補佐が対応して頂いたように思う。
その時、何を聞かれたのかを良く覚えている。役所に関係している人を知っているか。と言うことだった。
自宅の隣に、市議会議員もやられたが今は町総代をされている人がいると話した。
今は、こういう時だからその人の名前を必ず書いておきなさいと言われた。
これは、折角「市役所」を就職先に選びここまで来た人へのお印だとも言った。

でも、どうしても大学に進学したかった
3か月ほどは悩みで夜も眠れなかった。しかし役所の配属先の重要性と父親の病弱のこともあり、
町内からの退学騒動も乗り切り役所一筋で頑張ることを決断した。
大学卒業以上の社会貢献をすると自分に言い聞かせ思いきったのである
必ず豊橋市役所最高の業績を残してやる! 見ておれ!自分自身でそう心に決め決断した
想像以上の努力を要求されることは覚悟の上である。

(市役所生活編)

市役所に入って最初は、庶務課(現、行政課・広報課・検査課)で、その年は60年に1度という、国勢調査や農林業センサス、地方統一選挙・国政選挙等の他、伊勢湾台風の対応などてんてこ舞いの1年であった。
伊勢湾台風の夜は、一家でガラス戸が飛ばされないように押したり引いたりし、またガラス戸が破られないよう必死に守った。
どこからか、タス
ケテー、タスケテーと叫び声がし台風で飛ばされた雨戸が我が家のガラス戸を突き破った。
とても生きた心地はしなかった。
朝になり、付近の様子を調べていると我が家の前にジープが止まった。
役所に集合だ何しているのか屋根飛ばされた人も登庁している。そのままジープに乗り急いで出かけたことは勿論のこと。
以後広報課(助役秘書)に異動後も台風などの対策本部には女子職員は出勤しないので夜間も全て出勤した。
お茶出し程度であったが…、


このような年であったが、辞令交付式で大野佐長豊橋市長から
「この名札が付いていると、お茶がお酒になるかも知れない」と言われたのには驚いた。
市役所では、当時給料は民間の半分程度であったが、私に対する対応は普通ではなく特別なるものを感じていた。

それは、大野佐長市長当時からである。事実、国勢調査や選挙の準備に行くと確かにあったように思う。
5時を過ぎると投票用紙折りが待っていた。この夜間業務には時間外手当が付き庶務課・人事課・財政課合同で
行われた。昼間・国勢調査の調査区域割り青写真のアンモニア液浸しは本当に参った。臭いて言うものではなかった。
急いで戻ると失敗でやり直しになり、夜間行う作業に支障をきたすためである。
しかし、半年ほどは自分の係長が誰なのか分からないほど、てんてこ舞いだった。
ジープや自転車で選挙準備や国勢調査関係で各校区に出向くと、必ず町内会の接待があった。
これを断ると、以後の事務処理に支障をきたすと言う事であった。

選挙の時、投票事務を終了すると投票箱受け取りのため直ぐ開票所に行き投票箱受領に備えた。
投票日の夜は、各開票所ごとに警察官2人同席し市職員5人ほどと寝ずの番だ。夜間には警察官が巡回でチェックに来る。
最初は公会堂や新川小学校などを4開票所を数回行ったが、最終発表する開票所にも何回か回ってきた。
そして、開票日の記者発表は、入りたての一番若い私に発表してこいと言う。
分かりますか。こう言う事なんですよ。

そこでの記者仲間の親分…は? 取り仕切っていた人は市政記者の方でなく、その他の記者なのです。発表しますと言うと、
「ボーヤ寄こせ」というなり発表用紙を素早く取り上げ、一杯の人だかりの中で一段と高い表示板に得票数を書いていく。
ボーヤ間違いないか良く確かめていけよ!と言う。
なんでこんな大切な仕事を任されるのか?不思議に思ったが理由が分かった。
2年9か月後(助役秘書)に変ってからは、この業務は広報課職員に変った。
それと共に私の提案が、いつもことごとく採用され驚いた。

最初の1年間は、統計係だったが国勢調査・農林業センサス・家計調査・毎月勤労統計調査・市議会議員選挙・県議会議員
選挙・衆議院議員選挙・参議院議員選挙・農業委員会委員選挙など全員野球で係りなんて関係なかった。
伊勢湾台風まで来襲した。その対応も何時までも何時までも続き大変だった。
国勢調査は、調査区域設定に続き調査員への説明会へと進み、そして調査員から提出された調査票をチェックするとともに、
10月1日の午前0時には豊橋駅や南栄駅、広小路通を警察官同伴で手分けして調査もした。

そして調査票の回収、点検が煮詰まって来ると最終段階は人事課・財政課など旧総務課の応援を得て徹夜で国勢調査票を
チェックし結果をまとめ、集計し係長以下の庶務課職員揃って大型バスで県庁へ調査票の提出に行った。
県庁では、新人の私を関係課に挨拶に連れて行かれたが、全国高校野球大会で優勝した県岐阜商高のピッチャーが
「あなた豊橋市役所に入ったんですか」と挨拶された。横浜の第二・第三試験場で会った人だ!

2年目からは文書係。ここでは例規審査会であらゆる条例・法令との絡みで法規に付いてよく勉強させられたと!言うより、
官僚の海外留学とはいかないものの「”法令は市長にも勝る”との特別なる約束ごと」の教育を受けた。
時間さえあれば、勉強・勉強で「他係りへの手伝い」など許されなかった。

これが、高校3年時の担任”戸田 実”先生(ベルツ花 夫人と親戚関係といわれていた)が民間職場を辞退してでも
合格した市役所を選ぶべきだと言ったことが頷けた。
2年9か月後の昭和37年1月1日付けで広報課(助役秘書)に変る。
県議会所管委員会の視察先状況で先導車に乗っていた私が、母校の商業高校に間もなく来ますと告げると戸田先生が出て
来て校長、私を指してここの卒業生の小澤君ですと言われた。

市役所就職以後27才で結婚するまで給料を3等分し昼食代・家庭用・貯蓄用として分け毎月家計を助けた。
ボーナスもしかりである。

結婚でも結納〜披露宴経費はもとより結婚後は、給料の毎月3分1は渡せなくなるので纏まったお金を父親の治療費として母親に
渡してきた。

次に秘書業務に移る前に書いて置きたいことが有ります。行政課から広報課秘書係への異動は、
当時「青木学校」の優等生と言われていた広島市出身の東亜同文書院大学から愛知大学の豊橋開学に際し豊橋市に移り
豊橋市役所に入った浪崎敏武さんの推薦によるものです。父親は広島市議会議員をされてり豊橋市にも視察に来られた。
浪崎敏武さんは
本間喜一学長後の最高裁判所事務総長から愛知大学に残り学問の道を歩むように言われていたと聞く。
(※浪崎敏武さんは、実際には東亜同文書院を卒業していた模様。従って旧帝大卒級(高等文官試験を受けた話は聞いていなかった。旧姓は高田、九州出身
 (※浪崎さんが豊橋へきた一つの目的は、ライフワークとしていた、226事件の解明であったようだ。226事件と豊橋の関係) (浪崎敏武遺作)
 豊橋陸軍教導学校史 / NHK歴史秘話ヒストリア二・二六事件録画(2016.2.25)  226事件(全体)

河合陸郎市長・青木茂助役は、浪崎敏武さんを意識していたようで「私の師匠に強く当たり広報課長が時習館高校が焼失した時、課
長が登庁する前に市長車の運転手が登庁したので、そのまま市長車を出したことに私を叱責、それを見ていた総務部長が反対に広
報課長を叱責するなどを機に広報課長就任後半年で商工観光課長に異動させられてしまった。最も一般的には栄転であります。
波崎敏武さんには、転出先の商工観光課長時はもとより定年まで特に親しくして頂いた。
昭和37年(1962年)10月、浪崎さんが商工観光課長に転出した際の豊橋祭開催時の記念写真)2013年(51年後)にリンク。

ここで、2017.1.11ひょんなことから独身時代を振り返ってみる。昭和35年10月1日付で助役選任同意議案が提出され同意された。
不二タイムス(東日新聞)報道。
その時、同意直後、私は文書係に移動。それは青木茂氏が台湾総督府時代、ここには高文合格者は必要ないと言われ文書係に配属
されたことが甦ってきたことと思われ.る。1年3か月後助役秘書にる。助役秘書は2年3か月であったが、この間中央省庁の各省や旧国
鉄本社などへの随行した。結果的には東三河地域が工業整備特別地域に指定されたほか、新幹線豊橋駅停車が決まったことなどです。
三河港造成原点

2年3か月秘書業務を無事こなし、昭和38年(1963年)工特地域指定閣議決定年度末まで青木茂豊橋市助役の傍で働かさせ
頂き、人事異動することとなりました。広報係長が人事課長に密かに聞き私の直属の上司に話しそれを人事課長に流し、私の議会事
務局異動は振り出しに戻されてしまいました。何と汚い手法を使うのでしょうか。
そんなことには負けません。収入役室に異動5年。区画整理課に11年経過後は青木茂市長から議会事務局議事課長補佐に大抜擢
されることになったのであります。

その前に…、
(小澤紀明)の能力を引き出したのは、高校の恩師の後押しの他、当時の行政課課長補佐浪崎敏武さん、文書係の杉元正彦さん、河合茂和
さん、豊田喜久総務部長、内山清冶理財部長、松下龍也都市開発部長、篠原国男区画整理課長、そして河合陸郎市長、青木茂市長、と7人の
青木学校の優等生の人たち、後藤紀弁護士さんなど多くの方の指導の賜です。(2013年,51年後にリンク)
心の持ち方は、河合陸郎市長・青木茂市長さんと浪崎敏武さん・杉元正彦さんに負うところが大です。
杉元さんの奥さまは私の恩師でもありました。更に行政視察で「全国の都市」を学んだことです。
「都市空間の整備の方向」は、この方達等の支援と特に課題を与えて頂いた都市開発部長松下龍也部長なくしては執筆出来ませんでした。
私は、これを「松下塾」・「吉田塾」と呼び人生の基本を学んだ原点であります。

次に、選挙管理委員会開催に関し行政課先輩職員の秘書係女子職員無理じいに対し、この張り合いをみて杉原四朗行政課長が折れ青木助役の前で手打ち式を行ったこと。区画整理課で、牛川土地区画整理事業の運営面で課長に意見を言ったところ、柳生川沿線土地区画整理審議会の懇親会に呼ばれ、早瀬一郎学識委員(愛知県議会議員)の前で和会式を行ったこと等は私の性格をよく現したものと思っている。

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最初から大事にされたのには何となく思い当たるところがあるそれは妹である。妹は病弱の父を思い中学校を出ると
豊橋市民病院の看護婦になった

病院付属の準看護学院を出て資格試験を受け準看護婦に、続いて看護専門学校に通い卒業と共に資格試験を受け正看護婦と
なり看護学会で論文発表するまでになる。若くして婦長への昇格を言われたが若すぎるので断ったと言う。勿体ない断るべきではないと言った。何時体制が変るか分からないからであります。しかし、これが将来大変な事態になっていくのです…!

田中積三助役(退任後は、愛知県議会議員として活躍)、豊田喜久人事課長(総務部長・収入役)の子息と東田小学校、青陵中学校で同級生あり、成績が何時も抜群ということが伝わっていた模様。当時の青木助役の奥様から保健婦を目指して努力するよう励ましの言葉も頂いた。

そうそう、私たち苦労4兄弟が通った東田小学校は「ノーベル賞受賞」に輝いた 小柴昌俊先生も一時通った学校なんです
東田坂上に有った東田小学校は戦災で焼失してしまいました。
終戦後の東田小学校は、現在の「県立豊橋商業高校」が有る位置の
工兵隊跡地に今の「向山小・旭小・東田小学校区」の生徒が通い、
翌年、今の旭校区と東田校区の生徒が新東田小学校(現旭小学校(旧豊橋女子商業学校跡地)へ移り、最後に旧豊橋商業学校があった
場所へ5年生の時に現在の東田小学校へ移りました。
更に、河合陸郎市長が東雲町に住まれた時期があり、私の兄の結婚式にお神酒のお祝いを届けて頂いたり、愛知他大学教授で詩人丸山薫さん、三四子夫人も住まわれていたことを、河合紋七元豊橋市議会議員のお嬢さんから聞かされました。
その妹のお嬢さん、私が読書週間記念講演会で「永井路子」さん講演の司会・進行をしている姿を見て、席まで来てお祝いを言ってくださった

この項目は孫たち世代へ伝えるためあえて書くものです。当時は、それはそれは貧しい時代でした。すぐ横には恵まれたお嬢様姉妹が
いるかと思えば、新生高等学校の入学試験を受け「合格」したものの実際には入学もせず「合格の証」をもって嫁いでいった女生徒もいま
した。
その方の夫は警察官で「白バイ」の職務中に若くして殉職してしまいました。夫人は再婚もせずお子様を立派に成人させたとのこと。
その母親は、昨年(2010年)99才と聞きました。こんな話しはあちこちで幾らも聞いた時代でした。
この編では支障のない限り実名を書きました。

2014年追加

@ 当時「新聞配達」していた1級下の人は、野村証券○○で検索すると監査役で出ていた。
A妹の嫁ぎ先の兄は、三菱○○部門の社長・相談役を無事勤めあげた様子。
三拍子揃った人の人生です。    





                                                    
豊橋のまちづくり提案