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回顧編原点 一枚の色紙(拡大:直w5) 回顧編21 ストレステスト(w1) (ネットで辿る旅記録w1) 東三河県庁と
広域合併
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豊橋の頭脳(新装なった中央図書館協議会委員(w1) 沖縄日本復帰40周年の今後思い(w5)
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「語り継がれる地震」 /「政治の移ろい/二大政党確立の瞬間」 私の「天の時 地の利 人の和」(w5)…回顧編7インターネット版
1.河合陸郎市長時代
河合陸郎・青木茂だけでは、ここまで大きな施策が出来なかったと思う。
神野太郎がいてこそ東三河の経済界を取り込み商工農の調和がとれた発展ができた。
三者三様の能力結合が成功に導いた。
青木茂助役起用は、中央省庁を動かすのに多大な効果をもたらした。
当選して初登庁した時、財政課の幹部が今度の市長「党人派」らしからぬ細かなとこまで財政の仕組み知ってるぞと驚いていた。
当時、行政課と財政課間には小会議室がありドアで繋がっていた。
河合陸郎市長は、土地改良区を基盤にもち、また特異な能力の持ち主。
秘書課へは、取り巻き人たち数人が何時もいた。
特に県議会議長の時、桑原知事をはじめ部課長連中から河合陸郎さんだったら何の苦労もいとわないと言っていたと河合市長から
良く聞いた。
時は、高度成長期に入ろうとしている時期だった。
豊橋市の体質改善、いや東三河地域全体を低成長地域から尾張・名古屋・西三河地域に並ぶまでに持って行きたい。
それには、どうしても青木さんの力が要る。
だが、愛知県に係ることは、僕がすべてやりたい。
政治家が集まる会合にもよく出させて頂いた。
念願の港を持つため、並々ならぬ努力をされた。
特に、漁業補償ではついに漁業権放棄までこぎつけた。
この時、「天の時地の利人の和」と言う言葉使う。
青木さんの国の力と、河合陸郎の県議会(農村部を含む)のまとめ役と神野会頭の東三河商工会・会議所の取り込み。
港の造成と臨海部の開発は今しか出来ないと新聞記事の見出しにデカデカと載った記憶が有る。
遅くても早くても出来ない!今だ!と,
また、古書に親しむ人で戦災で無くなったのを?常に探す人だった。
家庭内のことは何も言わなかったが1回だけ家族の方と旅行したことがある。
後日、高橋市長時代に入り、校長先生のお嬢さんが言うには、庁内の人が小澤さんだけには負けたくないと言っていると聞く。
あれ、あれ! やっぱり見合いだったんだなと感じた次第。
そして、保守合同化一体化に成功するなど日が昇る勢いの中の時代だと感じていた。。
東三河工業整備特別地域指定 三河港の造成 同臨海開発 豊川用水の開通
国道259号線への昇格開通 技科大の誘致成功
技科大誘致成功など全てやり遂げるまでやはりバトンタッチしなかった。
2.青木市長時代
この頃になると、豊橋の区画整理が隆盛期に入り私はもっぱら区画整理関係の裁判・行政不服審査請求・再審査請求関係、土地区画整理
組合関係で市長に会う機会が多かった。
と共に師匠というか大御所の後藤紀 市顧問弁護士には10数年お世話になり徐々にその道に関わることが多くなっていた。
河合市長在任中に、県に圧力をかけ向山地区の仮換地処分取り消し裁決に関わる再審査請求で、建設省から法務担当官が調査に来る事
態にもなり、法務担当官は愛知県に非があるが訴訟に持ち込まず行政の秩序を保つため良く我慢されたと言われた。
次は、前田地区の仮換地指定に関わる行政訴訟で最高裁まで被告豊橋市の主張がみとめられたのにも関わらず、地権者は仮換地に指定
されたものは自分のものであるが、元地も自分のものであるとの主張。市民の公平性は保たれないので、公法「土地区画整理法」適用す
れば簡単に強制的家屋移転できるが、豊橋市で最初の強制執行が女性の親子では政策的に誤解を招くので、民事訴訟法による訴訟提起
議案を提出することになった。市議会本会議では議員全員が提訴議案を異議なく賛成して頂いた。しかし、提訴には関係学校教師2人の共
同提訴に加わって頂く必要があった。2教員には夜間話しをすると共に教育長・学校教育課長には誤解の無いよう説明し協力を得た。
この裁判の最終段階で裁判所から和解勧告が出され、その説明を後藤弁護士は藤村区画整理課課長と私たち3人を市長に推薦、強制執行
当日和解にこぎつけた。議会事務局議事課異動後であったか急遽応援に駆り出された。
B4用紙1枚に経過をフローチャートに記し、政策会議室で市長以下部課長に随時説明。後藤弁護士は市長が都合の付く日と「部課長の研修
会」にしたようだった。
その次は、牛川東部土地区画整組合理事長の県知事表彰で本人が上村代議士や高橋県議まで話しをし、今年は県から具申せよと言われ
前例のない表彰を受けたことです。上村代議士・青木市長・高橋アキラ愛知県議会議長の勢揃いで「世紀の市長戦前」の奇妙な祝賀会に
なったことは言うまでもありません。
河合市長時代の「坪1000円が100倍に地価が上昇した契約問題」の最終事務処理。 前田南土地区画整理事業関係で、同地区と岩田
第二土地区画整理地区内での「豊橋市名義」の用地を介し(購入)、前田南地区内土地との等価交換を、豊橋税務署経由で国税庁に照会
回答を得て解決したこと。
これらのことは、「豊橋のまちづくり提案」(回顧編)の中で述べています。
市政の中心は、三河港の整備、美術博物館建設開館、地下資源館建設開館、中央図書館建設開館・地区・校区市民館整備(図書コーナー
は端末機を導入しローリング配本)、ユーレックス計画などに移って行きました。
「豊橋のまちづくり提案」執筆のきっかけは、回顧編7に記載してあります。
本体は、青木茂市長がこれからやろうとすることを想定して市長としてもそん色ないものと感じそうな施策を記述したもの。
勉強と役所を渡り歩いたことと参考文献に寄ることが大きい。
3.河合市長時代の 神野太郎(かみの たろう) 豊橋商工会議所会頭(東三河産業開発研究会長)
器の大きい方で、常に企業文化を考えながら公と関わっていた。その意義を話してくださったり。更なることも!!
政治と企業には一線を画していたが、なかなか鋭いところがあった。
静岡県西遠諸都市との経済的繋がりは既に深く関わっていた。
※ 青木茂 元市長は国民休暇村理事長などと度々 、高橋アキラ市長は現職時は毎月来館。退任後も5回ほど自然史博物館に来館し応
接室で会話するも両者は一度も鉢会せすることはなかった。市長職辞職後、最後の来館時も2人だけで会話を交わした。
高橋市長は私の構想そのものを「まちづくり」に反映された。私は注意深く見守ったが言動は避けた。それは豊橋市民や東三河地域の
方が恩恵を受ければ構想が実現すると感じたからである(第三の手法による計画実現)。
ただ思っていたことは「と゛てらい男」の主役は、最終的には「河合陸郎市長」か「高橋アキラ市長」ではないかと思っていた。
青木茂市長は実に理論的で暴れん坊と言っていたが実際は緻密な考えの持ち主で、城山三郎の「どてらい男の大東三市長のモデル
役のしっちゃかめっちゃか」にはほど遠くスマート過ぎる振る舞いであった。
高橋市長が最後まで務めあげりれば、東三河地域の経済の底上げが実現する可能性があったが、時のいたずれでしょうかシナリオが
狂ってしまい途中で市長を辞職するはめになってしまった。
後任は首相補佐官もした「早川勝衆議院議員」が即座に衆議院議員を辞し豊橋市長選に立候補当選。当選翌日早々来館し応接室で
現状を説明した。幾度となく来館するも三者共一度も遭遇することはなかった。
市長就任以後、財政の健全化に並々なら来努力を重ねられた。早川勝市長無くしては豊橋市も
夕張市と同じ道を歩むことになっていた
かも知れない。豊橋駅前の再開発で豊鉄渥美線を豊橋駅構内に取り込んだのは功績であるが、市民病院跡地に商業施設を誘致せず
「
ココニコ」を立地したのは、東三河の発展に水をさすもので民主党が政権交代させた中で、
早川お友達市政や施策選択が市民理解を
得られ無かったことは皮肉である
。早川市長時代に「豊橋市名誉市民故青木茂さんを偲ぶ会」が催された。
※
佐原光一市長とは直接会ったことはないが施策面でいろいろ繋がりがある。それは、@二川地区の下水道敷設関係(
回顧編13…
江戸時代の街並みに下水道整備や、A早川市長に続き
「柳生川南部土地区画整理事業」の施行。B更には
「豊橋駅東口駅南」の再
開発地区(佐久間ダム建設時の操車場跡地)への
「豊橋市芸術文化交流施設(愛称が「プラット」)の建設(2011.10)。 C
国道23
号豊橋東バイパス(都市空間整備の方向)の最終的な関与H・L(2011年度末)。
Dプラネタリウム・大型映像のデジタル化
E東三河県や
E広域合併を どう対応しようとしているのかなどである。
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