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1.もし青木茂氏が就活で、台北帝大出の山分一郎・愛知県農林部長に出合わなかったら?

  
高橋衛氏から自民党政調会の行政担当の理事を2年やったら池田派が責任もって代議士にすると
  書かれていることからその道を歩んだろ
  しかし、就活で先に世話になった山分一郎先輩の豊橋市助役を選んだ。

  ともう一つの理由
  
私は、国会議員になるより「まちづくり」を一任すると言う豊橋市助役の方がよいとお断りしました。

2.三河港臨海部の開発について


  
河合陸郎市長の臨海部進出はロマンであり新産業都市指定などもあり頷けるが、当時は政治力だけ
  ではいかんともしがたく、元参議院警務部長と言う関連から各省庁の官僚の関わりや、高橋衛経済
  企画庁長官の大蔵省説得などがなければ、港の主流を衣浦に持っていかれ規模小ささくなっていた
  だろう。
  神野太郎豊橋商工会議所会頭とのコンビと、河合陸郎市長と桑原幹根愛知県知事の信頼関係無くし 
  は今日ある三河港の造成は達成出来なかったであろう。

3.ユーレックス計画について

  
青木茂氏の台北帝大の専攻は、農業分野ではなかったかと思う。廃棄物処理事業と農業を結
  びつけた総合的廃棄物処理再生計画は自身の大学時代の夢を具現化したものと思う。
  そして延長線上に農業土木関係の干拓の夢を抱いていたのではないかと感じられる。


4.豊橋総合動植物公園について

  
もし青木茂氏が就活で、台北帝大出の山分一郎・愛知県農林部長に出合わなかったら?
  
自身の経歴を生かすため営林署との関わり最後まで持っていたように思う。
  それを物語るのは、私(小澤紀明)が自然史博物館に席を置いていた時のこと。
  毎年、営林署の方が団体でお出でになり動物園の園内周も以前と同じだと喜んでいた。

  関係する人として塩見俊二氏(台湾総督府主計局長、大阪財務局長、参議院議員)がいる。長野財
  務局の国有財産部長を薦めたようだが辞退している。したがってやはり台北帝大出の山分一郎・愛知
  県農林部長
との関わりが有力と思う。。

5.自然史博物館建設構想について
  
  
豊橋を2分する死闘の選挙戦で敗北し、未完の構想に終わったかに見えた自然史博物館建設構想
  しかし、豊橋自民と自民豊橋の2会派に分かれてしまった市議会の構成は元の河合陸郎市長派の
  自民豊橋の勢力が多数をしめていた。アナトサウルス(エドモントサウルス)は国立科学博物館
  に継ぐ日本2番目の実物の全身骨格標本である。
  このことが奏を効し建設することとなった。
  今では豊橋で自慢できるものは、三河港と豊橋総合動植物公園と言われるようになった。

   
(都市空間の整備の方向)

6.戦前の政治家・財界人比し、戦後の政治家・財界人はスケールが小さい。これを言った河合陸郎
  豊橋市長は何を意味していたのだろうか?

  三州豊橋に蒸気外輪船製糸の町豊橋ガス会社の創業 牟呂用水・神野新田等の干拓開墾
  陸軍第15師団誘致歩兵第18連隊の誘致、陸軍教導学校誘致 安藤動物園開園1930〜
  1942年まで伊勢電気鉄道が豊橋から伊勢まで通っていことなどをさしているのか。
  生糸以外にこれといった産業のない豊橋に軍を誘致し地域経済に潤いを託した戦前の豊橋の苦悩を
  言ったのであろう。
  河合陸郎豊橋市長は私(小澤紀明)にも話したものである。それは、青木茂助役は旧帝
大出参議
  院事務局警務部長という高級官僚であったことと、神野太郎氏と手を携え本省各省幹部や全国の国
  会議員を動員して東三河新産業都市指定に奔走している様子を見て、「戦前の豊橋」引いては東三
  河地域が日本屈指の地域であったことの再現に「」を託していたのであろうか
  それを指南した河合陸郎市長はさすがである。


.その青木茂氏3期目の市長選2年前「都市空間の整備の方向」執筆後、僅か2か月半後に私(小澤
  紀明)を40才の若さで管理職に登用したのは何故なのだろうか。

  河合陸郎・青木茂と2代続いた豊橋市長職、あの何も知らなかった1960年(昭和35年)当時
  の小澤紀明が一丁前の職員に育った。その提案書は青木茂氏の視覚(小澤紀明の属性)に沿った施策
  
ではなかったかと思う。
  属性の中枢部分をよく見定めその中からこれぞという点をあぶりだす手法から出たことを「視覚」
  と表現したのではないかと思う。
  すなわち、53年を経過した今日においても「都市空間の整備の方向」の提案両市長と青木学校
  優等生等に学んだことを基本に執筆した集大成と思っている。
   この「都市空間の整備の方向」は、常に全国でベスト3までにランクされている(2013)
   そして「豊橋のまちづくり」の施策は、今思うと代々市長を介して当時から数十年は続くと感じた
   からではないかと思っている。(2015.9.8追加)

  

8.今年2013年1月14日「
の額皿」は、52回目の成人式を迎える。
  昭和35年度(1961.1.15「河合市長誕生初成人式」の
の額皿」は、正しく「河合陸
  郎新市長としての
」であって、それを成人式の舞台で表明したのである。
  
出てきた画像をクリックすると、その「スケールの大きな」が描かれてくる。

9.私(小澤紀明)が提案した「都市空間の整備の方向」青木茂豊橋市長は高く評価してくださり
  
その提案は次々後の市政に引き継がれ「名豊道路、豊橋・浜松道路」は高(準)規格道路として
  国の事業に採択され国道23号線「豊橋バイパス・豊橋東バイパス」として、 本年度末(20
  
13年6月23日)に全線開通した。

10.青木茂氏がいない場合は、実際どのあたりに愛知県は港を造る計画だっのか。

   愛知県の考えは姫島付近に1万トン級が接岸出来る港を造ると言っていた姫島付近図
  そんなチッポケな案は承知出来ない。県がやらないのなら直接中央に私どもの案を働きかける
  とタンカを切った。※私(小澤紀明)が名古屋税関外郵出張所長と会った時の様子

  
※税との関連  人口30万人以下の企業には事業所税は課税されないし一定額を超え
  た固定資産税・償却資産税は県の収入となる。 
  従って、青木茂氏が豊橋への道を選ばなかった場合は港の造成は田原市となり、小規模になっ
  ていたと予測される。 ※本項「No.2」が最重要項目 ※ 関連:東三河県庁

11.
参議院事務局警務課長になったいきさつ豊橋市長戦敗退後人生 について
  
(おまけ)

  
木村太郎氏(台湾日通支社理事)が学友の江口美登留(警視総監)に会えと言うので訪問
  すると、江口美登留氏(警視総監)の学友である
参議院事務次長の近藤英明から参事を
  推薦して欲しいと頼まれているとのこと。
  そこで早速、
参議院事務局近藤英明次長と小林次郎事務総長を訪ねたところ、即座に参事
  任命の辞令を受け、参議院事務局警務課長
になる


※ 昭和58年(1983年)の選挙戦敗退で引退に及んだのは、日本帰国後参議院事務局警務
  部長や豊橋市助役就任で世話になった諸先輩の方や、妻子、戦後成人まで養育した妻の兄弟
  の子供たち等に「泥まみれの姿」を見せるのは忍びなかったのではないか。即ち渡台した茂
  少年を育てた両親、台湾の小・中・高・大学や社会で世話になった人たちなどへのグローバ
  ルな人たちへの恩返しは「愛知県東三河地域で実現した主な功績」で実現化されている。
  余力が有るうちに引退するのが最善の人生哲学と考えたことでしょう。
  (退任後、自治大学での講義)
  ただ一つ「特捜検事」の件は、なぜ私(小澤紀明)を徹底的に問い詰めなかったのか不思
  議です。
  その件から、上記のことを推測するに至ったのです。

12豊橋技術科学大学広報誌「天伯」特集について

  
青木茂豊橋市長の豊橋技術科学大学の評価は、この東三河地域大戦後の60余年
   を
とってみても日本中をアッといわせることをやってきた。智恵とエネルギーと実行
   をもった
大筋では青木茂市長と親会社である総合開機構社長で参議院議員の藤川
   一秋氏
との以下略と言っていることは正に高橋衛氏の支援により三河港造成を第三
   セクター方式により見事に達成したことを指していることと思う。


13.日本の市長 青木茂
  私(小澤紀明)が以前から検索しようと思っていたことです
              
必ずユニークな出版物出てくるはずです

14.全国市長会欧米都市行政視察の写真:羽田空港
   昭和37年(1962年)7月2日〜8月10日

   これに先立ち豊橋
出発(6月30日(土)に際しては、豊橋市部課長・議員の他、豊橋市
   内全官公署長
全員で豊橋駅ホームおいて花束贈呈、万歳三唱で送り出す。
   当時、豊橋の官公署長の会「清和会」へ見送りの案内状を出したが、裁判所長は代理でな
   く判事の所長さん本人が見送りに出席くださるなど、河合陸郎市長はこの視察に市政の今
   後を賭けている感じが強く伝わってきた。  (豊橋駅で受付け設置)

   

15. 世界に通じる 青木茂 元豊橋市長の行動と経緯 

  「青木茂氏」大学は理学部を志望したが色弱のため理学部専攻を断念した。
   しかし、 豊橋市長となってから豊橋市地下資源館を建設開館したが、正に青木青年の理
   想を追求したもので「マルチ市長」に通じるもの…、
   東日本の原発事故後の理学的追求をみると「日本の市長」ならず「
世界に通じる 青木茂
   と言っても過言ではない思います。  (小柴記念賞コーナー参照)

  振り返ってみると、三河港造成と臨海工業開発に始まり、更に重要港港湾とし世界に通じ
  る港となった。豊川用水に「500万トン貯水」の万場調整池平地のダム湖 (青木構想
  
の中に
工業用水(人造淡水湖、工業用水貯水兼調整池を含む)などが有り構想実現
  ユーレックス計画(都市農村環境結合計画)は愛知県に先立つこと30数年前に実現させた
  、戦災で傷つ いた市街地の緑化積極的に取り組み、特に街路樹の管理を、樹冠を選定しな
  い無選定方式という全国でも例を見ない独自の方式をとったこと。美術博物館の建設、実物
  全身骨格標本導入も国立博物館に次ぐ日本で2番目の自然史博物館構想立てた、総合動植物
  公園構想、図書館電算化システムも名古屋市より先に稼働させ全校区の市民館などにも配本
  するシステムを完成させた、身体障碍者会館建設、小中学校区毎に建設の地区市民館・校区
  市民館建設、豊橋技術科学大学の誘致のほか「見る、聞く、そして体験! 」の視聴覚教育セ
  ンターを風光明媚な岩屋山麓に1974年開館の他、地下資源館を1980年(昭和55年)に建
  設開館させるなど…先頭に立って先端的な施策を行ったことと、その行動力。

  台湾で生まれ台北高等学校、台北帝国大学を卒業し戦後台北県顧問、台湾省政府農林技正と
  して中国の役所に勤務(留用)、昭和22年(1947年)5月に留用解除後により第三次
  引揚梯団長
として8000人を引率し佐世保港に帰国(青木茂37才)

  昭和35年(1960年、50才)豊橋市助役以 来、数奇な運命を乗り越え稀にみるマルチ
  助役・市長 青木茂として後世に語り継がれる思う。

1万場調整は、やはり青木茂市長が豊川用水開通後の新たに計画完成させたものと作家の
   高橋哲郎氏が「日本一の調整池;難航した用地交渉」と書かれていることからも渥美半島
   にも安定した水を供給するため新たに計画実行したことが第三者の目からも実証されたも
   のと思い追加する。(2015.3.9)

 ※ 
万場調整池導水路工事風景(昭和58年=1983年)
   私が市議会事務局いた頃市議会報(調査係3人同行)に載った写真です。



  ※ 青木茂市長の生涯参照


                          
  
記録のページ目次   都市空間の整備の方向   三河港造成の原点     一枚の色紙    青木茂氏の生涯


    
    
 長大橋



青木茂氏がもし豊橋への道を選ばなかったら(推理編)   
        − 東三河・西遠地域へ夢をもたらした人 −