一枚の色紙


 台湾帝国大学出身者

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       豊橋市長 青木茂 の生涯
          (坂本龍馬風生涯/明治・大正・昭和・平成を駆け巡る)
          − インターネットでその功績を未来に伝える −               
             小 澤 紀 明      (著書にみる)  (画像検索)
青木茂氏の両親は岐阜県出身。明治40年頃、台湾で初めての製氷工場建設を請け負った会社に随行して渡台し、そのまま製氷会社の機械主任として残留した。
経歴に岐阜県出身となっているが、両親の戸籍からである。
そして、1910年(明治43年)11月10日 台湾台北市台北病院において、青木鍬三郎・玉枝の長男として生まれる。いわゆる台湾生まれ。(「私の視覚」より) 2003年2月22日逝去。
青木茂氏は、少年時代は台北市新竹市嘉義市に住み官吏時代は、台北・高雄・台中・台南の各地に住む
台北高等学校、台北帝国大学を卒業。台北州産業部長を経て戦後、参議院事務局警務部長を歴任。
地域開発の論文が昭和35年(1960年)豊橋市長となる河合陸郎の目にとまり助役として迎えられる。
本人は、「東海道メガロポリス」線上にある豊橋市で「オランダの干拓を参考にしながら世界に例のない「ハーバーアイランド」の造成を夢見てきたと言う。私の目に映ったものは、どうであっただろうか?


幕末に活躍した坂本龍馬崎弥太郎明治初期にかけて経済面で大活躍したことは対比される。
ここでは、豊橋市を中心とした三河港臨海開発の論文など行政面に着目した青木茂氏は、どのような体験や考えで目指すことになったのかスポットを当ててみたいと思う。

※1.2012.12.06 追加(大分県副知事の件と、台北帝大時代の援助と奨学資金に関わる件)(別記)
※2.2013.01.01 追加 (もし青木茂氏が豊橋への道を選ばなかったら(推理編)(別記)
※32013.4.12 台湾から引き揚げ後の参議院警務課長にになったいきさつ(本編挿入)
※4.2013,6,11 追加 退任後台湾など海外交流旅行(本編挿入)
※52014.1.05 お孫さんの日本一時帰国(2014年の正月)(2段階リンク)

  主な功績等(豊橋編

1.三河港の整備の造成の礎を築いた

昭和37年(1962年)新産業都市指定で青木構想の作成、青木学校での試案を中央専門委員・専門調査会を通し具現化。段階ごとに衆参両議院議員・本省(各省庁)・愛知県内外・豊橋市民などの他、企業への説明を根気よく続け理解を得るよう情熱を傾ける。
豊橋を中心とする東三河地域が「工業整備特別地域」となる。昭和39年4月(1964年) 当時の青木構想(三河港開発試案)が現在の「三河港」の第一歩として印した。

2.都市緑化

戦災で傷ついた市街地の緑化積極的に取り組んだ。特に街路樹の管理を、樹冠を選定しない無選定方式という全国でも例を見ない独自の方式をとった。

3.ユーレックス計画(都市農村環境結合計画)

廃棄物の増大、多様化に対応するため、廃棄物の活用を模索し、ユーレックス計画(廃棄物の処理によって発生するする熱源を温室団地に供給するなど、廃棄物処理事業と農業を結びつけた総合的廃棄物処理再生計画)の実現に導いた。

4.身体障害者総合福祉会館の建設開館

昭和57年(1992年)10月にオープンした身体障害者総合福祉会館も他都市に先駆けて建設開館し特筆される施設である。


▽ 助役…昭和35年7月16日市議会で助役選任が承認される。

昭和50年3月(1975年)まで4期 (15年)
この時、豊橋には2人の市長がいると言われていた。すなわち、中央に関することは全て青木助役に任せる。
しかし、愛知県内のまとめ役はボク(河合陸郎)がすべてやると言ったことが、まことしやかに囁かれていたことと思われる。

▽ 市長…昭和50年4月(1975年)〜昭和58年4月まで2期

この間、助役・市長時代を通して、三河港の整備、企業誘致、豊橋技術科学大学誘致、豊橋市美術博物館の建設・開館、豊橋市中央図書館の建設・開館、市民文化会館内の図書部門を、図書館配本センターとし、地区市民館・校区市民館などに市民の集いの部屋や図書コーナーを設置、コンピューターシステムを立ち上げ、中央図書館と配本センター間はコンピューターのオンライン化、地区市民館・校区市民館の図書コーナーへは、携帯端末機を使いローテーションで図書の定期的に配本サービス体制を整えた。
コンピューターシステムは、名古屋市より1年早く稼働した。
中央図書館・美術博物館には、豊橋市名誉市民となった司忠氏から寄贈を受けた司コーナーや洋書の司文庫コーナーなど特設コーナーを設けた。
特に、地下資源館の建設・開館は、資源エネルギーの大切さと、今後の日本が進むべき道を青少年に教えようとする画期的な内容を含んでおり、職員育成法も大学研究室から博士過程を出た者に準じる人の派遣を求めるなど画期的なものであった。
自然史博物館の建設は、選挙で敗退したことにより成就しなかったが、県レベルの施設と今でも言う人がいる。行政職に幾人もの博士過程を出た者がいることなど、職員の質及び市民サービスを向上させ、併せて豊橋市役所の「格の向上」などにも効果。なお、選挙の争点となった自然史博物館の実物化石購入は、化石展示は日本で国立科学博物館次ぐものであった
近時、豊橋市を中心とする東三河地域に東三河県庁設置の動きもあり、青木茂氏特有の視覚(「世の中」の属性)をよくよく考えての施策であっただろう考える。

▽ 「市長の座」のバトンタッチ

一度、スポットライトの光を浴びると中々去りがたいもので、河合陸郎市長が私(小澤紀明)に言ったとおり青木夫妻が待ち遠しいと思うほど中々渡さなかった。
三河港の造成、重要港湾の指定、トヨタ自動車の誘致等の企業誘致、豊橋技術科学大学の誘致と共に都心部の都市基盤整備が自分の描いたとおりある程度実現するまでは全てボクがやると言ったとおりであった。
しかし、河合陸郎氏には怯えていたことがあった。それは自身の体調である。それを感じると、さっさと市長職を退任したのである。
青木新市長になってから市役所秘書課で会った時には、そこには「どてらい男の”大東三市長”」の風貌とは見違うほど細っそりとした河合陸郎先生にお会いし「お声掛け」したものである。
河合先生は、退任(バトンタッチ)する時も見事な演出だった。

              昭和63年11月3日 豊橋市名誉市民に推挙される

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  (台湾編)

※2012.12.06追加※
経歴は、昭和8年に高文合格。台湾総督府入る。 
台湾総督府の初任給で40人ほどの恩になった人を招いて感謝の宴を催したという。
昭和8年度採用者は、有資格者6人でその1人。逓信部に挨拶に行くと、部長から逓信部には有資格者は要らないと言われ「文書係」に居れと言われる。
折角、逓信行政に携わるのだから本気でやろうと思い現場の勉強から始めた。まず台北郵便局に通い、郵便区分けから郵便配達夫や台北高雄間の鉄道郵便車にも乗務した。
保険掛時代は、簡易保険の宣伝班をやったり、台北診療所の開設、苗栗大地震の際には簡易保険診療班派遣隊長もやったり、また簡易保険積立金の地方自治体貸付業務もした。
文書係長時代の2年間は、堀田総長の勧めで゜、郵便以外の海運、海事、航空、電気、無線行政についても勉強した。また逓信講習所教官を4年間兼務した。担当は法制経済と柔道。昭和10年か11年には講習所生徒20名を引率して本省の郵政見学をした。
12年に28才で高雄郵便局長。
13年に台北電話局長になる。何で男5人、女105人なのかと言う。
戸水部長から籍を置くだけで、これから厦門(アモイ)逓信通信隊長になれ言われる。
中国・厦門(アモイ)逓信通信隊長は、2か月だけだったが、立派な無線通信局を建設してくれて中国郵政の仕組みを勉強できたのは成果だった。

野戦郵便長へ
同年野戦郵便隊の編成に当たっては、参謀本部の指示を受けよとのことで「空路上京」。当時は、民間航空機の黎明期で台湾総督府の助成で初めて台北〜福岡間に渡洋航空路が開けたばかり。那覇で給油し6時間かかって福岡に着く。
福岡〜東京間は防空演習のため日本内地の飛行は取止め。参謀本部に急用だと申し出ると特別機に乗せられた。乗組員2人、乗客4人のセスナ機。防空演習とのことで高度4000bで暖房は無く凍え死ぬかと思った。途中大阪の木津川で給油、羽田まで6時間で夜遅く着く。
台湾帰途後…。
野戦郵便隊は、派遣軍の一部。非戦闘部隊の特殊業務であることから、従来は逓信省に一任されていた。
今回は戦線が拡がり、台湾逓信部・朝鮮逓信部からも一隊を編成することになり、逓信省郵政局長が野戦郵便局長で、南支派遣軍の通信参謀中佐や少佐にも会う。
基降(きいるん)港→中国 広東市 東山地区(とうさん)の野戦郵便局と同じ東山地区に野戦郵便隊(青木茂隊長)を開設。野戦郵便長、郵便監査、郵便局員、郵便吏及び郵便夫の110名。
基降(きいるん)港を出航して潜水艦の潜望鏡が見え護衛されている時代。
              ・従軍・業務・特命検閲・従軍後記からなる。

15年逓信部渉外係長を最後に地方行政畑転じ、台中州勧業課長。
昭和15年1月、内田後任郵便長と交代帰局すると、逓信部渉外係長を命ずという辞令が待っていた。
小部屋で私と女子職員だけ。今度は課長かなと思っていたので以外だった。
ともかく上京して参謀本部と高等郵便長に報告すると、よくやったと褒めて頂き「台湾逓信部は冷遇しているようだから本省に来なさい」と言ってくれた。私もお願いした。
帰台すると泊総長から呼び出され、君を一般行政に行かせるから逓信省本部に行くのはやめよと説得された。そして4月に台中州勧業課長に転進したのです。
幹部とは肌が合わなかったと思うが、部員とは苦楽を共にし仲良くしてきたと思っている。
台中州では勧業課長として、台中新港の後背地開発に携わる。

16年海南島駐在事務官
   ・海軍特務部
   ・海南島のGHQは海口にある海軍特務部で、その長官は日本内務省警保局長。
   ・このGHQ詣では大変だったが、副官の海軍中尉と仲良くなった。彼は東大出の学徒主計中尉。
   ・例の「ニイタカヤマノボレ」もいち早く聞くことが出来た。

農業務三題
   ・伏流型河川…従来の天水のみに頼った農業は幼稚だった。
   ・優秀な豚
   ・椰子の効用…新鮮な水、食用油・石鹸の材料
   ・石碌(せきろく)の鉄…偶然に発見した。路頭が現れた。当時、鉄鉱石に困っている戦時日本にとって
    は朗報で、海軍大臣が天皇に上奏すると、早速、国の緊急施策として石碌に採鉱事業所、輸送鉄道
    が急造され、八幡製鉄所に送られるようになる。
   ・海南島の夜話…海南島暑さには驚いた。ビルマ作戦に行った兵隊の話によると、ビルマで
    は、電線にとまった雀がそのまま焼き鳥になる。
    勤務は、午前9時〜正午までと、夕方4時〜7時頃まで。
   ・夏の雨期は、1日1回必ずスコールがあり、スコール後は大変凌ぎやすくなる。

台湾農政の傑作
   ・17年9月から約2年台南州産業部長。
    台南州は、高地面積が非常に広く、米作は台中州に次ぐが蔗糖は台湾全島の7割を占め、
    製糖会社、工場が台南市にあった。雑作はイモ、落花生など大量に生産し、養豚は200万
    頭を越える大農業州である。

台湾農政の傑作
   ・嘉南大しゅう…曽文渓(そうんけい)の川の上流の山間(さんあい)を1200bを締め切り7つの山を湖
    底にして、ダムとゆうより大貯水池を造り、15万町歩の水の無い田畑に、5万町歩ずつ三ブロックに分
    けて供給、米作と蔗作を三年輪するという大農業土木。
   ・昭和初期の建設(大正14年から10年をかけて建設)… 
    昭和4年の夏(台北高等学校)から見学。1200bの堰堤の基礎を建設中。アメリカ工法を取り入れ芯
    にコンクリートと鉄板を使い、それに土壌を吹き付け段々と堰堤を大きくしていくのだという。日本では
    まだ農業土木が発達していないのでアメリカの知恵を借りたという。豊橋市に来て豊川用水、愛知用
    を見た。
    昭和30年になって出来た。日本では世紀の大土木と言われているが、嘉南大しゅうと比べるとチッ
    ポケなものと感じる。※

   ・計画農業
   ・農民の歓喜・耕地防風林(保甲・樹種・台湾1号)

専門技術家はだし
    ・昭和15・6年に台中州産業部農林課長を勤めた。
    ・林務技師の巻き 
     内務部地方課長兼総務課長

水産技師の巻き
   昭和17年末台南州産業部長
   ・ 台南州は海岸線が長く砂浜続きで貝類が多く獲れたが、戦争の乱獲で水揚げが段々少ななって
     きた。他県まで稚貝買いに出かけている。水産課長を呼んで海を耕したらどうかと提案した。部長
     命令だから仕方なくテストした。結果は良い効果が出た。台湾水産協会に投書したところ賞金15
     万円を貰ったことを覚えている。

農林技師の巻き
   ・ 当時の台湾は農業国で台南州は筆頭だった。主食の米は配給維持に何ら問題なく、イモは台湾一の大産地だった。もっとも戦争末期には航空燃料としてブタノールを造るために工場用に殆ど向けられた。
ただ、蔬菜対策は不十分だった。それは台湾の気候が蔬菜の採種に不適格であることと、日本から蔬菜の種子が輸入できるためだった。
しかし、日米戦争に入ったので日台の輸送は困難になると考え、高雄軍需部に依頼して台湾州割当の蔬菜の種子を下関から鹿屋、高雄港経由で入手した。17年度に輸入したのはこれだけで、台南州だけで一人占めとはいかず台湾全土に分与した。
そこで、農務課技術者及び農事試験場に、蔬菜の採種と新品種の開拓を命じた。
そこで巨大なアメリカナスや美味しくはない巨大在来カボチャの登場。
問題は、蔬菜のための圃場。重粘土地帯で二期作後は乾燥期に入るので、耕作不能地が2万町歩に及ぶ。これを看天田と言う。
農務課技師に看天田利用を要請した。提案は、二期作終了直後穴を掘らす。穴は逆円錐形で、深さ二メートル、幅五メートル位としその底部に蔬菜の種子を撒きなさい。それが好成績だった。
18年には、看天田が1000町歩、更に19年には6000町歩と新しい蔬菜栽培方式で圃場が使われるようになる。
   ・ 19年末、レイテ戦のため大戦団が高雄港に入港した時、その軍需蔬菜をすべて台南州が 賄う光栄に浴した。

20年3月に台北州産業部長に転出した。
総督府の農務課長になるものと思っていたので不服だった。
長官から台湾の首都台北市の台所は食糧飢饉に落ちているから君の力で善処してくれと言われたので気を取り直した。
しかし農業は新粉細工ではない。仕方ないので前任地の台南州に依頼して、ほとんどカラッポでがらんとした台北市青果市場に搬入した。市民からは大喝さいを受けたが、1か月もすると、うまくない、黄色なので顔が黄色くなる。豚の食うカボチャだと文句がでた。
官僚的には責任を回避できるが、うまいものを食わすことは、農務の技術として当然考えるべきことではなかったかと思った。

豚博士の巻
台中州には100万頭、台南州には200万頭の豚がいる。
台湾人が食生活に豚を必須している。したがって台湾の畜産は養豚振興が最大の課題。
私は、満6年前後、主幹部課長をしたので養豚問題について専門的になるのは当然です。
専門的になるには、野戦郵便長になる時に同じ船で野戦衣料廠の中佐と同行した。
中佐は、東京高等獣医学校の先生で養豚が専門だった。養豚についていろいろ教わり、広東では彼が実際に養豚飼育している所を見せて貰った。
もう一つは、海南島の駐在事務官になったこと。海南島は台湾と同じくらいの面積だが非常に平坦地で、未開発のままだった。ただ一つの産業は、海南豚を香港に年間100万頭輸出している。その海南島豚が大変美味しいことだ。

台湾では、官が巨額の費用を使って飼育場を経営し、種の改良と保全に努力しても効果が無いのとは全く対象的。しかし、海南島には黄牛が各地で散らばっており退化が目立つ。
黄牛の価値は豚と違って低いので、自然放牧にまかせ種の保存に全く力が入っていないので退化が激しいのだ思った。
台湾総督府の豚の神様と言われる高沢博士が海南島に行った。
私は、海南島豚に関する所見と、台湾総督府の養豚政策ヨークシャ、パークシャによる品種改良を痛烈に非難した。高沢博士からこの時、豚博士の称号を貰いました。

飛行場と対戦車豪を造る
昭和19年の台南州産業部長時代
高雄海軍鎮守府長官から台南州知事への要請により長さ1000メートル、幅100メートルで経費は86万円 
参照 消費物価指数等(明治・大正・昭和・平成)  (生活便利帳2)

飛行場
     土地取得、測量・設計・工事監督、作業員、作業器材、滑走路の舗装、工事資金

     対戦車豪

敗 戦)

20年8月台北州庁会議室で昭和天皇陛下の詔勅を聞く
  (知事は戦後初代経済企画庁長官の高橋衛氏)。

唖然として、無言のまま職場に帰る。
1時間ほどして高橋知事に呼ばれる。
メモ用紙をしめして、「産業部長 これを即時断行してくれ」と指示される。
1、即時燈火管制を解除する。
2、闇市場を公認する。
3、露店飲食店を無制限許可する。
4、統制経済、物価取締りを止める。
5、競馬を再開する。

早速、台北州知事名で電力会社や警察署長にその旨を指示し、統制組合、統制を受けている関
係会社にその旨を通知する。
すると間もなく、台北憲兵隊長と警察部長が抗議にきた。
台北州知事は、台湾総督府総務長官並びに警察局長に呼ばれた。
青木自身も、総督府殖産局長に呼び出される。出した措置を即時撤去との命令だった。
しかし、青木と知事は、今日の場合、民心の安定がまず第一だ、そしてやがて日本人の安全
を策すべきだ、台湾総督府の権威は一瞬にして崩れ去ったのだ、と主張して頑として拒否した。
これに関して小さな二つの事件があった。

             (略)

             進駐、接収、日本人の生活、と留用

  留用編

昭和20年10月から台北県政府顧問として

昭和21年4月〜22年4月まで台湾省政府農林省技正として机を与えられ中国の役所に勤務。
※ 日本の勅任技師と言う格。中国では技術家、事務家を問わずその道の専門と言うことを「技正」という。

            中国の役所、中国人の話し、アメリカG・Iの本と上海進出
            国民党の大陸脱出、台湾騒動、台湾人の意図
            中国側の受け取り方、鎮圧、事後処理、台湾人の刀狩り
            陳儀台湾省主席の銃殺、日本人の留用解除

日本人の留用解除
今回の台湾騒動が日奴による反乱という見解で、日本人の事務所や青木茂氏が日本人会長だったので、深夜、家宅に土足のまま捜索を行うと乗り込まれて、ピストルを突きつけられた。結局、日本人は無関係となった。
そして、中国政府から日本人が居るのは困ると考えになり、約一万人の留用日本人いたが8000人が留用解除になった。

4、第三次引揚梯団長として8000人を引率し佐世保港に帰国(青木茂37才)
最初の2000人は、4月下旬「日章丸」で。
残り6000人は、5月下旬「台南丸」で無事帰国した。
留用者への特恵…通貨1人当たり1000円、携帯荷物は手荷物の他1人行李1個、中国と言うところは、表づらは別として適当にやってくれる所だという感じを深くした。
盛大な見送りをしてくれた。

             戦犯受刑者、海賊及び台湾人妻の乗船、よろしく料2000万円
             引上げ余聞 美術品 秘蔵品 海賊と日本人である中国軍将校
             第四次引揚船の世話、

5、第四次引揚船の世話
台湾在留の日本人約2000人。留用者の大半は台北大学の理農学部、工学部、医学部の教授陣でした。日本人会長は日比野教授。
引上げ拠出金の残金300万円を日比野氏に渡した。
台北大学の教授陣は、帰国を熱望し強く迫りましたが容易には実現出来なかった。
結局、青木茂氏のところへ依頼がきて、外務省と直接談判して、フィリピンから帰る日章丸が台湾に寄るよう配船することを了承させる。
昭和23年初頭に行われ1200人が帰還することになった。
この時残留者は、ラン作りの名人、動物園の象使いという類の技能的な人が留用された。
その人数は、800人程度。

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  (帰国後編)

帰国後参議院事務局への道)

佐世保港上陸後早速台湾時代の先輩と友人が新職場を配慮してくれた。
@高橋衛氏…新設の経済企画庁事務官。
A塩見俊二氏…長野財務局の国有財産部長。
B須田一二三氏…新説の労働事務官。
C木村太郎氏…警視総監に会えと言う。

参議院事務局警務課長になったいきさつ。
木村太郎氏(台湾日通支社理事)が学友の江口美登留(警視総監に会えと言うので訪問
すると、江口美登留氏(警視総監)の学友である
参議院事務次長の近藤英明から参事を
推薦して欲しいと頼まれているとのこと。
こで早速、参議院事務局近藤英明次長と小林次郎事務総長を訪ねたところ、即座に参事
任命の辞令を受け、参議院事務局警務課長になる
(2013.4.12追加

帰国後、参議院事務局では、警務課長、警務部長を最後に2年で国家公務員との決別。
その後、昭和23年4月共栄製パン株式会社に名前だけ貸す。
同26年に立て直しの話からチッポケなパン屋の親爺(取締役社長)になるも、28年3月に高橋衛先生が国税長官を辞め参議院議員選挙に出るということで、会社経営も思うようにいかず思い切って31年に廃業。
昭和24年の夏から約2年日本生物科学研究所大宮工場管理部長を勤める。

昭和31年から2年間永寿病院事務長。病院経営、医者との対応、看護婦との折衝、ストなどに大変ツウになる。
豊橋市助役になってから、市民病院、医師会との折衝に相当自信を持つに至った。
昭和28年の初め国税庁長官公舎に伺うと、池田勇人に勧められて参議院全国区に出る。結局「留守居役からやがて選挙参謀になってしまった。
昭和31年になり年も50才近くになりこれからは余生だと思い、高橋先輩に何処かの県の副知事ぐらいに推薦してくれと頼んだところ、君のような人材を使う器量のある知事はいないであろうとの返事。

それなら、原籍はあるが、親類も知己もない岐阜県に行こうと福田一氏の世話で大野伴睦に会い、彼の紹介状を持って松野議長に会いに行ったが不在で前田県議に会って、私を岐阜県の自民党政調会に使って貰いたいと申し出ますと、経歴を見て、あなたのような大物はとても使えないとのこと。
これでは、岐阜県は斎藤道三どまりと思った。

青木茂氏が岐阜県に行った頃は、松野幸泰氏と県の総務部長をしている立野氏が一騎打ちをすると言うことで沸いていた時代です。ポリシーが大事で権力争いは無駄だとのことで知事選に出る。
選挙結果は、約70万の得票は松野氏と立野氏が大半を取り、3000票の差で松野氏が当選。
青木茂へは1万3000票あった。この票は両氏の選挙の帰趨に影響したと思う。

知事選におちてから1年有半、無収入、無職の浪人生活になりました。
子供が中学校に入学、先生からお父さんの職業はと聞かれた時に無職と言って涙を流したそうです。
青木茂には大変ショックで太公望気取りをやめて名古屋で職を求める決心をした。

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 (岐阜市から豊橋市へ)

青木茂氏が、豊橋市助役に就任したので、家族は昭和35年7月31日に、岐阜市から豊橋市へトラックで引っ越してきました。

今「昭和37年(1962年)」当時は、公務員の給料は民間に比べ低いが、国・地方の発展に伴い
そのうち逆転する、とも言う。

 ”二川の山火事の件
そうした中で、普門寺付近の山火事の際、山分一郎・愛知県農林部長のお宅が近くにある。
夜9時頃、見舞いに行ってくれないか…。助役車の運転手と共に消防団の消防車から「ロープで
助役車上部を叩かれ怒鳴られながらも」見舞いに行く。(本部の旗を付けて無かったので、山火
事の消火が最優先。今は気が立っているので我慢々々と言う。山分一郎・愛知県農林部長宅で
見舞いを言い無事を確認して市の災害本部に帰り助役に報告する。

後日、助役車だったことが分かり消防団から運転手のところに謝罪に来たと聞く。案外「豊橋市長になる河合陸郎」が桑原幹根知事に助役紹介筋が見えてきた。
豊橋子供自然公園や豊橋市自然史博物館、豊橋総合動植物公園の用地確保もこの筋から営林署や東海財務局に話をしたのではないかと思われる。

豊橋市助役就任は、山分一郎・愛知県農林部長を通し推薦を依頼しそれを、桑原愛知県知事 → 河合陸郎氏(豊橋市長)に伝えたのではないかと、この時(二川の山火事)から感じていた。(台湾時代に農林畑を歩いた関係からと、山分一郎氏は台北帝大の先輩と言うことが分かった。)

  高橋衛氏との出会いと三河港

高橋衛氏との出会いは、戦前「台湾総督府」での9か月にしか過ぎない。台湾総督府で左遷され、主計局長から台北知事になった。昭和22年5月引き上げてくると、当時神戸税関長となっており、やがて参議院議員、自民党政調会長、大蔵省OBとなった同氏にたびたびお願いした。
その点では、豊橋市(東三河地域)の恩人であると共に青木茂の恩人である。三河港は、青木茂の提案がきっかけで造成を始めたものである。そして第三セクター方式で進めることとしたところ、2年目にドルショックにぶつかり、運輸省と愛知県に見放された。青木茂は、高橋先生に、大蔵省が推奨する第三セクター方式の港湾開発計画をここで打ち切るのはおかしいと談判してもらった。その結果、逆転して採択一位になった。その時打ち切られていたら三河港はおそらく今日未完の港でしょう。


4.青木茂助役(後の市長)との出会いと直感
私(小澤紀明)の目とまったのは、物凄い苦労人ではなかったかということである。
人の面倒見がよかったと言うこと。

昭和8年に台湾・嘉義市の伊ケ崎虎吉氏の長女シズエさんと結婚。(私の視覚より)
シズエさんは昭和26年病死する。昭和27年に台湾時代から馴初めの山下キミ子さんと結婚。
昭和37年1月1日に広報課(助役秘書)の辞令を受け、助役宅に前任者の成田久さんと挨拶に伺った。
当日は、豊橋競輪開催日で管理者として出向いていたので助役は不在。
(後)妻のキミ子さんと子息の寿子さん、尚夫さんのほか、先妻のシズエさんの里、伊ケ崎家は敗戦による台湾引上げで離散し、伊ケ崎虎吉氏の孫3人を引き取り成人に達するまで力を貸したとあり。私が助役宅を伺った時、成人に達していない2人の面倒をみている姿があった。
キミ子さんは、実に聡明な方で子供は生まれなかったが先妻方(伊ケ崎虎吉氏)の孫3人を成人するまで、夫・青木茂氏と共に育て上げた。
青木家は、助役就任後直ぐに生活安定とは行かず苦労の日々が続いていた。安定したのは親戚の子供さんがすべて成人した後と思われる。

青木茂氏の好物は「ウナギ」。
そうそう、ウナギと言えば昭和天皇が台湾行幸啓時ときのこと。
昭和天皇の好物は何かと手づるを使いウナギと言うことをつきとめる。
台湾行幸啓の接待役を仰せつかったが、天皇陛下の体調までは気がまわらず「ウナギのか
ば焼き」を用意した。

でも体調管理で分かってしまった。その徹底さの凄さには身震いを感じたと言う。
その時は、別に大きな事件が起き責任はうやむやになった。との話聞く。
なぜ「藪からこんなことが出るのか」?と言うと。

天皇・皇后料陛下の行幸啓で、当時の豊橋駅長から「市で音頭を取ってもらいたい」との連絡
があり、市内の官公署長と豊橋市役所部課長に連絡をとり、昭和天皇・皇后両陛下の行幸啓
の平安を祈り豊橋駅通過時のお見送りをして頂きたい。というものである。

連絡文書の送付と当日の受付に行ったことに関して、この時に台湾行幸啓の話しを聞いたのです。
もっとも新幹線の開通後は、通過駅での見送りは無くなったようです。2回ほど経験した。

”アメリカの天皇観”は!
 明治天皇 … 評判が良い 伊藤博文や福沢諭吉などもと言う
 大正天皇 … 普通
 昭和天皇 … 良くもない、さりとて悪くもない、…
 評判の悪い日本人…東条英機等の軍人
 戦後、日本人を人種改良として役立てたいとの話があったとの話なども聞く…。


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  (市長職退任後)

自治大学研究部から、青木茂氏が担当した教養講座につき、思い出やエピソードなどを書くよう依頼された。
「私の地方自治」と題し端的に私見を書いた
1、戦後の行政
2、豊橋市政に挑戦
3、独自の市政
4、公約の実践
5、自治大学の講義
昭和58年の市長戦敗退後、自治省所管の「自治大学校」で課長・課長補佐・係長級の研修に対し地方自治の進め方について、「豊橋市政の実践」の講義を担当する。
市長は、市議会で国防と外交以外の国政につき国政並みの答弁をするが、これは国政と市政が重なっているからだ。
生徒を驚かしたのは「豊橋市は、清掃事業や不愉快事業に優秀職員を配置し、市の幹部はそこの出身者が多い」。
「未来への視覚」「続未来への視覚」「地方行政への視覚」を中心に講義した。

6、地方自治の問題点
@ 収入役は三役となっているがその役割がボケている。
A 市職員は、すべて地方公務員となっているが、市政は国政と違い現場が多いので単純労務者もあっても良い。
B 議会は、その運営の全てが国会並みで、市の規模に応じて省略しても差し支えないと思う。
C 議員が市の部長級の月給取りになりつつあるのは遺憾。
D 県については、市町村の監督権を持っているのは理解するが、同時に市長村並みの自治体となったため、県政は県庁所在地中心となり、行政の公平と言う点から問題。
E 地方制度の要は行政のバランスだ。現在それが大きく崩れつつある。従って現在の体系である府県及び市町村制当然手直しされるべき。基盤の地域・体制を抜本的に改革するべき。

海外旅行・交流等

退任後、バリ島やジャワ島、韓国の古都、中国三大古都への旅行。訪台は6回と書かれていたが7回目以降も書かれており相当旅を楽しんだと思う。夫妻や兄弟姉妹などと亡先妻の実家伊ケ崎家への訪問。4回目の訪問は台北帝国大学時代の訪台団に参加、母校のあった台湾大学を訪問するとともに台中市にある「日月潭」観光。平成2年には日台で交互開催の台南会参加。州庁、市郡役所、製糖会社など各種事業・企業、台南高等工業、小中学校などの関係者で毎年1回東京で開かれ、今回は3年振りに台南州下への訪台で、一行は東京組、大阪組、福岡組の合同63人で交流を深めた。これまで7回の訪台(以下略)。これとは別に、台北高等学校や逓信協会の総会などに出席で出生以来36年間居た台湾の故郷全域を訪れたと言う。
更に東西ベルリンとボヘミア紀行、ライプチッヒ・ミッション随行など。


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 (番外編)   豊橋公園内の神武天皇像
 (略)

 皆さん毎年集まる豊橋公園の神武天皇像には、こんな経緯があります。
私が昭和35年豊橋市助役に就任して、まもなく以下の噂を聞きました。
旧豊橋連隊内あった神武天皇像は占領軍の破棄命令にかかわらず、こっそり隠され保存されている。それは神武天皇像のお顔が明治天皇にそっくりと言われ、連隊の至宝とした尊崇されていたので、破棄するには忍びなかった由です。調査の結果、豊橋市収入役の丸地幸之助氏が、本体を包帯でぐるぐる巻きにして豊橋公園内の吉田城隅櫓の底部に、また刀は市金庫に、そして出雲殿の関係者が弓を殿内に保管していることが判明した。
私は、台湾で日本敗戦を迎えた。その時、米軍将校から対日戦の際「日本及び日本人」と言う小冊子を貰い読みました。良い日本人として明治天皇、伊藤博文、福沢諭吉が挙げられ、悪い日本人には東条以下の軍人が挙げられていた。交戦中の敵国さえ尊敬する明治天皇に改めて感銘した。
昭和37年に豊橋市民プール建設時に工事施行者に施行記念として、戦前、市民プールの位置にあった神武天皇像を現在地に復元安置された次第。

※ 私も、神武天皇像が豊橋市役所前で「包帯にぐるぐる巻きにされて」丁寧に運び出される情景を秘書係室から見ておりました。そして市民プール建設の社長さんとは、行政課文書係長から広報課長補佐兼秘書係長(市長秘書)になった杉元正彦さんと共に商工会議所喫茶コーナーで市民プール建設を請負った社長さんにもお会いしています。この時、コーヒーが出されたので「一杯のコーヒー」からになっては困ると言ったことを記憶しています。この中に出てくる出雲殿は陸軍墓地ではなかったと思う。同墓地は統計係長をしていた方が墓守をしていて新聞配達時代や、庶務課で初配属先の係長のお宅で今でも懐かしく思います。故司忠豊橋市名誉市民の墓地もここにある。


あれこれ、いろいろ書きましたが「点と点」に過ぎません。
青木茂さんの「豊橋市長としの輝き」はもとより、”真の輝きは助役時就任早々から始まった”。
インターネットに発表後は、青木茂市長の名前は次々と広まってゆく。
このページは、河合陸郎ご夫妻と青木茂・キミ子ご夫妻のご功績とご苦労に報いるため「押しかけ小(子)参謀的」に、72歳を迎えようととしている年にしてネット出版する次第です。

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                豊橋市長青木茂 


          目  次 (インターネットとプロジェクター使用)


@ 青木茂の夢(豊橋を選んだ理由)  開発図面(ハーバーアイランド構想)

A 河合陸郎新豊橋市長から新成人への記念額皿

   三河港造成の原点(不二タイムス・東日新聞…長谷川哲男記者、後の社長)
 
B 豊橋技科大浜松医科大誘致秘話…長谷川哲男記者、後の社長)

C 都市空間の整備の方向(豊橋のまちづくり提案)・回顧編を含む…(小澤紀明)

D 河合陸郎市長・青木茂市長時代の豊橋(小澤紀明)

E 全国の港へ仲間入りした三河港 (小澤紀明:検索編w  
   (ネットで辿る旅記録

F 教育委員会や教員人事、市職員人事の公平性とお遊びについて

   河合陸郎市長から青木茂市長へのバトンタッチ

G 別記編(インターネット検索でGOヘ) 数百ファイル…現在約300件

H 記録のページ目次 

I なぜ今学ぶのか?

J 記録のページ「(1行書き10年以上続いている)」

K 青木茂豊橋市名誉市民を偲ぶ広報記事  同お別れの会会場風景

L 私の「天の地、地の利、人の和」
   @ 「都市空間の整備の方向」執筆。その実現と回顧 松下塾・吉田塾
   A ハソコン購入。その後の活用と行動

M 自然史博物館の実物化石
   パソコンで巡る進化博物館(小澤紀明)

N エネルギー資源の移り変わり(地下資源館関係)

O 豊橋市中央図書館関係(協議会委員は豊橋の頭脳集団) 他

P 地区市民館校区市民館の建設
   町公民館等は社会構成から地元では維持できなくなる。図書コーナー設置特に校区市民館の
   運営は地元に任す。当時出来ていた全館を配本センター職員に同行し作業した。

Q 青木茂先生を信じ行動しした結果、
   お陰さまで「豊橋市長」検索で Yahoo, Google, MSN 他で私のページが出るようになる。
   豊橋のまちづくり提案、大野佐長豊橋市長他

R デジカメとスキャナ・第三のカメラ (豊橋市都心部)  

S 百万都市について  (政治の移ろい) 万場調整池

  (w「三遠南信エリア」・「リニア新幹線想定ルートイメージ図」)
  (愛知・静岡・長野「三県の冷や飯地域」今後どう進むのか)

21 東海道の真ん中に北海道がある。岩屋緑地展望台(標高113m)

22 幻の海峡大橋「伊勢湾大橋のイメージ画」の波を揺らす

※ ユーレックス関係は、台南州産業部長当時の若き青木茂氏の夢であろう。

  万場(ばんば)調整池(平場ダム:500万トン)

 青木茂氏の孫(姉)青木美和さんは(ジェット機のパイロット) (画像)として活躍し、そ
    の妹さんは、米国で行政学博士資格を取得しシンガポールの大学で教授への道に励
    んでいる様子。
    シンガポール国立大学からリー・クアンユー大学院に移籍し行政学を教えている。
    (2013.5.11追加)
    そう言えば、「都市空間の整備の方向」書いていた頃、航空宇宙産業をこの三河に誘
    致したいと途方もないことを言っていた。今度は愛知県・名古屋と喧嘩づくで誘致する
    のと思ったものだった。 
    でも、そう言う視角がなかったのでは、ユーレックス計画や地下資源館・自然史博物
    館建設計画、三河港造成計画は出て来なかったのでないかと思う。  
    (孫を思うリンカーンの言葉)

※ 2012年は、「旧豊橋港・蒲郡港・田原港・西浦港」の4港を併せて、「三河港」になって
   から50周年を迎える記念年である。 
   青木助役の全国市長会主催の欧米40日間視察の記念土産は、郷土新聞社長の要望
   により渡したが、下記文字の中央部に帆船のような船舶入り銀製ネクタイピンなどは残
   してある。検索した結果、社団法人日本港湾協会のマークであった。

       P
    JH
       A


※ 2012年は、三河港となった1962年(昭和37年)から50周年目の記念年。

※ 私が助役秘書だったのは、昭和37年1月1日〜39年3月31日までの2年3月に過ぎ
   ない。新産業都市指定の陳情から工業整備特別地域の指定法律施行日の前日まで
   で、 同法施行日の4月1日には異動した。

※ ホームページのサイズ変更方法

※ 航空宇宙産業の誘致
   私と同じ年頃のご子息をお持ちの河合陸郎・青木茂両市長さんに21世紀の地球から
   お二方様に頂いたご恩に少しでも報いるため、お二方ご夫妻様に関係の深い「三河港」
   を取り上げました。
   青木市長は、更に「東三河」を中心としたこの地域に航空宇宙産業をも誘致するという
   壮大な夢を語っていました。
   私が「都市空間の整備の方向」を執筆した際、都市計画課の係長はそのままでしたが
   ヨーロッパの先進都市視察に行かせてもらいました。
   市長戦では「自然史博物館」関係が争点になり、議会事務局にいた私は苦い経験をし
   ました。しかし、次世代へのプレゼントは、自動車産業を遥かに凌ぐ企業誘致を考えて
   いた様子。選挙戦敗退のため愛知県・名古屋市への挑戦は実現せず「未完の構想」に
   終わったようです。三遠南信地域が一つになる時代が来ようとしています。
   豊田佐吉の生家もすぐお隣の湖西市に記念館が残っています。
   今後、新たな産業を興すのも良いのではないでしょうか。私が助役秘書当時、青木茂
   さんは徳川家康に興味をもたれ全巻求められた。遠方からの来庁者も「徳川家康家の
   菩提寺」はどこかとよく聞かれました。お気持ちは分かりますが、全て一人でせず次世
   代の力も借り、一つづつ進めていくのが肝要かと思うほど私も歳月を重ねました。
   私も古希を越えたこの時期に、長谷川哲男さん、田崎哲郎さんとは30年ぶりに、また
   東三河の諸先生方40人の同好会に参加させて頂いたことを感謝いたしております。

  東三河県庁広域合併論   沖縄(琉球)ハブ海空港活用(w

竜馬暗殺直前の手紙発見=新政府構想に言及、一般家庭で保管(平成26年(2014))

 2014.1.05 お孫さんの日本一時帰国(2014年の正月)(w;2014..8.4追加)



  

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