窓の会説明用


 
 都市空間の整備の方向



回顧編ホーム

 w1生活便利帳1


 記録のページ目次


青木茂の生涯へ戻る

 このことについては、当初の発表当時から加えておくべきだったことと、一部疑問に思っていたことがあ
った。そこで、再度調べてみた。
大分県副知事と豊橋市助役からの誘いがあった。大分県副知事の誘いが引っかかっていた。
あちこち別れていた項目を、私が当初聞いたことと「私の視覚」で書かれていたことを対比してみた。
そのことは、初代国税庁長官高橋衛氏を長官室に行ったくだりである。
パン屋のおやじ(取締役社長)らしく国税局長官室に長靴と半纏姿で行ったところ秘書課員がビックリした。
※昭和35年(1960年)当時、山分一郎(台北帝大の先輩)愛知県農林部長を通し推薦を依頼しそれを
桑原愛知県知事 → 河合陸郎氏(豊橋市長)氏に就活を依頼していた時期と重なる。
そして高橋衛氏は青木茂氏に、自民党政調会の行政担当の理事を2年やったら池田派が責任もって代議
士にすると書かれている。

私は、国会議員になるよりまちづくりを一任すると言う豊橋市助役の方がよいとお断りしました。
大分県副知事へのくだりは少しも出て来ず自民党政調会 行政担当理事と受け止める。

もう一点は、記載不足の項目である
1、桑田剛助・スミ子夫妻には学費等多大な援助を受けたこと。
  台北帝大入学後は奨学金を受けたこと。
  台北帝大卒業後1942〜45年(昭和17〜20年)まで後輩に奨学金を送ったこと。
2、桑田剛助、スミ子夫妻からは、台北高等学校3年時より各地を旅行させて頂いたこと。
  中国の厦門、福州、上海、青島、天津、北京、満州の大連、旅順、鞍山、奉天、ハルピン、安東(現、丹東?)
  の就学旅行などの援助を頂いたこと。
  2回の高文受験の際「学生割引切符」で日本各地を広範囲に旅行させて頂いたこと。
3、大学最後の年には桑田氏願い同商店の小僧にしてもらった。最初の仕事は台湾銀行への入金であっ
  たが、午後3時を過ぎ閉店していたのでそのまま帰ったところ、番頭にどやされ銀行は裏からはいるも
  のだと教わった。当座不足の通知に対処するためだということです。
4、この時に簿記・会計関係を極める。


豊橋市長 青木茂 の生涯」の追加と修正