■ Hobo's Profile |
■ いつかどこかで詩を聴いている |
いつからかはわからないがガキの頃からカウボーイに憧れていた。そんなわけで学生のころには学校を出たらアメリカへ渡るつもりでいた。まだ情報もそう多くない時代で映画やテレビ、雑誌などを通じて海外の生活に思いをはせていたのだが、音楽もまたイメージを広げる役目をになっていた。 そんな二十歳の夏に初めて海を渡った。78年の夏。 |
78年夏 パンアメリカン機に乗りLAに着いた時、僕の気分はArlo Guthrieだったかもしれない。ダウンタウンは荒廃した感があり、思いのほか空は青くはなかった。Albert Hammondが歌うように雨は降らなかったけれどね。 LAに行けばいつだって好きな音楽が聴けるものと思っていたけれど、現実にはそうではなかった。新聞を見ても知った顔はあるけれど、それらは興味を引くものではなかった。 数日がたち街を出る。目指すはコロラド州デンバー。しかしアリゾナ、テキサス、ニューメキシコと渡りデンバーへ着くころには自分の心は萎んでいた。街を離れ同胞のいない日々を過ごし、慣れない英語にこんがらがる日々。地球のでこぼこに跳ね返された自分は、デンバーにたどりついた時にはかなりくたびれていた。ロッキーの山々に囲まれた街。当時、ウェストコースト神話に疲れたミュージシャンの約束の地としてアスペンやボウルダー、コロラド・スプリングスなどとともにその名前を聞いていたのだが・・・・・。 山間のゲスト・ランチへ行ってみる。だたしそこはただの観光牧場であり、自分にとっては何らリアルさを感じ得るものではなかった。「帰ろう」独り言のようにつぶやき街に下る。 そう20年も都会の雑踏に暮らす自分こそ、リアルさを失ったアーバン・カウボーイに成り下がっていたことにその時はっきりと気がついたのだ。当初はコロラドに長逗留するつもりではあったが、数日後には再びバスにゆられ北の国境を越えていった。気がつけば、とある日曜の午後に僕はバークリーのグリークシアターにいた。ステージにはBill PayneやBobby Lakind、Milt HollandなどをしたがえたRandy Newmanがピアノに向かい歌っている。空を見れば底抜けの青空がまぶしい。僕のアメリカへの旅はすでに始まっていたはずだが、本当の航海はまだこれから始まるところらしい。Randy Newmanの“Sail away”が僕の船出を見送ってくれている。 |
89年秋 無垢の時代を終え81年より大人の世界へと仲間入りをする。時は流れ、いつしか札幌にその身を置いていたのだが、人間関係に疲れ人を信じる心を失いつつある日々であった。時はまさにバブルの時代、会社の語学研修制度にうまく引っかかりアメリカへと渡る。病んだ心を引きずったままペンシルバニア州ピッツバーグへと逃避行を敢行したのは、89年の8月も終わろうとしたある日であった。 同市のポイントパーク・カレッジで英語を学びながら週末は後輩の住むニューヨークへと赴いたり、遠くナッシュビルやメンフィス、アトランタ、トロント詣でなども行った。サンクスギビングの休暇にはAtrantic Crossingとしゃれこみロンドンへも遠征したものだった。いろいろな土地でいろいろな音楽に触れることは夢のような日々であったが、そんな中でもVan Morrisonのニューヨークでのライヴは「心が震えた夜」として今も忘れることはない。Carole Kingの“Natural Woman”〜“You’ve Got A Friend”のメドレーには口ずさみながら胸を熱くした。同胞や他国の人々と一緒に過ごすうちに僕の頑なな心も1枚づつ殻が破られていく気がした。不思議なことにかって憧れていた「ありふれた朝を迎える」ということが日常のこととなっている。ツーリストでなくレジデントとしての日々。そんな毎日だからこそ音楽も自然に入ってくるし、住んでいることにより数は少なくとも楽しいライヴも見ることができる。 1タームが終了に近づいた12月のある日、ピッツバーグは何十年ぶりかの大雪となった。僕らはちょっとだけおしゃれをして街のディスコへと繰り出し、残りの日々を惜しむかのように踊り続けた。外へ出ると今だ雪は降り続いている。僕らは雪の中を転がり子供のように動き回る。静けさの中を僕らの声だけがこだましていた。この時が何時までも続くかのように....。 しかしこの時はそう長く続きはしなかった。街を離れる前の夜、同室の同胞から「おかげさまで毎日無事に授業にでられました。明日からはちゃんと自分で起きますから」と言われ、人との繋がりの嬉しさをかみしめた。明かりを消しベットに入ると「明日、黙って行かないでくださいね」と彼が囁く。「何だまた明日オレが起こすのか」と思いながらも涙が頬をつたうのを感じていた。翌日は旅立ちの日、順番に知った顔が街を出る。スペインの雄ビセンテは「俺は自分の村に橋を架けるのが夢だ」と言い放ち、ハーバードへと旅立っていった。一時帰国する関西の同胞から謝辞と熱い抱擁をもらい、彼らを見送ればそれは自分が見送られる番である。寂しいといって出てこないタイのお姫様に電話でサヨナラを言う。 31才になった僕はここではだれよりも年上であったが、短いながらも一緒に過ごした仲間であった。皆の自立を願いながらも鞄を引きずりバス停へと向かう。初秋に訪れたこの街も今ではすっかり冬の装いとなっていたが、今や僕の心は解放されていた。「人とまともに向き合うってのもいいな」と思いながらも、また涙が溢れてくるのを感じていた。 |
NOW & THEN 帰国後、札幌で1年間のお礼奉公を済ませ、91年の1月に東京へと戻る。カウボーイにはなれはしなかったものの、それからも機会を見ては世界を彷徨っている。旅先では音楽だけでなく、時によりスタヂアムの叫声やサーキットのエグゾーストノート、街のざわめきなどの音にも耳を傾ける。しかしそこにはもうかってのようにでこぼこに跳ね返される僕はいない。 ある日、僕は南アフリカの野生動物居留区にいた。それは極地を除けば全ての大陸に足跡を残した日であった。その夜、満天の星空を見上げながら20年前に初めて海を越えた日々を思い起こしていた。目をつぶれば過ぎ去りし日々と音楽の風景が思い出される。そう景色は変われども傍らにはいつも音楽がころがっていた。今も旅先で飛行機を降りるたびに耳元でRy Cooderがこう囁く“You’re still just across the borderline”と。 |
全ての旅先であった人々と広大な風景に感謝。これからも苔むすことなく転がり続けていくことだろう。 ’Keep The Spirits & Keep On Rollin’ |
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