ANY OLD TIME IN AMERICA


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昭和洋楽アンソロジー

♯05 〜 ビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」 〜

ビル・ヘイリー
   1955年(昭和30年)、白人によるR&Bともいえそうな音楽が全米を席巻した。ロックンロール・ブームの到来だった。その主役は、ビル・ヘイリーだった。エルヴィス・プレスリーより早く戦後南部で流行った黒人音楽の要素を取り入れ、ブームを演出した。覚えておきたいのは、プレスリーのロカビリーがアメリカン・ロックの先駆者と語られることが多いが、本来はヘイリーがロックの元祖というべきかも知れない。まぎれもなく日米ともロックンロール〜ロカビリー・ブームに火をつけたのは、ビル・ヘイリーといえる。
 戦後の昭和洋楽シーンを飾ったヒット曲に貢献したのは、ある意味でパティ・ペイジが唄った「テネシー・ワルツ」と、ヘイリーのスーパー・ヒット「ロック・アラウンド・ザ・クロック」だろう。それまでの昭和洋楽は戦前に流行ったジャズや、ハワイアン路線を引き継ぎ、大学キャンパスでは相変わらずハワイアン・バンドが幅を利かせていた。なかでもスティール・ギターは、どうやら日本人の琴線に触れることが多く、この楽器が繁茂に聞こえるカントリーも、あちこちの大学バンドで演奏されるようになっていった。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の大ヒットは、こうした状況を打破してしまった。ジャズやハワイアン、カントリーは、どちらかというと大人の音楽に位置していた。だが、ヘイリーのヒット作は、明らかにこうしたものとは一線を画していた。子供たち向けの音楽が世間に注目され始めたのだ。つまりティーンエイジャー向けの音楽が市場を賑わせることとなる。この動きは、妙に日米と一致する。
 また昭和30年代中盤は、SP盤(78回転)に取って代わり通称“ドーナツ盤”といわれた45回転シングル・レコードが普及しはじめた。アメリカ文化に憧れた日本人の家庭に安価なレコード再生装置(電蓄)も流行り始めた。気軽にアメリカン・ポップスが自宅で聴ける環境が整い、ドーナツ盤は加速的に売れたという。こうした背景をうけてデッカ・レコードと契約していたテイチクが、ヘイリーのドーナツ盤を発売した。実はそれ以前にヘイリーの「ロック・アラウンド・クロック」は、SP盤としても発売されていた。つまりドーナツ盤ブームを迎え、新たに45回転盤を再発したのだ。ドーナツ盤のバンド名は、こうクレジットされていた。“ビル・ヘイリーと彼のコメッツ”。収録曲は「ロック・アラウンド・ザ・クロック/シェイク・ラットル・アンド・ロール」だった。高校生だった頃、ラジオからこの曲を知り、即座にドーナツ盤をゲットした。記憶は定かではないが、ドーナツ盤が発売されてもわが国の洋楽シーンではこの曲はヒットというわけにはいかなかった。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が俄然流行りだしたのは、映画「暴力教室」が上映されてからだった。この曲は挿入歌として映画から流れ、「マスコミは不良の音楽が流行り始めた…」と騒ぎ始めた。いま思えば、ロカビリーやロックンロールなどが“不良の音楽”といまだにいわれ続けられているのは、この辺りがルーツかもしれない。
 映画といえば、「グレン・ミラー物語」が公開され、挿入曲「ムーンライト・セレナーデ」も昭和55年に大流行した。当時のヒット曲はこの他にペリー・コモの「パパはマンボが好き」、アーサー・キッドの「ショージョージ」、ペレス・プラード楽団の「セレソ・ローサ」などが、ラジオのヒット・パレード番組を賑わした。こうしたなかでの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の流行は、1年後にわが国でブーム化したロカビリーの伏線だった。大袈裟に言えば日米ともにロックの歴史は、ビル・ヘイリーから始まったといってよい。
 海の向こうのポップス流行り歌がわが国で注目されるには、この時代カヴァー・レコードがどうしても必要だった。まだまだ英語で唄われる音楽は、一部の大衆には支持されるものの、一般的に普及は難しかった。こうした環境から日本語で唄われるカヴァー・ソングの流行が広まっていった。記憶では江利チエミの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のカヴァー盤が発売されていた。ここでチエミに注目したい。彼女こそ洋楽=アメリカ音楽の楽しさを戦後の昭和に植えつけた張本人だった。ペイジの「テネシー・ワルツ」、ハンク・ウィリアムズの「ジャンバラヤ」、エヴァリー・ブラザースの「バイ・バイ・ラヴ」などの作品カヴァーがそれを如実に物語っている。
 ビル・ヘイリーが昭和の洋楽シーンを騒がせた結果、テイチクは何とLP発売を敢行した。10インチ盤と呼ばれた25センチLPで発売だ。この事実はあまり知られていない。やがて到来する30センチLPブームの先鞭を切ったということで、このLP発売の事実は歴史的に押さえておかなければならない。米盤と同じ体裁だったこの10インチ盤のアルバム名は、『Shake Rattle and Roll』(JDL-13)と書かれていた。余談だがアメリカでLPが発明されたのは、1948年(昭和23年)のことだった。米コロンビアの研究が功を奏したものだという。わが国初のLPは、日本コロンビアから1951年に発売されている。日本ヴィクターは、やっと53年になってLP発売にこぎつけた。



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