ANY OLD TIME IN AMERICA


 ■ ANY OLD TIME IN AMERICA


昭和洋楽アンソロジー

♯02 〜ハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート」〜

ハリー・ベラフォンテ
 DJ文化が花盛りのようだ。ターンテーブルを2台以上使用して、幾枚ものアナログLP盤を自由に扱い、個性あふれるダンス・ミュージックに仕立てるものだ。レコード盤の溝を刻む針を巧みにスライドさせて、パーカッション効果を途中に入れたりする技巧(スクラッチ)も人気だとか・・・。
  洋楽といわれていた時代のDJといえば、ラジオから流れる雄弁なレコード解説者を指すのだが、どうやら今日ではそれが通用しない。
 若者を魅了するDJ文化も捨てたものではない。まずCD時代に淘汰されたアナログ盤が、彼らによって見直された。つまりLPの復活だ。CD文化が我が物顔でのさばってしまった結果、ターン・テーブルや針が市場から消えてしまった。だが、DJシーンの活性化で、それらを供給する会社が再び勢いを取り戻した。正直、おじさんたちも嬉しい。
  レコード文化はSP盤(78回転)、EP盤(45回転)、LP、CDと変遷を経てきた。洋楽と呼ばれてきた頃の花形レコードは、SP盤だった。想い出深いのは、日本ビクターから発売されたSP盤の数々だ。ヒット曲が甘酸っぱい青春の想い出とダブってくる。戦後まもない洋楽ヒットを列挙してみよう。グレン・ミラー楽団「真珠の首飾り」、スリー・サンズ「誇り高き男」、マリリン・モンロー「帰らざる河」、ニール・セダカ「恋の片道切符」、ペレス・プラード楽団「エル・マンボ」、ハリー・ベラフォンテ「バナナ・ボート」などが人気を博した。
 日本コロムビアは、LシリーズというSP盤発売でビクターに対抗した。ラジオの音楽番組にも「L盤アワー」が登場した。ラジオ東京(いまのTBS)からの放送だった。この中から生まれたヒット曲が、ダイナ・ショア「ボタンとリボン」、ドリス・デイ「ケ・セラ・セラ」、フランキー・レイン「OK牧場の決斗」、ザヴィア・クガート楽団「ベッサメ・ムーチョ」だった。
  ポリドール系の音源を使ったSP盤も発売された。このレコードを使ったヒット・パレード番組も出現した。「P盤アワー」と呼ばれ、ニッポン放送からオン・エアーされた。生まれたヒット曲は、リカルド・サントス楽団「真珠採り」、トニー・ザイラー「白銀は招くよ」、サントラ盤「太陽がいっぱい」、リカルド・サントス「小さな花」、ヘルムート・ツァハリアス「黒いオルフェ」、ベルト・ケムプフェルト楽団「星空のブルース」などだった。
 1950年代後半からEP盤(通称ドーナツ盤)が出現した。レコード各社は、同じ歌手や楽団のSP盤とEP盤両方を発売した。60年代に入ると、各社はEP盤と25センチLP発売に力を入れ始めた。キング・レコードもラジオ番組に興味を示した。ABCパラマウント、その他の音源を使い、盛んにレコードを発売した。
  洋楽番組は「魅惑のリズム」と名付けられ、ここからもスーパー・ヒットが生まれた。マントヴァーニ楽団 「魅惑の宵」、ポール・アンカ「ダイアナ」、ナルシソ・イエペス「禁じられた遊び」、レイ・チャールズ「愛さずにはいられない」などが忘れられない。
 洋楽のヒット曲を日本語でうたう歌手も多く出現した。忘れられないのは、カリプソ・ブームを引き起こした浜村美智子のハリー・ベラフォンテ・カヴァー。1956年に彼のヒット「バナナ・ボート(デイオー)」をうたってスター歌手としてしばらく活躍した。日米でヒットした「バナナ・ボート」は、ハリー・ベラフォンテ来日という素晴らしい出来事に繋がった。1960年ハリーは来日、ベスト・セラーLP盤となった『アット・カーネギー・ホール』のステージをそのまま再現したライヴ・イン・ジャパンは、アメリカン・ミュージック・ビジネスの底力をまざまざと見せつけてくれた。
  先日、「ポパイ」「ブルータス」の名物編集者だった木滑さん(マガジン・ハウス最高顧問)と対談する機会に恵まれた。そこから意外な事実が浮かび上がった。ベラフォンテが初来日を果たした時に、石原裕次郎が成城の自宅にベランフォンテを招き、接待したというのだ。時のスターの力は、ほんと凄い!これは初耳だった。来日コンサートの模様は、確かTBSテレビで放送されたと記憶している。ベラフォンテ2回目の来日は、1974年のことだった。美空ひばりとの対談が話題を呼んだ。
  余談だが、ボブ・ディランのレコード・デビューは、ベラフォンテのバック・ミュージシャンとしてレコーディングに参加したことからだった。ベラフォンテのうたうブルース「ミッドナイト・スペシャル」から聴こえるハーモニカは、ディランが吹いている。



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