ひとときも忘れない

 −1−


 キキィィィィィィィィ!

 嫌に耳につくブレーキ音だった。すぐ側で鳴っているんだから当たり前か。
 頭より体が動いていた。あいつを庇うために飛び出していた。
 ドンという鈍い音と共に自分の体が宙に舞う。
 景色がゆっくりと流れている。まるでスローモーションだ。
 俺は時間がゆっくりと流れているのを利用してあいつの安否を気遣った。

 ……良かった。あいつは大丈夫のようだ。

 再び鈍い音。同時に脳味噌が大きく揺れる。
 そして俺の意識は闇に飲まれていった。



 −2−


 気が付いたらそこにいた。真っ白い天井が見える。ベッドに横になっているんだろうな。
 ……今目覚めたんだから当たり前か。
 消毒の匂いが鼻につく。
 ……ここは病院?
「あ、気が付いたのね。今、先生を呼んでくるから」
 間違いないようだな。あんまり可愛くない看護婦がいるのがその証拠だろう。可愛い看護婦がいる場合は夢の中ということもあり得る。
 走らない程度に急いで病室を出ていく看護婦を見送りながらそんなことを考えた。
 病室にいるということは、病気か怪我をしてるのか?
 そう言えば頭が少し痛い。頭に手をやると包帯が巻かれていた。
 頭を怪我しているのか……。

 ……ん?

 俺はどうして怪我なんてしているんだ?
 怪我をした覚えなんて無い。
 おかしい。こんなおかしいことなんてあるのか?
 じっくりと考え記憶を辿る。その間も頭はズキズキと痛んだ。

 ……思い出せない……。

 思い出せなかった。
 何もかも。何もかもだ。
 自分の名前も。まさかこれは……。
「やぁ、目が覚めたみたいですね。体調はどうですか?」
 医者であろう男が入ってきて俺に尋ねる。
「そんなことより聞きたいことがあるんですけど」
 俺はありきたりな台詞を言おうとしている。
「私は誰ですか?」
 記憶喪失の人間が言う台詞だ。

 まさか自分が使うことになるなんて思ってもみなかった。

 −3−


 俺の名前は奥村俊(おくむらしゅん)というらしい。歳は16歳。見覚えのない両親から教えて貰った。
 どうもしっくりこないんだが、名前が無いと色々困るだろうから一応そう呼ばれておこう。
 俺が記憶喪失と判定されてから1日が経ち、色々な人間が見舞いにやってくる。
 通っていたらしい高校の先生。先輩。後輩。クラスメイト。他には中学の頃の友人等々、バライティにとんでいるがどれも見覚えがない。
 俺の記憶を呼び覚まそうと努力をしてくれてはいるが、俺の記憶は一向に戻る気配がなかった。
 というより、記憶が戻る気配ってどんな気配だ?
 そんなことを話したら、見舞い客たちは口々に言う。記憶喪失になっても性格は変わらないと。同一人物なんだから変わるわけがないだろうに。
 そして極め付けにしっくりこないヤツがいる。それは俺の『彼女』と名乗るヤツだ。
 中山美緒。同級生。顔スタイルともどもさしたる特徴無し。一般的な女子高生そのものだった。
 対して俺は顔も整っているし、成績優秀、スポーツ万能のいわゆる学園のアイドル的存在だったらしい。
 そんな俺がなぜこんな一般的なやつを選んだのだろう? 記憶を失う前の俺にしかわからない話なんだろうが。
 ちなみに俺が記憶喪失になったのもコイツが原因らしい。病室に来るなり俺に抱きついて、「ごめんね、ごめんねシュン」と繰り返していた。
 なんでも俺を見つけたコイツが道路をつっきって、丁度スピードを出していた乗用車に轢かれそうになったそうだ。そこを間一髪で助けたのが俺らしい。
 なんとも美しい話だが本当か?



 −4−


 今、俺のベットのすぐ側で、見舞いのリンゴを剥いているのが俺の『彼女』らしい。
「あいたっ!」
 果物ナイフを滑らせて指を切ってしまったようだ。見るからに危なっかしい手つきだったので、いつかやるんじゃないかと思っていたが案の定だ。
「だから剥いてくれなくていいっていったろ」
 俺は『彼女』から剥きかけのリンゴとナイフを奪い取って、皮を剥き始める。こういうことは、体が覚えているようで、『彼女』の何倍もうまく剥けていた。
「えへへ。ごめんねシュン」
 ペロッと舌を出していう『彼女』。こういう仕草は可愛いと言えなくもないのだが、俺のこの外見なら、もっといい女を捕まえられただろうに。やっぱり謎だ。
「記憶喪失でもやっぱり器用なんだねー」
 この場合、俺が器用というよりこいつが不器用なんじゃ。
「でも、いつもより優しいかも。いつもだったら『俺が器用なんじゃなくて、おまえが不器用なんだよ』なんて言ってるもん」
 ……さすが『彼女』と言うべきが、思考が読まれている。やっぱりこいつと付き合っていたんだろうな。しっくりは来ないけど。
「なぁ」
 俺は俺の『彼女』に声を掛ける。
 ……こっちから声を掛けたのは初めてかもしれない。
「なぁにシュン?」
 ニッコリと笑って相づちをうつ『彼女』。でもこれから俺がする質問は、少しきつい質問かもしれない。
 少し罪悪感があるが、どうしても知りたい。
「俺達、どうやって知り合って、付き合うことになったんだ?」
 その言葉を聞いて『彼女』の顔が凍り付く。当然かもしれない。でも『彼女』の顔はすぐ笑顔に戻った。
「そっか、記憶喪失だもんね。忘れちゃってるんだよね」
 寂しい笑顔だった。今までの明るい笑顔と見比べると、本当に寂しい笑顔だった。
 さすがに胸が苦しい。
「あのね」
 一言謝ろうと思ったが、すぐに話を始める『彼女』。タイミングを失った俺は、聞く体勢に入る。
「仲良くなったのは、同じ図書委員になってからだよ。私はその前からちょっとシュンに気があったんだけどね。一緒に仕事しながら話すうちに仲良くなってきて、私はますます好きになってきて……」
「どっちが付き合おうって言いだしたんだ?」
「シュンだよ」
 俺からか。
「俺、何て言って告白したんだ?」
 ちょっと恥ずかしいが聞いておきたい。
「うん。えへへ。うーんとね」
 俺の言葉を聞くと、照れたような笑いを浮かべる。
「俺と付き合え。俺と付き合うってんなら、俺はおまえのことをひとときも忘れない」
 声のトーンを低くして真顔で言う『彼女』。
「……って言ってくれたんだよ」

 …………。

 ま、ま、マジか?
 俺は顔から火がでるほど恥ずかしかった。俺はそんな恥ずかしい台詞を言ったのか?
 うわぁぁ!
 聞かなきゃ良かったぁぁぁぁ!
「すごく嬉しかったよ」
 笑顔でいう『彼女』。しかしその笑顔にはまた、寂しさが残っている。
 ……ああ、そうか。
「悪いな。約束破っちまった」
「ううん。シュンが無事でいてくれただけで嬉しいよ」
 少し涙を浮かべながらの笑顔。その笑顔を見たとき、俺が『彼女』を選んだ理由がなんとなくわかったような気がした。



 −5−


 記憶を失ってからもう一週間は経とうとしている。だが、俺の記憶は戻る気配がなかった。
 だから記憶が戻る気配って……アホらしい。自分の思考に突っ込むのはやめよう。
 頭の傷の方はほとんど完治している。しかし、記憶のないまま学校に戻るのはつらいだろうと入院し続けているのだ。
「シュン。元気だった?」
 いつもの笑顔で美緒が来る。美緒は学校帰りに毎日俺の病室に来てくれる。
「まぁまぁだな。おまえはどうだ?」
「もうすっごく元気! でもシュンの顔見たからもっと元気になったよ!」
「俺はお前の顔を見る前のほうが元気だったな」
 もちろん冗談だ。美緒の顔を見るだけで、元気になれる。美緒と話をするだけで幸せになれる。
 何だかんだ言っても、記憶喪失ってのは結構不安になるものだ。
 なんもわからないんだからな。
 そんな中で美緒は俺に安らぎを与えてくれる存在だった。
「ひどいよぉ! そんなこというならもうお見舞い来てあげないよ!」
 俺の軽い冗談に過敏に反応して表情をコロコロ変える仕草が可愛くて、ついついからかってしまう。
「お、美緒の怒った顔を見たら元気が出てきたぞ?」
 俺がさらにからかうと、美緒の顔が真っ赤になった。
「もう!」
 こういう他愛ない会話が好きだった。美緒と言葉を交わすたびに元気がでてくるような気がするのだ。でも、少しイヤな気持ちになるときもある。
「シュンっていっつも意地悪だよね。この前水族館に行ったときも、『怒るとフグと見分けがつかなくなるからやめろ』なんて言うし」
 ……まただ。
 俺は少しイヤな気持ちになっている。
 なんでだろうか? 美緒は別に変なことは言ってない。
「他にもちゃあんと覚えてるよ。エレベータで定員数オーバーのブザーが鳴ったときに、『おまえが降りればあと3人は乗れるから降りろ』とか。美緒の恨み帳にかいてあるんだから!」
「何だよその美緒の恨み帳って」
 適当な相づちをうってはいるが、心の中のイヤな気持ちは消えない。
 ……何でだ?
「今までシュンに言われたひどいことが全部書いてあるんだよ。もう3冊目に突入してるんだから」
 今まで俺に言われたこと……。
 当然だが俺はそんなことを言った覚えがない。
 美緒は相変わらず笑顔で喋っているが、俺のイライラは募っていくばかりだ。
「あの時のシュンったら……」
 あの時のシュン……!?
「……やめろ」
 不意に出てしまった言葉。
「どうしたの?シュン?」
「俺はそんなこと覚えてない……。」
 おさまらない腹から沸き立つ熱さ。
「あ、そっか、ごめんね。早く記憶戻るといいね」
 なんて事の無い言葉のはずだった。

 早く記憶戻るといいね。

 俺はその言葉を聞いた瞬間、頭に血が昇ってしまった。
「ふざけんなよ!
 俺は何も覚えてないって言ってるんだよ!
 記憶が無い間のことをベラベラ喋りやがって!」
 ……何言ってるんだ俺?
 自分の言葉に驚く自分。それ以上に美緒は何が起こったかわからないように呆然としている。
「だいたい迷惑なんだよ!
 記憶が無いときにつきあい始めたんだろ? そんなこと言われてもはいそうですかって恋人同士になれるわけ無いだろ!
 俺はお前なんか知らない!」
 俺……何を言って……。
「……そ、そん……シュン……。」
 目に涙を浮かべて病室を出ていく美緒。
 な、何なんだよ。
 何であんなこと言っちまったんだよ。あいつはただ、俺の話をしてただけじゃねぇか……。

 俺の話……?

 !!!

 俺はバカだ。
 大バカ野郎だ。


 俺は……。



 俺は嫉妬していたんだ。
 あいつが笑顔で話すなかにでてくる俺に。
 記憶がなくなる前の俺に。
 あいつが好きだという俺の知らない自分に。
 だから記憶が早く戻るといいねと言われたときに、今の俺が否定されているような気がして……。

 何やってるんだよ俺は!?

 自分に嫉妬してどうするんだよ!
 それで大好きな美緒を傷つけてどうするんだよ!

 俺は……俺は……。
 頭よりも体が先に動いていた。走り去った美緒を必死で追っていた。



 −6−


 ちくしょう!
 もどかしさでおかしくなりそうだ。
 病院を出たのはいいが、俺は美緒の家も美緒の行きそうな場所もわからない。しかもしばらく体を動かしていなかったせいか、頭がクラクラしやがる。
 勘だけが頼りだった。少しでも見覚えがありそうなところを選んで走った。でも美緒は見つからない。ただがむしゃらに走っているんだ。見つかる方がおかしい。
「美緒ぉぉぉぉぉぉぉ!」
 見慣れない公園を走っていたあたりで、俺は無意識の内に叫んでいた。
「シュ……ン?」
 次の瞬間。俺の今一番聞きたい声が耳に入った。
「美緒っ!」
 名前を叫んで声の方に視線を向けると、ブランコにのっている美緒の姿が目に映った。走り寄って美緒の両肩をがっしりと掴む俺。
「美緒! 俺はお前が好きだ!
 だから今の俺を見てくれ!
 記憶が無くなっちまった俺を見てくれ!
 今の俺と想い出を創ってくれ!
 俺はお前のことをひとときも忘れない! 忘れないから!」
 叫ぶように自分の気持ちを伝える。嘘偽りのない。俺の気持ちを。
「……うん。
 私もシュンが好きだよ。これからもっといっぱい想い出つくろう。今のシュンと……」
 俺に身を預けてくる美緒。それをしっかりと抱き留めると、俺の心にあったわだかまりがスーッと消えていった。
 それと同時にクラクラしていた頭の中が白くなっていく。
「……シュン?
 シュン!
 シュ……」
 美緒の声が遠くなっていく。俺はその数秒後、地面に倒れ込み、意識を失った。



 −7−


 目が覚めると病室のベットの上にいた。
 ……そうか。俺は……。
 少し痛む頭を抑えながら体を起こす。
「シュン!」
 それと共にガバッと抱きついてくる女の子。突然で顔は確認できなかったが、声と感触と匂いでわかる。美緒だ。
「そんなに心配すんなよ、大丈夫だ」
 そっと美緒の頭を撫でてやる。
「車に轢かれたくらいで俺が死ぬかよ」
「え?」
 不意にキョトンとした顔になる美緒。
 ……あれ? 何か変なこと言ったか?
「俺、車に轢かれたから病室にいるんだろう?
 頭は少し痛むけど五体満足だし。平気だって。」
「え?え?え?」
 また不思議そうな表情をする美緒。な、何なんだ?
「どうしたんだよ美緒」
「……もしかして……」
 思いついたように声を潜めて言う美緒。
「記憶が戻ったの?」



 −8−


 ……どうやら俺は記憶喪失だったらしい。
 車に轢かれて頭を強く打ち、記憶を失ったそうだ。
 ちなみに記憶を失ったときのことは記憶にない。
 医者の話だと、これは一時的なもので、しばらくすれば戻るらしいのだが。
「シュン。どうしたの? 難しい顔して」
「うーん。ちょっとな」
 久しぶりの登校。記憶がないときも含めると2週間も休んでいたらしい。
「なぁ……美緒。」
「何?」
 記憶喪失になったことを聞いてから、ずっと気になっていたことがあった。
「……ごめんな。約束破って。お前のことを一時も忘れないって言ったのに」
「ううん。いいんだよ」
 優しい美緒のことだ。そう言ってくれるとは思っていたのだが、これは俺自身のケジメだ。
「だからもう一度約束する。俺はこれからもうお前のことをひとときも忘れない」
 美緒の真正面に向かってまじめな顔で言うと、なぜか美緒がくすっと笑ってこう言った。
「シュン。
 その言葉、もう3回目だよ」




 
ひとときも忘れない 完


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