仮想恋愛経験

BOS


 頭イタイ。

 目が覚めて始めに感じるのは、すっかり慣れてしまった頭の痛み。
 ……水。とりあえず水が欲しい。
 女の部屋とは思えないと評価された簡素な自室で寝ていた私は、這いつくばるようにベッドから出てキッチンへと進む。
 カーテンの隙間から差し込む日光と、歩くたびに起きる振動がさらに頭痛を強めた。
 水……水……。
 やっとの思いで冷蔵庫に辿り着くと、買いつけてあるミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
 冷たく染み渡る水は、私をある程度まで蘇らせてくれた。
 と、言っても所詮はある程度。いや、それどころか、身体機能が少し回復したせいで、余計なものを呼び込むハメとなった。
 ……嘔吐感。
 冷蔵庫のドアを閉める余裕もなくトイレへ駆け込み嘔吐。ひとしきり吐いたあと、ついでに用も済ませてからノロノロとキッチンへ戻る。
 うぅ……飲み過ぎた。
 吐いて幾分か楽にはなったけど、まだ頭痛は続いている。お酒は強い方なんだけど、さすがに昨日は飲み過ぎたらしい。三軒目以降の記憶がない。
 冷蔵庫のドアを閉める前に、中にしまってある佃煮が視界に入る。母親からの贈り物であるそれは、私をなんだか申し訳ない気持ちにさせた。
 早坂玲於奈25歳。週末はいつもこんな感じです。お母さんゴメンナサイ。
 流しでうがいをしながらの、よくわからない懺悔を済ませ、二日酔いの症状と命の水を引き連れて再びベッドへ。振動をなるべく起こさないよう静かに横になると、見慣れないモノがベッドのサイドテーブルに存在していることに気がついた。
 なんだコレ?
 BOSと書いてある箱だった。無地の段ボールで、大きさはティッシュ箱ぐらい。BOSという文字は、でかでかと貼られたシールに書いてある。
 ……買った?……それとも貰った?
 ……こういうことはなんで思い出せないんだろう。
 あいつのことはどうしたって忘れることができないのに……。
 ガンガンと痛む頭の中でも平気で現れる。へべれけに酔っぱらった時でも、私の頭に存在し続ける。

 藤堂貴弘。
 ……別れた男。

 大好きだった。ひとときも離れたくなかった。ずっとずっと一緒にいたかった。
 でも、それが彼にとって重荷だった。
 色々やってみたいことがあるからって……。だから、私が満足するぐらい構ってあげられないって……。
 私のことを、自分のこと、しっかり考えて、貴弘は私と決別した。
 最後まで誠実だった。
 だから……だからこそ、忘れられない。
 新しい恋をしようと思っても、何かに打ち込もうとしても、いつまでも存在し続ける彼の存在が、私を悲しみの淵へと誘い、すべてのやる気を消失させる。
 あの時間が戻らないのなら、どうでもいいと思ってしまう。

「あ……」

 記憶が蘇ってくる。今まで忘れていたことが不思議になるくらい鮮明に。
 そうだ。

 コレは、三軒目の店で怪しい男から受け取ったものだ……。



 ***



 アルコールの多量摂取からくる高揚感に身を任せての馬鹿騒ぎ。一緒に飲んでいた友人もすでにできあがっており、20代半ばの女二人は、慎ましさという単語を捨て去っていた。

 大声で話し、大口を開けて笑う。
 もっともここは大衆酒場。皆が私たちと同じような感じで、私たちが目立っているなんてことはない。

「また貴弘さんのこと話してるよ?」

 そんな中、友人にそう指摘された。
 前後の会話の内容なんて憶えていなかったが、私は無意識のうちにあいつの名前を口走っていたらしい。

「いい加減忘れなよ!」

 強い口調で言う友人。

「忘れられるもんなら忘れたいわよっ!でもねぇ!忘れらんないのよバカァ!!」

 心配して言ってくれるのはわかっていたけど、アルコールがたっぷり回っていた私には理知的な考え方なんてできなくて、逆ギレして友人を怒鳴りつけた。
 八つ当たりも甚だしい。
 忘れられない自分に対するイライラの矛先を、心配してくれている友人にぶつけていた。なんて情けなくてみっともない行為だろう。

「苦しんでるみたいだねぇ、お姉さん」

 私の理不尽な怒鳴り声を皮切りに、酔っぱらいどうしの壮絶な喧嘩が始まろうとしていたその時。軽い口調の男の声が間に入った。
 隣りの席に座っていた男。店に入り、席に座った時から隣りにいたのだが、その時から気にはなっていた。
 ……とくかく怪しいのだ。
 丸いサングラスをかけており、髪型は長髪。服装は黄色いスーツ。ネクタイはしておらず、赤いYシャツの胸元は大きくはだけている。
 連れはいないようで、ウィスキーのロックをまるで水のようにガブガブと飲んでいた。
 普通の状態だったら、絶対関わろうとしないだろうその存在。
 だけどその時の私はへべれけだった。
「苦しいわよ。苦しいともさっ!」
 落ち着き払った口調がなんだか癪に触った。すべてわかっているとでも言うように聞こえて……。
 何がわかる?
 そんな気持ちで威圧的に言ってやった。

「そんなお姉さんには、我がドリームテクノロジーの最新技術で生み出したコイツがジャストフィットアイテム!その名もB・O・S!」

 しかし男は、私の高圧的な態度を押し流す妙なノリで、私の前にくだんの箱を差し出した。

「な、何よコレ」

 予想外の男の態度。そして差し出された箱に面を食らってしまう。

「OSって知ってるよな?パソコンに入っているWindowsが一番身近だと思うんだが。OSっていうのはパソコンを効率よく動かすためのソフトウェアなんだが、このBOSはパソコンとは関係ない。
 BOSはBrainOperatingSystemの略。ブレイン。そう、つまり脳のオペーレーティングシステム」

 酔っていなければきっと真面目に聞かないような話。しかしその時の私は、男の言葉の続きを待っていた。
 ……ちなみに、友人はこの時点で酔いつぶれて寝てしまっていたらしい。

「BOSの主な機能は思考管理と記憶管理」

 記憶……管理。
 ドクンと心臓が動く。

「思考管理は、散漫になっている意識を一つのことに集中させ、物事を効率的にこなせるようにするとか、そういうことができる。スゴイだろ?」

 それは便利なものかもしれないけど、今はそんなのどうでもいい。

「記憶管理……記憶管理は!?」

「ノッて来たね、お姉さん」

 ニヤリと笑う男。

 好感を持てる笑顔からはほど遠い、どちらかと言えば不快になる表情だったけど、それどころじゃなかった。

「記憶管理は記憶を整理したり、消去したりすることができる!」

 記憶を消去。つまりそれって……。

「そう、お察しの通り、忘れたい過去を忘れることも可能なワケだよ」



 ***



 酔っていたとは言え、あんな怪しい男の怪しい話を真に受けるなんて……。

『試供品として造られたものだから、興味を持ってくれたお姉さんにタダで譲ってやるよっ』

 タダという言葉も魅力だった。
 BOS。脳のオペレーティングシステム。
 眉唾モン。怪しさ爆発。
 ……だけど。溺れる者は藁をもすがるらしい。
 貴弘のことを忘れることが出来る。
 そんな想いが、私に怪しい箱を開封させた。

「………………」

 中身も怪しさ爆発だった。見た目は低周波マッサージ機と変わらない。箱形の機械からコードが伸びており、その先端には丸く平べったいものがついている。
 マニュアルに目を通すと、使用法はものすごくシンプルだった。

『先端部分をおでこにペタリ。そして装置の電源スイッチをポチッとな!』

 ……本当にそう書いてあるのだ。コミカルなイラスト付きで。
 どこまで怪しくすれば気が済むんだろうと思う。

 どうしよう……。

 ……普通の人なら、この時点で迷うことなくこの装置をゴミ箱に放り込んでいるだろう。こんな怪しい装置を目の前にして迷ってしまうほど私は参っている。
 このままじゃいけない。でも、どうにもできない。忘れることができない。


 ………………。


 頭痛は大分治まった。
 だけど、貴弘のことはいまも頭にへばりついて離れない。
 ダメもと。騙されたと思って。
 こんな言葉は言い訳で、今の私にはこのコトワザがしっくり来る。

 溺れる者は藁をもすがる。

 マニュアルに従い、端末をおでこに貼り付ける。そして電源スイッチを入れた。

(BOSを起動します……)

 それは不思議な感覚。
 この声は音ではないと直感的に感じた。テレパシーと言うモノが存在するならば、こんな感じだろうと思わせるような『声』が頭に響いた。
 な、なんだこれ……。
 初めての感覚に恐怖を憶え、電源を切ろうと手を伸ばす。

(起動中にいきなり電源を切らないでください。脳に障害を与える可能性があります)

 ビクリと手を引っ込める。
 な、な、な……。
 脳に障害が残るって……、とんでもないシステムだ。
 でも、この脳に直接声が響く感覚……。もしかすると、本物かもしれない。
 もしかすると……。
 心臓の鼓動が早まる。

(起動完了です。希望の処理を指示してください。システムの終了を希望する場合は、システム終了と指示してください)

 処理を指示って言われても……。
 最初の1ページだけしか読んでいないマニュアルを再び開き、操作方法に目を通すと、指示は声で与えるらしいことがわかった。ただしくは、声を出そうする脳波を感知してとか難しいことが書いてあるが、要は喋ればいいんだ。

「えーと……」

(「えーと」とはどのような指示でしょう。指示が不適切です)

 ……ぶっ壊したい。

 ううん、ダメダメ。
 ノイズも拾ってしまうみたいね。余計な事は喋れない。
 そうよ……このシステムの用途は一つ。
 ……言うだけだったら私にだってできるはずだ。

「貴弘のことを忘れたい」

 口にしただけで心臓が跳ねる。
 1年間、どうしてもできなかったこと。忘れなきゃいけないのに、どうしても忘れることができなかったこと。

(……しばらくお待ちください)

 1分程度、黙りこむシステム。
(それは藤堂貴弘に関するすべての記憶を完全に消去すると言う意味でしょうか?)

 再び脳に響く声は、さらに大きく心臓を跳ねさせた。
 藤堂貴弘に関するすべての記憶を完全に消去。
 ……そんな。
 その極端な表現にたじろいでしまう。……いや、忘れるってそういうことだよね。
 そう、そうなんだ。

「はい」

 意を決して肯定の意を表す。忘れないと……、このままじゃどうにもならない。

(その記憶は優先度が極めて高く、様々な記憶に直結する部分が多いため、完全に消去すると記憶喪失に近い症状に陥る可能性があります。それでも消去なさいますか?)

 いよいよかと思ったところで、今度は警告メッセージが頭に響いてくる。

 優先度が極めて高い。
 様々な記憶に直結する部分が多い。
 消去すると記憶喪失に近い症状に陥る。

 そのメッセージは、貴弘の記憶がどれだけ私の中に根付いているかを確認させるものだった。
 優先度が高いってことは、そればかり考えてしまうということ。
 様々な記憶に直結する部分が多いということは、ふとしたことで思い出してしまう可能性が高いということ。
 そして、消去すると記憶喪失に近い症状に陥るということは……、それだけ私の頭の大部分に、貴弘が住み着いていると言うこと。

 ……望むところだ。

 生まれ変わるつもりになればいいんだ。私はきっと、すべてを捨て去らないと前に進めそうもない。
 朝、目覚めるたび、隣りに貴弘が寝ていないことに寂しさを憶える。
 昼休みや仕事が終わった時。そんな何かに一段落着く度に、貴弘にメールを送ろうとしてしまう。
 寝る前に声が聞きたくて、貴弘に電話をかけようとしてしまう。
 別れた後もなお、こんな毎日を送っていた。

「構わないわ」

 もう、終わりしよう。すべて忘れて、それで終わり。

(……本当によろしいのですか?)

 覚悟を決めたつもりだった。だけど声は再び私の意志を確認をしてくる。

(捨ててしまわれていいのですか?)

 な、なによコイツ。

(藤堂貴弘と過ごした日々のすべてを消してしまって構わないのですか?この記憶はあなたにとって本当に必要のない記憶でしょうか?)

「何のつもり?」

 なによこれは。なぜこんなことを言ってくるのよ。

(藤堂貴弘への想いは、アナタの中で非常に強い想いです。それを捨ててしまって構わないのですか?)

「うるさいっ!」

 煩わしい。
 ふざけないで。何なのよコレは。藁をもすがる思いで使ってみたのに!どうしてこんなこと言われなきゃいけないの!?
「さっさと仕事をしなさいよ!私の指示通り記憶を消せばいいのよ!それがアンタの役目でしょ!?」

 すっかり感情的になった私の声に、システムはまたしばらく沈黙する。

(……いいえ。違います)

 沈黙後のシステムの返答。耳を疑わずにはいられない。

(私の役目は、ユーザにとってベターと思われる記憶管理をオペレートすることです。必要とあらば記憶を消去することもあります。それがベターであれば承諾します。
 しかし、今回のあなたの指示は本当にベターなのでしょうか。
 藤堂貴弘の記憶は、アナタが本当に人を愛した記憶。本当に幸せだった時間の記憶です。
 それはこれからの人生においてマイナスにしかなり得ないでしょうか。こういった類の記憶は、その幸せを失ったときに強い悲しみを生みます。しかしそれだけではないはずです。
 心から愛した時間は無駄な時間ですか?
 ワタシはそうで無いと考えます。
 記憶は生きていた証です。
 この記憶はあなたにとってかけがえのないもののはずです)

 頭に響き続ける声。
 私はその声に対して何も言えない。何も言い返すことができない。

(忘れるのではなく、受け止めませんか?)

 再び心臓が跳ね上がる。
 しかし今回は、これまでとは種類の違う跳ね上がり方だった。

(無理に忘れる必要はありません)

 忘れなきゃいけないと思っていた。忘れる以外方法がないって思っていた。
 だってみんな、忘れろ忘れろって……。
 私自身も、忘れなきゃ……忘れなきゃって……。


 ………………………………。


「もう……いい。システムを終了して」

(了解。システムを終了)

 不思議な感覚が遠ざかっていく。頭に直接語りかける声が聞こえなくなる。
 ゆっくりと端末を外し、電源を落とす。

「……忘れなくてもいいか」

 そう思った瞬間。胸に存在し続けたつかえがとれたような気がした。

「受け止める……か」

 きっと私は貴弘の記憶をなくしたい訳じゃなかった。ただひとつ、どうしても忘れてしまいたい記憶があっただけなんだ。


 貴弘が私の側から離れていった。


 受け止めたくなかった。受け止めるくらいだったら、すべて忘れてしまいたかった。
 だけど、すべてを忘れるのも嫌だった。
 あの声の言うとおり。大切な、かけがえのない記憶だもの。
 強く強く愛していた。本当に幸せだった。だから忘れたくない。
 ……私が前に進めなかったのは、受け止めるのも、忘れるのも拒否し続けていたから。
 貴弘は私から離れていった。それはどうしようもない現実で、だけど私はそれを受け止めることをずっと拒んでいたんだ。
 認めたくなくて、駄々をこねていたようなものだ。
 だけど、私は選択した。忘れるんじゃなくて、受け止めることを。

「………………」

 それに気がつかせてくれた不思議な装置に目をやる。
 やっぱり低周波マッサージ機に見えるそれは、ただの無機質の固まりでしかない。
 脳のオペレーティングシステムとはよく言ったものだ。私が考えることを拒み続けていたことを、……前に進もうとしない私の考えを、前に進むようにオペーションしてくれた。
 だけど……。
 ベッドの下にあった工具入れを引っ張り出し、その中からトンカチを取り出す。

「機械のくせに偉そうに説教すんなぁ!!」

 ガゴッ!

 渾身の力を入れて振り下ろしたトンカチを食らったBOSは、ボディが派手に凹んでしまった。
 悔しくてしょうがない。機械ごときに諭されて、救われて。
 もう使い物にならなくなっただろう機械を、燃えないゴミ箱へと叩き込む。

 ……もう頼らない。
 自分の脳のオペレーションぐらい自分でやってみせる。

 大きく伸びをして縮こまっていた体をほぐす。
 起きてからずっと閉めたままだったカーテンを勢いよく開けると、雲ひとつ無い空が目に飛び込んだきた。
 すっかり頭痛のなくなった私の頭の中のように、澄み渡った空だった。


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