工藤 道隆
「橘 勇作」
本を開いてはみるものの、文字を読むことができない。 腹の底からわいてくるゴワゴワしたものは、俺のやる気を見事に討ち滅ぼした。 夏休みのうちに卒論の下ごしらえをしておこうという殊勝な心がけの人間たちを尻目に、俺はひたすら読む気の起きない資料集をペラペラとめくることに努める。 『就職活動する気が起きないんだったら、卒論を早めに仕上げちゃえば?』 久美子からのメール。受け取ったときはなるほどと思い、俺の足は図書館に進んだ。しかし今、メールの文面を思い返し、そして久美子の声をあててみてやる気が一気に萎えた。 提案ではない。皮肉を言ったのだ。声をあてると表情も浮かぶ。これでもかと言うほどのあきれ顔。そしてため息のオプションをつけてくれるだろう。 違いすぎるなぁ……。 ぼんやりと思った。久美子は同い年の俺の彼女なのだが、違い過ぎる。久美子はしっかりとした将来の展望があり、それに従いきちんとやっている。色々な場所に行く事が好きな久美子は、旅行関係の仕事に就職を決めた。詳しい仕事内容を聞いたような気がするが頭に入っていない。聞いてる途中でどうでもよくなって聞き流した。あれは四月だったか、五月だったか。 現在大学四年の夏休み。俺は特に何も決めていない。 『何かしたいことはないの?』 何度も久美子に聞かれた。……別に無い。 生まれてこのかた、将来にことに思いを馳せた事はない。すぐ手が届かないものを根気強く求め続けるようなことは苦手だ。 『根性無し』 口喧嘩のときに何度か言われた。俺は返す言葉がない。だってその通りだから。まったくもってその通り。 何でだろう? やる気が出ない。やらなきゃいけないんだろうとは思う。でも、なんというか、漠然とし過ぎて、目を細めても先が見えない。そんなものに向かって歩かないといけないのか。 『考えが甘いのよ』 そうかもしれないけど、別に困ってない。親に迷惑をかけている認識はあるが、そのぐらいのことはしてもらってもいいんじゃないか? 『もう二十二歳でしょ?』 あと少ししたら大学も卒業。歳も二十二歳。人によってはもう立派な社会人になっている年齢だ。 もうそんな歳か……。どうなるんだろうな、俺。 図書館にいるのも嫌になってきた俺は、プラプラと無意に校内を歩いた。複雑な造りで、道がわかりにくいこの大学も、今では庭のように歩くことができる。 ……そういえば、何でこの大学を選んだんだっけ? 高校は確か……、近いし、レベルも自分にあっているから選んだ。大学はどうだったっけ?あ、そうそう、ここなら入れると言われてここを選んだんだった。……どちらも人前で胸張って言える理由じゃない。 高校受験も大学受験もそれほど苦労はしなかった。勉強自体はそれほど嫌いじゃない。単純な暗記作業だからだ。応用力は数をこなしているうちにいつの間にかついてくるものだし。そして少しの苦労で結果が返ってくるのがいい。 ……そんなこと話をしたら友人全員からヒンシュクを買った。おまえは頭がいいからそんなことが言えるんだそうだ。別にそんなつもりはないんだけどな。 当たり前のようにしてきたこと。高校進学、大学進学。それ以降もそんな感じで行くと思ってた。だけど、今回はそうでもないようだ。 なんでだろう。どうなるんだろう。 今までとは違う。 焦っている、不安が募っている。だけど、やる気がでない。何をすればいいのかわからない。 別に行動力が無いわけではないと思う。思いつきで北海道にドライブに行ったこともあるし、何かやろう、何かしたいと直感的に思ったときは、行動に移していることが多い。だから行動力がない訳じゃ……。 そんなことを考えている途中で、また久美子の言葉を思い出す。 『それは行動力があるって言わないのよ。そんなの瞬発力よ。考え無しに生きてるだけじゃない。行動力なんて立派な言葉を使って欲しくないわ』 ムカツキながらもなるほどと思ってしまった。言い得て妙。 あー、なんか今日は久美子の言葉ばっかり思い出す。 ……正直うざい。煩わしい。 最初はその刺激が新鮮でつき合い始めたが、どうも最近は煩わしさばかりを感じる。 心配してくれているのはわかる。気にかけてくれているのはわかる。俺を本気で想ってくれているからこその行動だ。だけどそれが煩わしい。 きっと、期待に応えることのできない不甲斐なさと、どうしても出てこないやる気。そして、やらなければいけないとわかっていることを言葉にして言われることが腹立たしいんだろう。 いっそ別れれば楽になるんだろうか。 ……何か俺。前の彼女もその前の彼女もそんな理由で別れたような気がする。 どうにかしようと言う気力がない。それ以前にどうすればいいかわからない。そんな俺の態度に苛立つ人間に対して煩わしさを感じずにはいられない。なんとなく気に入って付きあってみて、辛くなってくると乗り越えることをせず、手放して楽になることを選ぶ。 まったくもって、どうしようもねぇな。 でも、同時に思う。なんでそれじゃいけないんだろう。俺の勝手だろうと思う。 『ほんっと、自分勝手ね』 またかよ。 イライラを通り越して苦笑してしまう。 あー、もうやめだやめだ。漫画喫茶にでも行って昼寝をしよう。家に帰っても、家族が煩わしいからな。 目先に何か目標があると気が晴れてくる。ここ数ヶ月はこんなことばっかりして過ごしてきたような気がするな。 「ん?」 足早に歩き出し始めて数秒もしないうちに、一人の少年が目についた。ボサボサ髪に眼鏡をかけている、何だか一世代前のような古くさい格好だ。 キョロキョロとせわしなく視線を動かし、その足取りは不安を感じさせるほど頼りない。 何となく懐かしさ感じ、妙に気になった。 ……ああ、なるほど。 考えてすぐに思い当たることがある。アレだ。オープンキャンパス。これからここの大学に来ようとする高校生が、見学できるように解放するアレだ。 「もしかして迷った?」 気さくに少年に話しかけたつもりだったけど、顔は少し不自然な笑顔をしていたかもしれない。 「……え?……えーと」 いきなり声をかけられて言葉に詰まっている少年。そんな姿もなんとなく微笑ましい。 「違うかな?」 「あ、そ、そうです」 ビンゴ。 俺は何だか心がウキウキしていた。 「高校生だよね?」 「はい」 「ここの大学、構造が複雑だよねぇ、俺も四年前に君と同じように迷ったんだよ」 懐かしい。 四年前、なんとなくオープンキャンパス中に足を運んでいた。特に何かを見たかったわけでもなかったが、ここで四年間過ごすかもしれないと思いながらフラフラと歩いていた。目的もなくフラフラ歩けば間違いなく迷わせてくれるこの大学は、ご多分に漏れず俺も迷子にしたのだ。 「どこに行きたいの?案内してあげるよ」 俺はどちらかというと、知らない人に話しかけたり、進んで道案内をするタイプじゃない。だけど、なんだか今はそうしたい気分だった。この少年に昔の自分を見たからだろうか。 「そんな、悪いですよ」 話してみてわかったが、随分と落ち着いて丁寧なしゃべり方をする。外見だけならあどけなさが残っているが、話してみると俺よりも年上なんじゃないかと思うほどの落ち着きを持っていた。最初の驚いた顔以降は無表情だが、これは緊張のせいだろう。 「どうせ暇だから気にしなくていいよ」 「そ、そうですか?じゃあ図書館に……」 図書館か、逆戻りだな。でも、まぁいい。 「ほら、こっちだよ」 漫画喫茶よりも、この少年を案内した方がおもしろそうだったというのが俺の行動原理。フィーリングで楽しそうだと思ったことを実行する。久美子の言う瞬発力が働きだしたようだ。 俺は図書館に向かって歩き出した。少年は戸惑った感じでついてくる。 「俺、橘勇作(たちばなゆうさく)。ここの文学部の四年だよ。君は?」 「僕は工藤道隆っていいます」 僕ぅ?一人称が僕なんて珍しい。いや、もしかしたら、慣れない敬語を使おうとした結果かもしれない。何だか、初々しくて微笑ましい。 「高三だよね?」 「はい、そうです」 ……高三。久美子は、高三のときにはすでに将来のことを具体的に考えて計画をたてていたらしい。それを聞いて俺は羨ましく思いつつ、同時にもったいないとも思った。 こうでなくてはいけない。 こうしなければいけない。 そういうのは嫌いだった。 「どう、うちの学校は?」 「設備が色々とあって面白いです。ちょっと構造が複雑ですけど……」 何だか、目が輝いているように見える。新鮮に見えるんだろうな。俺だって最初はそうだったよ。ここで、どんなことが起こるんだろう。どんな大学生活になるんだろうって。 「実際には、ほとんどの設備に触れないまま卒業だけどね……」 ……あ。 ネガティブ全開の、夢を壊すようなことを口にしてしまった。夢をもってここにいるかもしれないのに。 「そうでしょうね」 俺がまずいと思ったのにも関わらず、工藤少年はそれがなんでもないことのようにサラリと言った。そんなことはわかっていると言うかのように。 でも、何だか俺とは違っている。俺のような考えで言っていないような気がする。何だか、俺には無い意志の強さを感じた。 「……でも、色々な施設があればできることは広がります。設備がなければできないこともできますよね」 ……できることは広がる。なければできないこともできる。 何だか、その言葉に胸が踊った。どこかの小説やドラマの中ではよく聞くような言葉。だけど、この少年の口から出たその言葉は俺の胸を踊らせた。 「そうだね。やろうと思えば色んなことができるだろうね」 ……やろうと思えば色んなことができる。 少年と言葉に影響されて、同じような考え方をしてはみたが、後悔ばかりが胸に広がった。踊っていた心はすぐに動きを止めてしまう。 俺はもう過去形だから。俺はもうすぐ卒業する。だから、『やろうと思えばできる』んじゃなくて、『やろうと思えばできた』んだ。 「この大学を受けるつもり?」 「はい、今のところ第一志望です」 初々しさに触れ、自分の心まで踊ったかと思えば、少年がこれから始まるのに対して、俺は終わるのだということを思い知って落胆する。 漫画喫茶に行った方が良かったかもしれないな……。 「……この大学を選んだ理由は?色々なことができるから?」 居心地が悪くて口を開き続けてはいるが、出せる話題はさらに俺の心を暗くする。 「そんなところです」 苛立ちと焦燥感が膨らんでいく。 俺は何をしてるんだろう。これからどうなるんだろう。 漠然とした不安が膨らんでいく。 この少年とは違う。大学に進む少年。進むべき道がある少年。それに引き替え俺は。 「将来の夢とかあるの?」 俺は何気ない会話をしていたつもりだったが、妙な期待を抱いて質問をぶつけていた。少年が俺のこの質問に対して答える内容がこうであって欲しいと熱望していた。 『無い』もしくは『わからない』。 自分だけじゃないと言って欲しかった。俺だけがこんな状態じゃないと言って欲しかった。誰だって抱く不安だから、悩む必要なんて無いんだと。 「……ありましたよ」 「え?」 熱望した答えとは違っていたが、言って欲しくない言葉とも違っていた。 過去形の肯定。予想外の答えに俺はたじろいだ。 「どういう……」 「言葉通りです」 感情のこもっていない声で遮られると、なんだかそれ以上の質問は許されない気がし、言葉に詰まった。 どうしてそう感じたかわからないけど、俺みたいなやつが踏み入っちゃいけないことのように感じたんだ。 「そ、そっかぁ、俺は生まれていままでそういうこと考えたことなくてさぁ、ホント、自分でも自分自身のいい加減さに困っちゃってるよ」 慌てて繕うように口を開くと、出てきたのは自分のことだった。どうしようもない自分。 「もう大学四年の夏休みだっていうのに就職も決まってない、どこに就職しようなんてのも決まってないときたもんだ」 こんなこと話されても返答に困るだろう、そんなことはわかっていたけど、なんだか止まらなかった。 なんだろう。さらけ出したくなった。さらけ出して、蔑んで欲しかったのかもしれない。俺なんかに、君の悩みをどうこうできる力はないということをわかって欲しかった。 ……逃げたかったんだ。 なんとなく声をかけたのは、きっと彼に自分の昔を見て、それで助けてあげたかったから。いや、違う。助けることで優越感に浸りたかった。それで自分の価値を見いだしたかった。そんなところだ。 でも、彼が自分じゃ助けてあげられないように感じて、辛くなったからって逃げ出す。 ……全部そうだ。なんとなく始めて、なんとなくやって、なんとなく終わって。責任感とかそういうものが欠如している。根性無しも甚だしい。 こんなヤツだから、将来のことも考えられない。将来も決められない。ダメなやつだ。本当にダメなやつだ。 案の定工藤少年は返答に困って、しばらく会話がなくなった。彼のそばから離れたい衝動に駆られたが、最後に残った薄っぺらな責任感が案内し終えるまではせめてと、俺をこの場に留まらせる。 「あの、変なこと聞いていいですか?」 もう少しで図書館に着くというところで、工藤少年が口を開いた。 「……就職しなくちゃいけないんですか?」 ……何を言っているんだと思った。そんなのは当たり前だと。でも、工藤少年の顔はそうではないことを強く訴えている気がした。 当たり前のように高校に進学した。当たり前のように大学に進学した。だから次は当たり前のように就職する。しないといけない。 そう思っていた。 ……なんで、就職しなくちゃいけないんだよ。 工藤少年の言葉が自分の言葉に置き換わる。 なんで?どうして? 高校進学の時も、大学進学の時も、別にそんなことは思わなかった。思う必要が無かった。 だってそこに道があったから。道があったから歩いた。何も考えなくても歩けた。 なんとなく決められた。なんとなく進めた。 だけど、今は道が無い。こうすればいいという道がない。就職すればいいと言うが、どんなところに、どんな場所に行けばいいか、そしてそのためにはどんなことをすればいいのかなんて誰も言わない。 ……誰も、ああしろこうしろ、ああした方がいいと言うことを具体的に言ってくれなかった。この高校がいいからこのぐらいの成績を残した方がいい。この大学なら入れるから、ここの大学を受験すればいい。 だけど、今は誰もここの会社に入ればいいなんてことは言わない。 まったくもって情けない。ここまで情けないとは思わなかった。 俺は疑問を抱くことすらしてなかったんだ。 何でここの高校に行かないといけないの?何でここの大学に行かないといけないの? それがなかった。だから今、初めて出会う壁に呆然としている。 『何で就職しないといけないの?』 少しだけなら考えたことがある。でも出る答えはいつも一緒。 やるべきだ。しなければならない。 だけどこんな言葉は大嫌いだ。だってそこには自分がいない。『やりたい』とか『したい』とか。そんな自分がいない。だから俺は嫌だった。だけど、そんな言葉に縛られ続けていた。 だけど俺は、さらに『何で、どうして』と抗い続けることも無く、その通りに進んできた。その方が楽だったから、楽な道を進みたいから。楽な道があったから。 でも、今回は自分が進めそうな楽な道が見つからない。 「一般的にはそう言われているね」 工藤少年の質問に俺はこう答えた。わからない。だから一般的という言葉を使った。 「君は就職する気はないの?」 こんなことを質問するんだから、もしかしたら就職する気がない。いや、俺と同じくやる気がないのかもしれない。 もしそうだったら……。またさっきと同じような救いを求め、それに嫌悪感を覚えた。 「……まだ決まってません」 そんな俺の質問に、工藤少年はサラリと答える。 『まだ決まっていない』 その言葉に心が震えた。なんだか、差し伸べられた手のように感じた。 ……ああ、何か、アレだ。もう。 「じゃあ俺と同じだ」 俺は笑っていた。 まだ決まってない。 大学四年。夏休み。そんな俺がこんなこと言いにくい。言いにくいけど、それ以外に表現できない。……そして、ただそれだけなんだ。 「そうですね」 工藤少年も少し微笑んだ。 「あ、ここが図書館だよ」 気がつけば目的地はすぐそこ。なんだか俺の中で止まっていた時間が動き出しているような気がする。 工藤少年は丁寧にお辞儀をしてお礼を言うと、図書館に入っていった。 「さてと……」 俺はとりあえず歩き出した。 歩きながら色々考えたかった。ついさっきまでとは違う、考えたくて考えるんだ。 彼は夢があったと過去形で言った。彼は夢を無くしたらしい。理由はわからないけど、進むべき道を失ったんだろう。だから、これからをまだ決められていないんだと思う。 まだ決められていない。決めることができていない。 でも、それでも……別にいいじゃん。 彼とは違って俺は、『この歳になって』なんて言葉が自分を責めたりするけど、まだ決まってないんだからどうしようもない。 ……きっと道は無いわけではなく、たくさんあるだけのこと。だから迷って途方に暮れていた。だけど、気づいてしまえば簡単なことで、どう進むかは……これから決めればいいだけの話なんだ。 …………………………。 とかなんとか考え方を変えたところで、結局は進む道は決めなきゃいけないんだよなぁ〜。 でも、これは結構楽しいことかもしれない。決めきゃいけないと思わないで、決める自由があると思えば。たくさんある道の中からあれこれ悩んで決めるのは、結構楽しいことだと思う。 こうでなきゃいけない、こうしなきゃいけない、やらなきゃいけない。 それは拭えない認識だけど、いまはそれだけじゃない。結構楽しそうだからやってみようと言う意志がある。……自分がある。 具体的に何かしようとかそういうのは無かった。ただ俺はスタート地点に立っただけだ。だけど、なんとなく俺は歩き出せる気がする。 ……それでいいだろ、別に。とりあえず焦りや煩わしさだけが充満する場所からは抜け出せる。それからどうするかなんてこれから決めればいいだけのことだ。 何だか妙に軽くなった足取りで歩いていると、ふと思いついて久美子にメールを送る。 『就職とか将来のこととか、しばらく時間はかかるけど待っててくれよ』 このメールの返事は、数秒もしないうちに返ってきた。素っ気ない一言の返信だったが、なんだかものすごく安心できた。その一言が言っている。 『しょうがないわね』 見捨てたりしない、見放したりしないと。 ……さてと、どうしようかな。 「どうしようかな……か」 ついさっきまでとは違う自分がいることに気がつく。 気づかせてくれた少年。そばにいてくれる久美子。この二つが俺の意識を変えた。 『どうなるんだろう』ではなく『どうしよう』。そこには自分がいる。紛れもない自分がいる。 「さて、どうしようかな」 俺は何だか嬉しくて、もう一度そう呟いた。 |