工藤 道隆

「下村 卓」

 地下自販機前の休憩フロアにある長椅子に座り、人を待つ。
 本当は個室を用意したかったが、どうしても都合がつかなかった。まぁここは病院内でも随一の人気の無い空間であり、人が来る可能性は皆無だろう。
 その証拠に、中心に置いてある灰皿には煙草が一本も入っていない。
 今も人を待つときは思わず煙草が欲しくなるときがある。目の前に煙草の自販機があるからなおさらだ。
 学生時代は吸えば落ち着くという暗示じみた理由で喫煙していた。実際その効果はあったのだと思う。
 未成熟な精神で、他の欲求を抑え込み勉学に励むことなんて、とても自分にはできたとは思えない。
 本当は、若い時ほど煙草のようなものを服用するのは好ましくないのだが。
 しかし、医師免許を得てすぐに煙草を止めた。
 自分だけではなく、周りの人間にも害を及ぼすのは間違いないし、喫煙者の医者が禁煙が必要な患者に、「煙草を止めろ」と言うのは説得力に欠けると思ったからだ。
 そう、私は医者だ。
 人の命を救う重大な仕事である認識はあるつもりだった。自分の行動は人の命に関わる。そう思って慎重に、確実に行動しなければいけないと思っていた。
 けれど、自分の言動で人の心を壊してしまう職業である認識は無かったのかもしれない。

 医者として二年目のあの頃、私はある問題を強く問題視していた。 
 若者の性感染症の蔓延。
 自分のもとへ訪れる若者たちは、意識も知識も充分なレベルに達していない者たちばかりで、現代の世情に落胆するとともに憤りを感じた。
 親の教育、学校の教育、メディア。そのどれもに原因があるのは間違いない。
 あの頃の自分は若者の軽率な行動に苛立っていた。それを理由にしたとしても、一人の少年を傷つけて、殻に閉じ込めてしまった言い訳にはならない。

 高校生になる従兄弟の男の子が、未だ血液型を知らないという理由から、自分の病院で検査を受けた。
 真面目な子だったが、様々な理由からの感染もありうるので感染症の検査も同時に行わせた。
 その結果、珍しい感染症に冒されていることがわかった。
 危険性は低い。潜伏したまま生涯を終えてしまう方が圧倒的に多く、発病する人間は千人に一人いるかいないか。
 発病しても命を失うわけではなく、生殖機能が停止するだけだ。
 考えられる感染経路は血液感染、性感染。加えて母乳による感染。その他の感染は認められない。
 その危険性の低さから、献血などでは感染者の精神面を考慮して、感染者に報告をしなかったのだが、近年の性意識の低下による感染拡大により、報告が義務付けられた。
 本来なら意識する必要はあっても、それほど気に病む必要の無い感染症であるが、彼は不幸にも千人に一人の確率に当たってしまった。
 子供を作れない事実が、人に対してどれほどのショックに繋がるかを少しでも考えていれば、彼を追い詰めることはなかったのかもしれない。
 私は彼の精神面のケアよりも、感染を広げないための意識を強くもつように促すことに重きを置いてしまった。
 彼が真面目であることは充分承知していたが、今まで見てきた若者たちを思い出してしまい、そうしてしまった。
 彼は真面目に私の話を聞き、しっかりと頷いてくれた。私はその反応に満足したことを覚えている。
 あの時確かに、自分は性感染症の拡大を防ぐことに貢献したと思った。
 それが、自分が感染者であることを強く意識させる行為に他ならないことに気がつかずに。
 彼が家族にこのことを伝えないでくださいと言った時に気がつくべきだった。
 彼には兄と姉がいたが、二人とも同じ検査を受けており、感染は認められなかった。
 おそらく感染は母親の母乳からだろう。兄と姉を出産した頃、叔母さんは母乳の出が悪く、彼が初めて母親から授乳していたことから推測できる。
 そして、叔母さんの血縁は絶えており、彼の胸のうちだけに秘めておけば、家族はこの病気について知らなくても良いことになる。
 この家族の誰に責があるわけではない。もし罪があるとすれば、報告を義務付けなかった医療制度だろう。意識があれば、母親が母乳で子を育てるなどあるはずもない。
 しかし、母がその事実を知れば罪の意識に苛まれるだろう。彼はそれを避けたかったのだと思う。
 私は彼の意思を汲んで家族の誰にもこのことを告げていない。

 あれから三年が経とうとしている今になって、私は自分の罪を知る。
 彼の姉から相談があった。
 弟の様子がおかしいと。高校生になってからは交友を避け、一人でいることが多いと。
 それを聞いた私は、すぐに病気と関係しているのだろうと思い当たった。タイミングも一致している。
 彼をそんな風にしてしまったのは、おそらく……いや紛れもなく私なのだ……。

「こんにちは、お久しぶりです。叔父さん」
 頭の中を整理している途中で待ち人が来る。
 彼は二年前よりも随分落ち着いて大人びていた。……というより、高校生にしては落ち着き過ぎだ。
「久しぶり。呼び出して悪かったね道隆君。こんなところで悪いけどとりあえず座って」
 道隆君は、私の言葉に頷き向かい合うように座った。
 ……さて、何から言えばいいのやら。
 医者である私の言葉は人の人生を揺るがしかねないことは重々承知した。だからこそ、昔の言葉の責任をとるために彼を呼んだ。
 しかし、いざ目の前にするとどうしても尻込みをしてしまう。
「……あの時以来だね」
「ええ、そうですね」
 あの時、私は彼を追い込んでしまった。それを今まで気がつかず、今になって何を言えばいいと言うのだろう。
「……あの時は……その……」
「叔父さんには感謝しています。あの時、叔父さんが熱心に話をしてくれなかったら、僕は感染者として強い意識を持てなかったかもしれません」
 うまく話を切り出せずにいると、笑顔でそんなこと言う道隆君。
「違うんだ……」
 医者は生きる希望を失わせるために存在しているわけじゃない。むしろそれとは対立する存在であるはずなのに。
「道隆君。少し話を聞いて欲しい。
 君は自分の病気のことをちゃんと理解しているかい?この病気は危険性は極めて低く、死に至る病じゃあないんだ。
 そりゃあ意識を持つ必要はあるけど……」
「大丈夫です。理解してます」
 道隆君は私の話を笑顔を浮かべて遮った。
 その笑顔は憂いを帯びていて、何かを悟っているような、すべてを諦めているようなそんな顔だった。
「僕は感染者であり、発病もしていて子孫を残す能力を失っています。
 僕は他に感染するのを防ぐことに努めて生きていくつもりです」
 聞いているこっちの胸が辛くなる言葉だった。
 あまりにも素直に自分の境遇を受け止めている。いや、その冷め切った言葉の内容からすべてを諦めたのだと推測できる。
「そんな風に言うもんじゃない。人生はそれだけじゃない」
 口にしてみると予想以上に月並みだった。私はこんなことしか言えないのか。
「知ってます。結構楽しいこと、色々ありますよね。
 だから叔父さんに心配してもらわなくても僕は楽しくいきていけます」
 道隆君の言葉は、非常に前向きに聞こえるからこそ心にチクチクと突き刺さった。
 それでいいのか?と言う問いがつい口から零れそうになった。その問いに「よくない」と答えられても、何にもできないくせに。
「……前に読んだ本にこんなことが書いてありました。僕と同じような境遇の人が書いた本ですけど。
『私は私と同じ病気を持たない人間よりも、人生に制限が存在する。だが、人生そのものが無い訳ではない』
 僕はその言葉にすごく感銘を受けました。だから大丈夫ですよ。叔父さん」
 この子は優等生だ。とてもいい子だ。
 たぶん道隆君は、私が呼び出した意図がわかっているのだろう。大丈夫と言う言葉と、それを裏付ける理由まで用意して、私のことを気づかっていくれている。
「道隆君……」
 ……考えていくうちに、自分が何をすればいいかわからなくなってきた。彼は確かに生きる希望を持ち、前向きに生きている。
 ……でもなぜこんなに悲しいんだろう。
 理不尽だ。
 なぜなんだ。なぜこんなことになるんだ。
 なぜ道隆君なんだ。
「……何かあったら連絡して。力になるから」
 なんて自分は無力なんだろう。
 力になるために呼び出したくせに、何の力にもなれていない。それなのに、力になるなんてこと、よく言える。
 ……でも自分ができることはこれぐらいなのだろう。
「ハイ。ありがとうございます」
 その笑顔は柔らかで、それが自分の罪悪感を否応に呼び起こす。
「……ごめんね、呼び出しておいてこんな話しかできなくて。俺はもう少しここにいるから、道隆君はもう帰っていいよ」
「はい……、お忙しいのに僕なんかを気にかけてもらえて嬉しかったです。それじゃあ」
 去っていく後ろ姿。
 ……本当に何もできなかった。
「…………………………」
 目の前の自販機に昔吸っていた煙草の銘柄があることを確認した私は、この気持ちが少しでも収まるならと、思わず煙草を購入していた。しかし、手元にライターが無いことに気が付き、もどかしい気持ちがさら強まる。
「……ああ、そうか……」
 できるはずのことができないもどかしさ。
 非常に不謹慎だとは思うが、少しだけ道隆君の気持ちがわかった気がする。
「……まだまだ未熟なんだろうな」
 道隆君の病気は現代医学で治療する術はなく、医師としてはその病気と上手く付き合っていけるよう手助けすることしかできない。
 道隆君は今、幸せなんだろうか。それだったら何も言うことはない。

 わからない。

 彼がどうやってあの結論に達したか。投げやりな気持ちには聞こえなかったが、どうしても私は彼があのままで幸せだとは思えない。
 ……それさえもエゴなのだろうか。
 相手の気持ちを完全に理解することなく、自分の幸せの定義を押しつけるのも正しいとは思えない。相手の気持ちを完全に理解することも可能だとは思えない。
 私にできることは何なのだろう。……きっと、今日道隆君が自ら口にしたようなことを伝え、前向きな考え方を促すことしかできないと思う。

 私は深呼吸を一つして、未開封の煙草をゴミ箱に放り込む。
 ……とりあえず、煙草は吸わない。
 こんなことで君の応援になるなんて思うのは烏滸がましいことはわかっている。しかし、せめて自分に課した制限ぐらいは守り続けようと思う。
 そして祈っている。心から君が幸せであることを。

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