工藤 道隆

「落合 篤子」

 どんどん遠ざかっていく。
 私はただ、ぼーっとそれを感じていた。脱力しきった体は考えることを拒否する。
 窓の向こうの景色の流れは速すぎて、今の私にはとらえることができない。
 ……ああ、どんどん遠ざかっていく。
 脱力感に任せて、深い眠りに就いた。

 ここはどこだろう。
 ……なんて、ファンタジックな展開になるはずもなく。電車は時間通りに終着駅へ、そのあとは回送となるらしく、私は駅員さんに起こされ、ここにいる。
 朝、いつも乗る電車とは逆方向に進む電車に乗った。
 満員電車の車両に、押し込まれるように乗車するたびに、ガラガラのだった反対側の車両に憧れた。
 あっちに乗りたいなぁ。何度そう思ったかわからない。
 でも、当然そんなことはできるはずもなくて。いつも想いを馳せるだけだった。
 でも今、私はその電車に乗り、ここにいる。
 本当にやっちゃった。
 古い建造物が多く並ぶこの町。駅から静かな方へ静かな方へと歩いて、たどり着いたこの場所は緩やかな空気が流れている。
 時計は午後一時半を指していた。職場だったら午後の仕事がとっくに始まっている。昼食後の眠気なんて感じてる暇がないほどの忙しさだ。
 そういえば昼食をとっていないけど、不思議と空腹感が無い。
 それからまた少し歩くと、大きなお寺が見えてくる。何て名前かも気にせず、なんとなくその庭園に入った。
 遠目で見て綺麗だなと思って引き寄せられて、入ってみて改めて思う。
 ……なんて綺麗なところなんだろう。
 咲き始めた花々が控えめに並び、岩、木、すべてが自然体。私は思わず立ち止まって見つめていた。
 ドンッ。
「すいませんっ」
 そんな私に、軽い衝撃と謝罪の言葉がかけられる。
 人がぶつかったみたいだ。学生服の眼鏡をかけた男の子。
 でもこんな道の真ん中でボーっとしてたら、人にもぶつかるよね。
「あ、こちらこそ……」
 私が返事をしたときにはもう、男の子は近くにあった建物に入っていた。
 目をこらすと、よく見るマークが確認できる。
 ……トイレだったのか。
「工藤道隆ー!」
 そのすぐあとに、女の子が大声で叫びながら、急ぎ足でこちら側に向かってきた。
 私と目があうと、女の子はまっすぐに向かってくる。
 ショートカットの良く似合う、利発そうな女の子だった。
「あの、髪の毛がぼさぼさで眼鏡をかけた学生服の男の子を見ませんでした?」
 まっすぐな瞳でハキハキと話す女の子。第一声だけで好印象が持てる。
 ……眼鏡をかけた。さっきの男の子のことを言ってるんだろうな……。
 そうか、男の子はトイレに行きたかったわけじゃなくて、この子から逃げたかったんだ。
「……ううん。見なかったけど」
「……そうですか、ありがとうございました」
 女の子は残念そうに呟いてから、丁寧なお辞儀をすると、踵を返して急ぎ足で遠ざかって行った。
 ……悪いことしちゃったかな。
 でも、男の子をかばいたかった。逃げたり、隠れたりしているほうの味方をしたかった。
 ……自分を弁護したいのかもしれない。
 女の子が充分遠ざかってからだろうか。男の子がトイレから顔を出した。
 もう間違いない。彼は女の子から逃げていたんだ。
 思わずクスリと笑ってしまう。なんだか、絵に描いたような学園ドラマの風景だ。
 ……ん?
 男の子が私を見ていることに気がつく。さっきの会話が聞こえていたのかもしれない。
「他の女の子と約束でもあるのー?」
「そういうわけじゃないです。あの、たすかりました」
 面白半分で少しからかって言ってみたが、男の子は表情を変えずに答えた。
 なんだか学生服を着る年齢に似つかわしくない。
 そんな態度と、何かから逃げているという共通点のせいか、なんとなく興味が沸いて、つい視線を向けてしまう。
 その男の子は、大きめのバッグからいそいそとスケッチブックを取り出していた。
「絵を描くの?」
 私は思わず聞いていた。
 女の子から逃げてまで絵を描きたかったってこと?
 男の子は無言で頷く。
「……ねぇ、邪魔しないからそばで見ててもいいかな?」
 迷惑だと思ったが、興味の方が勝ってしまい頼んでみた。女の子から逃げてまで描きたいという絵は非常に興味深い。
 男の子は一瞬だけ困ったような表情を浮かべたが、コクンと頷き、近くにあったベンチに腰掛けた。私は少し間隔を空けてその隣に座り込む。
 男の子は一度だけチラリとこちらを見てから、手早く鉛筆を動かし始めた。
 その筆の運びは鮮やかで、みるみると目の前の景色が作り上げられていく。
 紙と鉛筆が擦れる音が何だか小気味良かった。
 ……ああ、なんて穏やかなんだろう。
 再び思って深呼吸を一つ。
 だが、その動作の途中で携帯電話を開いている自分に気がつき、気分が沈んだ。
 電源が入っていない。電車に乗ったあとすぐに切ってしまった。
 少しでも時間が空くと携帯電話をチェックする癖がついてしまっている。一時間もすると数件のメールが入っていて、空いていた時間はすぐなくなるのだ。
 今は怖くて電源を入れる気にはなれなかった。
 私の生活は充実している。……充実しすぎている。
 本当にやることが多くて、でもそれをこなしていくのは楽しかった。
 物事は整理して、順序だてて、一つ一つ確実に解決していけばなんとかなる。なんとかできると思っていた。そして、なんとかしている自分が好きだった。
 頑張るねって言われるのは嬉しかった。
 ……でも、当たり前のことだけど、私にも限界があったのだ。
 恋人からプロポーズされた。人間としても、男としても、申し分ない人だし、私も今年で三十歳になる。断る理由なんてなくて、喜んで応じた。
 それが始まりだった。
 もともと忙しかった職場だったが、ある人が病気で倒れたことによりさらに忙しくなった。
 しばらく仕事が落ち着きそうにないため、予定していた式の日取りを伸ばしたかったが、三十歳になる前に式を挙げろと親がうるさく言った。結婚資金を負担してもらっている手前もあり、忙しい中、結婚準備を進めることになった。
 彼は私の仕事を理解してくれていたが、私の親も、彼の親も、私が仕事で忙しいことをよく思っていない。妙な団結力で、私に仕事を辞めさせ、家庭に入らせようと躍起になっている。
 でも、過信ではなく、今の職場は私無しではとても回らない状況で、今辞めることなんてできるはずもないし、もともと好きな仕事だから辞めたいとも思わない。
 終わらない仕事。進まない結婚準備。そして説得できない両親。
 彼は私以上に仕事が忙しくて、頼ることもできない。
 状況を把握して、順序だてて、一つ一つ確実にこなしていたはずだけど、どうにもゴールが見えなくて。
 気がついたらここにいた。
 私が逃げ出したことを知ったら、親たちはそれ見たことかと、さらに強く仕事を辞めろと言ってくるだろうか。
 いや、それよりも職場だ。今日は特に大きなイベントはなかったけど、抱えきれない業務にみんなが悲鳴をあげているだろう。
 今からでもと携帯電話の電源を入れようとするが、今更という思いと、どんな言い訳をすればいいのだろうと思う気持ちが、震えになってあらわれるだけだった。
 すべてのことから目をつむってしまいたい。
 耳をふさいでしまいたい。
 そんな気持ちからここにいるんだろうけど、目をつむっても、耳をふさいでも現実は目の前にあって、どうしようもなく私を責める。
 ガチャガチャ……。
 鉛筆を走らせる音が、別の音に変わった。男の子の方に目をやると、色鉛筆を取り出しているところだった。
 スケッチブックをチラリとのぞき込むと、下絵が完成されていた。
 不思議な印象を受ける絵だった。
 一本一本の線が繊細で、今にも脆く崩れてしまいそうな。しかし、それでもしっかりと存在しようという意志の力を感じる。
 絵を書き始めてからまだ十分足らずしか過ぎていないのに。よくわからないけどかなり早いんじゃないんだろうか。
「上手だねぇ」
「そうですか?」
 声をかけると素っ気ない返事が返ってくる。集中しているのかもしれない。邪魔しちゃ悪いなと思いつつ、口が勝手に開く。
「描くのはやいよね」
「……ちょっと急いで描いてますから」
 ……急いで?
 ゆっくり書けばいいのに、なんで急いで描くんだろう。
 確かに手早く色鉛筆を持ち替えいる様子は、急いでいるように見える。
 色々考えているうちに、アッと言う間に色がついていく。
「あ、もしかして」
 その思いつきに思わず口が開く。急いでいるんだから、話しかけて邪魔をするべきじゃないのに。慌てて口を塞いで言葉を飲み込む。
「どうしたんですか?」
 そうしてしばらく黙っていると、男の子の方から声をかけられた。
 たしかに、一度口にした言葉を慌てて引っ込めても気になるよね。
「絵、もうできたんで」
 多分私の考えに気付いての言葉だろう。歳の割に気遣いのできる子だな。
 スケッチブックの中の風景は完成されていた。色をつけることで重みがつくのかと思ったけど、さらに繊細さと儚さが増している。だが、下絵の時に感じた、存在しようとする意志のようなものは、より強く描かれているような気がした。
「……閉めてもいいですか?」
 遠慮がちに聞く男の子。
「……あ、ゴメンゴメン」
 私がのぞき込んでいたから閉じるに閉じられなかったんだろう。
「えと、さっきの話ね」
 絵に気をとられて、途中になっていた話題に戻す。
「急いで描いてたのは、女の子が戻ってくるまでに絵を描き上げたかったからなのかなぁって思ったのよ」
 そう考えれば説明がつくからそう思っただけであって、なんの根拠も無かったけど。
「……はい」
 控えめに頷く男の子。
「なんで?こんなに上手なのに」
 男性、特にこのくらいの男の子は、異性に格好悪いところを見せたくないものだ。
 だから、下手なら女の子に隠れて絵を描きたいというのは頷ける。だけどこれだけの絵を描けるんだから、隠すことはないと思う。
「きっと感心されるよ?せっかくこんなに上手に描けるんだから、隠すなんてもったいないよ」
 私の言葉に困ったような表情を見せる男の子。
「……彼女には、見られたくないんです」
 ボソリと消え入るような声だったけど、確かにそう言った。
 心に痛みを憶える。触れてはいけないことに触れてしまった時に感じる痛みを。
「だからって逃げなくても……」
 動揺からかもしれない。
 その言葉は、今の自分にとっては辛く厳しい言葉なのに、それを自ら口走っていた。

 逃げるのはよくない。

 それが思い浮かび、口にした。それはつまりこういうことで。

 悪いことをしている。
 迷惑をかけている。

 自分のことを棚に上げて何を言っているんだろう。
 そう思った瞬間、ぼんやりとしていた意識が鮮明さを取り戻す。同時に生まれてくるのは悔恨と罪の意識。
 全身に寒気が走った。今自分は何をしている。今の今までなにをしていた。
 ぐるぐる頭は回り、自分のしてしまったことで起こりうる問題が、次々と浮上し、頭を埋め尽くしていく。
「……甘えさせてもらってるのかもしれません」
「……え?」
 現実に引き戻され、パニック状態に陥りそうになったとき、男の子の言葉が心に響いた。
 甘えさせてもらってる?
「自分がこんな絵を描いていることを、彼女には見られたくなくて、でも描きたくて。……逃げ場所なんです。この絵」
 自嘲じみた笑顔を浮かべてスケッチブックを見つめる男の子。
 逃げ場所。
 その言葉に大きく心が動いた。そして、今の言葉の意味を考えると体が震えた。
 逃げ場所にいる自分を、逃げている自分を、見られたくない。
 だけど、その前の「甘えている」という言葉に繋がるとは思えない。
「少しぐらいなら、逃げても許して貰えるかもしれないって……」
 男の子は私の疑問を読み取ったのだろうか。
 恥ずかしいような、困ったような、悲しいような。そんな複雑な表情で私の疑問に対する答えを口にしていた。
「ホント……甘えでしかなくて、逃げてるだけなんですけどね」
 鼻の頭をかいて照れくさそうに言う男の子。
 ……私は、こんな表情をしたことがあるだろうか。
 ……逃げたくなかった。いつだって立ち向かって、なんとしてもやり抜いていたかった。そういう自分が好きだった。
 そして、そういう自分以外を認めたくなくて、そういう自分以外を、相手に認識させるのも許せなかった。

 すべてのことから目をつむってしまいたい。

 さっき頭に浮かんだフレーズがリフレインする。
 すると気付く。気付いてしまう。違うんだと。私はこの男の子とは違うんだと。
 この子はあの女の子から逃げていたかもしれないけど、目をつむっていたわけじゃない。
 それは大きな違い。
 やっていることは同じに見えるかもしれないけど、それは大きな違いなんだ。
 状況を把握して、順序だてて、一つ一つ確実にこなす。
 そうすれば前に進める。これは私の確信で、こんな状態に陥っている今でも変わらない。
 逃げるのも同じ事。
 逃げるならちゃんと逃げないと。
 目をつむったって、目を開いたときに状況は変わっていない。目をつむっただけじゃ、逃げられないんだ。
 考えて、走らないと。そうしないと押し寄せてくるものからは逃れられやしない。
 甘えだって、一つの方法。私が今やってることだって一つの方法になりうるはずだった。

 ……………………よし。

 大きな深呼吸を一つ。
 穏やかに感じた空気を少しでも多く吸い込んで、そして気合いを入れる。
 目をつむるんじゃなくて、ちゃんと逃げよう。
 そして、体勢を整えて、もう一度挑もう。
 逃げるってことは、進めなくなったときにする息抜きのようなもの。
 そして、再び前へと進むためのもの。
 目の前が開けた気がした。
 ……当然かもね。目をつむっていたんだから。
「あー!いたー!工藤道隆ぁ!!」
 変わり始めた空気に共鳴するように、さっきの女の子の声が響く。
 逃げても許して貰えるかもしれない……か。
「幸せものだね、君」
「……はい」
 男の子は微妙な返事を返した。そこには確かな喜びが存在している。しかし、同時に悲しみと苦しみも共存している気がした。
「あれ、さっきの」
 走り寄る女の子は私の存在を確認すると、不思議そうにこちらを見た。
「もしかして捕まえておいてくれたんですか?」
 的外れな言葉に思わず吹き出してしまう。
「逆よ。かくまってあげてたの」
 いたずらっぽく言うと、女の子は訳がわからないと言った感じでキョトンとし、男の子は動揺して目を泳がせた。
「ちゃんと許してあげてね」
 私はそれだけ言い残して退散する。取り残された二人がどんな会話を繰り広げるのかが、非常に気になったけれど、もう休息は終わり。
 私は駅に向って歩き出す。私は前に進むんだ。
「…………」
 携帯電話の電源を入れようとして、震えている指に気がついて少し物怖じしたが、一回強く握り拳を作ってから、力強く電源ボタンを押した。そしてメールの送受信の操作を行う。
 大量に送られてくるメール。
 送信時間が古い順にメールを読んでいく。
 朝は『何をしてる』『連絡してくれ』という言葉がほとんど。
 昼になると『どうしたの?』という言葉が大半を占めた。
 迷惑だけじゃなくて、心配もかけちゃったね……。
 少し涙腺を刺激された私だったが、婚約者からのメールを見たとき、思わず涙をこぼしてしまう。
 こぼれる涙が頬を伝う中、男の子の言った「甘え」と言う言葉を思い出した。
 いいよね。たまには甘えてもさ。
 そのぐらいのことが許されるくらい、私、頑張ってたよね?
『大丈夫?無理させてゴメン。ゆっくり休んで、元気が出てきたら連絡ください』
 ありがとう。もう大丈夫。
 そうだよね。あなたに相談すれば良かった。あなたも忙しいからって、一人で頑張ろうとしてた。
 最後の一文を読んだとき、ひどく申し訳ない気持ちになった。
『二人で頑張っていこう』
 きっとどうにもならないことってこれからもあって、逃げなきゃ押し潰されてしまうことがあると思う。
 次からはちゃんと逃げよう。
 私には、甘えられる場所もあるんだしね。
 頑張ってダメだったときは逃げてしまおう。
 でも……甘えすぎないように気をつけないといけないよね。
 歩いて来た道を振り返る。
 男の子はもうすでにいなくなっていたが、私は構わず呟いた。
「君も……ね?」

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