工藤 道隆

「葛乃葉 良一」

「ふぅ……」
 階段を上りきった私は、額にじんわりと汗をかいていた。
 どうしてこう……階段が多いのかねぇ……この駅は……。
 車椅子の私にとって、階段を上るのは辛い。しかも私は四十六歳の中年親父だ。車椅子のまま階段を上るような体力などあるはずもない。
 駅員さんの力を借りて何とか上れはしたが、駅員さんの手が空いていないときもある。まぁ私も介護者がいない時はほとんどないが、エレベータがあればこんな心配はしなくて済む。
 最近は車椅子専用のエレベータなどの設備が整いだしてはいるようだが、まだまだだ。この駅は乗り換える電車が三本もある。利用頻度は高いはずだ。しかしその駅に設備がないんだからな。
 心の中で愚痴をこぼしながら、自動のスイッチを入れる。するとゆっくりと動き始める私の相棒。
 改札を抜けたところで、駅員さんには『大丈夫だから』と言って解放してあげた。降りる駅にはエレベータも完備されているし、忙しそうな駅員さんを付きっきりにさせるのも気がひける。
 しかし……この時間に電車に乗ることは出来るだけ避けたかったな。この時間帯は学生さんたちの下校時間。混み合うことは必至だ。まぁ仕方がない。もう少し早く家を出れば良かったのに、ついついテレビを見込んでしまった自分が悪いのだ。
 ホームに着くとすぐに電車が来た。しかし私は電車を見送ることにした。この電車の最後尾には手すりがある。せっかくあるのだからこれを使わない手はない。乗車中、ブレーキをしっかりと掛ければ、それが無くても大丈夫だろうが、やはり一人なのだから、そうした設備を使った方が安全だろう。
 しかし、その車両の乗車位置に辿り着くにはあと三十メートルは動かなければいけない。電車に乗ってからの移動というのは、私にとっては無理な注文だ。この電車は見逃して、次の電車に乗った方がいい。
 まったく……親切なんだか親切じゃないんだか……。改札を出たらすぐに、最後尾車両の乗車位置だったら随分楽なんだけどなぁ。
 頭の中で愚痴をこぼしたところでどうなるものではない。一本電車を見送り、最後尾車両の乗車位置で待つことにした。
「1番線に〜○×行き電車が〜」
 間延びした駅員のアナウンス。到着間隔がやけに早く感じたが、場所を動いている間に時間が経っていたのだろう。
 先頭車両が私の前を猛スピードで走り抜けると、電車はゆっくりとスピードを落としていった。

 プシュ〜。

 やがて完全に止まり、独特の音とともにドアが開く。私と同じ乗車位置にいる人はいたが、電車に乗る手助けをしてくれる人はいなかった。まぁこのぐらいだったら自力で何とかなるが。
 電車に乗るとまず、ため息をつきたくなった。車椅子の人間のために備え付けられた手すりに、健常者の人間三人が腰かけていたからだ。
 まぁ予想はしていたが……。あの手すりは腰を掛けると結構楽らしいから……。
 私は仕方無しに壁際に行き、ブレーキで車椅子を固定させる。
 しかし、頭では割り切ってはいたが、やはり気持ちはあきらめていないようで、思わず視線を手すりに腰かけている3人に目をやってしまう。
 中年の私には難解な、よくわからない格好をした二十歳過ぎの青年。音が漏れるほどの大きな音で、わけのわからない(多分流行の歌なんだろう)曲をヘッドホンで聴いている。私の存在に気付いているらしいがどく気配はない。
 紫色のブレザーを着たボサボサ髪でメガネの青年。こちらは私が乗ってきたときから本に熱中しているため、私の存在には気がついていないだろう。多分高校生だ。
 もう一人は禿げ上がった頭と、でっぷりとした体型がいかにもな、中年のサラリーマン。今、目が合ったのだが、すぐに目をそらしてしまった。かなり疲れている様子なので、私のような人間と関わりを持ちたくないのだろう。
 私が若くてきれいな女性だったら、二十歳過ぎの青年は場所を空けてくれたかもしれないなぁ、等とくだらないことを考えつつ、目的の駅に着くのを待つ。
 しかし……メガネの青年。すごい集中力だな。さっきから身動き一つせずにずっと本を読んでいる。文学青年……ってところか?髪も染めていないし、ネクタイもきちんとしている。……今時珍しいタイプかもしれないな。
 ……何の本を読んでいるんだろうか。これで漫画だったら笑い話のネタになるかもしれない。
「次は〜△○○〜。次は△○○〜」
 おっと……目的の駅だ。とうとう空かなかったな。まぁ空いたとしても、わざわざ、固定しなおすのも面倒だったが。それにもともとそんなに長く電車に乗る訳じゃなかったし、別に必要なかったのかもしれない……。

 ガダンッ!

 おわっ!?
 目的の駅に着く直前で、突然大きく車内が揺れる。車椅子のブレーキがしっかりかかっていたので私はなんともなかったが、乗車客の何人かはバランスを崩してしまい、しどろもどろになっている。
 バランスを崩した乗客の中に、メガネの青年もいた。手すりに座って本を読むという不安定な格好をしていたためだろう、派手にバランスを崩していた。あわや転倒というところで踏みとどまったが……。
 その瞬間、私とバチッと目が合う。するとハッとしたように自分のいた場所と私を交互に見始めた。
「あ……」
 やがて、困ったような表情で私の方を見て口を開く。私に何か声をかけようとしているかもしれない。

 プシュ〜。

 メガネの青年の行動が未完結のままドアが開く。
 青年の態度は気になったが、降りないわけにもいかない。ドアが開いている時間は限られている。
「失礼」
 私は青年にそれだけ言うと、ブレーキを解除して降車した。

 プシュ〜。

「あの!」
 再びドアが閉まる音がするともに声をかけられる。振り向くとメガネの青年が苦い表情で立っていた。
「……何か?」
「……す、すいません……。僕……あんなところで本なんか読んでて」
 聞き取れないくらい小さな声だった。
「ああ、気にしなくいいよ。そんなこと」
「でもっ……助けられるはずだったのに……僕……」
 メガネの少年の表情からは激しい後悔の念を感じとれる。
「大げさだって」
 私は極力笑顔で答える。
 本当に大げさだ。良心がある人間でも、こんな行動はしないだろう。『ああ、どいてあげれば良かった』と、あとで悔やむぐらいだ。
「すいません。本当に……」
 ペコリと頭を下げる青年。
 …………。
 ああ……もしかしたら……。
 私は何となく感づいた。この青年はどうして私に声をかけ、謝ったのか。
「いいよ。本当に気にしないで。その気持ちだけでうれしい。ありがとう」
 だから私はそれだけ言い残して車椅子を走らせた。きっと会話を長く続けることは、この青年にとって苦痛だろう。
「すいません……」
 青年はもう一度だけ謝ると、下を向いたまま乗車位置に立った。
 ……あの青年。ここで降りる訳じゃなかったのか……。
 彼は私に謝るために電車を降りたのだ。ひどく後悔をして、いたたまれない気持ちになって、私に声をかけたのだろう。
 私は申し訳ない気持ちになった。
 どうして私は、彼に私を助ける機会を与えてあげられなかったのだろう。
 乗車したときに「すいません」と声をかければ、彼なら場所を空けてくれた。そうすれば彼にこれほど後悔の念を持たせることもなかっただろう。
「難しいものだな……」
 私は独白しながら、車椅子用エレベータに乗る。
 きっと彼は私と同じような傷をもっている。どうしようもない、癒せない傷を。私は車椅子に乗っているので目に見えてわかるが、彼はきっと外見からはわからない傷を持っているのだろう。
 いつも助けを求めているのかもしれない。だから私が助けを必要としたときに、助けられなかった自分にひどく嫌悪感を抱いたのだ。
 ……もちろんただの私の推測だが。
「難しいものだ。本当に」
 私は人の助けを必要とする人間だ。
 だから私を助けてくれる人の優しさを、しっかりと受け止められなければいけない。
 私を助けたいという想いを無下にしてはいけないのだ。
「助けようとしてくれてありがとう」
 私は届くはずがないと知りながらも、そう言わずにはいられなかった。



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