工藤 道隆

「工藤進」

 ……ふぅ……。
 思わずつきたくなるため息を、心の中だけでおさめる。少し体調が悪い。頭痛、喉の痛み。間違いなく風邪だろう。朝飲んだ薬が効いてくれば、症状は軽くなるはずだ。
 休むほどではないし、休むわけにはいかない。プロジェクトは順調に進んでいるが、これからも順調に進めるため、休むわけにはいかないのだ。妙な気を遣わせることもできない。士気の低下にも繋がる。
「工藤さん。どうぞ、お茶です」
 いかん。声をかけられるまで彼女に気がつかないほど、物思いにふけってしまった。
「……矢田部君」
 お茶を置いて立ち去ろうとする矢田部君に、声をかけ呼び止める。お茶をいれてくれた彼女をねぎらうためではない。
「はい」
「どうしてお茶をいれたんだ?」
「え?」
「今は勤務中だ。君の仕事はお茶をいれる事ではないだろう?」
「は、はい……」
 矢田部君は能力があるにも関わらず、こういった雑務をやりたがる。
「お茶くみ、コピーとりが女の仕事だったのはもう昔のことだ。コピーとりは大事な仕事の一環だが、お茶くみは仕事に何の関係もない。もし、飲みたいと思えば自分でいれればいいんだ。君はそんなことしなくていい」
 私がそう言うと、下を向いて黙りこむ矢田部君。
「……ちょっと工藤さん。そんな言い方ないんじゃないですか?」
 いつからこちらに意識が向かっていたのか、持田君が口をはさんできた。
「矢田部さんは工藤さんに気持ちよく仕事をしてもらおうと……」
「私は頼んでいない。矢田部君に頼んだ仕事は別にある。そちらに力を入れている姿を見ている方が、私は気持ちよく仕事ができる」
「でも……」
「持田君。進捗表を見たか?君の進捗のみ遅れているぞ?他の人間に構っている余裕はないだろう?」
「……う」
「わかったら仕事に戻ってくれ。矢田部君もだ」
「……はい」
 ……まったく。なぜ持田君は矢田部君をかばおうとするのだろうか。持田君の方が年上だからなのだろうが、仕事は矢田部君の方ができる。持田君はもう少し自分の実力を考え、仕事を片づけてから他人のことを構うべきだろう。
 持田君が黙ると職場は一気に静かになった。持田君が黙ればたいがい静かになる。私の開発チームのメンバーは四人いるのだが、おしゃべりなのは彼女だけなのだ。
 三年目の矢田部君と七年目の持田君。そしてさっきから黙々と仕事をしている四年目の大田だ。大田はかなり切れる男で、性格に問題さえなければ私の下にいるような人材ではない。本人は管理職などまっぴらゴメンと、特に気にしてはいないようだが。
 トゥルトゥルルル。
 静かになった数分後。私のデスク
の電話が鳴る。
 受付からの電話だった。内容は浩之君が来たむねを伝えるものだ。彼が来ることは予定にある。時間もピッタリだ。
 私は社内の喫茶店に来るように伝え、席を立った。

「これが前回のプロジェクトの成果物をまとめたものです」
「ああ、ありがとう」
 禁煙席に向かいあうように座る、私と浩之君。
「何か問題がありましたらご連絡ください」
「一応目は通すが……。君のことだから、きっとそんなことはないだろう」
「ありがとうございます。工藤さん、これからも何かありましたら、我が社をよろしくお願いします」
「君の能力は前回一緒に仕事をして、充分理解したつもりだ。君の力を必要とする仕事があればこちらからお願いするよ」
「ありがとうございます」
 浩之君は前回のプロジェクトで、一緒に仕事した。彼は協力会社の社員だ。我々のチームではどうしても技術面で足りない部分を、浩之君に手伝ってもらった。彼の知識と、技術力は大変なものだ。
「ここだけの話だが……。君を引き抜きたいという意見も出ているらしい。ここの会社はどうもそういうことが好きみたいでな」
「……え?」
「君がその気なら、私も口を添えてもいいぞ?」
「あ、あの……」
「突然そんなことを言われても困ってしまうか。まぁ、考えてみてくれ」
「はい」
 私もこの会社には、引き抜きという形で就職した。前の会社はパッとしない中小企業だったし、年収は二倍以上跳ね上がり、いきなりプロジェクトマネージャー待遇。特に会社に愛着もなかった私は、その話を受けてここにいる。
 しかし浩之君は今の会社に愛着があるようだから、この話は受けないかもしれないな。
「ところで……浩之君。歩美は元気でやっているか?」
「え?ええ、体調を崩すこともほとんどありませんし、仕事も順調みたいです」
 歩美。歩美は私の妹だ。そして浩之君は歩美の夫。つまり浩之君は義弟になる。
「そうか」
 しかし、その繋がりがあったから、仕事を一緒にすることになったわけではない。たまたま同業だったから、一緒に仕事をする機会があったというだけのことだ。
 正直私は、仕事をする前までは、浩之君に対してあまりいい感情は持っていなかった。
彼は歩美が一七歳の時、二人で一泊二日の旅行をしようと企てた。性格からいって歩美の発案かもしれないが、それを実行に移そうとした。
 結局それは中止となり、事なきを得たが、私は許せなかった。その行動が、そのわがままな行動が、どれだけ親に迷惑をかけるかわかっていないのだ。
 私は一度間違ってしまった。だからもう間違わないし、間違わせない。


 中学一年。幼すぎた自分。幼すぎた心。
 まわりのことが見えなくて、親のことなんて考えることはなくて……。
 誰にも迷惑をかけずに俺は生きていく。自分の行動に責任を持つのだから、俺の勝手だろう。そんな風に思っていた。
 だけど、それはわがままでしかなかった。その考えに従って生きていこうとした俺は、どうしようもなくわがままな行動をとってしまう。
 ……その結果。俺は、多くの人を傷つけてしまった。
 同じクラスの女子。明るく純粋な彼女に強く惹かれた。彼女を強く強く想っていた。そして、その子も俺のことが好きだった。強く強く想ってくれていた。
 だから何の疑いもなく行動していた。二人で生きていく。二人で生きていける。そう思っていた。
 幼すぎる思考、行動。単純な欲望も抑えられなかった。だから、あんなことになってしまった。
 妊娠させてしまったのだ。幼い彼女を。まだ幼かった彼女を。
 馬鹿な俺は、二人で育てるつもりだった。二人と、生まれてくる子供とやっていくつもりだった。でも、当然自分たちだけじゃ、そんなことはできるはずがない。
 ……それでも、それでも反対するすべての人間と戦うつもりだった。必死で抗った。だけど、どうにもならなくて……。
 しばらくして彼女が諦めようと言った。俺は頷くしかなかった。首を横にふるには、どうしようもないということを、自分が何も出来ない子供なのだということを、思い知りすぎてしまっていた。
 彼女は子供をおろし。別の学校に転校した。身体も心も、傷つけてしまった。彼女だけじゃない。彼女の両親、俺の両親。先生、親しい友人。……数え切れない人を。
 誰より一番傷つけたのは母さんだったと思う。
 俺はすべての責任を被るつもりだった。自分はどんな罰を受けてもいいと思っていた。もちろん俺も責められたが、両親も相手の両親に責められた。
 そして、父さんは……、「おまえがきちんと見ていないからだ」と母さんを責めた。
 罵倒して叩いて、蹴って……。あの時の光景は今でも目に焼き付いている。
 責められた母さんは、俺にひどく当たると思った。それは当然のこと。だから、どんなひどい仕打ちも受けるつもりだった。
 だけど母さんそれをしなかった。ただ耐えていた。一人で泣いて、ジッと耐えて、今までと変わらず俺に接してくれた。
 あの時感じた憤りは言葉にできない。どうしようもない自分。まわりがまったく見えていなかった自分。母親をこんなにも苦しめてしまった自分。
 だから決めた。
 もう自分勝手な行動はやめると。親に迷惑をかけるようなことはしないと。自分の勝手な行動は、自分に深く関わっている人間に大きな迷惑をかける。痛いほど身に染みてわかったから。
 だから俺は……、だから私は……、もう母親に辛い思いをさせない。そう誓った。
 この事件のことは、歩美も道隆も知らない。妊娠が発覚してからの数日間、不幸中の幸いか、歩美は修学旅行の最中だった。そして、事件は噂が広がる前に処理された。
 自分は随分頑張って反抗していたと思っていたが、先生や親の頑張りだけで、事が大きくなる前に処理できたのだから、私の反抗は本当に大したことがなかったんだろう。
 私ほどではないが、あの時、歩美は馬鹿な行動をとろうとした。浩之君もだ。若かったからでは済まない。それを見逃してはならない。
 これ以上、親に迷惑をかけないこと。そして親に迷惑をかけようとする人間を許さないこと。これが私の使命であり、贖罪でもあるのだ。


「子供を作る気はないのか?うちの親は孫の顔が見たいみたいだぞ?」
「ははは、もう少し落ち着いてからでないと。今は私も歩美も仕事で手一杯ですから」
「そうか」
 ……しかし、浩之君も、歩美も歳を重ね、いい夫婦になっているようで安心した。しっかりと二人で生きていっている。これからも生きていけるだろう。
 それから私は、少しの間だけ浩之君と妹の話をし、仕事に戻った。


 私のチームは残業時間が少ないことで有名だ。無理な計画は立てず、勤務時間に皆が全力を出し切れば終わるよう工程管理する。そうすればおのずと残業時間は少なくなるものだ。
 今日も時間通り終わらせることができた。順調に進んでいる証拠だ。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様」
 大田がそそくさと帰る。大田は定時上がりの大田と言われるほど早く帰りたがる男だ。昔は上司にそれを咎められていたみたいが、仕事はキッチリ終わらせている。私としては誉めることはあっても、咎めることなど無い。私は無駄に残業をすることこそ罪だと思っているからな。
 それに、大田はやるときはやる男だ。仕事への責任感と執着は並々ならぬものがある。一度、大きなトラブルがあったときの大田の働きは目を見張るものがあったからな。
「工藤さん」
 帰り支度をしているところで矢田部君が声をかけてくる。
「どうした?」
「……あの、顔色が悪いみたいですけど」
 ……正直に言うと、若干苦しかった。熱が随分と上がっているようだ。表に出ないよう意識をしていたが顔色に出てしまっていたとは。
 それに頭痛がひどい。仕事が終わって気が抜けた途端、ガンガンと力強く殴られているような痛みを感じる。
「そうか?少し疲れているのかもしれないな。今日は早めに休むことにする」
「は、はい」
「あらあら?ホント!顔色が悪いなんてもんじゃないわ。その分じゃ、熱、三十八度は超えてるわよ」
「ええ!?」
 そこに持田君が入ってくる。まったく……。
「そこまでの熱は無いだろう。自分の身体のことは自分が一番わかる」
「いいえ、私は二人の子供と病弱な亭主の看病をしょっちゅうしてますからね。わかるんですよ。その分だと頭痛もひどいんじゃないですか?早く寝たぐらいでは治りませんよソレは。明日はお休みした方がいいです」
「そ、そんなにヒドイなんて……。無理なさらないでください」
「大丈夫だと言っているだろう!そんなに騒ぎ立てるな!」
 まくしたてるように私の病状を言い当てる持田君。それを聞いてオロオロとする矢田部君。私は頭痛のせいもあってかイライラし、思わず怒鳴りつけてしまった。
 その声の大きさに言葉をなくす二人。
「すまん。本当に大丈夫だ。先に失礼する」
「……工藤さん」
 矢田部君が心配そうな声で呼び止めたが、私は逃げるようにして会社を後にした。

 駅までの道のり、電車の中。そして家までの徒歩。
 休み無く苦痛が襲いかかっていた。ここまで体調を崩したのは何年ぶりだろうか。
 家はまだか……家は……。ゆっくりと少しずつ歩いていく。だが、その一歩は弱々しく、進んでいるような気がしない。
 気を抜くと倒れてしまいそうだった。
 結局私は通りがかったタクシーに乗ることにした。


 母親と会話をしながらの食卓。大事なコミュニケーション。
 いつものようにその時間が待っていた。私は病状を知られぬように努める。家に着いて気が楽になったためか、症状が少し和らいでいた。まだ身体は熱かったし、頭痛も続いていたのだが、無駄に気を遣わせることもないだろう。
 父親はもう少し後に帰ってくる。道隆はもう食事を済ませて自室にいるようだ。
「道隆が?」
「ええ。そうなのよ」
 母親は今日、道隆と少し進路の話をしたことを難しい顔で話し始めた。道隆が、進学をせず就職すると言ったらしい。
「道隆は頭がいいんだから大学に行った方がいい」
「そうよね。進の時とは違うんだから……」
 私は大学を出ていない。あの時は父親の会社が大きく傾いていて、大学どころではなかった。だから高校卒業後すぐに前の中小企業に就職したのだ。
 もっとも私は、もとからそのつもりであったが。あれだけ親に迷惑をかけた自分が、高い金を払わせてまで大学に行くつもりなどなかった。
 大学でなくても勉強はできる。私はそれで成功している。大企業で働き、高収入を得ているではないか。
「そうだね。母さん」
 今は父親の会社も落ち着いているし、私が家に多めに金を入れている分、随分と楽だろう。
 それなのになんで道隆は……。私と歩美は、大学に進学しないで就職した。だからこそ行って欲しいのだが……。
 ……まさか、それが原因か?
「本当に……、どうしてなのかしらねぇ」
「風呂に入ってからでも道隆と話をしてみるよ。大学に行くよう説得してみる」
 本当は早く休みたかったが、母親の悩みの種は早い内に取り除いておかなければ。
「そうね、進の方が道隆の気持ちがわかるでしょうし」
 それに、もし私の読みに間違いがなければ、私にも責任がないとは言えないのだからな。

 私は母親に悟られぬよう、風邪薬を飲んでから手早く入浴を済まし、道隆の部屋のドアをノックする。そういえば、道隆とはしばらく話をしていない。
 ……私は、大学に行くことが、必ずしもいいことだとは思ってない。だが大学は、本人の頑張り次第で、色々な可能性を広げることができる場所だ。せっかく大学に通える環境が整っているのだから、行かなければもったいない。
 道隆は頭もいいし、好きなことに熱中できる。無為な学生生活を送る事はないはずだ。色々なものに触れ、吸収して大きくなって欲しい。道隆の大学進学は母親だけの願いではない。私の願いでもある。きっと歩美もそう思っているだろう。
 だから、私は道隆を説得する。道隆は色々なことに興味を示す人間だから、大学に行きたいという気持ちがないということはないはずなのだ。
「道隆、私だ」
「あ、兄ちゃん?どうぞ」
 ドアを開けると、道隆が机の前に座って何かしている。
「勉強か?」
「あー、いや、読書」
「そうか……、道隆は本当に本が好きだな。……座っていいか?」
「ああ、うん。椅子は……ないからベッドにでも腰掛けてよ」
 入浴したせいか、また症状が悪化したようで、頭痛がひどくなっている。だが、今日中に話をしておかねば。母さんにはそう言ってしまったしな。
「……道隆、大学には行かないそうだな」
「……ああ、……うん」 
「なぜだ?」
「………………」
 口ごもる道隆。その様子から察するに、私の思ったとおりのようだ。
「私と歩美が大学に行っていないのに、自分だけ行くのは悪い。そう思っているのなら気にしなくていいんだぞ?」
 ゆっくりとそう切り出すと、道隆はバツが悪そうに目をそらした。
「おまえが本気で就職したいと思っているならば話は別だが。もし、大学に行きたいという気持ちが少しでもあるのなら、私はおまえが大学に行くことを願っている。きっと歩美もそういうに違いない」
 道隆は目をそらしたまま何も言わない。
 ……く、目が霞む。喉まで痛くなってきた。だが、道隆が大学に行く気になるまでは……。
「いいか、道隆。あの時、私たちは行けなかっただけだ。それを引け目に感じておまえが大学に行かないなんてことは、お門違いもいいところだ。資金面が気になるなら問題はない。それならば私だって協力できる。だから……」
「に、兄ちゃん?」
 どういうことだ?道隆の声が随分遠くに聞こえる。
「兄ちゃん?兄ちゃん!?」
 ぼんやりと霞んでしか見えなかったが、道隆は必死で呼びかけているようだった。にも関わらず、道隆の声は遠くなっていく一方だ。
 本当に……どうしてしまったのだろう……。




 気がつくと見慣れない部屋で寝ていた。
 消えない頭痛、気怠さ、喉の痛み。それらに包まれ、ぼんやりと映るその景色は、見たことのない場所ではない。
 ……ここは、そうだ、昨日最後に見た部屋。……道隆の部屋か?
 どうしてしまったのだろう、私は……。
 コンコン。
 ドアをノックする音の数秒後に、道隆が部屋に入ってくる。
「あ、兄ちゃん。起きてたの?」
 横になっている私の目が開いていることに気がついた道隆は、控えめに声をかけてくる。
「昨日の夜はビックリしたよ。いきなり倒れるんだもん。でも三十九度六分もあれば倒れるよね」
 倒れた?三十九度六分?
 ……そうか、私は熱で倒れたのか……。昨日道隆と話していたところまでは覚えているが、それ以降の記憶がない。道隆のベッドに倒れ込むようにして気を失って、今の今まで眠っていたのだろう。
 …………昨日の夜?
 ……ということは今は……?
「道隆、今何時だ?」
 声をだすと、その枯れた声と痛みに驚きを感じる。
「朝の十時だけど……」
 ……朝の……十時……だと!?
 始業時間は九時半だ。仕事はもうとっくに始まっているじゃないか。
 ガバッと状態を起こすと、頭がクラクラとしたが、そんなことは気にしてられない。
「なぜ、起こさなっ……ゴホッゴホッ」
 なぜ、起こさなかった?という言葉の途中で咳にとって変わられる。
「あ、会社には休みますって連絡しておいたよ」
「な、なんだって?そんっ……ゴホッゴホッ」
「そんな、状態じゃあ会社になんて行けないし、行っても迷惑だよ」
 ぐっ……。会社に休むと連絡したことについて抗議しようとしたが、それもできなかった。喉が焼けるように熱い。
「はい、ポカリスエットだよ。ゆっくり飲んで」
 道隆が差し出した缶のポカリスエットを受け取ると、飲み口から伸びていたストローで少しだけすする。
 染みるような冷たく気持ちの良い水が、ゆっくりと流れ込むと、生き返るような気分だった。
 この体調で、缶のまま飲むのでは辛いだろうという心配りだろう。ストローはありがたい。少しずつ、ゆっくりと飲むことができる。
 少し喉が潤ったせいか、喉の痛みが和らいだ。今なら話すことができるだろう。
「道隆。私の携帯を取ってきてくれないか?」
「え?」
「会社に連絡する」
「……そんな身体で……」
「心配するな、今日は休む。ただ、今日の指示をするだけだ。でなければ仕事が進まない。皆が困ってしまうんだ」
 その言葉をうけた道隆は、しばらく考えていたが、私の部屋から携帯を持ってきてくれた。そして「食欲はまだないよね?ここに水と薬を置いておくから、ポカリスエットを飲み終わったら飲んでおいて」と言い残して部屋を出て行った。
 私が職場に電話するのだと悟って、気を利かせて出て行ったのだろう。……本当に気の利く弟だ。
 ……それにしても情けない。風邪で倒れてしまうとは……。工程が一日遅れてしまうではないか。若干余裕を持って日程を組んではいるのだが……。
 ……ええい、考えていてもしょうがない。現状を把握し、指示を与えなければ。
 私は道隆の持ってきてくれたポカリスエットを、もう一口飲んで喉を潤してから電話をかけた。


 風邪薬を飲んだ私はベッドに沈むように倒れ込む。
 体調は幾分よくはなっていたが、まだまだ苦しいことには変わりない。頭痛、喉の痛み。先ほどは熱により身体が熱かったが、今は強い寒気を感じる。
 そして、精神面は何だか妙な感じだった。ポッカリと穴が空いているようで、何も考えられなかった。
 仕事は順調に進んでいるらしい。大田が指揮をとっており、一日ぐらいなら、私がいなくてもなんとかなりそうだと言っていた。
 それにしても……、普段はあまり喋らない大田が、あんなことを言うとは思わなかった。
「うちのチームは工藤PMのもとで、毎日嫌ってほどキッチリとやっているんですよ?工藤さんが一日休んだくらいでどうにかなるような、柔なもんじゃございません。
 あ、だからと言って何日も休まれては困りますけどね。私、仕切るのは苦手ですし。
 矢田部君はずっと工藤さんを気にかけてるせいか笑顔をあまり浮かべません。あ、持田さんが矢田部さんを気にかけてくれているおかげか、仕事に差し支えるほどひどくはありませんのでご安心を。
 その持田さん自身は、工藤さんの指摘無しできちんとできているかどうかが、不安で仕方のないようですが……。でも、私が見た限りではちゃんとできてると思いますよ。
 そんなわけで、今日も定時であがれそうです。
 工藤さんはいつもやりすぎってほどキッチリやってるんですから、たまには仲間にドーンと任せきって安心して休んでください。
 それでは、早く復帰してくださいね。頼りにしてるんですから」
 大田は、少し砕けたものの言い方をする。上司と部下という関係だが、同じ年で実力自体はそれほど変わらないからだろう。単にヤツの性格かもしれないが。だがそれでいて、その言葉は当を得ていてどうにも心に残る。
 心強い言葉だった。しかし、なぜか私は喪失感を感じ、強い脱力感に襲われている。
 コンコン。
 ノックの音。今の私にはその音が妙に大きく感じられる。
「兄ちゃん。入るよ」
 ドアを開けて入ってきたのはまた道隆だった。母さんはどうしたのだろう?
「母さんは買い物に行ってるよ。風邪にいい食材でおかゆを作るつもりみたい。でもまだ食欲は回復してないよね」
 私の心を読んだのかと思うようなことを言った後で、ニコリと笑う。
 ふと平日のこんな時間になぜ道隆がいるのだろうという疑問が浮かんだが、そういえば今はまだ春休みだ。
「これ、作ってみたんだけど」
 そう言ってから、私の前に湯飲みを差し出す。湯飲みからは湯気が立ち、独特の匂いを漂わせていた。
「……これは、卵酒……か?」
「うん。これぐらいなら飲めそうでしょ?」
 アルコールの匂いがするものの、基本的に甘く優しい匂いは拒絶反応を起こさない。
「せっかく作ってもらったんだし、もらおうか」
 一口すするように飲むと、熱すぎない程度にあたためられた卵酒の香りが、口一杯に広がった。
 アルコールのせいもあるだろうが、その一口で身体があたたまったような気がする。ぽかぽかとして心地よい。
「うまいな」
「良かった」
 その出来のよさのおかげで、するすると喉に入っていく。道隆は料理が嫌いではないようで、よく夕食の支度を手伝っている。しかし、これだけのものを作れるとは、素直に感心してしまう。
「覚えてる?昔兄ちゃんが俺に卵酒を作ってくれたこと」
「え?」
「小学校四年生ぐらいの時に、風邪ひいてさ。寝込んでたときに作ってくれたんだよ」
 思わず吹き出しそうになるぐらい意外な言葉だった。
 私が?卵酒を?
 自慢ではないが、私は料理が全然できない。子供の頃からずっとだ。
「たまたま母さんも父さんも実家の法事に出ててさ。それで作ってくれたんだ」
 ……道隆の言葉によってうっすらと思い出す。そうだ、風邪に効くものはないかと料理の本を参考に作ったんだ。
「もの凄く嬉しかった。だから作ってみたくなったんだよ。卵酒。お返しにってわけじゃないけどさ……」
 身体だけでなく、心がじんわりとあたたかくなっていくのを感じた。ゆっくりと、ゆっくりと何か溶け出して行くように感じた。
 こんな気持ちになったのは、もう随分ぶりだろう。
「お返しにしては随分うまい卵酒だ。私の作ったのはもっとまずかったはずだ」
「そ、そんなことないと思うけどなぁ」
 あたたかい時間。ゆっくりと流れる時間。
「ねぇ、兄ちゃん。……俺、大学行くよ」
 そんな時間の中で、道隆がそう言った。
「でもね。授業料とか、できるだけバイトで稼いで、足りない分は働いてから返していこうと思うんだ」
「どうしてだ。わざわざそんなことをしなくてもいいだろう?」
「俺、兄ちゃんと姉ちゃんを尊敬してる。高校を卒業してすぐにしっかりと稼いで、努力して成功してる二人を。
 だからさ、大学に行くんなら、親の力を借りたとしても、寄りかかりっぱなしは嫌だ」
「………………」
 ……何も言えなくなった。
 真っ直ぐと私を見ていう道隆の目は、強い意志がこもっている。
 何を言えるというんだろう。道隆はしっかりと考えて行動している。
「もし、本当に辛くなったら無理はしないから。それまで、そういう風にやっていきたいんだ」
 ……………………。
「……そうか」
 卵酒の入っている湯飲みを傾けたが、それはすでに空っぽになっていた。
「ありがとう。美味かった。少し休ませてもらう。もうしばらくベッドを借りるぞ?」
「うん。ゆっくり休んでね」
 汚れ物の湯飲みやコップを持ち、部屋を出て行く道隆。
 なんだか、職場に電話した後と同じような感覚にとらわれていた。
 しかし、道隆の作った卵酒によって心身ともにあたたまったていた私には、それがなぜか、理解することができた。
 私は……、何でかんでも自分の力でやろうとしていた。自分のいいと思ったことを推し進めようとしていた。
 だから、私無しできちんできる人間を目の前にしたとき、虚無感を感じてしまったのだ。……私の存在が、必要ないものに感じてしまったのだ。
 だけど、それは違う。
 ……私はわがままで自分勝手で、まわりを見ていなかった。
 何でも自分一人しようとする姿勢は、協調性の欠片もない。まわりと、他の人間とやっていく意志がない。どこまでも独りよがりでしかない。
 私は、どこまでも一人だと思いこんでいた。一人で何でもやっているつもりだった。だからそんな風にしか考えられなかったのだ。
 大田の言葉を思い出せ。私を突き放すような言い方をしていたか?
 何より、何でもかんでも一人で抱え込まねばいけないような、そんなチームメンバーか?
 大田は頼りになる腕の確かな技術者。
 矢田部君は有能な若いホープ。
 持田君は、能力的には若干劣る所があるが、その性格はチームのムードメーカーと言えるだろう。
 彼女の性格で何度も場が和んだことがあるし、気の弱い矢田部君のいい相談役となってくれている。
 ……私は、随分といいチームメイトに恵まれている。
 それなのに。体調が悪いのを隠してまで、自分がしっかりやらねばと思っていた。信用していなかったのかもしれない。任せることができないと思っていたのかもしれない。
 いや、そうではないと思う。
 それどころかそこまで考えていなかった。いつも必死だった。ちゃんとやらねばならないと、そればかりを考えていた。
 本当にまわりが見えていなくて……、私は中学のあの時から、まったく成長していないのかもしれない。
 ……………………。
 ゆっくりと目を瞑る。
 相変わらず頭は痛い。目は霞む。喉は痛い。
 だが、気分は悪くなかった。いや、気怠いのだからそうは言わないのか?
 それでも、そう感じた。
 今日の休暇は、私にとって有意義なものであったと思う。今まで休むことを忌み嫌っていたが、こういう時間も必要なのだと思う。
 あたたかくて、ゆっくり流れる時間が。
『工藤さんはいつもやりすぎってほどキッチリやってるんだから、たまには仲間にドーンと任せきって、安心してしっかり休んでください』
 大田の言葉を思い出す。そうだな。休ませて貰おう。
 道隆の卵酒。そしてチームメイトの言葉。それらによってあたためられた心身は、私を深い眠りへと誘っていった。


 翌朝、若干の気怠さは残っていたものの、熱も下がり、頭痛も喉の痛みも無くなっていた。
 母親には、無理せずもう一日休んだらいいと言われたが、どうにも落ち着かない。
 もう無理をするつもりはない。なんでも一人でやっているつもりにもならない。だからこそ、大丈夫だ。
 一日ぶりの職場は景色が違って見えた。時間もいつもと同じ。始業15分前。
「あ!おはようございます工藤さん。もうよろしいんですか?」
 私より早く職場にいるのは矢田部君だけだ。これもいつも通りだった。
 持田君と大田は五分前ぐらいに来る。
「ああ、もう大丈夫だ。心配かけてすまない」
「あ、いえ。そんな……」
 私はデスクに座り、仕事の準備を始める。
 そんな私のもとにお茶が運ばれてきた。矢田部君だ。
「あ、あの。始業前ですし、いいですよね?」
 私が矢田部君に視線を向けると、顔を真っ赤にしてそんなことを言う。そういえば一昨日、お茶くみをするなと咎めたんだったな。
「そうだな」
「これ、弱った身体にいいお茶なんです。治ったと言っても、体力まではまだ回復した訳じゃないでしょうし……」
 私がそう言うとホッと一息ついて、にこやかに話始める。
「ああ、ありがとう」
「……ハイッ」
 満面の笑顔を浮かべる矢田部君。
 ……昨日の休みが無ければ、この笑顔は見られなかったのだろう。
「おはようございます」
「おはようございまーす。あ、工藤さん!もう大丈夫なんですか?」
 そこに持田君と大田が揃ってやってくる。
「ああ、もう大丈夫だ」
 四人が揃い、二言三言交わすと始業開始のチャイムが鳴った。
 そしてチームが動き出す。
四人で仕事を進めていこう。昨日とは違う場所に思える職場で、昨日とは違う気持ちで。
 いつもと同じ作業なのだが、今までとは違って感じた。いつもよりも、あたたかく、そしてゆっくりと時間が流れていくように感じた。


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