工藤 道隆

「川上 聡」

 空はすっかり赤く染まり、俺達の顔に赤みをかけていた。でも……きっと、政昭の目が赤かったのはそのせいじゃない。
 帰り道。一言も会話を交わすことができなかった。重々しい空気を吸うたびに息が詰まって……声を出そうとしても出せなかった。
「じゃあ……」
 いつも一緒に帰り、いつもここ別れる。だけど……、この場所でもそれしか声に出せなかった。
「……ああ」
 政昭は素っ気無く返事をして家に帰っていく。その表情は、直視できないくらいに悲痛だった。
 なんて声をかけたらいいのかわからなかった。……声をかけるべきなのかどうかもわからなかった。 
 ただ……、別れる時にいつも言っていた、『また明日な』の一言が言えなかったことが気にかかった。
「また……明日……な……」
 もう届かないその声は、まだ冷たい風に吹き消されてしまった。


「おめでとう、聡」
「おめでとう。良かったわね」
「よかったじゃん。兄貴」
 その日は、なぜか親父も早く帰ってきた。
 今日の晩御飯は散らし寿司。うちはおめでたいことがあると、散らし寿司でお祝いをするようになっている。
 母親も……五歳下の弟も喜んでくれている。笑わなきゃ……。
「ありがとう……」
 ……政昭……。
 高校に合格した。卯月高校だ。受かる確率はあんまり高くないって言われたけど、合格した。一応頑張ったし……政昭も協力してくれたから。
 政昭は俺よりも頭がいい。成績だってテストの点数だって俺よりもいつも上だった。
 それなのに……なんで……俺が受かって……政昭が落ちるんだよ。一緒の高校に行こうって言ったのに。なんで……なんだよ。
 嬉しいはずの合格も嬉しくない。うまいはずの散らし寿司もうまくない……。……そして……受験が終わるとともに軽くなると思っていた気持ちは、さらに重くなっていた。
「……ご馳走様」
 胸がいっぱいになった。とてもじゃないけど、家族の喜びが詰まった散らし寿司を腹に詰め込む気にはなれない。
「あら?どうしたのよ。あんまり食べてないじゃない?」
 母親が心配そう声をかけてくる。父親も弟も同じような顔している。
 ……政昭は今、家族にどんな顔をされているのだろうか?
「……なんだか安心したらすごく疲れちゃってさ。悪いけどもう寝るよ」
「あら、そう……。そうね。ゆっくり休みなさい」
 嘘が自然につけるようになったのはいつからだろう?そんなことを考えながら部屋に戻る。そしてすぐにパジャマに着替え、ベッドに体を沈めた。
 ……天井が遠く感じた。

 どうして、こんなことになっちゃったんだろう?
 政昭は小学一年の時からの友達だ。九年間。ケンカもしたけど、仲良くやってきた。喜びも、悲しみも……、とにかく全部政昭と分かち合っていた。
 親友はこいつだと胸を張って言える。政昭は俺にとってそういう存在だ。だから……だから……。
 俺はどうすればいいんだろう?何をすればいいんだろう?
 政昭の気持ちを必死で考える。もし、自分が高校に落ちて、政昭だけが受かったらと想像する。だけど……俺の想像力じゃ政昭の気持ちはわかんなくて、ただ苦しいだけだった。


 朝。学校までの道。いつもこの土手のこの場所で合流していた。
 ベンチ。ごみ箱。ジュース販売機。時計。たとえどちらかが遅れたとしても、ここなら待っていられる。
 ここから学校までは歩いて十五分くらい。予鈴が八時二十五分だから、八時十分ぐらいに二人ともここに来ていた。もし遅れても、走れば十分ぐらいで着いてしまう。だから八時二十分までは、お互いがお互いを待つのが暗黙の了解になっていた。
 ……今日の朝は俺が待っていた。十分ぐらいに着いて、今は十五分。
「……遅いな。」
 寒さに耐えかね、買った缶コーヒーで手を温める。……もしかすると今日は休みかもしれない。……でも休みの時は電話があるはずだ。なんだろう。どうしたんだろう?
 ぬるくなってしまった缶コーヒーを飲み干すと、時計の針は八時二十分を差してしまっていた。そろそろいかないと走っても間に合わない。俺は仕方なく走り出す。
 一人で走る通学路。花も葉もついていない街路樹が目について、いつもより長く、そして寂しく感じた。

 ギリギリで学校に着くと、教室には政昭の姿があった。
 声をかけようと思ったけど、すぐに先生が来てしまい、ホームルームが始まる。席はそんなに近い方じゃないから、声はかけられずじまいだった。
「起立。気を付け。礼!」
「おはようございます」
 クラス委員の号令。いつも通りにクラス全体がその号令に従い、動く。何だか今日はそれが嘘臭く感じた。
「あー。おはよう。昨日は都立の合格発表があった……」
 担任が昨日のことを話し始める。それとともに政昭の背中がビクンと震えたのを、俺は見逃さなかった。
 ……やめろよ先生。
 だけど、先生の話は止まらない。受験がどうのこうの話した後、『結果が出たものも結果が出なかった者もよくがんばった』と締めくくった。
 そう、頑張った。頑張ったんだよ政昭も。なのに……何で……何で……。
「起立、気を付け。礼!」
 再び号令。
「政昭」
 ホームルームが終わり、先生が教室から出ていくと、すぐに政昭の席に行って声をかけた。
「……ああ」
「どうしたんだよ今日は、先に行っちゃったのかよ?」
「……ああ」
「ひ、ひでぇよ、俺ギリギリまで待ってたんだぜ?」
 どうしたんだ俺。声が震えてる。
「……悪かったよ」
 ………………。
「……政昭……」
「悪い。俺、これから職員室。おまえと違って忙しいんだ」
 その言葉と、目が訴えていた。
『ひどいのはどっちだ。一人だけ合格しやがって』
「…………」
「ホント、忙しいからさ。これから朝は一人で学校行くよ。早く来なきゃいけないし」
「…………」
 何で……。
「じゃな」
 ……睨むような視線のまま、感情のない声色のまま……、政昭は教室から出ていった。
「井上君ってさ……」
「うんうん」
 政昭が教室からいなくなるとともにバカどもが騒ぎ出す。このクラスに井上は政昭一人しかいない。
「えー?マジィ?」
「シィ、川上君に聞こえるよっ」
 川上も俺一人だけだ。それでも声を抑えてるつもりなのかよ。丸聞こえじゃないか。
 怒鳴ってやろうかと思った。……だけど……、何だかそれもできなかった。もしここで俺が怒鳴ったら、おもしろがって余計騒ぎ出すだろう。みんな高校に受かって浮かれている。政昭はクラスの奴らとはあんまり仲が良くなかったからさらにだ。
 政昭は……、頭が良くて、スポーツもできる。それをハナにかけて威張ることがあるから気に入らないと思っているヤツは多い。
 いつもぶっきらぼうで、乱暴な口調なのもよくない。
 でも俺は知ってる。政昭は自分を自慢することはあっても、人を見下したりしないことを。そして……ものすごく優しくて、気が利いて、でも不器用だから……。だから……。
 ガラッ。
 教室のドアが開いて、英語の教師が入ってくる。
「Hi!Hello everyone!」
 満面の笑顔で、英語での挨拶。いつもの挨拶だった。いつも通りの……政昭が大変なのに……いつも通りの……。なんだかそれだけで腹が立った。……何がハローだよ。

 ……その日、政昭は教室に帰って来なかった。担任に聞いたら、二次募集をしている高校の資料を集めたりしているそうだ。
 今日は一人で帰ることになった。学校から家まで……行きも帰りも一人。こんなことは初めてじゃない。政昭が病気で休んだとき。ケンカしたときだってそうだった。
 でも、今までとはきっと違う。
『おまえと違って忙しいんだ』
 耳にへばりつくような言葉。
 ……俺、どうすればいいんだろ……。政昭のために何かしたい……だけど……。
 俺が何をしても駄目なような気がした。
『おまえに俺の気持ちなんてわからない』
『高校に受かったヤツは気が楽だよな』
 そんな言葉で拒絶されるような気がした。いや、されるだろう。こういう時って、そっとしておく方がいいんだよな。時間が経てば……きっと……きっと……。
 いくらそう言いきかせても不安は消えなくて、ずっとずっと胸が苦しかった。このまま、距離が離れていって、心が離れていって、お互いがお互いを敬遠するようになって、そして……。
 そんな考えが頭から離れない。
 ……政昭……政昭……。
「どわっ?」
 人の声。そして衝撃。
 俺は尻餅をつき、目の前のチャリンコは横転していた。
 それでやっと意識が戻ってくる。俺、チャリンコとぶつかったのか。
「す、すいません」
 俺は尻餅をついたままで謝った。別に痛むところはなかったけど、何だか立つ気力が無かった。
「……いや、こっちこそ……。あれ?」
「……あ」
 ぶつかったチャリンコに乗っていた人に俺は見覚えがあった。
「工藤先輩?」
「……川上?」
 二つ上の先輩だった、工藤先輩。同じ委員会だったから覚えている。
 ボサボサ頭で大きなレンズのメガネ。違うのは制服だけだった。あの頃と変わらない。
「大丈夫か、川上?」
「あ、はい」
 俺は急いで立ち上がった。
「……それにしてもどうしたんだ?止まってる自転車に突っ込んで来るなんて」
「え?」
「信号待ちしてたところにぶつかって来たじゃないか」
「あ、えと……」
 相当重傷だったみたいだ。
「……顔色悪いけど?」
「……あ……。う……」
 偶然出会ってしまった先輩。その先輩が声をかけてくれるのに、俺は言葉を口に出すことができなかった。
「………………」
 きっと今喋ったら。
「先輩……俺……」
 弱音しか出てこない。


「……そっか」
 駅のそばの喫茶店。工藤先輩が誘ってくれた。あんなんじゃ事故を起こすからって言って。バイト代が入って懐が暖かいからおごってやるって……。
「……はい。俺……どうしたらいいのかわからなくて……」
 誰かに聞いてもらわないとおかしくなりそうだった。でも親には話せない。クラスメイトにも話せない。ものすごく悪いと思ったけど、先輩に悩みをうち明けた。
「……余計なことしない方がいいですよね?」
「……その方がいいと思うよ……」
 工藤先輩は熱心に俺の話を聞いてくれた。そして真剣に考えてくれている。
「……井上君はものすごく傷ついてる。君の優しい気持ちも、きっとその傷を刺激する。とても強くね」
「………………」
 やっぱり……そうだよな。それが普通だよな。
 ……俺は、今まで通り仲良くしたいと思っていた。でもそれって虫のいい話なのかな。でもさ、政昭はさ……俺にとって……とっても大切な存在で……ずっと……ずっと仲良く……。
「……でもそれは、君が井上君にとってとても大切な存在だからなんだよ」
 少し自信なさげに、それでもはっきりと先輩が言った。その顔はなぜか困っていて、何だかよくわからない表情をしていた。
「……多分。多分だけど……。君のその気持ちが痛いのは……きっと井上君が自分を責めてるからじゃないのかな?」
「政昭が自分を?」
 自分を責めている?
「……ものすごく傷ついて……、川上の気持ちはわかるのに、苛立ってしまう自分。本当はそんな気持ちないのに、つい拒絶してしまう自分。そんな自分がたまらなく嫌で……嫌で嫌で……、それでもできてしまった傷のせいで川上の優しさが辛い。
 だから……だからさ、距離を置きたいんじゃないかな?自分のせいで、自分だけじゃなく、川上も傷つけることを知ってるから。だから、自分が大丈夫になるまで距離を置いてるんじゃないかな?」
 ……考えてもみなかった。政昭が傷ついていることはわかっているつもりだった。……だから……一人だけ合格した俺に腹を立てているんだと思っていた。だけど……違う……。
 よく考えろよ俺。政昭は……そんなヤツじゃないだろ?そうだよ……先輩の言うとおりだよ。きっと……政昭は……。
「……俺……、明日から政昭と距離を置くことにします」
 政昭が苦しんでいるのをただ見るのは辛い。辛いけど……俺は政昭の重荷になるんだ。……だから……だから……。
「……あの……さ……」
 俺が思い詰めて、少し大きめの声で言うと、先輩は遠慮がちにぼそぼそと言い始めた。
「……でもさ、やっぱり……気にかけてもらえるっていうのは嬉しいもんだよ。辛くて……苦しいかもしれないけど……やっぱりさ。……確かに辛いよ。拒絶し続けなきゃいけないから。でもさ……心のどこかで嬉しいんだ。……そして……離れていってしまったら……やっぱり悲しいんだと思う」
 途切れ途切れの小さな声で先輩は言った。何だか、政昭のことではなく、自分のことを言っているような気がした。
「……先輩?」
「悪い。なんかわけわかんないこと言ったな」
 先輩の顔は少し赤くなっていた。
「……だからさ」
 気を取り直すかのように、さっきの俺と同じくらいの、少し大きめな声で話し始める。
「よく考えて答えを出すといいよ。きっと、俺なんかよりも川上の方が井上君に近いと思うからさ。きっと気持ちがわかると思うからさ」
「……そんな……」
 俺……先輩に言われるまで政昭のこと誤解してた。そんな俺が政昭の気持ちなんて……。
「もし君が逆の立場だったら、政昭君にどうして欲しい?そう考えればいいと思う。だってさ、親友ってそんなものだと思うから……」
 親友。
 政昭は……胸を張って親友だと言える存在。
「先輩……俺……」
「うん」
「俺……行って来ます。話し聞いてくれてありがとうございましたっ!」
 俺が深く頭を下げると、先輩は笑った。その笑顔はなぜか寂しげで困惑しているように見えて……ちょっと戸惑ったけど、もういてもたってもいられなかった。
 政昭……俺は……俺だったらきっと……だからおまえも……。


 まだ六時にもなっていないというのに、すっかり日は落ちて辺りは暗くなっていた。……暗い方がいいかもしれない。政昭の表情とか……そういうのがわかりにくいから、それに惑わされないで話すことができる。
「何だよ……話って……」
 政昭の家の近くにある公園。俺はあの後政昭の家に行って政昭を呼びだした。政昭の家族も俺のことを知らないわけじゃない。二人が親友だって知ってる。だから、家に押し掛ければ突き放されないと思ったんだ。
 少し汚いかもしれないけど、でも俺は……。
「政昭……俺……さ」
「聡……朝も言ったと思うけど俺忙しいんだよ……だから」
 感情のこもっていない声。突き放す言葉。でも……それでも……。
「……嫌だからな……俺」
 高校に俺だけ受かって……政昭が落ちて……気まずくなって……一緒にいるのが辛くなってしまった。
「……何が嫌なんだよ」
 相手のためにそばにいない方がいいんだって思う。その気持ちはわかる。俺もそう思った。だから距離を置こうとした。だけど……だけど……。
 目頭が熱くなった。押さえ込んでいた感情があふれ出すように、身体が震えて止まらなかった。
「俺……政昭と離れるのやだぁ……」
 俺は泣いていた。震える声で訴えていた。まるで子供のように。……でも……でもさ……。
 格好悪くても……情けなくても……自分勝手でも……嫌なものは嫌だ。
「……聡……」
 もうこれ以上は言葉にすることはできなかった。涙ばかりが出て、頭が真っ白になって、それでも……それでも俺は……。
 政昭と一緒にいたい。仲良くしていたい。辛くても苦しくても。
 胸を張って親友だと言える政昭。
 気遣いなんていらないだろ?
 そんなもん、この気持ちに比べれば屁のようなモンだろ?
 相手を思いやる気持ちよりも、俺はこの気持ちを優先させたい。一緒にいれば、きっと乗り越えられる。どんなことでも。
 だから……だから……。
「……まったくよ……。面倒くさいヤツだよおまえは……」
 暗闇で、政昭の表情はわからなかった。
「……俺がこんな大変な時なのによ……かまって欲しいなんてよ……」
 でも……声は震えていた。
「チキショウ……。おまえのせいで泣いちまったじゃねぇかよ」
 いつも強くて、自信満々で、余裕があった政昭。
「カッコわりぃ……」
 そっか……。こんな自分の姿を見せるのも嫌だったのかもしれない。
 ……だけど多分それは。
「たまにはいいじゃないかよっ!おまえいつもカッコいいんだからさっ!」
 俺に幻滅されるのを恐れたんだろう。そんなの必要ないんだよ。なぁ政昭。
「……チクショウ……チクショウ……チクショウ!」
 政昭はボロボロと涙を流して泣いていた。
 政昭はきっと、高校に落ちても泣けなかった。親の前でも先生の前でも……俺の前でも。
 だから俺もボロボロと涙を流して泣いていた。
 政昭の気持ちをわかってやれなかった自分。力になってやれなかった自分。そんな自分が情けなくて……。
 カッコ悪い二人。
 だけど……いいよな?俺達カッコだけの仲じゃないもんな?

 二人は親友だから。


 完全に夜の闇に包まれた公園。都会の空らしく、月と目立つ星しか輝いていなかったけど、とてもキレイに思えた。人通りは無く、空気は冷たい。しかしそれが心地よかった。
 泣くだけ泣いてすっきりしたカッコ悪い男二人は、二つ並んだブランコをキコキコと揺らしていた。
「へぇ……、いい先輩だな」
「うん」
 取り留めもないことを話しているなか、工藤先輩の話になった。先輩は話を聞いてくれて、しかも助言をくれた。政昭の言うとおり、いい先輩だ。
「……なぁその先輩さ」
「うん」
「もしかしたら俺と同じだったのかもな」
「え?」
 政昭が言う。難しい顔をしていた。
「……何か理由があって、……誰かの好意を踏みにじってるんじゃないかってさ」
「工藤先輩が?」
「おう。本当は嬉しいんだけど、何かが邪魔して受け取ることができない。俺が高校に落ちたみたいな……そんな。それ以上のモノかもしれないけど。じゃないとさ。そこまで俺のことをわからなかったんじゃないのかな?」
「そういえば……先輩は難しい顔していた。政昭の気持ちを話すときも、それが辛いと言ったときも」
 お互い口をつぐんでしまう。俺達の仲直りのきっかけをくれた先輩。そんな先輩が苦しんでいるのなら……手放しに喜べない。
 多分政昭も同じ気持ちなんだろう。
「……まぁ……でも大丈夫だろ」
 しばらく考えていた政昭だったけど、いきなり自信たっぷりの口調で言った。
「ほっ!」
 そして勢いよくブランコから飛び降りる。さすが運動神経がいいだけあって、ビシッと着地を決めた。俺も真似してやってみたが、案の定バランスを崩してしまった。
「どうしてそう思うんだよ?」
「だってさ。俺と同じってことはさ。近くに俺にとってのおまえと同じような存在がいるってことだろ?」
 少し冗談っぽく笑って言った。
「……そう。そうだな」
 だけど俺にとってその言葉は嬉しくて、同時に信じられる言葉だった。そうだよな。そうだよ。それなら先輩もきっと。
「じゃ、俺そろそろ帰るな。あ、明日も家早く出るから。八時五分ぐらいまでしか待ってらんねーぞ」
 政昭の別れ際の言葉。相変わらずの口調。ぶっきらぼうで、乱暴だけど優しい声。
「ああ」
 今日は言える。昨日言えなかったあの一言。
「政昭。また明日な」

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