工藤 道隆

「唐沢 初音」

 蒸し暑い。やっぱり外なんか出るんじゃなかった。
 台風が過ぎ去ったかと思えば、嘘みたいな晴天。肌寒ささえ感じていた昨日が嘘のような暑さ。ただ歩いているだけなのに、汗がにじみ出てくる。
 長袖のシャツが汗で張り付く。風通しがいいものを選んだが、帽子を被っていればどうしても頭が蒸れる。中途半端なショートカットは汗で濡れ、もうべったりとなってしまっていた。この二つがさらに不快感を増幅させてくれてしまっている。
 私の肌は紫外線に弱い。こんな日はこういう格好でいなければ大変なことになる。痛くなる。痛いのは嫌だ。だから仕方なく服を着る。でもそれも嫌。
 ……ずっと梅雨だったら良かったのになぁ。お日様の顔なんて二度と見たくない。いや、濡れるのも雷も嫌いだから曇りがいい。曇りが一番。ずっと曇りだったらいいな。
「だるい……」
 目眩を覚えるほどの暑さと不快感。……そして退屈さ。何の考えも無しに歩いていた。涼しそうな場所を求めて歩いていた。すると見えてきたのは川だ。
 川……水……涼しい。なるほど、単純だ。暑さで頭がやられているとはいえ、なんて単純なんだろう。
 ……まぁいいんだけどさ。
 気怠いのはいつものことだ。暑さのせいだけじゃない。私の頭はいつもボーッとしている。なんというか……こう……。そう、麻痺かな?麻痺してる。何をしていても気怠い。何もしなくても気怠い。講義はほとんど寝てる。というかほとんど出ない。大学自体だるい……。
 ポロン……ポロン……。
 今まで車の走る音だけが耳についていたが、別の音があるのに気がづく。懐かしい音だった。高く響く音。頭にこびり付いて離れてくれない音。
 いや……違う。違うな。私のよく知る音とは違う音だ。もっと安っぽい。しかも何だかぎこちない。でも、充分高く響いていた。私の頭に響いていた。
 涼しい場所を求めていた私は、次はその音へ向かって歩き出す。相変わらず頭は麻痺してる。ボケーっとしてる。だけど歩けるんだから問題ないよ。いいじゃん。別に。
 しばらく歩くと目の前に川が広がった。土手を降りて川のすぐ側まできていた。柵がなかったらこのまま川に入っていたかもしれない。それはそれで冷たくて気持ちいいかもしれない。いや、この川はあんまりキレイじゃない。汚いのは嫌だな。柵があって助かった。
 ポロン……ポロン……。
 さっきよりも近くに聞こえたけどまだ遠い。対岸だった。あらら、まいったな。これ以上近づけない。対岸に行くには橋を渡らなきゃいけない。でも橋までは結構な距離がある。ここでいいや。別にすぐ側までいきたかったわけでもないし。
 ……川。ゴミとかが浮いてるけど、日差しを受けてキラキラと輝いてる。
 キレイに見えた。それに、側に水があるせいなのかは知らないけど、心なしか少し涼しくも感じる。
 対岸に見えるのは子供たち。ビニールシートを引いて、なにやらやっている。男の子一人。女の子二人。……おままごとだろうか?珍しい。今の時代にもいるんだね。おままごとなんてやる子供が。
 ポロン……ポロン……。
 ああ……なんだ。ぎこちないのも安っぽいのも仕方がない。子供用の玩具のピアノ。しかも小学生にあがったかあがらないかぐらいの女の子が弾いている。でもおままごとに使う玩具としては豪華だね。やっぱり現代っ子って感じかな。
 ピアノを聞くのはあんまり好きじゃなかったけど、こういうピアノの音ならいいかも。ただ弾いてるだけって感じがしてなんかいいや。
 飾り気がない。ただ音が鳴るのを楽しんでいるのかな?それとも、ピアノを弾くという行為自体が楽しいのかな?そんな感じがいい。
 目を瞑る。視覚が失われ、音の世界が広がる。するとピアノ以外の音が耳についた。シャッシャッという、軽快な音。それもなんだか悪くない音だと思った。だから私はその音がどこから鳴っているか気になった。視界を開き、音の方に目を向ける。
 こっちの方は結構すぐ側だった。というか、立っている私のすぐ隣りにいた男の子が、その音を奏でている。なんだか古ぼけたメガネをかけている、髪の毛がボサボサの男の子。高校生くらいかな?半袖のワイシャツにジーンズ。草むらに座り、小刻みに手を動かしている。
 絵だ。男の子は絵を描いていた。描いていたのは対岸にいる子供たちの遊ぶ姿だった。幾重にも線を重ね、目の前の光景をスケッチブック上に作り上げていた。
 優しく細い線。その一本一本はすごく脆いように見えるけど、しっかりと子供たちを描き上げていた。なんて繊細な絵なんだろう。
「…………」
 絵をジッと見ていると、男の子の手の動きが止まった。私の方に視線を向けている。
 ……何だろうか?私も視線を向けた。別にこれといって意味はないけど、なんかその視線に応えようと思った。
 それからしばらく見つめ合っていた。両方とも視線をそらさない。口を開くこともない。何だか妙な感じだったけど、別に嫌じゃなかった。だから何もしなかった。
「……えと、何か?」
 何分か経ってから、男の子が苦笑を浮かべて口を開いた。
 ……あ、そうか。この男の子。これを訴えてたのかな?でも言わなきゃそんなのわかんないよね。
 んー……。あ、これってばもしかして見るなって意味なのかな?
「見ちゃダメ?」
 だから聞いてみた。聞いてみただけなのに男の子はまた苦笑を浮かべた。
「いや、そういう訳じゃないですけど」
「ならいいじゃん」
「……そうですね」
 何が言いたかったんだろう、この子。
「続き描かないの?」
 手が止まってる。
「あ……描きますけど……」
 男の子は何度かこちらをチラチラと見てから、再び絵を描き始めた。それを確認してから私も座る。土と草の感触がなんだか懐かしかった。子供の頃、別にこんな場所で遊んでいた訳じゃないのに、懐かしくなるのはなんでだろうな。
 しばらくして、男の子の持つ鉛筆が水色の色鉛筆に変わった。これから色をつけていくのかな?よく見ると、五十色はある色鉛筆が男の子の隣りに置いてある。
「……絵。楽しい?」
 なんとなしに聞いていた。喋るのはあんまり好きじゃないんだけどね。
「……え?ええ、まぁ」
 また困ってる。私に話しかけられるのが嫌なのかな?
「絵を描いてる最中は集中したい?」
「……そういうわけじゃないですけど」
 はっきりしない子だなぁ。私もあんまり人のこと言えないけどさ。
「……絵描きさんになりたかったり?」
 ポロン……ポロン……ポロン。
 ……この言葉を口にしてから、今までもずっと鳴っていたピアノの音が、何だか急に不快に聞こえてきた。なんでだろう?
「いえ……」
 違うのか。楽しいこと、やりたくないのかな?私とは違うのかな?
「他にやりたいことがあるとか?」
「…………」
「……夢とか」
 夢……。
 ポロン……ポロン……。
「あり……ましたよ」
「ありましたよ?」
 過去形のその言葉。それはもう終わってしまったってこと?なりたいと思ってたけど、なれなくなったってこと?
「……私もあったよー」
 モヤモヤしたものが胸一杯に広がってきた。すると昔話がしたくなってくる。モヤモヤを自分の中に留めて置きたくなかった。少しでも外に出してすっきりしたくなった。
 ポロン……ポロン……。
 ピアノの音はまだ鳴り続けている。
 この音をずっと聴いていたかった。奏でていたかった。
「ピアニスト」
「……ピアニストですか」
 男の子はこちらに視線を向けず、絵を描き続けている。そっちの方が良かった。こっちをしっかり見て、熱心に聞いてもらいたくなんてない。
「うん。幼稚園、小学校。ほとんどピアノばっかり。でも楽しかったんだよねー。もう他のことが見えなくなってたよ。絶対ピアニストになるんだって思ってた」
「……夢だったんですね」
 男の子は過去形を使った。その先の話を見越しているかのように。でも、話から色々と推測して、意図的に過去形を使ったとかそんな感じはしない。多分この子は直感でわかったんだ。
「うん。夢だったよ。それしかないと思ってた。でもね……中学校二年生の時。病気になっちゃって。指、あんまり動かなくなっちゃった」
 手を開いたり閉じたりしてみる。未だに違和感があった。この指で、この手で細かい作業をするのは難しい。ピアノなんて……とんでもない。
「完全には治らないんだって。リハビリしてもこれが限界だって。だからピアニストになれないんだって」
 それから、私はこんな人間になったんだろうね。すべてにやる気が出なくて、すべてが面倒で。ピアノがすべてだったから、それが無くなっちゃったからずぅっとボーっとしてる。抜け殻。そんな感じ。
 ……でも、高校も行ったし、大学もストレートで入った。ただ、やりがいがなかっただけで、やらなかったわけじゃないから。
 色々やってみたよ。でもピアノ以上のものは見つからなかった。だからすべてのことに意味なんてないように思えてきたんだ。
 男の子をチラリと見た。表情を変えず、何も言わず、ただ絵を描いている。
 でもそれでよかった。無責任な同情の言葉はいらなかった。理解してくれなくてもよかった。どうせ、完全にわかりやしないんだから。だからただ聞いてくれるだけでいい。
「僕の……」
 それから随分してから男の子が口を開いた。筆を動かす手は止まっている。ただ目を細めて、被写体を見ていた。
 おままごと。多分男の子がお父さん。一人の女の子がお母さん。そして、ピアノを弾いているのが子供なんだろう。
「僕の夢も叶えられないみたいです」
 男の子はそう言ってから、明るい色の色鉛筆に持ち替えた。
「そっか」
 絵が明るい色に染まっていく。明るく、楽しげなその光景。綺麗な絵だった。
 ……この子も夢を叶えられないのか。一番の楽しみを失った……。人生に意味を感じられない、何をやっても楽しいと思えない。そうなの……かな?
「じゃ、つまんないよねー」
 私は漠然と言った。主語をつけるとしたら『人生』になる。ピアノを失った私はそう思っている。他のモノで埋めることなんてできない。だからもうつまんない。
「……でも、絵を描くのも結構楽しいです」
 パタンとスケッチブックを閉めると、男の子は少しだけ笑顔を浮かべた。
「絵描きを目指すのも悪くないかも」
 ……結構、楽しいか……。……悪くないか……。
「……私も描いてみようかなぁ。結構楽しいかもしれないし」
 そうだね。一番楽しいモノはもうなくても、結構楽しいモノはあるかも。
「おーい初音〜!」
 土手の上から私を呼ぶ声がする。青木だ。
 青木は息を切らして、ヘロヘロになりながらも私に駆け寄ってくる。
「……まったく……デートの最中にフッといなくなるの、いい加減にやめてくれよなぁ」
 あ、そうだった。青木が店頭の商品をジッと見ながらブツブツ言い始めたから、退屈になってフラフラとその場を離れたんだった。
「ん。ごめん。気をつける」
 私が謝ると青木は大きなため息を一つ。感じ悪いなぁ。謝ってるのに。
「あれ?その子は?」
 青木は絵を描いていた男の子の存在に気づき、聞いてくる。
「え、えと」
 男の子はいきなり話し掛けられて困っているようだ。この子は年下だし私が助けなくちゃね。
「んー。類友……ってヤツかな?」
 類は友を呼ぶ。まさにそんな感じでこの子に出会ったような気がする。うん。そんな感じだ。
「はぁ?」
 だけど青木はわからないらしい。まぁ、わからないんならわからないでいいんだけど。
「まー、いーじゃん。ホラ、行こ」
 青木はまだ釈然としていないようだが、私は彼の腕を引っ張って歩き出す。
「じゃね」
「え、ええ。さようなら」
 振り向いて別れの挨拶を言う私。それをぎこちなく返す男の子。
 なんだかちょっと名残惜しかったけど、きっとそんな感じがいいんだ。ちょっと名残惜しいくらいのほうが、思い出に残るよね。……きっと、結構楽しい思い出になると思う。
   

「まーったく。おまえは」
 駅に着いた頃には日が暮れていた。青木はまださっきのことをブツブツ言っている。
「んー……。ねぇ青木ぃ」
「ん?」
 駅のホームで電車待ち。電車はしばらく来ない。
「私、絵でも描こうかな」
「どうしたんだよ急に」
 ホント、どうしたんだろ。
「いいんじゃないか?おもしろかもしれないしな」
 そうなんだ。おもしろいかもしれない。結構おもしろいかもしれないし、結構楽しいかもしれない。一番おもしろくて、一番楽しくはないかもしれないけど。でも、悪くないんじゃないかな。
「ねー」
「ん?なんだよ」
「私あんたのこと結構好きだよ」
「なんっ……」
 真っ赤になる青木。
「なんだよっ、いきなり。しかも結構好きなんて中途半端な言い方しやがって……」
「だってそうなんだもん」
 そうだね。結構楽しいこともあるかもしれない。結構おもしろいこともあるかもしれない。……もしかしたら、新しい一番が見つかるかもしれない。ピアノよりも楽しいこと、おもしろいこと、好きなこと。
 きっとまだ知らないことがたくさんあるんだから。
「……オレは……。おまえのこと……一番好きだからな」
 真っ赤になって、ちっちゃな声で言う青木。
「…………」
 麻痺していた頭がゆっくりと動き出したような気がする。多分、私の頭を麻痺させていたのは、ピアノが一番楽しいものだという固定概念。それが他のモノを拒絶していた。一番は絶対一番なんだって……、そんな風に思いこんでいたからだ。
 でも、すぐに頭を切り替えることなんてできないだろう。一度麻痺してしまった頭は、そう簡単に治ってくれない。でもちょっとずつ……ちょっとずつなら。
 だって、いま嬉しいもの。青木の言葉が気恥ずかしくて、そして嬉しい。
 そうだね。コイツのことを一番好きな存在だと思える日も来るかも知れない。
 暑い日、日差しの強い日は嫌い。青木に無理やり外に連れ出されたんだけど……、今日は外に出て良かった。
「……ありがと。青木」
 だから青木に感謝。そしてもう一人、類友君にも感謝。
 ありがと。類友君。今日は結構楽しかったよ。

戻る