今月の法話(平成29年7月分)
 
 
 含蓄のある言葉 …
 
  インターネットを見ていたらふと、こんな記事を見つけた。50歳の男性が掲載したものだった。

  「仕事に行く道すがら車の中から必ず目を向ける一枚の掲示板がある。
 ある寺の掲示板であるが,法話等の案内とともに模造紙大の大きさで筆でかかれた言葉が常に含蓄を含み考えさせられる言葉ばかりなのだ。
 先月は,「人生やり直しはできないが,見なおしはできる」だった。
 今月は,次のように書かれていた。
 「頭をさげる 頭がさがる このちがいは大きい」
 確かに頭をさげるというのは自らの意識に基づいて行う行為であるし,頭がさがるというのは意識はしなくても人間としての本能, 根源的な感性に基づく自然の中での無意識の行動と言えるのかもしれない。
 他人の行いを見ていて感動したとき,あるいはしてもらったことに対して感謝の念をもつとき人は自然に自らの頭を自然と下げていく。
 今日の社会にあってこうした自ら頭をさげたくなる場面は少なくなっているのだろうが,その無意識の行動を支えている「感謝」 という気持ちはいつの時代にあっても忘れてはいけないことである。
 やって当たり前,してもらって当然という価値の中からは感謝の気持ちは生まれてこないし,社会貢献の考え方も生まれる余地はない。
 今の時代,親から子へ子から孫にこうした感謝であるとかいつの時代にあっても変わらない人としての生き方を含蓄のある言葉とともに 語っていくというのは必要なことではないだろうか。

 今月の我が寺の掲示板には、「人はひとりで生きられない。身のまわりの全ての縁によって生かされている。」と書いてある。
 何人かの人の目に止まっているのかもしれません。  
 
合  掌
                実相寺住職 松永直樹
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