幸せの定義(新キャラ(笑)&ユウリ) P10
 
「ダメェ─ッッ!フォーダム!嫌だ、行かないで!行かないでぇ───ッ」
 通常ならば、行くってドコに?と問いたくなるようなその叫びは、とても澄んだアルトの音。
発生源は、ついさっきまでマクケヒトの隣でじっと座っていた少年、ピーター・サリヴァンだった。
 その大声に、舞台上でユウリと共に、たゆとう音に全神経を傾けていたピアノ奏者のケストナーが手を止め、何事かと、声の元へと視線を投げる。
 流れる調べからピアノが消えて、演奏は美しく響くヴァイオリンの独奏へと変わっていく。

「イヤだ、イヤだ、イヤだ───ッ!」
 少年は狂ったように叫びながら、いきなり舞台を目指して駆けだした。
その後を、マクケヒトが慌てて追いかけ、何とか途中で小さな体の捕獲に成功する。

 大声で泣き叫ぶ少年に気を取られたのは、もちろんケストナーだけではない。
ユウリだけを見つめていた会場内の視線は、今、全てが、件の少年を驚きの眼差しで凝視していた。
 次第に、状況を把握した者達から、非難の声が次々と上がる。
だが、少年はそんな周囲に臆することなく、ただ、舞台に立つユウリだけを涙に濡れた瞳で食い入るように見つめて、校医に捕らわれながらも狂ったように叫び続けていた。

 先日までの騒動により、少年の心理状態が不安定で、要注意観察中なのは全員の知るところなので、罵声でもってその暴挙を罵る者は流石にいない。
だからと言って、妙なる音色に導かれて夢の世界に陶酔していたのを、大声に邪魔されて面白く思うはずもなく、大方が、何故あんな奴をココに連れてきたんだと言いたげな不機嫌そうな顔で、少年と校医の姿に視線を向けていた。

 そんな中、サリヴァンが、一体何を危惧して必死になっているか、大体のところを悟っているマクケヒトとシモンは、少年の暴挙にいっそ賞賛の声をおくりたいと思いつつ、祈るように舞台上に視線を投げる。

 サリヴァンが叫んだ瞬間、ユウリはゆっくりと瞼をあけて、神秘的な輝きを秘めた漆黒の瞳を露わにしていた。
それと同時に、ユウリの周囲を彷徨っていた光も、その身を連れ去るかのように囲っていた風も、すっかり消えてしまっている。

”よかった…”
 その様子を見て、ホッと安堵したシモンは、ユウリが演奏をしたまま歩きにくそうにしながらも、ゆっくりと舞台の端へと向かうのを目にして、その姿を視線で追った。

 舞台端に置かれていた階段を、ヴァイオリンに弓を滑らせながら危なげな仕草で降りたユウリは、そのまま、ゆっくりと泣き叫ぶ少年の元に歩を進める。
 歩いているせいで、時々リズムが乱れてしまうものの、ヴァイオリンの音は絶えることなく続き、やがて、終幕の時を迎えることとなった。

 少年の前でピタリと立ち止まり、美しい余韻を残して最後の一音を響かせたユウリは、音が空気の中に融けて消えてしまうのを待ってから、手にしていた名器をそっと肩から降ろすと、少年へと視線を向けた。
 すると、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしていたサリヴァンがユウリを見上げて、更に声にならない嗚咽を上げはじめる。

 続いてユウリが少年の肩を掴んでいるマクケヒトに視線を向けると、彼は心得た…とばかりに頷きを返した。
そして、阿吽の呼吸で、ユウリとマクケヒトは、互いが手にしていたものを、相手に預けたのである。

 校医の束縛から解き放たれた少年は、涙に顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも目の前に立つ上級生を見上げた。
恐る恐る、まるでユウリがそこにいないかもしれないことを恐れるように・・・。

 だが、もちろん、そのようなことがあるはずもなく・・・。
確かに目の前にユウリが居ることを認識した少年は、細い腕を必死に伸ばして、体当たりするような勢いでユウリに抱きついた。
 この時のサリヴァンは、校医によるカウンセリングが必要なほど病んでいると誰もが知っていたので、目くじら立てて怒る者はいなかったが、それでも、ユウリを慕う下級生達の嫉妬を後々まで買う羽目になるだろう。
 だが、今のサリヴァンには、そんな些末事を気にする余裕など、どこにもなかったのである。

 わんわん…と、子供のように泣きながら必死で抱きついてくる少年にユウリは驚いたものの、その体を引き離すような真似はしない。
 片手でくずおれそうな少年の体を支え、また、もう片方の手で胸元にある頭の後ろを、ポンポンと軽く叩いてやる。
 静まりかえった会場の中、先ほどの現実を忘れさせる妙なる調べに変わって、今度は現実をリアルに実感させる少年の嗚咽だけがしばらの間、響いていた。

 やがて、少年が少しずつ落ち着きを取り戻したところで、ユウリはそっと体を離し、片膝をついてサリヴァンの顔を覗き込んだ。

「どうしたんだい?サリヴァン・・・ほら。まずは顔を拭こうか?」
 ポケットから出したハンカチで軽く汚れた顔をぬぐってやり、ユウリは少年の片手にそのハンカチを握らせてやる。


「ごめ…なさ……っく…ひぅ…ジャマ…ってしま…っふ…」
 しゃくりあげながらも、己の行いを一所懸命に詫びる少年に、ユウリはコクンと頷いてから微笑んだ。
すると、誰もが癒し系だと評するユウリ特有の柔らかな空間が、そこにできあがる。
「うん、大丈夫。…だから、もうそんなに泣かなくていいんだよ?」
 乱れている前髪を梳きながら、ユウリの漆黒の瞳が、涙のせいでやや赤くなってしまった褐色の瞳を捕らえる。
次第に落ち着いた少年は、ようやく抱きついていた手を離し、それでも縋るようにユウリの服の裾を握ったまま、こくりと頷いた。

 

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