| 正式団体名 | 宗教法人 天理教 | 立教 | 1838(天保9)年 | ||||||||||
| 開祖・教祖 | 中山みき(おやさま) | 現指導者 | 4代目真柱 中山善司 | ||||||||||
| 聖典・教典 | おふでさき、みかぐらうた、おさしづ (以上3原典)、天理教教典、ほか | 本拠地(聖地) | 奈良県天理市 | ||||||||||
| 崇拝対象 | 親神天理王命(おやがみてんりおうのみこと) | 信徒数概算 | 190万人 | ||||||||||
| 派生教団 | ほんみち | ほんぶしん | 関連団体 | 天理よろず相談所病院 | 天理大学 | ||||||||
| 神一条 | おうかんみち | 天理教校学園高等学校 | 天理図書館 | ||||||||||
| 関連サイト | 天理教青年会 | 天理医学技術学校 | 天理教一れつ会 | ||||||||||
| 天理看護学院 | 天理参考館 | ||||||||||||
| 天理教道友社 | 養徳社 | ||||||||||||
| 教団の特色 | |||||||||||||
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| 天理教は、幕末にさしかかる時期の立教です。発祥地(大和国山辺郡庄屋敷村)である開祖の屋敷周辺は農耕地が広がる小さな寒村でしたが、教団の拡大と共に数々の施設が建てられ、信者も多数住みつくようになりました。そうしてただの寒村はやがて天理教信者だらけの大きな街になりました。そして、戦後になってその地はついに教団の名前を都市名として掲げることになりました。現在の奈良県天理市です。開祖は、立教の地を人類発祥の地として示し、そこに本殿を建て中心に「甘露台(かんろだい)」なる人類発祥の記念碑(宗教的意味合いをもつので記念碑とも違うが、該当する一般名詞がない)を据えました。甘露台のある場所を「ぢば(地場)」といいます。信者がここに巡礼にくるということは、人類の発祥地へ帰ってきたということで、「おかえりなさい」と歓迎されます。天理市にはいるとやたらめったら「おかえりなさい」の看板が目に付くのは、こういった理由なのであります。 立教後しばらくは中山家は貧困の生活を余儀なくされたようですが、明治期には近畿一円に知られる有名な宗教になっていました。名を馳せると共に妨害も多くなり、異端の神を崇拝する危険集団として官憲の迫害を受け、みき自身も警察に連行されたりといったことが何度もあったと伝えられています。それでも信者は増加の一途をたどり、みきが亡くなった頃(明治後期)にはすでに「天理教信徒三百万余」と表現されるまでに大発展し、ついには一派独立を果たします。一派独立とは、現在の法律でいうと宗教法人の認可が下りるのと同義で、国からまっとうな宗教として認められたことを表わします。当時、一派独立を果たすのは現在の宗教法人認可よりずっと条件が厳しかったといいます。 また天理教では、既成宗教がやってこなかった海外布教にも力を入れました。これまで日本は仏教やキリスト教など海外宗教の「輸入」はありましたが、逆に宗教を「輸出」したことはありませんでした。天理教は日本から海外に出たおそらく初めての宗教と思われます。熱心な宣教師が大正年間から太平洋戦争前にかけて、当時日本の統治下にあった台湾や朝鮮・満州で布教活動を行い、教勢を拡大していきました。しかし、太平洋戦時下には他の新興宗派同様に再び迫害を受けるが耐えることなく持ちこたえ、戦後になって宗教法人設立や天理市の誕生などを経て現在に至ります。今でも海外に多くの信者をもち、現在の信者総数は300万人とも400万人ともいわれています。神道系(日本古来の神道とは全く違うが)の独立宗派では最大規模といえるでしょう。 天理市内にある天理教の施設はすばらしく立派で数も多く、宗教施設ばかりでなく、図書館や病院、学校まであります。天理高校はPL学園(Perfect Liberty 教団の運営する高等学校)と同じく高校野球によく出場するのでご存知の方も多いでしょう。天理大学は本殿と道路を挟んだ向かい側に現在新校舎を建設中です。新校舎はかなり金のかかった豪華な寺院風な建物です。 |
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| 教団の発祥 | |||||||||||||
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裕福な農民であった中山善兵衛の妻・中山みき(1798〜1887)は、もともと浄土宗の信者であった。信仰心厚く、立教前にもさまざまな宗教的エピソードが残されており、立教に関するエピソードも他の宗派同様、神の啓示があったところから始まっている。
みきが41歳の時、家族全員が原因不明の病に伏せってしまい、困った親戚一同は相談の結果、祈祷師を呼んで御払いをしてもらうことになった。御払いは、霊(神)を呼ぶ祈祷師が霊媒となる人に霊(神)を降ろしてその神に悪因を訪ね、因縁を解決するという手法がとられる。が、霊媒になる女性がどうしても都合がつかず来られなくなったので、祈祷師はみきに霊媒の代役を頼み、みきはそれを受けた。そうして祈祷がはじまってしばらくすると、みきは突如として神懸り状態(霊がみきの体に降りた)になった。祈祷師が「あなたは誰か」と聞くと、みきに降りた霊は「われは元の神、親の神だ」と答えた。聞いたこともない神様だった。またこの神は「みきを神の社(やしろ)としてもらいうけたい。そうすれば三千世界をすくいたもう。断れば中山家をことごとく滅ぼすぞ」といった主旨のことをのたまった。親戚一同は困惑したが、みきに宿った神があまりの勢いで迫ったため、しかたなくみきを神の社として差し出すことを了承した。 みきが説いた教えの要約は、非常に簡単にまとめると以下のようになる。「人類の目指すべき道とは、万物の創造主・救世主である親神様≠ェ人類をつくった筋道を守ることである。その筋道とは、すべての人間が親神様の存在を信じ、正しい心を持ってお互い助け合い、皆が明るく生きるよう努めることである。そうしてすべての人間が喜びに満ちた生活を送ることが人類創生の目的であり、また親神様の喜びでもある。そして親神様の喜びは人類から一切の苦しみを解放し永遠の幸福“陽気暮らし”をもたらす。」 これは、見方によってはユダヤ教の思想とかなり似通っている。旧約聖書によれば、神はすべての生物の統治者として人を作り、それをみて「よし」とされた。神は喜びのために自分の形をかたどって人を作られたのである。が、人類の始祖は悪魔にそそのかされ、神の意に反し禁断の果実を口にしたために楽園を追い出され、それ以来産みの苦しみ、死の苦しみを味わうことになった(創世記)。人類の目標は神がつくりたもうた本来の姿に戻ることであり、神は近い将来、悪の心をもつ人間を永遠に抹消するために火の洗礼による最後の審判を下すのである。火の洗礼で生き残った善なる心の持ち主はこの世に永遠の楽園(千年王国)を築くとされている。 なお、みきはこの教えを唱えるだけではなく、みずからが陽気暮らし実現への「ひながた」(お手本)となるべく、極めて献身的で人格者としての生活を送った。そのいい伝えとして、比較的裕福な身分であったみきは、立教してまもなく自らの財産をすべて貧しい人々に分け与え、なおかつ最初はその教えは誰からも理解されず自身とその家族は極貧の生活を送ったといわれる。近所の人々から狂信者扱いされ食うに困ってもなお天の理を説いて周り、実際に信者がつきはじめたのは立教後15年ほどしてからだといわれる。 このような言い伝えの話だけで判断すると、中山みきという人物は「神懸り」という現象からして単に気が狂った人にしか思えないのであるが、しかし単なる異常者ではこれだけの信奉者を集めるには至らなかったであろう。あるいは、あまりに精神異常はなはだしく思いこみが激しすぎたので、それゆえにその重度の異常性に「神」の姿を重ね合わせ、錯覚した人々が集まって教団を形成したと考えることもできそうではある。近年ではこういった現象はまず起こらないので実際どうだったのか想像しがたい。 それにしても、この教団の教えは、きわめてシンプルでわかりやすく、また典型的な現世利益追求型である。民衆にもわかる単純な論理をわかりやすい言葉で説き、かつ現世利益を前面に押し出したところが教団発展に大きく寄与したと思う。また、「ぢば」や「おふでさき」に「陽気暮らし」など数々の用語やしきたりはオリジナリティに富み、単なる精神異常者のたわ言として片付けることもできないほどよくできた教えであるといえよう。もし旧約聖書に何らかの影響を受けたのだとすれば(そんな学説はどこにもないが)いずれにしても幕末期に聖書に詳しい人物は稀であったろうから、もしかしたら中山みきという人物は頭脳明晰なインテリであったのかもしれない。 なお、「おふでさき」に関しては中山みきが元祖である。天理教に遅れること約55年後に立教された「大本(おおもと)」の開祖・出口なおも、みき同様「お筆先」による神託をその教義の原典とした。 |
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| 参考リンク | |||||||||||||
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