| 正式団体名 | 宗教法人 霊友会教団 | 立教 | 1924(大正14)年 | ||||||||||||
| 開祖・教祖 | 創立者 初代会長 |
久保角太郎(くぼ・かくたろう) 小谷喜美(こたに・きみ) |
現指導者 | 第4代会長 大形市太郎 | |||||||||||
| 聖典・教典 | 南無妙法蓮華経、朝夕のおつとめ(青経巻) 南無弥勒菩薩経、妙法蓮華経陀羅尼経、訳訓妙法蓮華経並開結(法華三部経) |
本拠地(聖地) | 東京都港区 | ||||||||||||
| 崇拝対象 | 十界互具の曼羅(諸仏諸天善神) | 信徒数概算 | 180万人 | ||||||||||||
| 分裂教団 | いんなぁとりっぷの霊友会(久保派) | 関連サイト | 霊友会インターネットビデオセンター | ||||||||||||
| いんなぁとりっぷの霊友会(松本派) | 霊友会青年部 | ||||||||||||||
| 派生教団 | 孝道教団(岡野正道) | 妙智会教団(宮本ミツ) | 霊照会(高橋覚太郎) | 博愛同志会(長沢銀次郎) | |||||||||||
| 立正佼成会(庭野日敬、長沼妙佼) | 佛所護念会教団(関口嘉一) | 正義会(山口義一) | 徳会会(菅原延台) | ||||||||||||
| 妙道会教団(佐原忠次郎、俊江) | 法師会教団(斎藤千代) | 大慧会(石原保助) | ほか多数 | ||||||||||||
| 教団の特色 | |||||||||||||||
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港区の飯倉交差点(東京タワー近く)の奥まったところにあるお寺のようなでかい建築物を見たことがある方はいらっしゃるでしょうか?あれは霊友会の釈迦殿(本部所在地)です。まわりは大使館などがおおい地域なので、一種異様です。 私が中学生だったころ(1980年代)、「いんなぁとりっぷの霊友会」としてTBSラジオでの「ラジオ劇場」のスポンサーになっていたので、わたしと同年代の人たちはご存知の方もいらっしゃると思います。受験勉強の傍ら、ラジオ劇場のCMで「いんなぁとりっぷの霊友会」という言葉を刷り込みのごとく聴かされていたため、新興宗教といえばまっさきに思い出すのが霊友会です。「いんなぁとりっぷ」とは読んでそのまま、心の内面を見つめることだそうです。 霊友会は戦前から戦後にかけて、数々の派生教団を生みました。立正佼成会、孝道教団、仏所護念会や妙智会、その他20教団近くが分裂しているそうです。幹部が次々と脱会し新教団を設立することで教勢は一時期かなり落ち込んだようですが、なんとかもちこたえ現在に至っています。文化庁による信徒数の統計では霊友会は創価学会についで第2位、あるいは第3位(2位は立正佼成会)ということですが、いずれにしても上位3教団はすべて法華宗系の教団で占められているわけです。 1993年に2代会長・久保継成氏(創立者・久保角太郎の次男)は女性問題スキャンダルにより会長を辞任、しかしその後会長辞任を無効とする訴えを起こします。結局訴えは退かれ、これが契機となり久保元会長とその一派は分裂して霊友会久保派「いんなぁとりっぷの霊友会」を設立しました。2003年には「いんなぁとりっぷの霊友会」代表役員松本廣氏がその活動方針について久保一族の批判にあい追放、松本氏は分裂して霊友会松本派を設立しました(教団名は久保派と同じ「いんなぁとりっぷの霊友会」)。つまり、現在3つの霊友会が存在することになります。このページで紹介するのは「宗教法人霊友会教団」(霊友会大形派)ですが、分裂してできた「いんなぁとりっぷの霊友会」(松本派)、「いんなぁとりっぷの霊友会」(久保派)も基本的な教義・しきたりは同じですので同一視しています。 それにしても分裂が絶えない教団です。もしひとつも分裂していなかったら創価学会以上の大教団になっていたでしょう。残念! |
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| 教団の発祥 | |||||||||||||||
| 開祖の一人である久保角太郎(旧姓・松鷹)は、1892(明治25)年、日蓮生誕の地である千葉県小湊に農家の三男として生まれた。小学校卒業後、姉を頼って上京し大工として働くかたわら、建築関係の夜学に通い勉学にいそしんだ。大工として宮内庁に出入りするうち、まじめな仕事ぶりが宗秩寮総裁仙石子爵の目に止まる。仙石家の旧家臣であった久保家の養子に迎えられ、宮内庁営繕課に就職。久保姓を名乗ることとなった。
久保角太郎が宗教に興味を持つきっかけは、義母に憑き物が取り付いたため、知り合いの行者若月チセに憑き物おろしを依頼したことに端を発する。依頼を受けた若月は、義母の狂態を即座に鎮めたため、久保はその霊能力に感服し 1918(大正8)年に若月を中心に「霊の友会」を発足した。しかしながら同会は発展を見ることなく事実上休止状態となった。1922(大正12)年には関東大震災がおこり、東京は焦土と化し、このような状況下で久保は会の再興を切望する。のちに設立される霊友会は法華宗の一派であるが、久保が法華宗および先祖供養に傾倒したのは西田無学なる人物の影響である。霊友会の教義が霊能と法華宗と先祖供養の混合なのはここに由来する。 もう一人の開祖である小谷喜美は、1901(明治34)年、神奈川県三浦郡に生まれた。生家は半農半漁で貧しく、長女であった喜美は幼い頃から家の手伝いをし苦労して育った。さらには小学校を中退し、おばの家に住み込みの奉公に出された。17歳で近くの村の漁師に嫁いだが一年足らずで死別、東京に職を求めて働きに出た。 小谷は、それまで営んでいた下宿屋を売り払い、貧乏長屋に住んで久保の指導の下、本格的な修行に打ち込むことになった。血のにじむような荒行を積む傍ら、お題目(南無妙法蓮華経)を書いた幟(のぼり)をもって辻説法を行い、積極的な勧誘活動も行った。生活は貧しく、夫・安吉は苦労がたたって45歳でこの世を去る。 1930(昭和5)年、教団は基本経典を作成する。信徒の日常読経用に作成したもので「青経巻(あおきょうかん)」と呼ばれ、法華経の抜粋のほか前後に諸仏諸菩薩の名と祈願文が記されている。1934(昭和9)年、さらなる教団の発展をめざし機関紙「大日本霊友界」を発刊、翌1935(昭和10)年には7000人近い信者を擁するに至った。さらに1937(昭和12)年には港区麻布飯倉に本部講堂を建立し教団は飛躍的発展を遂げたが、この頃より小谷の指導法に反感を持った幹部や信徒たちが霊友会を離れ独自の教団を設立する例が多く現れる。 幹部・岡野正道は1935(昭和10)年に「孝道教団」を横浜にて設立、翌1936(昭和11)年には幹部・高橋覚太郎による「霊照会」、1938(昭和13)年には庭野日敬・長沼妙佼による「大日本立正佼成会」(現・立正佼成会)が設立、次々と霊友会から分裂した。 戦時中は、当局による弾圧を避けるため子爵仙石の娘・村雲尼公(むらくもにこう)を総裁に迎え、教団行事として毎月1日に明治神宮への参拝を行った。つまり、ときの政府の方針に迎合したのである。もともと右翼思想であった生長の家はともかくとして、ここまであからさまに政府に迎合した教団はそう多くない。ちなみに立正佼成会は政府に迎合しなかったため弾圧を受けている。 開祖の一人である久保角太郎は終戦前の1944(昭和19)年に逝去、小谷は久保の子息・久保継成を引き取り、教団後継者として育成した。翌1945(昭和20)年、終戦とともに勧誘活動を再開、1948(昭和23)年には30万世帯を数えるまでに急成長した。 その後、社会福祉事業に力をいれ組織の復興を試みるが、1953(昭和28)年には追い討ちをかけるように「赤い羽根募金横領事件」が起こる。集まった募金1000万円のうち110万円をピンはねしたとの容疑で、信者の自供により小谷も共犯として逮捕された。世間の批判を浴び大ピンチにたつ霊友会であるが、社会福祉事業への更なる肩入れにより難局を乗り切った。昭和33年には久保角太郎記念講堂を完成させ、福祉法人社会事業会館に寄贈している。 1971(昭和46)年、小谷喜美は70歳で逝去、教団は久保角太郎の次男・久保継成が受け継ぐことになった。久保継成氏は「いんなぁとりっぷ」キャンペーンにより教団のイメージを一新、古臭さを一掃し若年層の信徒獲得に力を入れた。1975(昭和50)年には小谷喜美の遺訓であった念願の釈迦堂を完成させる。継成氏は1993(平成5)年に側近が女性問題を暴露したために第2代会長を辞任、その後一部幹部と対立し新たな教団「いんなぁとりっぷの霊友会」を設立する。現在の霊友会は大形市太郎氏が会長。 |
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| 参考リンク | |||||||||||||||
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