正式団体名 宗教法人 大本 (おおもと) 立教 1892(明治25)年
開祖・教祖 開祖・出口なお(でぐち・なお)
聖師・出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう)
現指導者 第5代教主 出口紅(でぐち・くれない)
聖典・教典 大本神諭、霊界物語 本拠地(聖地) 京都府綾部市、同亀岡市
崇拝対象 艮の金神(うしとらのこんじん)=国祖・国常立尊(くにとこたちのみこと) 信徒数概算 17万人
派生教団 大本信徒連合会 愛善苑 関連リンク 八幡書店 みいづ舎
関連団体 (社)愛善みずほ会 天声社
教団の特色

幕末期から明治にかけて、近畿圏では立て続けに三つの新しい神様が現れました。奈良の天理教、岡山の金光教ときて、最後に現れたのが京都の大本です。大本の本拠地は2箇所あり、1つは京都府綾部の梅松苑(大本立教の地)もうひとつは同亀岡市にある天恩卿(旧亀岡城址。明智光秀居城跡を出口王仁三郎が買い取ったもの)です。

大本の知名度はそれほど高くありませんが、日本の新興宗教を語る上で大本の存在は非常に重要です。なぜならば、現在ある新興宗教のほとんどは大本の流れを汲むか、大本の教義の影響を少なからず受けているからです。
たとえば、「生長の家」を興した谷口雅春はかつて大本の機関紙の編集主幹をしていましたし、「世界救世教」を興した岡田茂吉もかつては大本の信者でした。「ワールドメイト」の教祖・深見東州もかつては大本の信者だったという話があり、実際ワールドメイトの教義は大本のそれと類似著しいです。

なお「生長の家」は「白光真宏会」「法の華三法行」などに影響を及ぼし、「世界救世教」は岡田茂吉死去後に分裂し「救世神教」「黎明教会」「神慈秀明会」、あるいは傍流である「世界真光文明教団」「崇教真光」はじめいくつもの教団を生んでいます。これら数多くの教団も元をたどれば文字通り“大本”にたどり着くのです。さらに、これらの教団においてはすべからく大本の教義が色濃く反映されているのは注目に値します。

大本の発展・衰退を語る上で出口王仁三郎の存在を抜きにはできません。大本を京都のローカル教団から全国区にのし上げたのも、弾圧を受け壊滅状態になったのも、王仁三郎の功罪によるところが大きいといえるでしょう。

大本では開祖・出口なおのお筆先(自動書記)によって神の啓示を賜るのですが、そのお筆先の中で神様は「三千世界の立て替え、立て直し」による最後の審判の時がくると預言し、最高指導者であった王仁三郎は、この預言にもとづく政治的活動(昭和神聖会運動)を盛んに行ないました。その結果、大正から戦前にかけて、大本は先行していた天理、金光をも凌ぐ一大教団となり、信徒総数数百万を誇ったといいます。

しかし、教団の趨勢やその思想が災いし、時の政府は第一次大本事件(大正10年)、第二次大本事件(昭和10年)と二度にわたる徹底的な弾圧を行ないました。殊に第二次大本事件においては教団本部はもとより各地の教会はことごとく破壊され、多数の信者が逮捕・取調べをうけ、王仁三郎以下幹部数名は不敬罪および治安維持法違反により投獄され、戦後になるまで囚われの身となりました。

大本の思想と行動は、国家神道を思想統制の柱とする当時の政策の上で、もっとも危険な存在でした。大本の教義では、すべての宗教におけるあらゆる神は呼び名は違っても本来同一のものであるとする万宗同根(万教帰一)の考えが根底にあります。
そのおおもと≠フ神(=宇宙創造神・国常立尊、「艮の金神」の正体)の教えを説く大本≠アそが、すべての宗教を超えた真の神道であり、すなわち宇宙の中心は大本であり日本であるとして、国家神道のいうところの皇国史観とはまた別の独自の皇国史観をもっていました。ひいてはただの人間である天皇を現人神として奉っている国家神道は間違っていると王仁三郎は語っています。

また、王仁三郎はかねてから日本の敗戦を予想していたといいます。これは大本オリジナルの思想「型の大本」によるもです。「型の大本」とは、大本は世界の縮図であり未来の姿であるから、大本の中で起こったことはやがて日本で、世界で起こるという、教祖・出口なおの「お筆先」による大本独自の法則です。
具体的にこの法則が当てはまる事項として、先に述べた第一次大本事件、第二次大本事件があります。大本の施設はことごとく破壊され、綾部・亀岡の聖地は荒野のごとくに変貌したわけですが、それから10年たって敗戦を迎え、そのとき日本の国土も大本の聖地とおなじく焦土と化した、という事実があります。ほかにも大本では大本自身の歴史と日本の歴史に符合点がたくさんあると主張していますが・・・すなわち大本こそが世界、ひいては宇宙の中心ですべての源になっているという「おをもと」思想、これが教団名“大本”の由来です。

終戦直後、思想統制が解かれたことによって釈放となった王仁三郎は、戦争終結により新しい時代が到来するといち早く察知し(吉岡発言)、教団もこれからの新時代にふさわしくあるべきとして「愛善苑」と名前を変えて復興に尽力します。しかしからくも昭和23年に昇天してしまいます。
王仁三郎の死後、宗教法人として認可されたときに教団名は「大本」に復帰しますが、その後勃発した出口一族の内紛により教団は分裂してしまいます(これを教団内では第三次大本事件という)。王仁三郎亡き後の現在の大本にはかつての勢いはまったくありません。

大本自体は衰退したものの、出口王仁三郎の存在は大本という一宗派を越え、死後60年近く経過した現在においてなお多くの宗教に影響を与えています。
GLAの高橋信次、オウム真理教の麻原彰晃、幸福の科学の大川隆法といった教祖たちも、その思想や教団運営の手法については出口王仁三郎の影響を少なからず受けているといわれています。大川隆法などは「出口王仁三郎の霊言」という本まで出版しています(本の内容は、大川氏が王仁三郎の名を借りて好き勝手なことを語っているだけで実際の王仁三郎とは何の関係もなし)。数々の宗教家の手本・元祖という意味でも王仁三郎の存在を抜きにはできません。

また王仁三郎は宗教家としてのみならず「宗教は芸術の母である」との思想から、芸術家としての才能も発揮しました。数多くの和歌、書画、陶芸の作品を数多く残しており、たまに各地のデパートで出口王仁三郎の個展が開かれたりしているほど、その作品の芸術性は高いといいます(筆者は実物を見たことがないのでなんともいえません・・・)。
教団の発祥

開祖は出口なお(1836〜1918)というお婆さんで、貧しい家に生まれ幼い頃から丁稚奉公をしたのち、出口家の養女となり大工と結婚した。夫は浪費家で生活は苦しく、その夫には先立たれ、家を出た子供たちも同様で、かなりの苦労を重ねたという。幼い頃より信心深く、大本の教祖になる前には金光教の教師をしていた。

一方、出口王仁三郎(1871〜1946:幼名・上田喜三郎)もまた貧しい農家の家に生まれ、苦労を重ねさまざまな職業を経た後、なおと出会いその活動に合流することになった。以来紆余曲折はあったものの、最終的には教団の最高指導者となった。彼の才能は大本という一宗派を超え、宗教界のみならず各方面にさまざまな業績を残した。

王仁三郎は“聖師”と呼ばれ、なおとならんで二大教祖とされている。開祖のお筆先により、開祖の血を引く女性が教主の地位を継承するというのがこの教団のしきたりになっているため、男は教主になれず王仁三郎も教主ではなかったが、実質上は最高指導者の地位にあった。

ちなみに下の写真で王仁三郎は頭に頭巾のようなものをかぶっているように見えるが、これは髪を切ることなく伸ばし続けたために、髪を束ねるための網を頭全体にかぶせていたのである。

出口なお 出口王仁三郎
開祖・出口なお 教祖・出口王仁三郎

教団の発祥について。出口なお56歳の時(明治25年)、突然「神がかり」現象に陥いる。神はなおの肝に居座り、自らを「艮の金神(うしとらのこんじん)」と名乗ったという。天理教、金光教の神はその先走りで、最後に現れた艮の金神こそ三千世界の大掃除・大洗濯をするものであって、「三千世界を一つにまとめて万却末代続く神国の世にいたすぞよ」と申し渡した。
大本の祭神「艮の金神」の「金神」が金光教の祭神「天地金乃神」と相通づるものがあるのは、金光教の影響が少なからずあるものと思われる。実際、活動初期には金光教の祭神と艮の金神(うしとらのこんじん)を同時に祀っていたという。

なおは当初、艮の金神様のお告げを叫びながら隣近所を駆け回り、周りからは完全な狂信者とみられていた。なおの長女と三女もすでに発狂しており、出口一族は精神異常者の家系といわれていたのである。
ある日、神のお告げを得たなおはいつものごとく近所に触れ回った。「・・・今のうちに改心致さねば、どこに飛び火がいたそうも知れんぞよ」といった内容であった。おりしも放火事件がおきた直後のことであったため、これを聞いた近隣の者が警察に通報、なおは放火犯と間違われ牢獄へ入れられてしまう。牢獄の中で腹中に居座る金神様より「釘をもて」といわれ、目の前に落ちていた釘を持つと、目の前の柱に光の筋がみえた。その筋の通りに釘でなぞると、そこには神の言葉が記されたという。これが「お筆先」のはじまりであった。あくる日、放火犯はつかまったのでなおは無罪放免となったが、この日より神示はすべてお筆先で現されることとなる。

なおはひらがなしか読み書きできなかったため、お筆先はすべて半紙にひらがな文でしかもその内容は抽象的(ノストラダムスの大予言的な抽象度)でしかなかったのだが、驚くべきは、なおが死去するまでに書いたお筆先は半紙20万枚に達するという(真偽の程は不明)。
この「お筆先」は後に王仁三郎によって漢字かなまじり文に直された上で整理され「大本神諭」としてまとめられた。現在の大本の経典である。なおのお筆先の原本はほとんど残っておらず、現在はこの神諭でしか知ることができない。また、この神諭の一部には王仁三郎によるでっち上げも混じっているという(後に王仁三郎が検挙された際、官憲の取調べにてそう語ったとされている)。

一方の出口王仁三郎は、小学校の教師、農業、畜産などの職歴を経たのち、27歳のとき(明治31年)に高熊山の岩窟において7日間の断食修行をし、そこで自らの使命を悟り宗教者の道へ入ることになったという。
同年10月、王仁三郎は綾部の金神様のうわさを聞き、すでに金光教と離れ独自の活動をしてたなおを訪ねる。これが元で翌年(明治32)に王仁三郎の支援の下、「金明霊学会」を設立した。
明治33年、王仁三郎はなおの末娘(のちの二代目教主・すみ子)と結婚し出口家の養子となる。その後一時期なおと仲たがいし、綾部をでて大阪方面で他宗派の布教活動をしていたが明治41年になって綾部に戻っている。

綾部に戻った後の王仁三郎は教団の実質上の指導者となり、教祖なおの「お筆先」を基本としながらも独自の考えを加味して教義と組織を確立した。とくに「大本神諭」とならんで大本の経典となっている「霊界物語」(全81巻)は、王仁三郎が岩窟において7日間の断食修行をしたときに、幽体離脱して神の使者に案内されて霊界のすみずみまで見聞した体験をまとめたものである。その壮大なストーリーはおよそ我々一般人の理解を超えているが、しかし大本三派のうち愛善苑では「霊界物語」こそ大本の唯一の聖典としているほど、大本では重要視されている。

「霊界物語」は王仁三郎が何回かに分けてそのすべてを口述し、配下の者たちが交代で筆記するという形で作られた。速記ではなく普通の速度で筆記したというから、口述した王仁三郎も一文づつ区切りながらしゃべったものと思われるが、その間一切の書物をみることなく、すべてソラで口述したという。口述が長時間に及んだときには王仁三郎は途中で居眠りしてしまったというが、居眠りから覚めた後はよどみなく口述を続け、言い直しや前後の文脈の矛盾などは一切無かったという。本当かどうか怪しいが、口述の現場には筆記する者のほかにも多くの取り巻きがいてその様子を見ていたという。。。
筆記した者の中には谷口正治(のちの谷口雅春=「生長の家」開祖)がいた。谷口雅春の著書「生命の實相」は「霊界物語」の影響を多分に受けているといわれているが・・・・

こうした超人伝説が他にも数多く残る王仁三郎であるが、指導者としてもその才能を発揮した。教団は金明霊学会から「大日本修斎会」、「皇道大本」と頻繁に名称変更しながらも一貫してなおが予言した「三千世界の立て替え・立て直し」がやってくると主張、同時に政治運動も行い、結果、短期間で多くの信者の獲得に成功するのである。しかしこの予言とその活動が時の政府による二度の大弾圧事件(第一次大本事件、第二次大本事件)へとつながってゆく。教団は壊滅的状況となり信者数は激減、終戦までこの状況が続くのであった。

弾圧前は信徒総数700万に達していたという説もあるが、それほどではないにしても大本が一大教団であったのは事実で、これには当時の時代背景が大きく影響していたことも無視できない。明治維新による封建制度の崩壊や西洋文化の流入など日本は大きな転機を迎え、また19世紀が終わろうとしていた頃のことである。そんな世紀末に終末論が流行るのは今も昔も同じであり、満を持しての「三千世界の立て替え・立て直し」論の展開である。近い将来、神意による大変革がこの世に起こると大胆にも予言したのである。これは統一教会やオウム真理教などが終末論をあおって信者を集めていたのと同じであり、歴史は繰り返すのである。

このように「大本」の根本思想と教団の発展・受難の礎はすべて出口王仁三郎によってもたらされたものである。出口なおの存在はきっかけに過ぎないと筆者は考える。なおの「立替え・立直し」は実は「建て替え・建て直し」のこと、つまり自分の家が古くなったので建て替えを心配していたに過ぎないとする“出口なお=単なる精神異常者”説もあり、筆者もそれはおそらく事実に違いないとみている。王仁三郎が教義の理論化と教団の組織化を行わなければ大本は無名な京都の小教団として終わっただろうと思われ、そういった意味で王仁三郎は稀代のカリスマ性を備えた一大実業家であり、いうなれば「もう一人の経営の神様」であった。

大本内部では、なおと王仁三郎のどちらに重きを置くかについては教団の黎明期から現在に至るまで、未だに意見が分かれているようである。

教団の現状

弾圧の影響があったためか、それとも国の体制が大きく変化したためか、戦後になって大本の行動・思想は大きく転換します。王仁三郎は終戦直後「大本のしくみはもう終わった」と宣言(三千世界の立て替え、建て直しはどうしたのだろうか?)、「愛善苑」と名を変えて教団の再興に向けて動き出すのですが、その王仁三郎も終戦の翌年には昇天してしまい、その後「大本」の名が復活してからもかつての過激で勢いのある大本に戻ることはありませんでした。
現在の大本では王仁三郎が生きていた時代のような過激な思想や政治活動はほとんどなく、教団機関紙やHPに政治的なメッセージが載せられるに過ぎません。さらには内紛による分裂などによって、どんどん廃れていく一方に見えます。最盛時には700万とも800万とも言われた信徒数は今や10数万人に過ぎません。

分裂の発端は三代目教主・出口直日(でぐち・なおひ)の死去後におきた後継者争いで、これにより教団は2分裂、さらに他の出口一派が新たに起こした教団とあわせ都合3つの教団が存在します。これら3教団は“大本三派”と呼称され現在に至ります。
大本三派の一翼、「大本信徒連合会」は三代目教主の長女・出口直美を四代目教主とするもうひとつの“おおもと”です。本来は長女である直美が“大本”の四代目教主になるはずだったのですが(王仁三郎が生前に書いた和歌にも直美が後継者であることが詠われている)、直日の長男・出口京太郎が教団の実権を握るために扇動し、姉である三女の出口聖子(でぐち・きよこ)を四代目教主に据えたといわれています。これに異を唱えた出口直美一派は“大本”を離れ新しい宗教法人「大本信徒連合会」を設立、綾部市内の「本家」(なのか?)“大本”のすぐそばに本部を置いています。
また、王仁三郎の思想研究に力を入れていた出口和明氏(王仁三郎の孫にあたる)は、出口三平氏とともに第3の大本である「愛善苑」を設立しました。「愛善苑」は前述のとおり大本が以前使っていた教団名ですが、新生愛善苑では、なおではなく王仁三郎を教祖と仰ぎ、王仁三郎の思想が大本の唯一の道であるとの方針を採っています。

数年前になりますが、かつて破壊・接収された綾部と亀岡の聖地は再建され、今も立派な本殿が建っているという話を聞いて現地へ調査へいってみました。現在では西日本地方の小さな一宗教団体にすぎないようです。梅松苑(綾部)、天恩卿(亀岡)ともに中へ入れてもらうことができましたが、奉仕活動の人が苑内を掃除しているのみで、他の信者の参拝等をみることもできず、大変しんみりとしていました。同日訪れた天理教本部・金光教本部に比べるとその差に少々悲しい気持ちになったものです。

上:梅松苑境内にある「弥勒殿」。1999年9月撮影。 上:天恩卿境内にある「万祥殿」。1999年9月撮影。
※境内に快く入れていただき、撮影させていただいた教団関係者に御礼申し上げます※
関連リンク
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素尊連鎖系(リンク集) オニ(王仁)の道