正式団体名 宗教法人 ものみの塔聖書冊子教会
(The Watch Tower Bible and Tract Society)
立教 1870年(明治3年)
開祖・教祖 チャールズ・T・ラッセル 現指導者 第5代会長 ミルトン・G・ヘンシェル
聖典・教典 聖書・新世界訳 本拠地(聖地) アメリカ合衆国 ニューヨーク市ブルックリン
崇拝対象 唯一絶対神(エホバ) 信徒数概算 約600万人(全世界)、約21万人(日本)
教団の特色
俗称「エホバの証人」と呼ばれる宗教団体。発祥の地アメリカでは「Watch Tower」あるいは「Jehovah's Witnesses」と呼ばれます。「ものみの塔」はおそらく「物見の塔」ということで「Watch Tower」の直訳、「エホバの証人」もおなじく「Jehovah's Witnesses」の直訳でしょう。「エホバ」は神様の名前です。

本人たちは「エホバの証人」こそ本当のキリスト教であるとして既成キリスト教会を批判しており、既成のキリスト教会(カトリック、プロテスタント)からは異端視されています。エホバの証人では、旧約・新約聖書の独自翻訳版「新世界訳聖書」を聖典としており、また「ものみの塔」誌をはじめ様々な独自の出版物を自前の印刷工場で生産し、布教活動や信者の教化のために用いています。日本では神奈川県海老名市に大きな印刷工場を持っているということです。実は結構な資産を持つ大教団なのです。

エホバの証人には聖職者は存在せず、信徒(奉仕者という)全員に布教の義務があります。彼らは奉仕活動と称して教団の出版物をもって各家庭を訪問し、熱心に信者獲得活動を行っています。信徒たちは地区ごとに管理されており、各地区には集会場所(エホバの証人の王国会館)があり、各地区の信者のまとめ役は「長老」と呼ばれます。長老は一般信者の中から選出されたいわば「世話役」であり、教団からいくらかの金銭的援助は得ているものの、教団の専従職員ではありません。長老たちは教団からの資金援助だけでは生活していけず、かといって伝道活動や信者の世話役的立場からフルタイムの仕事に就くことは難しく、縁者親類・他信者からの援助でなんとか生活しているということです。長老たちの管理は教団から派遣される「巡回監督」が行っており、巡回監督はその名のとおり定期的に各地区を巡回し、信者たちの活動を監督・指導しています。

エホバの証人は「マインドコントロール」をおこなう「カルト宗教」であるとしてメディアではたたかれていますが、これは教団にとって都合のよいことです。教団では「エホバの証人を否定するものは神の教えに背く悪魔である」「悪魔の言うことに耳を傾けてはいけない」と繰り返し信者たちに教え込んでおり、信者たちは教団の教えに盲目的に従順になっています。一般社会がエホバの証人を非難すればするほど、信者たちは頑なになっていくのです。これぞマインドコントロールなのですが、信者たちは誰一人として自分がマインドコントロールされているとは認識していません。あぁ恐ろしきかな宗教。

各信者は定期的な集会に参加し、そこで行われる「研究会」によってマインドコントロールされていきます。研究会では、教団の出版物を繰り返し読んで会のリーダーより「的確な」指導を受けます。聖書研究というより、教団の発行するテキストを基に独自の教えを刷り込まれる、といったほうがより実態に近いです。これは集団心理によるマインドコントロールで、ノルマによる勧誘活動なども通しながら徐々に教団の教えに染まっていき、やがて生活そのものがエホバの証人に依存していくという、エホバの証人特有の洗脳方式です。統一教会のような短期間に信者を仕立て上げる「洗脳テクニック」とは違い、緩やかでありながら確実に染まっていくという、教化手段としては特筆に価するやり方です。

彼らの教義は一種独特で、聖書研究が出発点の教団でありながら、もともと聖書には書かれていないことも「真理」として教えられます。有名なのは「輸血拒否」でしょう。これも聖書の独自解釈(当時の指導者によりあとで加わった新解釈)が出発点ですが、信者たちは教団の出版物からこの教えを刷り込まれており、聖書のどこにも輸血をしてはいけないなどとはかかれていませんし(そもそも聖書が書かれた時代には輸血の概念すらない)、信者の誰も聖書をひもといて疑問に思うことすらありません。もともと彼らに与えられる聖書は教団独自の「新世界訳聖書」で、これはオリジナル聖書より何百箇所も加筆訂正が入った怪しい聖書です。

輸血の拒否以外で変わっている戒律としては、エホバの神がすべての創造主であるという教えからダーウィンの進化論の否定、また絶対平和主義の立場から兵役や全ての格闘技の禁止、選挙にいくことや冠婚葬祭への出席も一切禁止、家族の誕生日を祝うことすら否定されます。夫婦の片方が信者だった場合、こういった教えは家庭崩壊に結びつきます。学校や企業でもこういった教えは周りとの軋轢を生む要因になると私は思うのですが、マインドコントロールの成果はめざましく、各信者の苦難をよそに教団は拡大の一途をたどっています。今後どの程度まで大きくなるのか個人的には要観察の教団です。

しかし、近所づきあいや夫婦仲が悪くなるならまだしも、輸血の拒否に至っては命に関わる問題です。それが本人の意思であるならば思想信条の自由という観点から見ても仕方ありませんが、まだ意思表示のはっきりできない子供がその犠牲になるのはとても悲しいことです。親の一存で子供の命が犠牲になるような宗教はまっとうな宗教なのでしょうか。

教団の発祥
ものみの塔(Watch Tower)創始者、チャールズ・T・ラッセル(1852-1916)は、米国ペンシルバニア州に生まれ、幼い頃より長老派の教会に通い宗教教育を受けた。だが、ラッセルは教会の教えに疑問を持ち、一時期は信仰を捨て家業を継ぎ仕事に没頭していた。しかし1870年、ラッセルはセブンスデー・アドベンチスト教団の教えに触れ、信仰生活を再開することになる。セブンスデー・アドベンチスト教団では、1844年にキリストが再臨するという予言をし、一時期隆盛を誇ったが予言ははずれ、その後は聖書の新解釈を中心に活動を続けている教団である。ラッセルはセブンスデー・アドベンチスト教団の教えに感化され独自の聖書研究会を結成、6人の仲間と共に聖書の新しい解釈を生み出していった。

伝道活動は1873年より開始、1879年には「シオンの物見の塔およびキリストの臨在の告知者」と題する雑誌を発刊(のちの「ものみの塔」誌)、これより雑誌伝道を本格化する。定期的な出版物による布教はアメリカではおそらく最初の試みである。
「ものみの塔」誌では既成のキリスト教会を批判する記事を数多く載せ、迫害を受けながらも確実に信者を増やしていった。1881年には布教活動の都合上、「シオンのものみの塔冊子教会」なる非営利組織を結成した。当初本部はピッツバーグ市に置かれたが、何度か移転し現在はニューヨーク市に本部がある。しかし当時、信徒たちはこの組織とは関係なく各地で独自に集団を形成していた。信者名簿などもなく、ラッセルの組織が信徒に何かを働きかけることはなかった。ラッセルは「信仰に組織は不要」と明言している。

ラッセルは組織設立後、「千年紀黎明」(のちの「聖書研究」)シリーズを続々と執筆・出版し、自らの著作を聖書と同様の価値があるものとして信徒たちには聖書よりも自らの著作を読むよう奨励した。また自らを「牧師」と称し、「神の唯一の代弁者」であるとした。こういったラッセルの権威化に異を唱えたものがいたが、そのうちの一人はラッセルの妻・マリアであった。のちに2人は離婚している。
ラッセルは著作の中で1914年にこの世の終わりがやってくると予言していた(セブンスデー・アドベンチスト教団の影響による)。いよいよハルマゲドンが到来し、キリストが再臨し、そして千年王国がこの世に築かれるときがやってくるとしたのである。このとき、ものみの塔信者たちは天国に引き上げられ永遠の命を与えられ、既存のキリスト教会は滅亡するとされていた。

いよいよ1914年になり、7月28日には第一次世界大戦が勃発した。信者たちはいよいよハルマゲドンか、と期待したがこの世が終わることはなかった。が、ラッセルはそんなことには臆せず、その後も旅団を組んで大勢で宣教活動の旅へ出たり、布教のための映画を製作したりと、活動を拡大していった。
1916年、ラッセルは宣教の旅へ出た途中、かねてから健康を害していたのが悪化し、突如として亡くなってしまった。享年64歳であった。なお、ラッセルにはオカルト研究家としての一面もあり、占星術に凝っていたこと、ピラミッドにこだわっていたこと、さらにはラッセルの墓はピラミッド型でフリーメイソンの紋章が刻まれていることから、フリーメイソンの一員であったとの説もある。

話は戻るが、ラッセルは後継者も定めないまま逝去してしまったため教団内部は混乱し、権力闘争により教団存続の危機が訪れた。ラッセル死去の翌年、1917年になって弁護士のジョセフ・F・ラザフォード(1869-1942)が2代会長に就任、反対派を排除することにより混乱は収束した。この際、一部のグループは分裂し新しい教団を形成している。

ラザフォードは今までにないほど既成キリスト教会への強烈な批判を行い、1918年にはキリスト教会が滅亡すると予言、また反戦思想を前面に出した。当時は第一次大戦中であったため反戦の論調は迫害を受けることになり、ラザフォードは徴兵召集妨害の罪で逮捕・起訴され有罪となり、刑務所入りとなった。が、大戦終了後の1919年には信者の働きもあって審理のやり直しとなり、逆転無罪で釈放された。出所したラザフォードは迫害に耐えた英雄となり、彼の教団での権威は絶対的なものとなっていった。ラザフォードは自身の服役生活はキリスト教会の陰謀であるとし、その恨みつらみは異常なほどであったという。(自分の方から仕掛けた喧嘩だというのに、しまいには逆恨みですか・・・)
出所後のラザフォードは、ラッセルの1914年の予言がはずれたことによる言い訳として1914年にキリストは天上で再臨しているとし、自らの著作の中で「1925年に神の国が到来する」と新しい予言を出す。ラジオを使っての宣教活動など画期的なやり方で信者の数は順調に増えていった。しかし、その予言もまた、当たることはなかった。のちに新たな解釈により予言の正当性を訴えている。

またラザフォードは1930年代になって「エホバの証人」という信徒たちの新しい呼称を考えついた。それまでの「ラッセル信奉者」に変わる「エホバの証人」という呼称は、ラッセルの威光を弱らせ自らの権力を拡大するのに寄与するものであった。一方では単なる烏合の衆であった信徒を登録制にし、組織化することにも成功した。洗礼を受けた14万4000人の人は天上で永遠の命を授かるとして、信者を名簿に登録させ、その活動は教団管理下に置くことにしたのである。ラッセルは「組織は不必要なものである」としていたはずなのに、その後180度方針転換されたのである。このように、ものみの塔が時の権力者により組織や教義を微妙に変化させていく方式はラザフォードが確立したものである。もともと定期刊行物による教化手段をとっており、「モルモン経典」「原理講論」のような聖典をもたないことが彼らの強みである。つまり、時代により新しい解釈をそのときに応じて出版できるのである。

(余談:聖書に出てくる神の名「YHWH」はヤハウェまたはヤーウェと読むのが専門家の見解だそうですが、ものみの塔ではこれを「エホバ」と読ませるのだそうな・・・エホバと読ませるには文法的にも歴史的にも根拠は無いそうです。なお、主の名前は神聖なのでみだりに呼んではならない、というのがユダヤ教およびキリスト教の慣習ですが、ものみの塔ではやたらめったら「エホバ様」と神の名前を口にするのであります・・・)

ラザフォードの死後、1942年に3代会長に就任したネイサン・H・ノア(1906-1977)は、第2次大戦中であったため反戦を教義に掲げることでかなりの逆境に立たされていたが、「親権宣教学校」(伝道訓練施設)の設立など、組織と伝道方法の強化を図ると共に、「輸血禁止」などこれまでにない新しい教理の追加を行っていった。戦後になると再び宣教活動が盛んになるが、その一環として聖書の独自翻訳版「新世界訳聖書」を編集・発刊する(新世界訳聖書には創始者ラッセルはひとつも関係していないことに注目)。
1966年には「神の自由の子になって受ける永遠の命」なる書物が出版され、新しい予言が発表される。1975年にハルマゲドンが終わり地上天国が実現するというものである。1914年、1925年につづく3度目の予言は信者獲得数の上昇に寄与した。信者獲得のために新しい予言が追加されているような気もするし、そもそもこの予言の根拠は何なのであろうか??

1977年には4代会長フレデリック・W・フランズ(1893-1992)が就任、フランズは副会長から格上げされ会長職に就いたが、1975年の予言がはずれたことによる信者数減少の動きを止めるため組織の権威化を図る。伝道雑誌を通じて「神の組織に逆らうものは永遠に滅びる」と繰り返し、組織への絶対的忠誠を信者に求めるようになった。おそらくカルト化していったのはこの頃からであったろうと個人的に推測する。組織を否定した創始者ラッセルの意図とは裏腹に、暗黒の部分を抱えたまま組織の信徒に対する影響力は大きくなっていった。

1992年、ミルトン・G・ヘンシェル(1911-)が5代会長に就任、現時点ではヘンシェルが教団指導者のトップである。現在、教団では新しい予言を出すことはなくなったが、教団は「神の王国」の名の下、絶対的な権力をもち、組織は会長および理事会を頂点とするピラミッド型階級組織となった。ニューヨークには巨大な本部ビルをもち、世界各国に自前の印刷工場を持つ巨大組織である。末端信者は今日も戸別訪問伝道を続け、信徒数は増加の一途をたどっている。

日本におけるものみの塔
日本にものみの塔を持ち込んだのは、滋賀県出身の明石順三(1889-1965)であった。明石は17歳の時に自力で渡米し、職を転々としたあと、新聞記者の職についた。その後ものみの塔の洗礼を受け、記者の仕事を辞め伝道生活に身を投じた。

1926(大正15)年、明石は帰国し神戸にて灯台社を設立、ものみの塔日本支部として伝道活動を開始する(「物見の塔」の絵が灯台に似ていることから灯台社になったと推測される)。当時、日本は軍事国家として思想統制の下、戦争を次々とはじめていくのであるが、そのような状況の中で明石は戦争を否定し国家の政策を批判、さらにはエホバの神が唯一の神であるから天皇を現人神(あらひとがみ)とする国家の政策に真っ向から対立した。その結果不敬罪、治安維持法違反の嫌疑により逮捕され、最終的に1943年には懲役12年の刑を受け服役する。また、ものみの塔では兵役を禁じる戒律から灯台社社員をはじめとする信徒は兵役を拒否、これにより灯台社は結社禁止処分となり、刑務所に収監されるものがでた。明石の長男・明石眞人は兵役拒否により懲役3年の刑に服した後、思想転換しものみの塔とは訣別しているが、他のほとんどの信者は転向することなく教えを守っている。

1945(昭和20)年、日本は戦争に負け、連合国の占領地となる。連合国軍の命令により思想犯は釈放、明石も出所し、占領軍とともに上陸したものみの塔ニューヨーク本部の職員から戦時中に出版された書物を受け取る。戦時中は日米の関係上、ニューヨーク本部との関係が断たれていたため明石は戦時中の本部の状況をこのときまで知らなかったのであるが、教団の出版物を久しぶりに読んだ明石は1943年に就任した3代会長ネイサン・ノアの運営方針に反発、本部に対し抗議の手紙を出すが逆に本部より追放命令がでてしまった。

1947年のこの一件以来、灯台社はものみの塔とは無関係の組織となり、明石は個人的な宗教研究と執筆活動を続けるが、著作が世に出ることもなく昭和40年に亡くなった。

一方、灯台社と縁がなくなったことでものみの塔ニューヨーク本部は新たな宣教師を日本へ送り込んできた。現在のものみの塔日本法人の始まりである。信者はほとんど残っていなかった(明石と共に信者を辞めてしまったため)が、東京に新本部を置き、日本支部再建に乗り出す。その後1972年には沼津市に印刷工場を建設、1982年には神奈川県海老名市にさらに大きな印刷工場を建設(わずか10年でかなり組織が大きくなったことが窺える)、日本におけるものみの塔本部はこのとき以来海老名市に置かれている。

現在、日本国内における信徒数は20万人以上、しかし世界的には拡大しているものの日本では信徒数が減少傾向にあるいるという。

関連リンク
「エホバの証人情報センター」は本ページ執筆に関し、かなり参考にさせていただきました。ありがとうございます。
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