| 正式団体名 | 宗教法人 立正佼成会 | 立教 | 1938(昭和13)年 | ||
| 開祖・教祖 | 開祖・庭野日敬(にわの にっきょう) 脇祖・長沼妙佼(ながぬま みょうこう) |
現指導者 | 二代会長 庭野日鑛(にわの にちこう) | ||
| 聖典・教典 | 法華三部経、新釈法華三部経 | 本拠地(聖地) | 東京都杉並区和田2丁目11番1号 | ||
| 崇拝対象 | 久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊 | 信徒数概算 | 625万人(220万世帯) | ||
| 関連団体 | 東京佼成ウインドオーケストラ | (財)日本宗教連盟 | 関連企業 | (株)佼成出版社 | 佼成病院 |
| (財)新日本宗教団体連合会 | (財)庭野平和財団 | 佼成看護専門学校 | 佼成学園 | ||
| 中央学術研究所 | 立花産業(株) | 佼成育子園 | |||
| 教団の特色 | |||||
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霊友会の教祖・小谷喜美の言動に疑問を感じた2人の信者(庭野日敬、長沼妙佼)が、霊友会から離脱して設立した教団。世間一般には霊友会よりも立正佼成会の方がより知られた存在であると思います。事実、霊友会から分裂した教団の中では最大の宗派であり、信徒総数は創価学会についで国内2位、または3位(第2位は霊友会)といわれています。 立正佼成会のキャッチフレーズは「一人ひとりの心田(しんでん)を耕す」です。意味は霊友会の「いんなぁとりっぷ」と近く、法華経を通して心の内面を修養するということだそうです。人は本来仏性をもっており、皆が心田を耕すことによってそれを顕現すれば必ずや大きな力が働いて世界平和が実現する、というのが教団の教えです。 創価学会とよく比較されますが、創価学会は立正佼成会と同じ法華宗系の在家集団でありながら、思想・活動面では立正佼成会とは大きく異なります。立正佼成会では他宗教との交流を積極的に進めており、邪教撲滅・反共産を一義とする創価学会とはまったく正反対の思想をもちます。教団代表・庭野日鑛氏は日本宗教連盟および新宗連(新日本宗教団体連合会)の理事長を務めています。 立正佼成会も戦時中には政府の弾圧を受けましたが、戦後になって急激に大きくなり、現在では病院・学校・図書館など数々の文化施設と教団施設を有するにいたっています。私はかつて杉並区に住んでいましたが、杉並区には立正佼成会の本部があり、環状7号線を走っていると方南町付近で立正佼成会の本部建物の一部を見ることができます。環七からみると建物は大きなものが1つだけのように見えますが、実は奥行が結構あり裏には大聖堂をはじめとする巨大建築物がたくさんあります。中央線の高円寺駅からは佼成会大聖堂行きのバスが循環しており、いかに多くの信者がいるかが窺い知れます。 開祖・庭野日敬氏は1999年10月4日に逝去されました(教団では「入寂した」と表現する)。享年92歳でした。ご冥福をお祈りいたします。現在の教団代表である二代会長・庭野日鑛氏は庭野日敬氏の長男。 |
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| 教団の発祥 | |||||
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開祖・庭野日敬は1907(明治39)年、新潟県中魚沼郡十日町に生まれた。生家は農家で、町から6キロ離れた山の上に位置する寒村にあった。17歳で上京して石原薪炭店に奉公し、店主石原淑太郎より「我国信徳社」の教えと「六曜」「七神」の法則を教わった。1925(昭和元)年、20歳のときに海軍に入隊、戦艦長門、御召艦榛名の乗員を経て1929(昭和4)年に満期除隊となった。除隊後石原の店(漬物屋に転業していた)に戻り、翌年同郷の阿部直子と結婚した。 1931(昭和6)年、独立して中野の本郷通り沿いに漬物屋兼お惣菜屋を開店した。その直後、長女が悪性の中耳炎にかかり大手術をしたため、近所の人の勧めで天狗不動の行者・綱木梅野の祈祷を受けた。長女の病が綱木の予言どおりに平癒したため、庭野は綱木に弟子入りして天狗不動を信仰することとなった。綱木に命じられるまま修行をつみ、入信して半年後には師範代となった。かつて習った「六曜」「七神」の法則を応用し、師匠の綱木より人気を集めたという。これは後の立正佼成会でも庭野の布教手段として活用されることになるのである・・・ 1934(昭和9)年、庭野は綱木より商売をやめ天狗不動に専念するよう勧められるが、悩んだ末に姓名学の大家・小林晟高を訪ね、天狗不動信仰からは身を引くことにした。庭野はのちに小林より姓名判断・運勢鑑定を学んでいる(何でも貪欲に取り入れる人ですね・・・)ちなみにこのとき小林より学んだ技術は庭野流にアレンジされ、のちの立正佼成会の布教手段として用いられるのであった。立正佼成会が玉石混合の宗教なのはこのへんに由来がある。 庭野が天狗信仰から手を引いた直後、今度は次女が脳膜炎を患い、近所の人の紹介で霊友会支部長・新井助信を訪ねることになった。庭野は霊友会に入会し、ご供養をするうち次女の病気は快方に向かった。この経験より庭野は霊友会信仰にのめりこみ(何にでも易々とのめりこむ人である・・・)新井より法華経の講義を受けることになった。このときの法華経の講義が後年の法華経新解釈に結びつき、立正佼成会発展の礎となる。庭野は布教活動のため家業を時間的に余裕が取れる牛乳販売店に転業した。 一方の脇祖・長沼妙佼は1890(明治22)年、埼玉県北埼玉郡志多見村に長沼浅次郎の六女として生まれた。生家は豪農であったが没落し家屋敷を取られ、そのためおじの家に引き取られ家業の手伝いに追い回された。16歳のとき上京し女中奉公や女工等をして働き、26歳のとで郷里に戻り床屋に嫁いだ。しかし夫が浮気性で改心しないため離婚、再び上京し再婚して渋谷区幡ヶ谷にて夏は氷屋、冬は焼き芋屋を営むことになった。このとき、長沼の家に牛乳を配達していた庭野の勧めで霊友会に入信する。長沼の甥っ子があるとき腹痛を起こし、それが先祖供養で治ったのがきっかけで長沼も霊友会信仰にのめり込んでゆくのである。 1938(昭和13)年、当時霊友会新井支部の副支部長であった庭野は、支部長・新井の代理で全国支部長会議に出席する。その席上、教祖・小谷喜美から法華経の講義を行うことに対する非難の発言を聞き、霊友会からの脱会を決意する。当時、霊友会は南無妙法蓮華経のお題目を唱えながら法華経の講義を行うことを事実上禁じていたのである。変な話であるが・・・ 1941(昭和16)年、長沼が店をたたんで布教に専念することになり、翌年、庭野も杉並区和田本町(現在の教団本部所在地)に25坪の本部道場を建設、牛乳販売店をたたんで同地に移り住んだ。布教活動は順調で信者は驚異的に増えたが、長沼の発揮する霊能が人心を惑わすとして庭野・長沼の2人が警察に呼ばれ抑留される。教団は指導者不在により壊滅状態となった。釈放後、組織を立て直しを図るがその最中に終戦を迎える。終戦直後の1945(昭和20)年11月15日(庭野の誕生日)、神示によりご本尊「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」の勧請式が挙行された。 1948(昭和23)年には信徒数18,000世帯となり、短期間に急速に教勢が伸びた。その後も勢いは衰えず、信徒たちの努力により学校・病院を次々と建設するに至った。しかし、あまりに急速に発展したためにマスコミの餌食となり、1956(昭和31)年には読売新聞にて立正佼成会批判キャンペーンが行われることになった(読売事件)。本部用地取得に関して不正があったとされたのである。庭野は国会に召喚され、国会答弁に立ち誤解を解くことに努めたが、信徒数は33万世帯から30万世帯へと後退、一時期の勢いは衰えてしまう。 1958(昭和33)年には長沼妙佼が67歳で逝去、立正佼成会の「方便時代」は幕を下ろすことになった。翌年、機関紙「佼成新聞」を通じて本尊が「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」であるとする真実顕現の宣言≠ェ行われた。これまでの長沼を中心とした霊能重視の活動をやめ、法華経を根本に据えた教学中心の活動へと変換を図るのである。以後20年間を教団では「真実顕現時代」と呼んでいる。1960(昭和35)年には教団名を「立正佼成会」へと変更、庭野は法華経の新しい解釈を次々に書籍として世に示し、その活動により信者も再び増加に転じた。 1978(昭和53)年、教団は「普門示現」の時代に入り、世界中に法華経を広げることによる世界平和の実現を目標とする。この頃より平和運動に力を入れるようになった。 なお、次代会長は庭野日鑛氏の長女・庭野光祥(にわの・こうしょう)女史になることが決まっている。 | |||||