正式団体名 宗教法人 金光教 立教 1859(安政6)年
開祖・教祖 金光大神(こんこうだいじん=本名:赤沢文治) 現指導者 第5代教主 金光平輝(こんこう・へいき)
聖典・教典 本拠地(聖地) 岡山県浅口郡金光町
崇拝対象 天地金乃神(てんちかねのかみ) 信徒数概算 43万人
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教団の特色
金光教本部神殿

金光教(こんこうきょう)は、主に西日本地域に信者の多い中堅宗教団体です。発祥地は町村合併時に教団名を町の名前として冠することになり、金光町となりました。奈良県天理市(おなじく町村合併時に教団名を市の名前としている)と経緯は同じです。天理市とは地域的にも近く、立教の時期もほぼ同時代です。近年では海外布教にも進出し、南米やハワイに教会が建てられています。また小中学校・高等学校の運営もしています。

金光教では、「取次」を通して神と人間がお互いに助け合うという「神と人間の相互扶助精神による理想社会の実現」がその教えの礎になっています。「取次」とは、人々が悩み事、願い事をご神前で金光教の教師へ語り、教師は神の言葉を人々へ伝えることをいいます。
金光教の教えでは、人間は神がいなければこの世に存在できず、神も人間がいなければこの世を作った目的を達成できない、だから神と人間はお互いに語り合うことが必定なのだとしています。すなわち、人は神様の存在を信じて神様の言葉に従って生きればやがて神様の絶大なる力によって理想社会が実現する(=神様がこの世を作った目的が達成する)、ということです。
神と人間は直接語り合えないため、その接点の役割を果たすのが「取次」です。人は取次を通じて神様の言葉を聞き、それを実践することにより神様の「おかげ」(=庇護、神通力といった意味合い)を受け、悩みは解消し願いはかなって人生うまく立ち行く、ひいてはみんながハッピーになり理想の世の中が実現する、これすなわち神様の意思であるのです。

これを金光教の言葉で表現すると「氏子あっての神、神あっての氏子、あいよかけよで立ち行く」となります。「あいよかけよ」とはお互いに力をあわせて助け合う、という意味です(岡山地方の方言)。ここだけみると、金光教の神様が目指すところは天理教の神様の目指すところである「陽気暮らしの実現」とほぼ同じ、といえます(少々乱暴な結論付けですが)。

しかし金光教の神様は人に対して「要求」ではなく「協力」を求めているところが他の宗教と違っていて、これが最大の特徴といえるでしょう。ずいぶんとやさしいというか人の心情に訴えかける神様ではないでしょうか? しかし、そんな金光教の神様は古来より悪神として恐れられてきた“金神様”という大変気性の荒い神様だったのです。面白いですね。

教団の発祥

金光教の開祖・赤沢文治(1814-1883)は、備中国浅口郡占見村(現・岡山県浅口郡金光町。教団本部所在地)に農家・香取十平の次男として生まれる。幼名を香取源七といった。12歳のときに川手家の養子になり、川手文次郎と名乗った。川手家の当主となってから先代当主の意向により赤沢姓に改名、下の名前も何度か変更してのち、赤沢文治と名乗るようになった。

幼少の頃から神仏に参ることが好きで、信心深く働き者の農民であったと伝えられている。家業の農業は順調に発展し、土地も収穫量も増え次第に暮らしも楽になっていった。文治37歳の時、屋敷を立てなおすことにし、その旨庄屋に願い出たが「今年は年回りが悪い」(縁起がよくない)としてこれを反対された。しかし、文治はすでに家を建てるための材料を買ってあったため、あの手この手を打ち、条件付でなんとか家の新築許可を受けるに至った。

しかし、この次の年から文治の家には不幸がつきまとう。家族や家畜が次々と死に、墓を7つも立てるに至ってしまった。近所の住民は、これを金神(こんじん)様のたたり「金神七殺」とうわさした。金神様とは、年々住まわる方角を変える方角の神様で、たいそう気性が荒い神であるらしく、金神様のいる方角に無礼を働いた家には七殺のたたりがおこると信じられていた。実際、文治の家は新築してから不幸が続いたのである。

文治42歳(大厄)の時、ついに一家の主である文治までもが病で倒れた。その病気は「のどけ」という、喉がふさがり呼吸困難に陥る重病であった(たぶん重度のインフルエンザで扁桃腺がはれただけではないかと私は思うのだが…)。医師からも死の宣告をされたが、当主である文治にまで死なれては困ると親戚一同が集まって相談し、祈祷を行うことにした。祈祷をはじめたところ、にわかに一人のものが神懸りとなった。降りた神は果たして金神様であり、家を建てた方角が金神様に無礼を働いたので文治をこのような重病にした、というような主旨のことをのたまった。文治の義弟は、言い負けると文治の命が危ないと思い必死に反論したが、このやりとりを隣の部屋で床に伏せって聞いていた文治は、金神様に大変申し訳なく思い心中深くわびていた。ところ、それまでふさがっていた喉が急に開けるのを覚えたため咄嗟に「家を立てる際、ご無礼のないように調べはしましたが、凡夫のしましたことゆえ、どこに無礼があるのかわかりませぬ」と声を発した。これを聞いた金神様は「心がけはよい。命は助けてやる。そのかわり、ますます信心いたせよ。」とのたまい、その場を去った。果たして文治の病は翌日より快方に向かい、4日後には出歩くことができるようになった、という。

この出来事以来、文治は生活即宗教的な暮らしを実践するようになった。2年後、文治の実弟である香取繁右衛門が帰神状態となり、金神の名をかたった。駆けつけた文治に金神の宮を普請するよう頼んだため、文治は宮を奉納し、香取繁右衛門のもとへ毎日お参りしたという。これはのちの「香取金光教」の立教伝となる。(香取金光教は別の宗教法人として現存する)

4年後には文治自身に神が宿り、神の言葉を直接聞くようになった。自分に宿った神はその名を「天地金乃神」といい(念のため言っておくが、決して Money の神様ではない。金神様の別名であろう)天地のすべてのものを生かしている存在であると主張した。
天地金乃神は文治に「お取次ぎ」を依頼した。お取次ぎとは、人々の悩み・苦しみを聞いてそれを神に伝え、神がそれに対して示したアドバイスや解決策を人々に伝える役目である。お取次ぎによって神の意志が人々を正しい方向へ導く。これをあらゆる人におこなうことで人々に真の平和と健康と幸福をもたらすとした。

文治は神託のお取次ぎの役目を負うため、家督を息子に譲り隠居して、自宅をお取次ぎの広前として一般に開放し、神業に専念することになった。地道な努力は功を奏し、天地金乃神のうわさを聞いた人々が文治の家に次第に集まるようになり、教団の基礎が築かれた。年を経るごとに信者も増え、神様からは働きに応じていろいろな神名を与えられた。明治元年(1867)には「生神金光大神」という終生神号を授かった。
明治5年の戸籍法施行の際には「金光大神」として役場に申請するが受理されず、戸籍上は「金光大陣」と登録されることになった。なお文治のみならず、家族や側近にはたいてい「金光●●」という神名が与えられており、教主の地位は金光姓をもつ文治の子孫が継いでいる。

以上、立教伝であるが、中山みき(天理教開祖)が体験した内容となんとなく似ているような気がしないでもない。教義の根本も表現は違えどほとんど同義であるように思える。考えすぎであろうか・・・。

金光教も天理教と同じく明治期には異端の流布者として官憲の迫害や他宗派の妨害工作を数多く受けるが、信者の増加と教団の強化に伴い、やがて非公認だが公然と布教できるまでになった。

関連リンク
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