正式団体名 アーレフ(旧称:オウム真理教) 立教 1984(昭和59)年
開祖・教祖 麻原彰晃(あさはら・しょうこう)尊師
称号:マハー・グル・アサハラ
現指導者 代表:上祐史浩(じょうゆう・ふみひろ)
聖典・教典 本拠地(聖地) なし(活動拠点はいくつかあり)
崇拝対象 シヴァ大神 信徒数概算 1万人以下、実態不明
その他 平成元年宗教法人認可、平成7年解散命令発効
平成8年破産宣告により解散
教団の特色
すでにみなさんご存知の通り。当初はヨーガを軸にした仏教系の新興教団でしたが、麻原尊師の暴走によって極悪違法集団へと没落してしまいました。なお、教義はインドの思想を色濃く反映しており、仏教をベースにしながらもシヴァ神(ヒンズー教の神様)を崇拝対象にしています(?)

オウム解散後も任意団体「アーレフ」として存続しています。アーレフの運営当初は教祖および上級幹部が全員逮捕されており指導者不在だったので集団指導制が敷かれていましたが、元オウム上級幹部・上祐史浩氏(マイトレーヤ正大師)が出所後に代表に就任し、現在に至っています。上祐氏は元オウムの上級幹部の中では唯一教団に残っている人で、他の幹部はみな“塀の中”にいるか、石井久子氏(マハー・ケイマ正大師)のように教団と縁を切っています。つまり上祐氏は教団内では唯一の上級幹部ということで圧倒的に高い地位にいるわけですが、しかし、教団にはもう1人影響力をもった人がいます。麻原の三女で後継者といわれている「アーチャリー正大師」(本名:松本麗華)です。アーチャリーは後継者の地位にいるため教団内では逆らう者もなく、周りの大人たちを従えて奔放に暮らしていましたが、上祐氏が出所してきて教団運営に関わるようになったため、2人の間には確執が生じているといわれています。

教団の発祥

オウム真理教の開祖であり教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)は、昭和30年に熊本県八代市に生まれた。生まれつき目が悪く、右0.3、左は失明状態であるという。小学校から高校まで熊本県立盲学校に学び、針灸師の資格を取得して上京、しばらくは針灸治療の仕事をしていた。この頃、妻・智子と知り合い結婚している。

麻原彰晃

後に漢方に興味を持ち、昭和53年から昭和55年には「漢方亜細亜堂薬局」を、昭和56年には「BMA薬局」を経営していた。亜細亜堂薬局時代には保険料を不正請求し国から返還を求められており、BMA薬局時代にはニセ薬の販売で薬事法違反に問われ、略式起訴処分を受けている。

薬事法違反により薬局経営を断念せざるを得なくなった麻原は、漢方をあきらめヨーガに興味を持ち、これが昂じて昭和59年、東京都渋谷区にヨーガ道場「オウム神仙の会」を設立した。きわめて初期の頃からこの会の会員であった(麻原の一番弟子といわれる)のがケイマ大師こと石井久子女史である。彼女は麻原の愛人として麻原との間に3人の女児をもうけている。

マハー・ケイマ正大師オウム神仙の会では、ヨーガを追求するうち、これがやがて「修行」的な要素を帯びてくる。そうしてさらなる会員と収入の増加を目論んだ麻原は、ヨーガを用いた修行を活動の中心とした宗教団体にすることを思い立ち、オウム神仙の会を名称変更し「オウム真理教」とした。この頃、麻原は単身ヒマラヤに入り、そこで修行を積んで最終解脱したとされている。大物宗教家との交流もあると自称しており、たとえばチベット仏教(ラマ教)の最高指導者ダライ・ラマ14世は、日本における仏教革命の最高責任者の任を麻原に与えたとしている。(もちろんダライ・ラマ14世自身はそのような事実はないと否定している)

そして平成元年、東京都知事よりついに宗教法人の認可が下り、ほどなくして本部を静岡県富士宮市に移転するなど教団は急激に発展した。同時にこの頃からマスコミにも取り上げられるようになった。修行のために出家を勧めることや、多額のお布施を強要する、教祖の生血や入浴後の残り湯を飲むなどの悪行奇行が重なり、サンデー毎日などの週刊誌においては排斥キャンペーンが張られるほどになった。

社会との軋轢も徐々に大きくなり、出家したまま連絡が途絶えてしまった娘や息子を持つ親族は「オウム被害者の会」を結成し、教団に対する糾弾活動を行うが、やがてこれは被害者の会の顧問弁護士をしていた坂本弁護士一家誘拐殺人事件へと発展する。坂本弁護士の家からはオウム信者の証「プルシャ」のバッジが発見され、教団との関係が取り沙汰されるも、結局このときには警察はオウムに対して何らの手も打つことがなかった。

こうして数々の疑惑や非難を受けつつも実質野放しのまま、教団の勢力は拡大の一途をたどり、宗教法人認可の翌年には政治にも進出をはかるが、ここからオウムの進路が狂い始めた。麻原はじめ幹部数名は「真理党」を旗揚げし、平成2年に総選挙に出馬したが結局一人も当選者を出すことはなく、信者は動揺し麻原への帰依も弱まってしまった。そのうち下向(脱会)するものもでてきたことから、麻原は信者の統率と自分のカリスマを保つため、これを反対勢力のせいにした。すなわち選挙に落選したのは反対勢力が票を操作したのだと信者をいいくるめ、また同時に自分の勢力を拡大していくには正当な手段ではもはや不可能と判断、このころより麻原は究極の真理実践法とする「ヴァジラヤーナの教え」を説法するようになり、真理のためなら殺人も善行であるとくりかえし発言している。そうして教団は武装化に邁進するようになった。教団の出発時は「全人類の救済」が目的だったはずのオウム真理教は、ここにきて手段と目的がひっくり返り、真理の名を語るただの犯罪集団へと成り下がったのである。

しかし、武装化の計画はなかなかうまくいかなかった。麻原は大量殺人による首都殲滅と国家転覆を計画し、そのための大量殺人兵器として当初は細菌兵器の開発を試みたが、最初にとりかかったボツリヌス菌(食中毒の原因にもなる致死率の高い細菌で、神経に作用する)の培養に失敗。ついで炭岨菌(たんそきん:こちらも致死率は高い。近年テロ組織アル・カイーダが米マスコミに対して使用した“白い粉”の正体がこれ)はその培養に成功し、噴霧器を製作し亀戸道場にて噴霧を実行するが、噴霧器の設計ミスにより菌が死滅し、単に悪臭を放つだけに終わった。当時亀戸道場では住民とのトラブルがあったので住民殺害が目的だったと見られている。なお炭岨菌を生きたまま噴霧するには高度な技術がいるとされている。

ついで化学兵器の製造に着手した。もっとも量産の工程を確立しやすいとしたサリンが選ばれ、まずは実際に生成することに成功した。その生成物の成果をみるために何度か噴霧が行われたが、ターゲットを殺害するには至らず、逆に実行に携わった新美智光(ミラレパ正悟師)がサリン中毒で瀕死の状態になってしまった。が、これを知った麻原はその効果のほどを実感し、生成担当の化学班トップ土谷正実(クシティガルパ正悟師)にサリン30キロの生成を命じた。土谷は、山梨県上九一色村の教団施設(サティアン)内にクシティガルパ棟なる自分のホーリーネームが冠せられたサリン製造施設を与えられ、そこで尊師の命令どおり30キロのサリンを製造した。この30キロはのちの2つのサリン事件に使われることになる。

そして平成6年6月、ついにサリンによる最初の犠牲者がでることになった。松本サリン事件である。松本市の裁判官宿舎にむけて噴霧されたはずのサリンは、ターゲットではなく無関係の一般市民を巻き込んだ。が、これでますますその威力を思い知った麻原は、土谷に日産2トンのサリン生成を命じ、そのための製造施設の建設を早川紀代秀(教団建設省トップ)に命じた。
が、警察・公安当局はオウムがサリン製造を行っているとする物的証拠を徐々に集めつつあり、麻原は平成7年3月中旬に上九一色村のサティアンに強制捜査が入るとの情報を得た。麻原は捜査を妨害するためおよび警察・公安当局の捜査員を殺害するために幹部に命じ、平成7年3月20日、地下鉄サリン事件をおこした。警察・公安当局のある霞ヶ関を中心に朝の通勤ラッシュ時間帯を狙って地下鉄にサリンをばらまいたのである。残念なことに、これは警察がサティアンに強制捜査に踏み入る2日前のことであった。地下鉄という密閉空間であったことと、ラッシュアワーで大量に人がいたため、松本のときよりもずっと多くの被害者を出した。
これらサリンによる犯罪は、これまでにない新しい手法(毒ガスの大量散布)による大きな事件となり、また宗教法人がおこした犯罪の中でもこれほど重大な犯罪は過去に例がない。坂本弁護士事件のときもそうだったが、公安当局は結果として手段を講じるのが遅れ、大勢の被害者を出してしまった。

マンジュシュリー・ミトラ正大師サリン事件の2日後、サティアンへの強制捜査は予定通り行われ、その結果主要幹部の逮捕が相次ぎ、一部幹部の自供とサティアンの捜査により教団が引き起こした数々の犯罪が明るみに出た。事件の全貌を知られることを恐れた麻原は、近く裏切り行為にでるとみた村井秀夫(マンジュシュリー・ミトラ正大師)氏(サリン事件の実行指示をしたとされる)を刺殺、証拠隠滅を図るなどして最後の悪あがきをするが、ついに麻原自身もサティアン内部の隠し部屋から発見・逮捕に至り、挙句の果てには宗教法人の資格も剥奪されてしまった。サティアンも平成8年になって教団が破産宣告したことにより、解体された。法人格を失い、指導者のいなくなった教団は壊滅したかに思えたが、信者の結束は思いのほか固く、現在でも任意団体「アーレフ」として宗教活動および経済活動が行われている。

世間のオウムに対する風当たりはますます厳しく、破壊活動防止法の適用を望む声も高いが、この法律は戦前の治安維持法に似た側面を持ち、適用されれば勧誘活動から出版活動、集会にいたるまですべての団体活動が規制され、抗議活動すら許されなくなる。このように憲法に保障されている集会・結社の自由と相反する面もあることから、政府はこの法律に変わる団体活動規制のための新立法「オウム新法」(通称)の制定を画策、2000年には「団体規制法」として施行された。

現在でも全国各地でオウム信者およびその子息の転入拒否が相次いでおり、活動拠点も世田谷と横浜以外は公開されておらず、秘密のアジトで人知れずひっそりと共同生活を送っているようである。また、かつてオウムの資金源とされたパソコンショップが秋葉原に数店舗(トライサル、グレイスフルなど)あったが警察の強制捜査が入って2000年には壊滅した。現在は資金源としてソフト開発に注力しているという。

関連リンク
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